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North Korea Humanities

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|원문5번= {{TagSpage|2-4}}<blockquote no="01">己巳, 奉化伯鄭道傳, 宜城君南誾, 及富城君沈孝生等, 謀害諸王子, 不克, 伏誅, 初 上以 靖安君開國之功, 諸子無與爲比, 特 賜世傳東北面加別赤五百餘戶, 其後以諸王子及功臣, 爲各道節制使, 分管侍衛兵馬, 靖安君全羅道, 撫安君芳蕃東北面, 於是, 靖安君, 以加別赤, 讓芳蕃, 芳蕃受而不辭, 上知之, 亦不責還也, 道傳, 間等, 謀欲擅權, 貧立幼孽, 謂孝生孤寒易制, 譽其女有婦德, 精爲世子芳碩嬪, 與世子同母兄芳蕃, 姊夫興安君{{TagPage|3}}李濟等, 同謀多樹黨與, 將欲去諸王子, 暗嗾宦者金師幸密啓, 請依中朝諸皇封王之例, 分遣諸王子於各道, 上 不答, 其後, 上諷諭 靖安君曰, 外間之議, 汝輩不可不知, 宜論諸兄戒愼之, 道傳等又嗾卞仲良上疏,  請罷諸王 子兵權, 至再三, 上不允, 卜者安植曰, 世子異母兄, 有天命者非.道傳聞之曰, 即當除之, 何患乎, 義安君和 知其謀, 密吿 靖安君, 至是宦者曹恂傳旨曰, 予病甚不欲接人,  惟世子外, 母得入見, 師幸恂皆其黨也, 道傳, 閭, 孝生, 判中樞李勲, 前恭賛李茂, 興城君張至和, 星山君李稷等, 托以省問 上疾, 日夜聚松覗闍妾家, 相與 密謀.令芳碩, 濟, 及親軍衛都鎭撫朴藏,  左副承旨盧石柱, 右副承知卞仲良, 在內, 稱 上病篤, 急召諸王子, 入則以內奴及甲士攻之, 道傳閭等外應, 初财古巴麥恥, 先是, 蹟安君密謂知安山那事李叔蕃曰, 姦殲在平時, 固無疑矣, 伺上違豫必生變, 予若召汝則宜速來, 至是, 閔無咎以埔安君命, 召之而至.時, 上病劇, 靖安君及:益安君芳毅, 懷安君芳幹, 淸原君沈惊, 上黨君李伯卿, 義安君和, 及李濟等, 皆會宿勤政殿門外西廊, 至是日哺. 時, 閔無疾詣靖安君邸, 入與夫人偶語良久, 夫人急召小斤曰, 汝速詣闕, 請公來, 小斤曰, 諸君皆會一廳, 奴將何辭以吿, 夫人曰, 汝以我胸腹卒痛奔吿則 公當速來矣, 小斤, 牽馬詣西廊, 具吿之, 義安君贈以請心蘇合 等藥曰, 宜速往治之, 靖安君即還邸,  俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎立密語良久, 夫人執君衣, 請勿詣闕, 君曰豈可畏死不詣, 且諸兄皆在禁中, 不可不使知之, 若有變則我當出來擧兵, 以觀國人之心也, 乃拂衣而出, 夫人追及戶外曰, 愼之愼之, 日己昏矣, 時命罷諸王子所領侍衛牌, 己十餘日矣, 唯芳蕃撼兵如舊, 靖安君初罷兵, 盡燒營中軍器至是, 夫人潜備兵仗, 爲應變計, 李茂素有中立之計, 密以閣等謀, 甞吿靖安, 至是, 隨無疾來謁, 少頃先去, 茂無疾之近姻也, 竹城君朴苞亦徃來其間, 暗伺彼之動靜, 於是, 靖安君命無咎, 使叔蕃備兵甲, 宿于{{TagPage|4}}本邸門前辛克禮家待變. 乃詣闕入西廊, 直宿諸君皆不留馬, 獨靖安君使小斤秣馬西廊後, 芳蕃將入內, 靖安君呼之, 芳蕃搔首逡巡不應而入, 至初夜, 有人自內出曰 上疾劇, 欲避病, 諸王子速入內, 從者命勿許入,和, 琮, 濟, 先出立庭, 靖安君與益安, 懷安, 上黨諸君, 暫立戶內, 密語, 舊制, 宮中諸門夜必張燈, 至是, 見宮門無燈, 益疑之, 和, 及濟, 琮, 先入內, 靖安君稱腹痛, 出西廊門外, 入厠坐思良久, 益安, 懷安等走出, 呼靖安君者再, 君曰, 諸兄是何高聲呼耶, 乃立以兩袖拍之曰, 勢不得己也, 卽馳馬出宮城西門, 益安, 懷(安), 上黨, 皆步走, 唯上黨能及靖安君馬, 益安懷安, 或仆蹭, 靖安君使馬天牧, 召芳蕃曰, 請出來從我, 厥終彼亦不全汝矣, 芳蕃臥內廊房, 見天牧, 起坐聞訖, 還臥, 芳蕃億從,皆無賴之徒, 唯事射御, 且妄欲謀移儲位久矣, 一日謂芳蕃曰 吾等己緣中, 乾使公得代芳碩位, 敎命將至矣, 請母出以待, 芳蕃信而不出外人哂之, 靖安知其不相容, 故召之不從, 靖安君到本邸洞口軍營前路, 駐馬呼叔蕃, 叔蕃率壯士二人, 甲而出, 安益公仓安)上羸懷安父子亦得騎馬, 有李居易, 趙英茂.辛克禮, 徐益, 文彬, 沈龜齡等, 皆歸心靖安者也"至是, 無咎, 無疾, 皆會, 騎兵纔十, 步卒纔九人, 乃出夫人所備鐵槍, 中折分與軍士, 諸君從者及备人奴僕十餘皆執杖, 獨小斤把翎, 君馳至栽所北癒呼叔蕃曰, 今日之事若之何. 叔蕃對曰, 事己至此不須懼也, 請出軍暁辭君命以山城二字, 行岌三軍府門前以待天命. 芳碩等, 聞變欲率兵出戰, 令軍士禮賓少卿奉元良, 登宫南門, 覘軍衆寡, 自光化門至南山, 鐵騎彌滿, 芳碩等惧不敢出, 時人以爲神助, 君又呼叔蕃曰, 如何則可, 叔蕃對曰, 到姦黨會所, 以兵圍而火之, 出者輒殺可矣, 夜二鼓, 將過松覗, 叔蕃奔馬吿曰, 此小洞即間妾家也, 靖安君駐馬, 先使步卒小斤等十餘人, 圍其家有鞍馬數匹, 其在門外奴僕皆睡, 道傳間等, 張燈會坐言笑, 小斤等窺戶未入, 忽有三矢相繼落屋瓦有聲, 小斤等{{TagPage|5}}還出洞口, 問矢之所從來, 叔蕃曰我矢也. 令小斤等還入圍之. 火其隣家三處, 道傳等皆逃匿, 孝生, 勲, 至和等皆見殺, 道傳逃入其隣前判事閔富家, 富吿曰, 有皤腹者入吾家, 君知其爲道傳, 乃令小斤等四人, 捕之, 道傳伏閨中, 小斤等叱之出外, 道傳持尺劎不能行步, 匍匐而出, 小斤等叱令棄劎, 道傳棄劎出門曰, 請勿殺, 願二言而死, 小斤等曳出至靖安君馬前, 道傳曰, 昔者公旣活我, 願今亦活之, 昔者指壬申歲也, 君曰, 汝爲朝鮮奉化伯顧不足耶, 何爲惡至是也, 令斬之, 初夫人欲自至君所立處, 同其禍敗, 徒步而出, 君麾下士崔廣大等力諫止之, 間奴金夫分以道傳笠劎來, 夫人乃還, 道傳有子四人, 游泳聞變急赴, 爲游兵所殺, 湛自刎於家, 初湛吿於父曰, 今日之事不可不吿於靖安君也, 道傳曰, 我旣背髙麗, 今又背:此附彼, 人雖不, 獨無愧於心乎, 李茂, 出門中流矢, 乃曰我李茂也, 步卒將殺之靖安君曰勿殺, 乃與之馬, 閭, 率伴人河景崔泛等逃竄, 稷乘屋, 詐爲. 奴僕, 作滅火狀, 仍得逃免. 闕內人, 望見松靦火焰張天, 奔吿于上, 宮中衛士. 鼓角而噪, 李天祐, 自其家率伴二人將, 赴闕馬天牧望之, 追及於安國坊洞口曰, 非天祐令公乎, 天祐不答, 天牧曰, 令公不答而去則矢可畏也, 天祐曰, 汝非馬司直乎, 何呼我耶, 天牧答曰, 靖安君與諸王子會于此矣, 天祐趨詣靖安君, 且曰, 今擧此事, 何不早使我知之, 靖安君遣朴苞閔無疾, 召左政丞趙浚, 浚猶豫, 使卜者筮其去就, 而不即赴, 又使叔蕃促之, 靖安君迎至中路, 浚已與右政丞金士衡來, 帶甲伴人多從之, 到嘉會坊洞口橋, 步卒以兵把截曰, 唯兩政丞入, 浚士衡等, 下馬, 趨而過橋, 靖安君曰, 卿等何不憂李氏社稷, 浚士衡等.驚懼跪于馬前, 君曰, 道傳聞等舍心如世那象斜孙亦跳, 方幣我是以爲弱者先手也, 浚等叩頭冃術阡堂世警, 就虾也, 君曰, 如此大事, 宜吿國家, 今日之事, 勢迫不暇吿耳, 公等宜速合坐, 石柱, 神良, 在闕內, 使人呼都承旨李文和, 右承旨金陸于家, 文和奔至, 問曰上體若何{{TagPage|6}}石柱曰, 上疾篇, 牛夜子時, 欲避病于西小凉亭, 於是, 諸承旨俱謂勤政殿門, 都鎭撫朴歲, 立於勤政殿門, 高聲呼曰, 軍士來杏, 文和問曰, 此時避御乎, 何吹角耶, 菠曰, 何嗣避御, 奉化伯, 宜城君會處, 有數多軍馬, 圍而火之, 故吹角耳, 先是, 靖安君謂叔蕃曰, 勢力則不可敵矣, 斬道傳闍等然後, 我四五兄弟, 駐馬于三車府門前, 以槻國人之心, 人心不從則己, 翕然從之則我輩得生, 至是, 靖安君還到三軍府門前駐馬, 夜己四鼓, 素所注篱者, 相權來集矣, 賛成柳曼殊率子原之 謁馬前, 靖安君曰, 何故來耶, 曼殊曰, 聞上將移御臣家’今不移御, 且聞有變, 故急來欲侍衛耳, 曰甲而來乎, 曼殊曰否, 即與之甲, 令立馬後, 天祐吿曰, 曼殊乃道傳間之黨, 不可不殺, 埔安君曰, 不可, 懷安及天祐强之曰, 如此倉卒之際, 衆議不可沮也, 靖安君顧謂叔蕃曰, 勢難得己, 命數其罪, 曼殊即下馬, 執靖安君馬轡曰, 我當白之矣白之矣, 靖安君, 令從者解之, 殊猶, 堅執不解, 小斤以小刀剌頷下曼殊仰倒, 乃斬之, 靖安君謂原之曰, 汝無罪可歸家矣, 懷安, 追斬于融賓門前, 浚士衡等, 入坐都評議司, 靖安 君意荆, 方碩等若搴術士出宫門交戰, 則我軍少勢將却矣, 若稍却則合坐諸相, 當在彼軍之後而或從彼矣, 使人詳於都堂曰, 我兄弟在路上而諸相入坐都堂,  不可, 宜即移坐于雲從街上, 遂令禮曹, 率會百官, 親軍衛都鎭撫趙溫, 亦直宿闕內, 靖安君使人召溫及朴蕨, 湿聞命即以麾丁甲士牌頭等出謁馬前, 蕨不應良次, 不得己佩劎而出, 增宣君溫賞以待, 聽見筆勢弱, 乃吿曰, 凡諸處分乞待天明, 其志, 以謂天明則, 兵弱之形著而衆心不附矣, 靖诙君使赴都堂, 懷安請于君使人斬之, 靖安君命温盡出宿衛甲士, 溫即遣牌頭等入闕, 盡以宿衛甲士出, 於是, 勤政股以南, 甲士攏出, 脫甲棄兵, 命各自歸家, 初, 李茂, 見兵勢弱, 詐稱恍惚, 使人扶持, 白於靖安君曰, 中箭處痛甚. 請就都堂兒房, 休息, 君曰可, 小頃, 茂聞朴歲見誅, 即還出, 翌日鷄鳴, 上召石柱入內, 黎明不召文和, 文{{TagPage|7}}和詣西凉亭, 世子與芳蕃, 濟, 和, 良祐, 淙叩樞相張思吉, 張湛, 鄭臣義等. 皆己入內, 自諸君樞相大小內官丁至內奴, 皆被甲帶劎, 唯曹恂及金陸石柱仲良不甲, 石柱傳 旨文和曰, 製敎書, 文和曰請辭, 石柱曰, 倣韓山君所製誅三元帥敎書之意, 製之可也, 文和曰, 看知之乎, 石柱曰, 破賊之功一時之或有, 無君之心萬世之不宥, 是其詞也, 文和曰, 今之罪魁離歟, 石柱曰, 罪魁則更禀于上, 先可起草, 督之急, 文和執筆曰, 君亦解屬文以親禀之意製之, 我當書之, 石柱製曰, 某某等, 潜圖不軌, 欲害開國元勳某某等, 以漏洩被捉, 皆令就戮, 其刼從鷺與, 皆宥不問, 草成, 石桂賛草入啓, 上曰, 姑待兩政丞來, 擬議頒之, 已而, 都堂率百官, 聞于上曰, 道傳間孝生等, 結黨陰謀, 欲害我親勳, 以亂我國家, 臣等, 事迫不及以聞, 已得誅除, 願上勿驚, 李濟方在側, 復于土曰, 諸王子起兵, 共誅間等, 禍將及身, 請以衛士出攻, 上曰, 勿憂一禍豈及汝和亦止之曰, 自中事也. 不必相戰, 濟拨劎睥睨者數矣, 和安然不動, 時永安, 爲上禱病致齋于昭格殿, 聞變, 潜率一奴, 繩城而出, 步至豐壤,隱於金仁貴家, 靖安君使人尋之, 迎到宮城南門外, 日腾吳矣, 時人皆欲請於上, 以靖安君爲世子, 增安君固讓, 請以永安君爲世子, 永安君曰, 當初建義開國至於今日之事, 皆是靖安之功, 我不可爲世子, 靖安君讓益固曰, 欲定國本嘗在嫡長, 永安君曰, 然則我當有以處之. 於是, 靖安君令都堂率百官上疏曰, 立嫡以長萬世之經, 殿下捨長立幼, 道傳等挾世子欲害諸王子, 禍在不測, 幸賴天地宗社之靈, 亂臣伏誅, 願殿下立嫡長, 永安君爲世子, 疏上, 文和讀訖, 世子亦在側, 上良久曰, 皆吾子也, 何不可之有, 顧謂芳磧曰, 於汝便矣, 上旣允下, 在內諸相問何事, 文和答曰, 易世子也, 石柱奉敎草, 使文和署名, 文和不受, 次請和, 亦不受 次請坐 中諸相, 皆不受, 文和曰, 君之所製書, 何不自増乎, 石柱曰, 諾, 乃署名袖之, 石柱, 石柱入內, 承 命出曰, {{TagPage|8}}教書改寫速下, 文和曰何以改之, 石柱曰, 開國功臣道傳南誾等, 潜圖不軌, 謀害王子宗室, 今己漏洩, 功不掩罪, 己皆就戳, 其刼從黨與, 罔治, 使仲良書以進, 上令侍女扶起, 押訖還臥, 病劇, 欲吐未吐曰, 如有物在咽喉間不下, 靖安君令軍器直長金謊, 開武庫, 出甲槍, 授火桶軍百餘人, 用勢稍振, 甲士申龍鳳, 入闕傳 靖安君言曰, 與安君撫安君各歸私第, 義安君以下何不出來, 睹君相目不言, 更督之, 和以下皆出, 惊, 由宮城水門逃出, 獨鄭臣義遲留, 促之乃出, 都堂請出芳硝, 上曰, 旣己判付, 出去何害, 芳, 碩泣辭, 賢嬪牽衣而哭, 芳磧拂衣而出, 初議置遠方, 出宮城西門, 李居易, 李伯卿, 趙璞等, 議于都堂, 使人殺于道, 都堂又請出芳蕃, 上謂芳蕃曰, 世子則己矣, 汝不過置遠方耳, 芳蕃將出宮, 城南門, 靖安君下馬入門內, 携手語曰.簡等旣剪除我輩, 則汝亦終不免, 故我招之, 汝何不從耶, 今雖出外, 未幾必曜矣, 好去好去, 將置通津, 過楊花渡, 宿渡丞館, 芳幹與李伯卿等, 又議於都堂,,使人殺之, 靖安君聞芳碩芳蕃之死, 密語叔蕃曰, 柳曼殊予尙欲保全, 况骨肉乎, 居易父子不吿於我, 議於都堂, 戕害我母氣, 今人心未定, 故我隱忍不敢示怒也, 汝母出僦言, 軍士執仲良石柱及南贄等以出, 仲良仰視靖安君曰, 我注意於公, 今己數年矣, 君曰, 彼口亦肉也, 贄, 聞之弟, 時爲右廂節制使, 並囚于巡 軍而追斬于路, 李濟出, 靖安君胴濟曰, 可歸本家, 上遂策, 永安宼爲世子, 敎曰, 立嫡以長萬世之經, 宗子維城 寡人之望, 惟爾父臣甞開國, 捨長立幼, 乃以芳碩爲世于, 於孙科点暫盐幺知, 置穿聾弋 小林制费曳容, 賢舟團瓦死虾趴硏八詠, 折陌會町 朴世林那, 如當就赤僧林部, 部蠻駅込, 日者, 道傳闔孝生至和等, 潜圖 不軌, 搖亂根本, 幸賴天地 宗社之佑, 罪人伏誅, 王室再安, 芳碩禍胎, 不可留置國都, 放諸東裔, 予旣悔前日之裡, 又因百僚之請, 席建爾爲王世子, 於戲, 克明其德, 無忝爾所生, 徃盡乃心, 鎭撫我社稷, 乃命文和, 金{{TagPage|9-1}}瞼, 出謁,世子, 世子召文和曰, 內無可侍衛者, 爾速還入內, 文和即還入, 曹恂宣毋子命曰, 除侍女及內奴外, 餘皆出之, 文和亦出, 世子曰, 爾何出來, 文和具吿其由, 世子曰非謂汝也, 宜速還入侍, 又谷上將軍李敷, 入內待衛 ... 南时选出城水門, 瞟於城外圃幕, 沄景等左右扶持, 暫不離焉, 間欲詣巡軍, 法等止之, 闔曰, 道傳爲人鼻故見誅我無憎之者, 自脂巡軍門外,{{TagRef|3}} 見斬……靖安君與諸王子, 張幕於監巡廳前, 會宿三日, 其後, 入褚三軍府, 至世子受內彈後, 各還私第.<ref>太祖 七年 八月 己巳, 太祖實錄 卷十四, 十六-二十六張. 三峯集에 「恭昭之難, 公不得其終」이 九月이라 함은 얻더한 根據로 나온 記錄인지 모르겟으나 八月說이 더 確實하다고 생각한다. (三峯集 卷十四 附錄 事實)</ref></blockquote>
 
|원문5번= {{TagSpage|2-4}}<blockquote no="01">己巳, 奉化伯鄭道傳, 宜城君南誾, 及富城君沈孝生等, 謀害諸王子, 不克, 伏誅, 初 上以 靖安君開國之功, 諸子無與爲比, 特 賜世傳東北面加別赤五百餘戶, 其後以諸王子及功臣, 爲各道節制使, 分管侍衛兵馬, 靖安君全羅道, 撫安君芳蕃東北面, 於是, 靖安君, 以加別赤, 讓芳蕃, 芳蕃受而不辭, 上知之, 亦不責還也, 道傳, 間等, 謀欲擅權, 貧立幼孽, 謂孝生孤寒易制, 譽其女有婦德, 精爲世子芳碩嬪, 與世子同母兄芳蕃, 姊夫興安君{{TagPage|3}}李濟等, 同謀多樹黨與, 將欲去諸王子, 暗嗾宦者金師幸密啓, 請依中朝諸皇封王之例, 分遣諸王子於各道, 上 不答, 其後, 上諷諭 靖安君曰, 外間之議, 汝輩不可不知, 宜論諸兄戒愼之, 道傳等又嗾卞仲良上疏,  請罷諸王 子兵權, 至再三, 上不允, 卜者安植曰, 世子異母兄, 有天命者非.道傳聞之曰, 即當除之, 何患乎, 義安君和 知其謀, 密吿 靖安君, 至是宦者曹恂傳旨曰, 予病甚不欲接人,  惟世子外, 母得入見, 師幸恂皆其黨也, 道傳, 閭, 孝生, 判中樞李勲, 前恭賛李茂, 興城君張至和, 星山君李稷等, 托以省問 上疾, 日夜聚松覗闍妾家, 相與 密謀.令芳碩, 濟, 及親軍衛都鎭撫朴藏,  左副承旨盧石柱, 右副承知卞仲良, 在內, 稱 上病篤, 急召諸王子, 入則以內奴及甲士攻之, 道傳閭等外應, 初财古巴麥恥, 先是, 蹟安君密謂知安山那事李叔蕃曰, 姦殲在平時, 固無疑矣, 伺上違豫必生變, 予若召汝則宜速來, 至是, 閔無咎以埔安君命, 召之而至.時, 上病劇, 靖安君及:益安君芳毅, 懷安君芳幹, 淸原君沈惊, 上黨君李伯卿, 義安君和, 及李濟等, 皆會宿勤政殿門外西廊, 至是日哺. 時, 閔無疾詣靖安君邸, 入與夫人偶語良久, 夫人急召小斤曰, 汝速詣闕, 請公來, 小斤曰, 諸君皆會一廳, 奴將何辭以吿, 夫人曰, 汝以我胸腹卒痛奔吿則 公當速來矣, 小斤, 牽馬詣西廊, 具吿之, 義安君贈以請心蘇合 等藥曰, 宜速往治之, 靖安君即還邸,  俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎立密語良久, 夫人執君衣, 請勿詣闕, 君曰豈可畏死不詣, 且諸兄皆在禁中, 不可不使知之, 若有變則我當出來擧兵, 以觀國人之心也, 乃拂衣而出, 夫人追及戶外曰, 愼之愼之, 日己昏矣, 時命罷諸王子所領侍衛牌, 己十餘日矣, 唯芳蕃撼兵如舊, 靖安君初罷兵, 盡燒營中軍器至是, 夫人潜備兵仗, 爲應變計, 李茂素有中立之計, 密以閣等謀, 甞吿靖安, 至是, 隨無疾來謁, 少頃先去, 茂無疾之近姻也, 竹城君朴苞亦徃來其間, 暗伺彼之動靜, 於是, 靖安君命無咎, 使叔蕃備兵甲, 宿于{{TagPage|4}}本邸門前辛克禮家待變. 乃詣闕入西廊, 直宿諸君皆不留馬, 獨靖安君使小斤秣馬西廊後, 芳蕃將入內, 靖安君呼之, 芳蕃搔首逡巡不應而入, 至初夜, 有人自內出曰 上疾劇, 欲避病, 諸王子速入內, 從者命勿許入,和, 琮, 濟, 先出立庭, 靖安君與益安, 懷安, 上黨諸君, 暫立戶內, 密語, 舊制, 宮中諸門夜必張燈, 至是, 見宮門無燈, 益疑之, 和, 及濟, 琮, 先入內, 靖安君稱腹痛, 出西廊門外, 入厠坐思良久, 益安, 懷安等走出, 呼靖安君者再, 君曰, 諸兄是何高聲呼耶, 乃立以兩袖拍之曰, 勢不得己也, 卽馳馬出宮城西門, 益安, 懷(安), 上黨, 皆步走, 唯上黨能及靖安君馬, 益安懷安, 或仆蹭, 靖安君使馬天牧, 召芳蕃曰, 請出來從我, 厥終彼亦不全汝矣, 芳蕃臥內廊房, 見天牧, 起坐聞訖, 還臥, 芳蕃億從,皆無賴之徒, 唯事射御, 且妄欲謀移儲位久矣, 一日謂芳蕃曰 吾等己緣中, 乾使公得代芳碩位, 敎命將至矣, 請母出以待, 芳蕃信而不出外人哂之, 靖安知其不相容, 故召之不從, 靖安君到本邸洞口軍營前路, 駐馬呼叔蕃, 叔蕃率壯士二人, 甲而出, 安益公仓安)上羸懷安父子亦得騎馬, 有李居易, 趙英茂.辛克禮, 徐益, 文彬, 沈龜齡等, 皆歸心靖安者也"至是, 無咎, 無疾, 皆會, 騎兵纔十, 步卒纔九人, 乃出夫人所備鐵槍, 中折分與軍士, 諸君從者及备人奴僕十餘皆執杖, 獨小斤把翎, 君馳至栽所北癒呼叔蕃曰, 今日之事若之何. 叔蕃對曰, 事己至此不須懼也, 請出軍暁辭君命以山城二字, 行岌三軍府門前以待天命. 芳碩等, 聞變欲率兵出戰, 令軍士禮賓少卿奉元良, 登宫南門, 覘軍衆寡, 自光化門至南山, 鐵騎彌滿, 芳碩等惧不敢出, 時人以爲神助, 君又呼叔蕃曰, 如何則可, 叔蕃對曰, 到姦黨會所, 以兵圍而火之, 出者輒殺可矣, 夜二鼓, 將過松覗, 叔蕃奔馬吿曰, 此小洞即間妾家也, 靖安君駐馬, 先使步卒小斤等十餘人, 圍其家有鞍馬數匹, 其在門外奴僕皆睡, 道傳間等, 張燈會坐言笑, 小斤等窺戶未入, 忽有三矢相繼落屋瓦有聲, 小斤等{{TagPage|5}}還出洞口, 問矢之所從來, 叔蕃曰我矢也. 令小斤等還入圍之. 火其隣家三處, 道傳等皆逃匿, 孝生, 勲, 至和等皆見殺, 道傳逃入其隣前判事閔富家, 富吿曰, 有皤腹者入吾家, 君知其爲道傳, 乃令小斤等四人, 捕之, 道傳伏閨中, 小斤等叱之出外, 道傳持尺劎不能行步, 匍匐而出, 小斤等叱令棄劎, 道傳棄劎出門曰, 請勿殺, 願二言而死, 小斤等曳出至靖安君馬前, 道傳曰, 昔者公旣活我, 願今亦活之, 昔者指壬申歲也, 君曰, 汝爲朝鮮奉化伯顧不足耶, 何爲惡至是也, 令斬之, 初夫人欲自至君所立處, 同其禍敗, 徒步而出, 君麾下士崔廣大等力諫止之, 間奴金夫分以道傳笠劎來, 夫人乃還, 道傳有子四人, 游泳聞變急赴, 爲游兵所殺, 湛自刎於家, 初湛吿於父曰, 今日之事不可不吿於靖安君也, 道傳曰, 我旣背髙麗, 今又背:此附彼, 人雖不, 獨無愧於心乎, 李茂, 出門中流矢, 乃曰我李茂也, 步卒將殺之靖安君曰勿殺, 乃與之馬, 閭, 率伴人河景崔泛等逃竄, 稷乘屋, 詐爲. 奴僕, 作滅火狀, 仍得逃免. 闕內人, 望見松靦火焰張天, 奔吿于上, 宮中衛士. 鼓角而噪, 李天祐, 自其家率伴二人將, 赴闕馬天牧望之, 追及於安國坊洞口曰, 非天祐令公乎, 天祐不答, 天牧曰, 令公不答而去則矢可畏也, 天祐曰, 汝非馬司直乎, 何呼我耶, 天牧答曰, 靖安君與諸王子會于此矣, 天祐趨詣靖安君, 且曰, 今擧此事, 何不早使我知之, 靖安君遣朴苞閔無疾, 召左政丞趙浚, 浚猶豫, 使卜者筮其去就, 而不即赴, 又使叔蕃促之, 靖安君迎至中路, 浚已與右政丞金士衡來, 帶甲伴人多從之, 到嘉會坊洞口橋, 步卒以兵把截曰, 唯兩政丞入, 浚士衡等, 下馬, 趨而過橋, 靖安君曰, 卿等何不憂李氏社稷, 浚士衡等.驚懼跪于馬前, 君曰, 道傳聞等舍心如世那象斜孙亦跳, 方幣我是以爲弱者先手也, 浚等叩頭冃術阡堂世警, 就虾也, 君曰, 如此大事, 宜吿國家, 今日之事, 勢迫不暇吿耳, 公等宜速合坐, 石柱, 神良, 在闕內, 使人呼都承旨李文和, 右承旨金陸于家, 文和奔至, 問曰上體若何{{TagPage|6}}石柱曰, 上疾篇, 牛夜子時, 欲避病于西小凉亭, 於是, 諸承旨俱謂勤政殿門, 都鎭撫朴歲, 立於勤政殿門, 高聲呼曰, 軍士來杏, 文和問曰, 此時避御乎, 何吹角耶, 菠曰, 何嗣避御, 奉化伯, 宜城君會處, 有數多軍馬, 圍而火之, 故吹角耳, 先是, 靖安君謂叔蕃曰, 勢力則不可敵矣, 斬道傳闍等然後, 我四五兄弟, 駐馬于三車府門前, 以槻國人之心, 人心不從則己, 翕然從之則我輩得生, 至是, 靖安君還到三軍府門前駐馬, 夜己四鼓, 素所注篱者, 相權來集矣, 賛成柳曼殊率子原之 謁馬前, 靖安君曰, 何故來耶, 曼殊曰, 聞上將移御臣家’今不移御, 且聞有變, 故急來欲侍衛耳, 曰甲而來乎, 曼殊曰否, 即與之甲, 令立馬後, 天祐吿曰, 曼殊乃道傳間之黨, 不可不殺, 埔安君曰, 不可, 懷安及天祐强之曰, 如此倉卒之際, 衆議不可沮也, 靖安君顧謂叔蕃曰, 勢難得己, 命數其罪, 曼殊即下馬, 執靖安君馬轡曰, 我當白之矣白之矣, 靖安君, 令從者解之, 殊猶, 堅執不解, 小斤以小刀剌頷下曼殊仰倒, 乃斬之, 靖安君謂原之曰, 汝無罪可歸家矣, 懷安, 追斬于融賓門前, 浚士衡等, 入坐都評議司, 靖安 君意荆, 方碩等若搴術士出宫門交戰, 則我軍少勢將却矣, 若稍却則合坐諸相, 當在彼軍之後而或從彼矣, 使人詳於都堂曰, 我兄弟在路上而諸相入坐都堂,  不可, 宜即移坐于雲從街上, 遂令禮曹, 率會百官, 親軍衛都鎭撫趙溫, 亦直宿闕內, 靖安君使人召溫及朴蕨, 湿聞命即以麾丁甲士牌頭等出謁馬前, 蕨不應良次, 不得己佩劎而出, 增宣君溫賞以待, 聽見筆勢弱, 乃吿曰, 凡諸處分乞待天明, 其志, 以謂天明則, 兵弱之形著而衆心不附矣, 靖诙君使赴都堂, 懷安請于君使人斬之, 靖安君命温盡出宿衛甲士, 溫即遣牌頭等入闕, 盡以宿衛甲士出, 於是, 勤政股以南, 甲士攏出, 脫甲棄兵, 命各自歸家, 初, 李茂, 見兵勢弱, 詐稱恍惚, 使人扶持, 白於靖安君曰, 中箭處痛甚. 請就都堂兒房, 休息, 君曰可, 小頃, 茂聞朴歲見誅, 即還出, 翌日鷄鳴, 上召石柱入內, 黎明不召文和, 文{{TagPage|7}}和詣西凉亭, 世子與芳蕃, 濟, 和, 良祐, 淙叩樞相張思吉, 張湛, 鄭臣義等. 皆己入內, 自諸君樞相大小內官丁至內奴, 皆被甲帶劎, 唯曹恂及金陸石柱仲良不甲, 石柱傳 旨文和曰, 製敎書, 文和曰請辭, 石柱曰, 倣韓山君所製誅三元帥敎書之意, 製之可也, 文和曰, 看知之乎, 石柱曰, 破賊之功一時之或有, 無君之心萬世之不宥, 是其詞也, 文和曰, 今之罪魁離歟, 石柱曰, 罪魁則更禀于上, 先可起草, 督之急, 文和執筆曰, 君亦解屬文以親禀之意製之, 我當書之, 石柱製曰, 某某等, 潜圖不軌, 欲害開國元勳某某等, 以漏洩被捉, 皆令就戮, 其刼從鷺與, 皆宥不問, 草成, 石桂賛草入啓, 上曰, 姑待兩政丞來, 擬議頒之, 已而, 都堂率百官, 聞于上曰, 道傳間孝生等, 結黨陰謀, 欲害我親勳, 以亂我國家, 臣等, 事迫不及以聞, 已得誅除, 願上勿驚, 李濟方在側, 復于土曰, 諸王子起兵, 共誅間等, 禍將及身, 請以衛士出攻, 上曰, 勿憂一禍豈及汝和亦止之曰, 自中事也. 不必相戰, 濟拨劎睥睨者數矣, 和安然不動, 時永安, 爲上禱病致齋于昭格殿, 聞變, 潜率一奴, 繩城而出, 步至豐壤,隱於金仁貴家, 靖安君使人尋之, 迎到宮城南門外, 日腾吳矣, 時人皆欲請於上, 以靖安君爲世子, 增安君固讓, 請以永安君爲世子, 永安君曰, 當初建義開國至於今日之事, 皆是靖安之功, 我不可爲世子, 靖安君讓益固曰, 欲定國本嘗在嫡長, 永安君曰, 然則我當有以處之. 於是, 靖安君令都堂率百官上疏曰, 立嫡以長萬世之經, 殿下捨長立幼, 道傳等挾世子欲害諸王子, 禍在不測, 幸賴天地宗社之靈, 亂臣伏誅, 願殿下立嫡長, 永安君爲世子, 疏上, 文和讀訖, 世子亦在側, 上良久曰, 皆吾子也, 何不可之有, 顧謂芳磧曰, 於汝便矣, 上旣允下, 在內諸相問何事, 文和答曰, 易世子也, 石柱奉敎草, 使文和署名, 文和不受, 次請和, 亦不受 次請坐 中諸相, 皆不受, 文和曰, 君之所製書, 何不自増乎, 石柱曰, 諾, 乃署名袖之, 石柱, 石柱入內, 承 命出曰, {{TagPage|8}}教書改寫速下, 文和曰何以改之, 石柱曰, 開國功臣道傳南誾等, 潜圖不軌, 謀害王子宗室, 今己漏洩, 功不掩罪, 己皆就戳, 其刼從黨與, 罔治, 使仲良書以進, 上令侍女扶起, 押訖還臥, 病劇, 欲吐未吐曰, 如有物在咽喉間不下, 靖安君令軍器直長金謊, 開武庫, 出甲槍, 授火桶軍百餘人, 用勢稍振, 甲士申龍鳳, 入闕傳 靖安君言曰, 與安君撫安君各歸私第, 義安君以下何不出來, 睹君相目不言, 更督之, 和以下皆出, 惊, 由宮城水門逃出, 獨鄭臣義遲留, 促之乃出, 都堂請出芳硝, 上曰, 旣己判付, 出去何害, 芳, 碩泣辭, 賢嬪牽衣而哭, 芳磧拂衣而出, 初議置遠方, 出宮城西門, 李居易, 李伯卿, 趙璞等, 議于都堂, 使人殺于道, 都堂又請出芳蕃, 上謂芳蕃曰, 世子則己矣, 汝不過置遠方耳, 芳蕃將出宮, 城南門, 靖安君下馬入門內, 携手語曰.簡等旣剪除我輩, 則汝亦終不免, 故我招之, 汝何不從耶, 今雖出外, 未幾必曜矣, 好去好去, 將置通津, 過楊花渡, 宿渡丞館, 芳幹與李伯卿等, 又議於都堂,,使人殺之, 靖安君聞芳碩芳蕃之死, 密語叔蕃曰, 柳曼殊予尙欲保全, 况骨肉乎, 居易父子不吿於我, 議於都堂, 戕害我母氣, 今人心未定, 故我隱忍不敢示怒也, 汝母出僦言, 軍士執仲良石柱及南贄等以出, 仲良仰視靖安君曰, 我注意於公, 今己數年矣, 君曰, 彼口亦肉也, 贄, 聞之弟, 時爲右廂節制使, 並囚于巡 軍而追斬于路, 李濟出, 靖安君胴濟曰, 可歸本家, 上遂策, 永安宼爲世子, 敎曰, 立嫡以長萬世之經, 宗子維城 寡人之望, 惟爾父臣甞開國, 捨長立幼, 乃以芳碩爲世于, 於孙科点暫盐幺知, 置穿聾弋 小林制费曳容, 賢舟團瓦死虾趴硏八詠, 折陌會町 朴世林那, 如當就赤僧林部, 部蠻駅込, 日者, 道傳闔孝生至和等, 潜圖 不軌, 搖亂根本, 幸賴天地 宗社之佑, 罪人伏誅, 王室再安, 芳碩禍胎, 不可留置國都, 放諸東裔, 予旣悔前日之裡, 又因百僚之請, 席建爾爲王世子, 於戲, 克明其德, 無忝爾所生, 徃盡乃心, 鎭撫我社稷, 乃命文和, 金{{TagPage|9-1}}瞼, 出謁,世子, 世子召文和曰, 內無可侍衛者, 爾速還入內, 文和即還入, 曹恂宣毋子命曰, 除侍女及內奴外, 餘皆出之, 文和亦出, 世子曰, 爾何出來, 文和具吿其由, 世子曰非謂汝也, 宜速還入侍, 又谷上將軍李敷, 入內待衛 ... 南时选出城水門, 瞟於城外圃幕, 沄景等左右扶持, 暫不離焉, 間欲詣巡軍, 法等止之, 闔曰, 道傳爲人鼻故見誅我無憎之者, 自脂巡軍門外,{{TagRef|3}} 見斬……靖安君與諸王子, 張幕於監巡廳前, 會宿三日, 其後, 入褚三軍府, 至世子受內彈後, 各還私第.<ref>太祖 七年 八月 己巳, 太祖實錄 卷十四, 十六-二十六張. 三峯集에 「恭昭之難, 公不得其終」이 九月이라 함은 얻더한 根據로 나온 記錄인지 모르겟으나 八月說이 더 確實하다고 생각한다. (三峯集 卷十四 附錄 事實)</ref></blockquote>
 
|원문6번= {{TagSpage|9-2}} 以上에 摘配한 實銀의 引文은 三峯 鄭道傳이 李氏(成桂)를 化家爲國하기 爲하야, 心血을 傾盡하고 一身의 覆滅을 몇 번이나 經驗하면서도 不撓不屈한 莫大의 功에 比하야 너무도 異常하고 突然한 悲慘한 最後를 說明하기에 가장 必要한 記錄이며, 五百餘年을 지난 今日에 이르도록 茫然模糊한 그 眞相을 推察하기에 唯一 最大의 資料라하여도 不可함이 없을 듯하므로, 若干 冗長한 點이 있음을 不拘하고 全文을 載錄한 것이다.
 
|원문6번= {{TagSpage|9-2}} 以上에 摘配한 實銀의 引文은 三峯 鄭道傳이 李氏(成桂)를 化家爲國하기 爲하야, 心血을 傾盡하고 一身의 覆滅을 몇 번이나 經驗하면서도 不撓不屈한 莫大의 功에 比하야 너무도 異常하고 突然한 悲慘한 最後를 說明하기에 가장 必要한 記錄이며, 五百餘年을 지난 今日에 이르도록 茫然模糊한 그 眞相을 推察하기에 唯一 最大의 資料라하여도 不可함이 없을 듯하므로, 若干 冗長한 點이 있음을 不拘하고 全文을 載錄한 것이다.
|원문7번= {{TagSpage|9-3}} 이 記錄을 一督하고 우리가 생각할수 있는바 鄭道傳 南誾의 所謂 罪狀이란 무엇인가。가장 重要한 罪狀은 (一) 芳碩을 世子로 推戴하였다는 것이며, (二) 또 宗親율 排斥하였다는 것이다. 이것을 좀 더 具體的으로 말하면, {{TagRef|4}}「食立幼孽, 欲爲後嗣, 以奪長幼之序, 以亂嫡庶之分」<ref>太祖 七年 九月 丁亥 定宗 吿即位于大廟頒敎旨中, 卷十五 二十四張.</ref> 이라는 것과, {{TagRef|5}}「道傳等, 挟世子飲害諸王子, 禍在不測」<ref>仝上, 靖安君 合都堂率百官 上疏中 語句, 仝上 二十四張.</ref>이란 것이니, 이것을 더욱 些糊히 말하면 太祖의 神懿王后 韓氏(太祖 即位前年 歿, 後年 封爵)의 出인 五人의 王子를 排斥하고 神德王后 康氏외 所出인 第八子 芳碩을 世子로 迎立한 것 까지도, 道傳의 所致같이 宣言하는 것이며、이 世子를 保讚하기 爲하야 異腹兄들을 다못 排斥할 뿐이 아니라 「剪除」하려는 非常手段의 實現이 頃刻의 間에 있었다{{TagPage|10-1}}고 한다. 이 外에도 여러가지 些少한 問題가 後日에 添加되나, 罪狀의 主目은 이 兩點에 다하는듯 하므로, 爲先 이 點을 探査하여 볼 必要가 있다.  
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|원문7번= {{TagSpage|9-3}} 이 記錄을 一督하고 우리가 생각할수 있는바 鄭道傳 南誾의 所謂 罪狀이란 무엇인가。가장 重要한 罪狀은 (一) 芳碩을 世子로 推戴하였다는 것이며, (二) 또 宗親율 排斥하였다는 것이다. 이것을 좀 더 具體的으로 말하면, {{TagRef|4}}<cite no="XX">「食立幼孽, 欲爲後嗣, 以奪長幼之序, 以亂嫡庶之分」</cite><ref>太祖 七年 九月 丁亥 定宗 吿即位于大廟頒敎旨中, 卷十五 二十四張.</ref> 이라는 것과, {{TagRef|5}}<cite no="XX">「道傳等, 挟世子飲害諸王子, 禍在不測」</cite><ref>仝上, 靖安君 合都堂率百官 上疏中 語句, 仝上 二十四張.</ref>이란 것이니, 이것을 더욱 些糊히 말하면 太祖의 神懿王后 韓氏(太祖 即位前年 歿, 後年 封爵)의 出인 五人의 王子를 排斥하고 神德王后 康氏외 所出인 第八子 芳碩을 世子로 迎立한 것 까지도, 道傳의 所致같이 宣言하는 것이며、이 世子를 保讚하기 爲하야 異腹兄들을 다못 排斥할 뿐이 아니라 「剪除」하려는 非常手段의 實現이 頃刻의 間에 있었다{{TagPage|10-1}}고 한다. 이 外에도 여러가지 些少한 問題가 後日에 添加되나, 罪狀의 主目은 이 兩點에 다하는듯 하므로, 爲先 이 點을 探査하여 볼 必要가 있다.  
|원문8번= {{TagSpage|10-2}}芳碩을 世子로 册立함에 對하여는 太祖實錄에 {{TagRef|6}}「已巳, 立幼孽芳碩, 爲王世子, 初, 功臣裴克廉, 趙浚, 鄭道傳等, 請建世子, 欲以年以功爲請, 王重康氏意在芳蕃, 芳蕃狂率無狀, 功臣等難之, 私相謂曰, 若必欲立康氏出, 季子差可, 及是, 上問誰可爲世子者, 未有以立長立功切言者, 克廉曰, 季子爲可, 上遂決意立之」<ref>太祖 元年 八月 己巳 太祖實錄 卷, 五十二張.</ref>라고 있으며, 이 事實은, 太祖가 七月 十七日에 即位한 後 一箇月밖에 지나지 않은 八月 二十日에 決定된 것이라, 이것이 七八年을 經過한 後에 비로소 突變을 일으킬 直接 原因이 되리라고 보기는 좀 異常한 點이 있다 하겠다. 더욱 그 事實의 內容을 點檢하면 芳碩을 建立한 것은 太祖가 繼妃 康氏의 意中을 맞았다는 것이 眞相일 것이며 (所謂 賢否는 이곳에는 暫時 不問하더라도), 劳碩을 進言한 罪를 말하려면 裴克廉이 最重할 것이거늘, 世子 建立의 緣由로 裴를 問責한 事實은 勿論. 後日에라도 裴를 云云함이 全無하니 異常하다 않을 수 없다 {{TagRef|7}}勿論 裴는 太祖 元年 十一月에 卒하였으므로 <ref>太祖 二年 一月 癸卯, 仝上 卷二.</ref> 後日의 論難을 免하였다 볼수있으나, 裴, 鄭과 같이 王의 間議틀 받은 趙浚은, 이 戊寅의 亂에 生命을 保存하였을 뿐아니라 所謂 定社功臣의 榮譽를 받았으니, 芳碩 建立의 責任만으로 道傳을 滅洙하였다고 볼 수는 全然 不可能한 것을 알 것이다. 그뿐 아니라 趙浚이 芳碩 建立에 關與함이 重大한 것은, {{TagRef|8}}太宗實錄의 趙浚卒 項에 그 傳記를 畧記한 事에도 記載한 바가 있으며, <ref>太宗 五年 六月 辛卯 趙浚卒條, 太宗實錄 卷九 二十七張</ref>  定宗 二年 一月 芳幹之亂에 趙浚이 杜門不出한 罪를 司法府가 該하는 文中에도 {{TagRef|9}}「姑以顯著五事縷陳如左, 當國初廢嫡立庶之際, 浚方爲上相, 力陳大義, 以回 天意, 以正天偷, 則戊寅之嬷, 何日而生乎, 慮不出此, 阿意曲從, 與道傳南誾, 遂立庶孽, 勢將損國……此其一 也」<ref>定宗 二年 二月 己亥, 定宗實錄 卷三 十-十一張.</ref> 라고 있으니, 이 世子 建立의 罪狀으로{{TagPage|11-1}}맡하먼, 적어도 道傳과 趙浚은 同罪라고 볼것이어늘, 後世의 所論이 罪同罰異의 不公平한 評價를 할 理由가 없는 것을 可知할 것이다.  
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|원문8번= {{TagSpage|10-2}}芳碩을 世子로 册立함에 對하여는 太祖實錄에 {{TagRef|6}}<cite no="XX">「已巳, 立幼孽芳碩, 爲王世子, 初, 功臣裴克廉, 趙浚, 鄭道傳等, 請建世子, 欲以年以功爲請, 王重康氏意在芳蕃, 芳蕃狂率無狀, 功臣等難之, 私相謂曰, 若必欲立康氏出, 季子差可, 及是, 上問誰可爲世子者, 未有以立長立功切言者, 克廉曰, 季子爲可, 上遂決意立之」</cite><ref>太祖 元年 八月 己巳 太祖實錄 卷, 五十二張.</ref>라고 있으며, 이 事實은, 太祖가 七月 十七日에 即位한 後 一箇月밖에 지나지 않은 八月 二十日에 決定된 것이라, 이것이 七八年을 經過한 後에 비로소 突變을 일으킬 直接 原因이 되리라고 보기는 좀 異常한 點이 있다 하겠다. 더욱 그 事實의 內容을 點檢하면 芳碩을 建立한 것은 太祖가 繼妃 康氏의 意中을 맞았다는 것이 眞相일 것이며 (所謂 賢否는 이곳에는 暫時 不問하더라도), 劳碩을 進言한 罪를 말하려면 裴克廉이 最重할 것이거늘, 世子 建立의 緣由로 裴를 問責한 事實은 勿論. 後日에라도 裴를 云云함이 全無하니 異常하다 않을 수 없다 {{TagRef|7}}勿論 裴는 太祖 元年 十一月에 卒하였으므로 <ref>太祖 二年 一月 癸卯, 仝上 卷二.</ref> 後日의 論難을 免하였다 볼수있으나, 裴, 鄭과 같이 王의 間議틀 받은 趙浚은, 이 戊寅의 亂에 生命을 保存하였을 뿐아니라 所謂 定社功臣의 榮譽를 받았으니, 芳碩 建立의 責任만으로 道傳을 滅洙하였다고 볼 수는 全然 不可能한 것을 알 것이다. 그뿐 아니라 趙浚이 芳碩 建立에 關與함이 重大한 것은, {{TagRef|8}}太宗實錄의 趙浚卒 項에 그 傳記를 畧記한 事에도 記載한 바가 있으며, <ref>太宗 五年 六月 辛卯 趙浚卒條, 太宗實錄 卷九 二十七張</ref>  定宗 二年 一月 芳幹之亂에 趙浚이 杜門不出한 罪를 司法府가 該하는 文中에도 {{TagRef|9}}<cite no="XX">「姑以顯著五事縷陳如左, 當國初廢嫡立庶之際, 浚方爲上相, 力陳大義, 以回 天意, 以正天偷, 則戊寅之嬷, 何日而生乎, 慮不出此, 阿意曲從, 與道傳南誾, 遂立庶孽, 勢將損國……此其一 也」</cite><ref>定宗 二年 二月 己亥, 定宗實錄 卷三 十-十一張.</ref> 라고 있으니, 이 世子 建立의 罪狀으로{{TagPage|11-1}}맡하먼, 적어도 道傳과 趙浚은 同罪라고 볼것이어늘, 後世의 所論이 罪同罰異의 不公平한 評價를 할 理由가 없는 것을 可知할 것이다.  
|원문9번= {{TagSpage|11-2}}그뿐 아니라 좀 더 깊이 생각하면 이 道傳의 最重한 罪狀이라고 後世에 喧傳하는 것이, 當時에는 決코 그렇지도 않았던것을 推想할 수도 있을 것 같다. 그것은 우에 引用한 太祖實錄 引文 中에 있는바 希安公 芳速의 쿠-데타-가 成功한 後 太祖가 病席에서 永安君 芳果를 世子로 樹立하기를 許諾하고 내린 敎書 中에 있는 「立嫡以長萬世之經, 宗子維城寡人之望, 惟诫父臣甞開國, 捨長立幼, 乃以芳碩爲世子, 不獨予昵愛不明之過, 道傳闔等亦不得辭其責矣, 卧岭卧新加林您黔玲為智, 當其時若以楚國愛少之誡, 據經廷靜, 予不敢不從, 如道傳等, 不惟不靜, 猶恐其不立」이라는 말이 어떻게 道傳의 「葬」가 消極的이며 微少한가를 表示한다. 이 敎書는 當時의 狀態로 보아 設令 太祖의 承諾을 얻은 敎書라 하더라도 靖安君 芳遠 一派의 意思가 그대로 發表되었다 볼 수 있을 것이나, 芳遠 一派로도 道傳의 罪狀이 積極的으로 芳碩 擁立에 있다고 할 수는 없고, 單只 極히 消極的으로 太祖의 所爲를 廷靜하지 않았음에 있다 하니, 그것이 問罪의 理由로서는 如何히 微弱無力한가를 알수있으며, 따라서 當時의 이 點을 問責한 意味가 後世의 그것과 判異함을 推測할 수 있다.  
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|원문9번= {{TagSpage|11-2}}그뿐 아니라 좀 더 깊이 생각하면 이 道傳의 最重한 罪狀이라고 後世에 喧傳하는 것이, 當時에는 決코 그렇지도 않았던것을 推想할 수도 있을 것 같다. 그것은 우에 引用한 太祖實錄 引文 中에 있는바 希安公 芳速의 쿠-데타-가 成功한 後 太祖가 病席에서 永安君 芳果를 世子로 樹立하기를 許諾하고 내린 敎書 中에 있는 <cite no="XX">「立嫡以長萬世之經, 宗子維城寡人之望, 惟诫父臣甞開國, 捨長立幼, 乃以芳碩爲世子, 不獨予昵愛不明之過, 道傳闔等亦不得辭其責矣, 卧岭卧新加林您黔玲為智, 當其時若以楚國愛少之誡, 據經廷靜, 予不敢不從, 如道傳等, 不惟不靜, 猶恐其不立」</cite>이라는 말이 어떻게 道傳의 「葬」가 消極的이며 微少한가를 表示한다. 이 敎書는 當時의 狀態로 보아 設令 太祖의 承諾을 얻은 敎書라 하더라도 靖安君 芳遠 一派의 意思가 그대로 發表되었다 볼 수 있을 것이나, 芳遠 一派로도 道傳의 罪狀이 積極的으로 芳碩 擁立에 있다고 할 수는 없고, 單只 極히 消極的으로 太祖의 所爲를 廷靜하지 않았음에 있다 하니, 그것이 問罪의 理由로서는 如何히 微弱無力한가를 알수있으며, 따라서 當時의 이 點을 問責한 意味가 後世의 그것과 判異함을 推測할 수 있다.  
|원문10번= {{TagSpage|11-3}}이러한推測은 太宗 九年 八月에 王이 世子에게 禪位하려고 할 때 河崙에게 그 內意를 말한中에 {{TagRef|10}}「我 太祖, 亦於乙宴年間, 傳位劳碩, 退居後宮, 則吾等終無敢動矣, 安有戊寅之變乎」<ref>太宗 九年 八月 己酉, 太宗實錄 卷十八 十張.</ref>라고 한 것을 보면, 芳碩 冊立에 對하야 不平을 가졌던 것은 事實이나, 그 問題는 不得己 斷念하였던 것 갈은 心思와, 戊寅年에 特別한 理由가 있지 않았으면 이 理由와 不平만으로 變亂을 일으키지 않았으리라는 感想을 窺察할 수 있다.  
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|원문10번= {{TagSpage|11-3}}이러한推測은 太宗 九年 八月에 王이 世子에게 禪位하려고 할 때 河崙에게 그 內意를 말한中에 {{TagRef|10}}<cite no="XX">「我 太祖, 亦於乙宴年間, 傳位劳碩, 退居後宮, 則吾等終無敢動矣, 安有戊寅之變乎」</cite><ref>太宗 九年 八月 己酉, 太宗實錄 卷十八 十張.</ref>라고 한 것을 보면, 芳碩 冊立에 對하야 不平을 가졌던 것은 事實이나, 그 問題는 不得己 斷念하였던 것 갈은 心思와, 戊寅年에 特別한 理由가 있지 않았으면 이 理由와 不平만으로 變亂을 일으키지 않았으리라는 感想을 窺察할 수 있다.  
 
|원문11번= {{TagSpage|12-1}} 그러면 戊寅年 變亂 當時의 「特別한 事情」이란 무엇을 말함인가.  
 
|원문11번= {{TagSpage|12-1}} 그러면 戊寅年 變亂 當時의 「特別한 事情」이란 무엇을 말함인가.  
 
|원문12번= {{TagSpage|12-2}} 이것이 우에 擧條한 中의 第二에 當하는 所謂 「謀害宗親」의 陰謀일 것이나, 이 點에 對한 結論을 먼저 들면 그것은 眞僞 不明한 風說 또는 實相이 있다고 認定할 수 없는 臆測에 不過하다고 생각되며, 靖安君 芳遠의 年來의 不平이 이 風說의 影子에 驚愕한 것이며, 太祖의 危重한 病勢가 이 憶刼을 一層 더 煽亂하게 한 것이라고 보는 것이 가장 妥當한 觀測일 것 같다.
 
|원문12번= {{TagSpage|12-2}} 이것이 우에 擧條한 中의 第二에 當하는 所謂 「謀害宗親」의 陰謀일 것이나, 이 點에 對한 結論을 먼저 들면 그것은 眞僞 不明한 風說 또는 實相이 있다고 認定할 수 없는 臆測에 不過하다고 생각되며, 靖安君 芳遠의 年來의 不平이 이 風說의 影子에 驚愕한 것이며, 太祖의 危重한 病勢가 이 憶刼을 一層 더 煽亂하게 한 것이라고 보는 것이 가장 妥當한 觀測일 것 같다.
 
|원문13번= {{TagSpage|12-3}}所謂 道傳 陰謀 (即 謀害宗親)의 風說 或 中傷을 芳遠에게 傳導한 길을 追跡하여 보면 大畧 三種이 있는 것 같으니. 그 第一은 義安君 和요 第二는 李茂와 閔無疾 無咎 兄弟요 第三은 李憂李 居易 父子이다. 이 外에도 朴苞와 其他의 人物이 있으나 此等은 以下에 記述하는 바와 같이 이 三者 中의 仝系의 消息이므로 別示하지 않는다. 此等 各種 各様의 密吿를 一一히 그 內容을 知悉할 수 없으나, 그 中에는 서로 相異한 듯한 點도 있은즉, 그 內容을 한번 探査하여 볼 必要가 있을까 한다.  
 
|원문13번= {{TagSpage|12-3}}所謂 道傳 陰謀 (即 謀害宗親)의 風說 或 中傷을 芳遠에게 傳導한 길을 追跡하여 보면 大畧 三種이 있는 것 같으니. 그 第一은 義安君 和요 第二는 李茂와 閔無疾 無咎 兄弟요 第三은 李憂李 居易 父子이다. 이 外에도 朴苞와 其他의 人物이 있으나 此等은 以下에 記述하는 바와 같이 이 三者 中의 仝系의 消息이므로 別示하지 않는다. 此等 各種 各様의 密吿를 一一히 그 內容을 知悉할 수 없으나, 그 中에는 서로 相異한 듯한 點도 있은즉, 그 內容을 한번 探査하여 볼 必要가 있을까 한다.  
|원문14번= {{TagSpage|12-4}}義安君 和의 密吿는, 上記한 바에 依하여서는 그 內容을 明白히 斷言할 수 없고, 단지 「知其謀」라 하나 「卜者安植曰, 世子異母兄有天命者非. 道傳聞之曰, 即當除之, 何患乎, 義安君和, 知其謀, 密吿 靖安君」의 記錄은 解釋에 依하여는 이 卜者安植에게 對한 道傳의 暴言을 和가密吿한 것 같이 보인다. 或은 그 密吿의 內容이 以下에 紀錄할 閨無疾 李茂의 密吿 內容과 같은 것이었을는지 모르나 그 點은 다음에 미루고, 이 道傳 壯談의 風說만을 問題로 하면 그것이 深房密語일만침 그 眞僞를 難測하며, 그 密語를 對話者 安植이가 漏洩하였다면 容或無怪하였으나 그 所自出이 全然不明할뿐 아니라 다못 和가 知其謀하였다고 記載한 바로서 眞相을 云云할 수 없다. 그{{TagPage|13-1}}뿐 아니라 設或 그 壯談이 眞相이라 하나 이미 芳碩을 世子로 册立한 以上, 太祖 歿後에는 當然히 國主가 될것이며, 이 世子에게 對하야 異母兄이 所譴 「有天命」하다고 하여 그 實頊을 圖謀한다면 鄭이 國君을 爲하야 「即當除之」하는 것이 忠烈의 士이라고 할지언정 謀逆라 할수는 萬無하니, 道傳의 此種壯言의 風說을 芳遠 兄弟가 個人的으로 不快不安하게 생각함은 當然하다 할지라도 이것을 潜謀不軌라고 할 수는 없을 것이다. 더군다나 이 文意를 有天命하다고 하야 如何間 即當除之하자는 뜻으로 보지않고, 그 所謂 天命을 實理시키려하면 (寶位를 窺하는 野心으로 蠢動하면) 即 當除之하리니 何患之有리오 하였다 하면 當然한 事實일뿐아니라 鄭道傳으로서는 그만한 責任과 意志가 있었으리라고 推測하여도 不當하지는 않을 것이다. 그러나 이 密吿는 그 內容의 眞僞틀 쳣제 斷定하기 어려우므로 重視할 問題는 되지 못할듯하다.  
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|원문14번= {{TagSpage|12-4}}義安君 和의 密吿는, 上記한 바에 依하여서는 그 內容을 明白히 斷言할 수 없고, 단지 「知其謀」라 하나 <cite no="XX">「卜者安植曰, 世子異母兄有天命者非. 道傳聞之曰, 即當除之, 何患乎, 義安君和, 知其謀, 密吿 靖安君」</cite>의 記錄은 解釋에 依하여는 이 卜者安植에게 對한 道傳의 暴言을 和가密吿한 것 같이 보인다. 或은 그 密吿의 內容이 以下에 紀錄할 閨無疾 李茂의 密吿 內容과 같은 것이었을는지 모르나 그 點은 다음에 미루고, 이 道傳 壯談의 風說만을 問題로 하면 그것이 深房密語일만침 그 眞僞를 難測하며, 그 密語를 對話者 安植이가 漏洩하였다면 容或無怪하였으나 그 所自出이 全然不明할뿐 아니라 다못 和가 知其謀하였다고 記載한 바로서 眞相을 云云할 수 없다. 그{{TagPage|13-1}}뿐 아니라 設或 그 壯談이 眞相이라 하나 이미 芳碩을 世子로 册立한 以上, 太祖 歿後에는 當然히 國主가 될것이며, 이 世子에게 對하야 異母兄이 所譴 <cite no="XX">「有天命」</cite>하다고 하여 그 實頊을 圖謀한다면 鄭이 國君을 爲하야 「即當除之」하는 것이 忠烈의 士이라고 할지언정 謀逆라 할수는 萬無하니, 道傳의 此種壯言의 風說을 芳遠 兄弟가 個人的으로 不快不安하게 생각함은 當然하다 할지라도 이것을 潜謀不軌라고 할 수는 없을 것이다. 더군다나 이 文意를 有天命하다고 하야 如何間 即當除之하자는 뜻으로 보지않고, 그 所謂 天命을 實理시키려하면 (寶位를 窺하는 野心으로 蠢動하면) 即 當除之하리니 何患之有리오 하였다 하면 當然한 事實일뿐아니라 鄭道傳으로서는 그만한 責任과 意志가 있었으리라고 推測하여도 不當하지는 않을 것이다. 그러나 이 密吿는 그 內容의 眞僞틀 쳣제 斷定하기 어려우므로 重視할 問題는 되지 못할듯하다.  
|원문15번= {{TagSpage|13-2}}第二의 李茂, 閔無疾 一派의 密吿 內容은 太宗 九年에 李茂의 罪를 議할 時의 記錄 中에 있는 {{TagRef|11}}「上謂群臣曰, 李茂今繫獄中, 卿等豈能悉知其故, 予欲盡召臣僚而吿之, 勢未可也, 卿等明聽予言, 歲在戊寅, 父王疾篤彌留, 予與昆季, 侍疾于景福宮時, 予只聞李茂之名, 未之相親, 茂因無疾, 交納於我, 日吿予臼, 南誾鄭道傳伺上疾篤, 謀不利於正嫡, 公其預圖, 間五六日, 復來謂予曰, 冬外警徽颦冷聲普時哉不可失也, 予曰, 君請先徃會處, 稽留其計, 至日暮, 義安大君入闕內, 呼予者再, 時日己昏矣, 大君暨諸昆季, 待我至甚忙, 及至中官尹貴自內而出, 問靖安君來歟, 予應曰諾, 貴風召諸君入內, 興安君跌予靴曰, 速入, 予聞茂之言, 固自有疑, 及觀事變有異, 托以如厠遂走出, 諸昆季亦自內走至吿變, 遂與至道傳會處」<ref>太宗九年 十月 己亥朔, 太宗實錄 卷十八 二七-二八張.</ref>의 記錄을 보면, 初頭에 引用한 太祖 七年 八月 二十六日의 記事 中에 있는 「至是日晡時, 閔無疾詣 靖安君邸, 入與 夫人偶語良久……靖安君即還邸, 俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎坐密{{TagPage|14-1}}語良久」한 것이 李茂의 所吿와 同一한 內容이었던 것을 推測할수 있으며, 더욱 「李茂, 素有中立之計, 密以間等謀甞罟由竭安, 至是, 隨無疾來謁, 少頃先去, 茂, 無疾近姻也, 竹城君朴苞, 亦徃來其間, 暗伺彼之動靜」의 記錄을 恭照하여보면, 이 密吿의 內容은 前文에 引用한 바와 같이 李茂의 所自出로, 李茂와 朴苞가 居中探査하야 密吿한 것을 可知할 것이다. 그리고 그 內容은 鄭道傳, 南誾, 沈孝生, 張至和 等이 「托以省問 上疾, 日夜聚松靦闔妾家, 相與密謀,  令芳碩, 濟及親軍衛都鎭撫朴懿, 左副承旨盧石柱, 右副承旨卞仲良在內, 稱上病篤, 急召諸王子, 入內則以內奴及甲士攻之, 道傳間等外應, 約以己巳擧事」라고 볼 수밖에 없다.
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|원문15번= {{TagSpage|13-2}}第二의 李茂, 閔無疾 一派의 密吿 內容은 太宗 九年에 李茂의 罪를 議할 時의 記錄 中에 있는 {{TagRef|11}}<cite no="XX">「上謂群臣曰, 李茂今繫獄中, 卿等豈能悉知其故, 予欲盡召臣僚而吿之, 勢未可也, 卿等明聽予言, 歲在戊寅, 父王疾篤彌留, 予與昆季, 侍疾于景福宮時, 予只聞李茂之名, 未之相親, 茂因無疾, 交納於我, 日吿予臼, 南誾鄭道傳伺上疾篤, 謀不利於正嫡, 公其預圖, 間五六日, 復來謂予曰, 冬外警徽颦冷聲普時哉不可失也, 予曰, 君請先徃會處, 稽留其計, 至日暮, 義安大君入闕內, 呼予者再, 時日己昏矣, 大君暨諸昆季, 待我至甚忙, 及至中官尹貴自內而出, 問靖安君來歟, 予應曰諾, 貴風召諸君入內, 興安君跌予靴曰, 速入, 予聞茂之言, 固自有疑, 及觀事變有異, 托以如厠遂走出, 諸昆季亦自內走至吿變, 遂與至道傳會處」</cite><ref>太宗九年 十月 己亥朔, 太宗實錄 卷十八 二七-二八張.</ref>의 記錄을 보면, 初頭에 引用한 太祖 七年 八月 二十六日의 記事 中에 있는 <cite no="XX">「至是日晡時, 閔無疾詣 靖安君邸, 入與 夫人偶語良久……靖安君即還邸, 俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎坐密{{TagPage|14-1}}語良久」</cite>한 것이 李茂의 所吿와 同一한 內容이었던 것을 推測할수 있으며, 더욱 <cite no="XX">「李茂, 素有中立之計, 密以間等謀甞罟由竭安, 至是, 隨無疾來謁, 少頃先去, 茂, 無疾近姻也, 竹城君朴苞, 亦徃來其間, 暗伺彼之動靜」</cite>의 記錄을 恭照하여보면, 이 密吿의 內容은 前文에 引用한 바와 같이 李茂의 所自出로, 李茂와 朴苞가 居中探査하야 密吿한 것을 可知할 것이다. 그리고 그 內容은 鄭道傳, 南誾, 沈孝生, 張至和 等이 <cite no="XX">「托以省問 上疾, 日夜聚松靦闔妾家, 相與密謀,  令芳碩, 濟及親軍衛都鎭撫朴懿, 左副承旨盧石柱, 右副承旨卞仲良在內, 稱上病篤, 急召諸王子, 入內則以內奴及甲士攻之, 道傳間等外應, 約以己巳擧事」</cite>라고 볼 수밖에 없다.
|원문16번= {{TagSpage|14-2}}그러면 이 李茂의 密吿한 內容이 果然 如何한 程度의 眞實性을 가지고 있었나? 李茂의 第二次 密吿 時의 말이 「今夕道傳等欲擧事」라 하며 또 「約以己巳擧事」라 한 것을 보면, 靖安君의 쿠데타 斷行 當日이 所謂 道傳 擧事의 當夕이거늘, 道傳 一派의 行動과 當時의 事態가 이러한 準備와 用意를 推測할 수 있는 一點證左가 없으니, 이것을 如何히 解释하여야 可할까. 첫째, 夜二鼓에 宮內에서 諸王子를 召入한 即後의 時間이라면, 鄭南 一派에게 上記한 바와 같은 計劃이 있었다 하면 當然히 무슨 緊張한 態度와 準備가 있어야 할것이거늘, 靖安君이 南誾 妾家를 襲擊하였을 때 道傳, 誾 等은 會座言笑하고 平然히 있으며 門外에는 鞍馬 數匹과 奴僕皆睡하는 狀態가 可疑하다고 않을 수 없다. 더군다나 當時의 靖安君의 軍勢가 全部 合하야 「騎兵纔十, 步卒纔九人, 乃出 夫人所備鐵槍, 中折分與軍士, 諸君從者及各人奴僕十餘皆執杖, 獨小斤把劎」의 貧弱한 勢力으로 萬若 上記한 것 같은 用意가 道傳의 便에 있었다 하면, 當時 兵權의 大勢를 잡고 있는 鄭道傳과 南誾을 麟息間에 覆滅시키기는 새로이 도리어 蟠螂의 龍車에 向하는 比諭가 될 것이 아닌가. 이 點은 上記文 中에도 靖安君 一派외 危懼憶彻한 態度가 그 實相올 傳하는 것이{{TagPage|15-1}}니, 「靖安君謂叔蕃曰, 勢力則不可敵矣, 斬道傳閭等, 然後我四五兄弟, 駐馬于三軍府門前, 以觀國人之心, 人心不從則己, 翕然從之則我等得生」이라는 悲壯한 决心이 그 平時의 實力 差異를 보이는 것이다. 萬若 道傳, 簡等이 이 已巳日에 擧事할라 하였으면 더군다나 外應할라 하였다하면, 그 平時의 實力과 當夜의 너무도 無備한 것이 異常하지 안을가. 또한 便으로 宮內에서도 「諸王子, 入則以內奴甲士攻之」하리라 하나 그러한 準備와 形跡은 全然히 볼 수 없으며, 眞相은 그런 準備가 없드래도 그럴듯하게 臆測할 수나 牽强附會할 수만 있더라도 그렇다고 記載할 만한 當時의 情狀임에도 不拘하고 全然 想像만한 記錄도 없으니, 그 眞僞는 推想하기 어렵지 않다 할 것이다.  
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|원문16번= {{TagSpage|14-2}}그러면 이 李茂의 密吿한 內容이 果然 如何한 程度의 眞實性을 가지고 있었나? 李茂의 第二次 密吿 時의 말이 <cite no="XX">「今夕道傳等欲擧事」</cite>라 하며 또 <cite no="XX">「約以己巳擧事」</cite>라 한 것을 보면, 靖安君의 쿠데타 斷行 當日이 所謂 道傳 擧事의 當夕이거늘, 道傳 一派의 行動과 當時의 事態가 이러한 準備와 用意를 推測할 수 있는 一點證左가 없으니, 이것을 如何히 解释하여야 可할까. 첫째, 夜二鼓에 宮內에서 諸王子를 召入한 即後의 時間이라면, 鄭南 一派에게 上記한 바와 같은 計劃이 있었다 하면 當然히 무슨 緊張한 態度와 準備가 있어야 할것이거늘, 靖安君이 南誾 妾家를 襲擊하였을 때 道傳, 誾 等은 會座言笑하고 平然히 있으며 門外에는 鞍馬 數匹과 奴僕皆睡하는 狀態가 可疑하다고 않을 수 없다. 더군다나 當時의 靖安君의 軍勢가 全部 合하야 <cite no="XX">「騎兵纔十, 步卒纔九人, 乃出 夫人所備鐵槍, 中折分與軍士, 諸君從者及各人奴僕十餘皆執杖, 獨小斤把劎」</cite>의 貧弱한 勢力으로 萬若 上記한 것 같은 用意가 道傳의 便에 있었다 하면, 當時 兵權의 大勢를 잡고 있는 鄭道傳과 南誾을 麟息間에 覆滅시키기는 새로이 도리어 蟠螂의 龍車에 向하는 比諭가 될 것이 아닌가. 이 點은 上記文 中에도 靖安君 一派외 危懼憶彻한 態度가 그 實相올 傳하는 것이{{TagPage|15-1}}니, <cite no="XX">「靖安君謂叔蕃曰, 勢力則不可敵矣, 斬道傳閭等, 然後我四五兄弟, 駐馬于三軍府門前, 以觀國人之心, 人心不從則己, 翕然從之則我等得生」</cite>이라는 悲壯한 决心이 그 平時의 實力 差異를 보이는 것이다. 萬若 道傳, 簡等이 이 已巳日에 擧事할라 하였으면 더군다나 外應할라 하였다하면, 그 平時의 實力과 當夜의 너무도 無備한 것이 異常하지 안을가. 또한 便으로 宮內에서도 <cite no="XX">「諸王子, 入則以內奴甲士攻之」</cite>하리라 하나 그러한 準備와 形跡은 全然히 볼 수 없으며, 眞相은 그런 準備가 없드래도 그럴듯하게 臆測할 수나 牽强附會할 수만 있더라도 그렇다고 記載할 만한 當時의 情狀임에도 不拘하고 全然 想像만한 記錄도 없으니, 그 眞僞는 推想하기 어렵지 않다 할 것이다.  
|원문17번= {{TagSpage|15-2}}또 正嫡을 謀害할 陰謀가 具體化되었고, 더욱 己巳日 當夕에 臨迫하였다고 해서는 趙浚과 金士衡 等의 左右兩相이 全然 이러한 形勢도 想像할 수도 없다는 듯 하는 態度가 異常하니, 「浚士衡等下馬, 趨而過橋, 靖安君曰, 卿等何不憂李氏社稷, 浚士衡等, 驚懼跪于馬前, 君曰, 道傳間等貪立幼孽, 欲勢除我同母兄弟, 我是以爲弱者先手也, 浚等叩頭曰, 彼之所爲吾等未甞知也」라는 記錄이 그것이며, 또 靖安君이 趙浚을 招請함에 對하야 靖安의 焦燥한 마음에도 不拘하고 趙浚이 오랫동안 去就틀 猶豫 不決한 것도 浚이 道傳, 誾 等의 陰謀說을 信用하지 못한 때문이 아니었던가 한다. 當時의 趙浚과 道傳 南誾과의 사이에는 昔日과 다른 間隙이있었으므로 (이것은 이 밀에 詳述) 萬若 조금이라도 可疑할 點이 있었더라면 趙浚이 이다지 猶豫하지도 않을 것이며, 卜者에게 筮하거나 右相 金士術에게 相議하거나 할 必要도 없을 것이 아닌가 생각된다. 이러한 大事가 (宗子들을 剪除하려는) 靖安君 一派 些細히는 李茂 以外에는 아무도 豫察한 形跡이 全無한것이 可疑하니 趙浚, 金士衡은 勿論하고 所謂 宮內에서 예로를 斷行할 李濟와 卞仲良 等의 態度도 此文 初頭에 引用한 바로서 보아서는 이러한 大事를 决行할 用意는 勿論,{{TagPage|16-1}}그러한 緊迫한 狀態를 豫測하지도 못한 듯 한 것이 異常하다.   
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|원문17번= {{TagSpage|15-2}}또 正嫡을 謀害할 陰謀가 具體化되었고, 더욱 己巳日 當夕에 臨迫하였다고 해서는 趙浚과 金士衡 等의 左右兩相이 全然 이러한 形勢도 想像할 수도 없다는 듯 하는 態度가 異常하니, <cite no="XX">「浚士衡等下馬, 趨而過橋, 靖安君曰, 卿等何不憂李氏社稷, 浚士衡等, 驚懼跪于馬前, 君曰, 道傳間等貪立幼孽, 欲勢除我同母兄弟, 我是以爲弱者先手也, 浚等叩頭曰, 彼之所爲吾等未甞知也」</cite>라는 記錄이 그것이며, 또 靖安君이 趙浚을 招請함에 對하야 靖安의 焦燥한 마음에도 不拘하고 趙浚이 오랫동안 去就틀 猶豫 不決한 것도 浚이 道傳, 誾 等의 陰謀說을 信用하지 못한 때문이 아니었던가 한다. 當時의 趙浚과 道傳 南誾과의 사이에는 昔日과 다른 間隙이있었으므로 (이것은 이 밀에 詳述) 萬若 조금이라도 可疑할 點이 있었더라면 趙浚이 이다지 猶豫하지도 않을 것이며, 卜者에게 筮하거나 右相 金士術에게 相議하거나 할 必要도 없을 것이 아닌가 생각된다. 이러한 大事가 (宗子들을 剪除하려는) 靖安君 一派 些細히는 李茂 以外에는 아무도 豫察한 形跡이 全無한것이 可疑하니 趙浚, 金士衡은 勿論하고 所謂 宮內에서 예로를 斷行할 李濟와 卞仲良 等의 態度도 此文 初頭에 引用한 바로서 보아서는 이러한 大事를 决行할 用意는 勿論,{{TagPage|16-1}}그러한 緊迫한 狀態를 豫測하지도 못한 듯 한 것이 異常하다.   
|원문18번= {{TagSpage|16-2}}또 한 가지 더 實例를 들어 所謂 此種 謀逆의 實體可疑함을 證明하여 보자. 初頭 引交 中 南誾의 項에 「南誾, 逃出城水門, 隱於城外圃幕, 法景等左右扶持, 暫不離焉, 閭欲詣巡軍, 法等止之, 誾曰, 道傳爲人所憎故見誅, 我無憎之者, 自詣巡軍門外, 見斬」이라는 記事가 있으니, 이것이 王子들을 劾除하려고 陰謀한 자의 態度이며 陰謀 實行 當夜에 襲擊을 받은 자의 言行일가. 이 記事를 平心으로 解釋하면 南誾은 靖安君의 突然한 襲擊이 何故인지 全然 無知하며 그것은 다못 平時 私怨을 가진 자가 道傳을 襲擊함에 不過하다고 깊이 믿었던 것을 表示하는 것이 아닌가. 平素로 道傳과 上記한 바와 같은 陰謀가 있었다 하면 더욱 그것이 擧事 當日이라 하면 이러한 平然한 一言行을 取一할 수 없을 것이 아닌가. 그 無罪함을 自信하고 自進하야 巡軍門 外에 간 行動만을 보더라도 萬事가 轄然自明하다고 할 것이다. 死者無口하니 이 外에 斬殺올 當한 人物들을 一一히 探査할 수 없으나 이 南誾의 泰然한 最後의 行動이 後日의 所謂 戊寅之變의 原因이라고 千言萬記하는 것 보단 確然한 眞相을 우리의 腦中에 銘刻하는 것 같다. (南誾의 態度로 이 變亂의 性質을 檢査證明할 方策은 이 外에도 許多하나 省畧한다).  
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|원문18번= {{TagSpage|16-2}}또 한 가지 더 實例를 들어 所謂 此種 謀逆의 實體可疑함을 證明하여 보자. 初頭 引交 中 南誾의 項에 <cite no="XX">「南誾, 逃出城水門, 隱於城外圃幕, 法景等左右扶持, 暫不離焉, 閭欲詣巡軍, 法等止之, 誾曰, 道傳爲人所憎故見誅, 我無憎之者, 自詣巡軍門外, 見斬」</cite>이라는 記事가 있으니, 이것이 王子들을 劾除하려고 陰謀한 자의 態度이며 陰謀 實行 當夜에 襲擊을 받은 자의 言行일가. 이 記事를 平心으로 解釋하면 南誾은 靖安君의 突然한 襲擊이 何故인지 全然 無知하며 그것은 다못 平時 私怨을 가진 자가 道傳을 襲擊함에 不過하다고 깊이 믿었던 것을 表示하는 것이 아닌가. 平素로 道傳과 上記한 바와 같은 陰謀가 있었다 하면 더욱 그것이 擧事 當日이라 하면 이러한 平然한 一言行을 取一할 수 없을 것이 아닌가. 그 無罪함을 自信하고 自進하야 巡軍門 外에 간 行動만을 보더라도 萬事가 轄然自明하다고 할 것이다. 死者無口하니 이 外에 斬殺올 當한 人物들을 一一히 探査할 수 없으나 이 南誾의 泰然한 最後의 行動이 後日의 所謂 戊寅之變의 原因이라고 千言萬記하는 것 보단 確然한 眞相을 우리의 腦中에 銘刻하는 것 같다. (南誾의 態度로 이 變亂의 性質을 檢査證明할 方策은 이 外에도 許多하나 省畧한다).  
|원문19번= {{TagSpage|16-3}}이 때의 所謂 陰圖不軌라는 密吿에 對한 眞相은 後日에 이르러 太宗 九年十月에 王이 {{TagRef|12}}「予聞度之言, 固身有疑」라 하고 <ref>仝上 二八張.</ref> 대단히 冷靜한 態度와 理性의 判斷있는 形迹을 보이는 點이 있다. 勿論 「及觀事變有異」라고 當時의 自已 行動을 是認하려는 努力은 變함이 없으나, 最初(太祖 七年 八月 二十六日)에 閔無疾의 密吿를 됼은 直後의 興奮한 態度 即 「靖安君即還邸, 俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎立密讀良久, 夫人執君衣, 請勿謂闕君曰, 豈可畏死不詣……若有變則我當出來擧八, 以觀國人之心也, 乃佛衣而出」한 狀態와는 判異함이 있다. 이것을 十{{TagPage|17-1}}年이란 時間이 經過한 때문에 當時의 興奮이 沈消하였다고 보는 것이 當然하나, 또 한層 더 깊이 一時의 興奮이 消沈하고 보니, 그 李茂의 密吿라는 것이 아무 實相 없었던 것과 따라서이 密吿만으로 輕輕히 大事를 擧行하였다고 보이기틀 未安히 생각한 一種 發明에 가까운 心境을 抱持하고 있던 것을 推想할 수 있다고 하지 못할까?
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|원문19번= {{TagSpage|16-3}}이 때의 所謂 陰圖不軌라는 密吿에 對한 眞相은 後日에 이르러 太宗 九年十月에 王이 {{TagRef|12}}<cite no="XX">「予聞度之言, 固身有疑」</cite>라 하고 <ref>仝上 二八張.</ref> 대단히 冷靜한 態度와 理性의 判斷있는 形迹을 보이는 點이 있다. 勿論 「及觀事變有異」라고 當時의 自已 行動을 是認하려는 努力은 變함이 없으나, 最初(太祖 七年 八月 二十六日)에 閔無疾의 密吿를 됼은 直後의 興奮한 態度 即 <cite no="XX">「靖安君即還邸, 俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎立密讀良久, 夫人執君衣, 請勿謂闕君曰, 豈可畏死不詣……若有變則我當出來擧八, 以觀國人之心也, 乃佛衣而出」</cite>한 狀態와는 判異함이 있다. 이것을 十{{TagPage|17-1}}年이란 時間이 經過한 때문에 當時의 興奮이 沈消하였다고 보는 것이 當然하나, 또 한層 더 깊이 一時의 興奮이 消沈하고 보니, 그 李茂의 密吿라는 것이 아무 實相 없었던 것과 따라서이 密吿만으로 輕輕히 大事를 擧行하였다고 보이기틀 未安히 생각한 一種 發明에 가까운 心境을 抱持하고 있던 것을 推想할 수 있다고 하지 못할까?
|원문20번= {{TagSpage|19-2}} 이것은 所謂 「事變有異」라는 것이 아무 實體를 明確히 할 수 없는 그 記錄 狀態로 보아서도 推測할 수 있다. 그것은 「至初夜, 有人, 自內出曰, 上病劇, 欲避病, 諸王子速入內, 從者命勿許入」이라는 것이 最大 嫌疑며, 이 直前에 「芳蕃將入內, 靖安君呼之, 芳蕃搔首遂巡, 不應而入」이란 事實이 더욱 靖安의 疑心을 돋우고, 王子入內를 請하였을 때 宮內 無燈한 것을 보고 靖安의 疑心에는 暗鬼가 생겨서 李茂 閔無疾의 密吿에 있는 「入內則以內奴甲士攻之」라는 례로의 實現을 믿은 것이다. 勿論 靖安도 이것만으로서는 아무리 하여도 너무 自信하기 漠然하였던지 腹痛이라 하야 入厠坐思良久한 것이 當時의 興奮과 襲惻과 理性의 相刻을 이기지 못하야 混亂한 頭腦로 焦燥하던 情相을 볼 수 있다. 이때 入內하였던 益安과 懷安이 走出呼嘲安君者再함을 만나 憶慟의 情에 激動을 받아 瞬間에 大決意를 맺고 頹欄을 旣倒에 돌리려는 乾坤一擲의 反抗을 決意한 것이다. 所謂 弱者先手라는 決斷이 여기서 비로소 생긴 것이라고 볼 것이다. 益安 懷安의 走出呼靖安하였다는 것을 重大意味 있는 듯이 보는 이가 있을지 모르나, 이것은 諸王子 入內 中에 靖站만 入內하지 않음이 良久함에 疑心하야 불러나온 것이라 解釋하야 아무 無理가 없으며, 더 군다나 諸王子가 入內의 命을 받아 西廊에서 下庭하였을 때 「靖安君與益安, 懷安, 上黨諸君, 暫立戶內, 密語舊制, 宮中諸門夜必張燈」이라 하고 이날에 마침 「見宮門無燈, 益疑之」한 事實을恭照하면, 益安, 懷安에게도 此夕의 靖後君의 異常한 態度와 密語가 心中에 무슨 暗影을 던졌을 것이 當然히 推測되며. 그 當者 靖安이 密語하고 疑之{{TagPage|18-1}}한 直後에 良久히 入內하지 않는 態度가, 兩人에게 一極의 恐怖와 危懼의 情을 일으킬 것이 當然하다. 走出呼靖安 하는 것을 特히 宮內에 異常한 準備있는 것을 目擊한 結果라고만 할 必要가 없으며, 더욱 益安 懷安이 平時로 부터 同母兄弟로, 繼妃 康氏를 專寵하는 太祖아래에 있어 家庭 內部의 苦勞와 不平이 共通하였으리라고 推想되는 狀態로 보면, 靖安의 平時 態度 (方碩 芳蕃의 寵位에 對한 不平) 가 即 同母兄 益安懷安에게도 同一한 心事라 볼 것이며, 또 靖安의 接受한 密吿가 그 全部는 아니라도 그 傾向과 風聞만이라도 兩人에게까지 傳導될 可能이 있었다면, 靖安君이 上述한 바와 갈이 興奮하였던 當夕의 益安 懷安 兩人의 走出呼名을 過大히 重大히 생각하고 意味를 附會할 必要가 全無할 것이다. 무엇보다도 萬若 宮內에 靖安 等이 想像한 바 같은 례로의 準備가 있었다 하면, 靖安 一派에 有利할 資料면 차라리 針小棒大라고 하여도 可할만한 記述의 態度인 殘存 文籍에, 一點 具體的 實例는 勿論 이어니와 讀者로 推測이라도 시킬만한 것이 없으니, 그 陰謀計劃의 實在를 疑心하지 않을 수없다. 이런것을, 太宗 九年 十月에 이르러서는 這間의 消息을, 王은 「予聞茂之言, 固自有疑, 及觀事變有異, 托以如厠, 遂走出, 諸昆季, 亦自內走至吿變」이라고 하야, 「吿變」이란 文字를 泛然히 使用하게 되며, 또 이 文字에 依하여 무슨 陰謀의 實相이 宮內에 있었던 것을 推測시키려 한다. 이것을 다못 揑造라 하야 一笑에 付하기 보다는 文字의 援用이 空中에 虚事를 搆成하여가는 一例를 볼 수 있다고 銘心할것이다. 이 記事 中에는 「托以如厠, 遂走出」이라 하야, 前에 「入厠坐思」한 것과 相對된 點이 있으나, 이것은 前記가 正確할 것만 付記하고, 그 理由는 省畧에 從한다.  
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|원문20번= {{TagSpage|19-2}} 이것은 所謂 「事變有異」라는 것이 아무 實體를 明確히 할 수 없는 그 記錄 狀態로 보아서도 推測할 수 있다. 그것은 「至初夜, 有人, 自內出曰, 上病劇, 欲避病, 諸王子速入內, 從者命勿許入」이라는 것이 最大 嫌疑며, 이 直前에 「芳蕃將入內, 靖安君呼之, 芳蕃搔首遂巡, 不應而入」이란 事實이 더욱 靖安의 疑心을 돋우고, 王子入內를 請하였을 때 宮內 無燈한 것을 보고 靖安의 疑心에는 暗鬼가 생겨서 李茂 閔無疾의 密吿에 있는 「入內則以內奴甲士攻之」라는 례로의 實現을 믿은 것이다. 勿論 靖安도 이것만으로서는 아무리 하여도 너무 自信하기 漠然하였던지 腹痛이라 하야 入厠坐思良久한 것이 當時의 興奮과 襲惻과 理性의 相刻을 이기지 못하야 混亂한 頭腦로 焦燥하던 情相을 볼 수 있다. 이때 入內하였던 益安과 懷安이 走出呼嘲安君者再함을 만나 憶慟의 情에 激動을 받아 瞬間에 大決意를 맺고 頹欄을 旣倒에 돌리려는 乾坤一擲의 反抗을 決意한 것이다. 所謂 弱者先手라는 決斷이 여기서 비로소 생긴 것이라고 볼 것이다. 益安 懷安의 走出呼靖安하였다는 것을 重大意味 있는 듯이 보는 이가 있을지 모르나, 이것은 諸王子 入內 中에 靖站만 入內하지 않음이 良久함에 疑心하야 불러나온 것이라 解釋하야 아무 無理가 없으며, 더 군다나 諸王子가 入內의 命을 받아 西廊에서 下庭하였을 때 <cite no="XX">「靖安君與益安, 懷安, 上黨諸君, 暫立戶內, 密語舊制, 宮中諸門夜必張燈」</cite>이라 하고 이날에 마침 <cite no="XX">「見宮門無燈, 益疑之」</cite>한 事實을恭照하면, 益安, 懷安에게도 此夕의 靖後君의 異常한 態度와 密語가 心中에 무슨 暗影을 던졌을 것이 當然히 推測되며. 그 當者 靖安이 密語하고 疑之{{TagPage|18-1}}한 直後에 良久히 入內하지 않는 態度가, 兩人에게 一極의 恐怖와 危懼의 情을 일으킬 것이 當然하다. 走出呼靖安 하는 것을 特히 宮內에 異常한 準備있는 것을 目擊한 結果라고만 할 必要가 없으며, 더욱 益安 懷安이 平時로 부터 同母兄弟로, 繼妃 康氏를 專寵하는 太祖아래에 있어 家庭 內部의 苦勞와 不平이 共通하였으리라고 推想되는 狀態로 보면, 靖安의 平時 態度 (方碩 芳蕃의 寵位에 對한 不平) 가 即 同母兄 益安懷安에게도 同一한 心事라 볼 것이며, 또 靖安의 接受한 密吿가 그 全部는 아니라도 그 傾向과 風聞만이라도 兩人에게까지 傳導될 可能이 있었다면, 靖安君이 上述한 바와 갈이 興奮하였던 當夕의 益安 懷安 兩人의 走出呼名을 過大히 重大히 생각하고 意味를 附會할 必要가 全無할 것이다. 무엇보다도 萬若 宮內에 靖安 等이 想像한 바 같은 례로의 準備가 있었다 하면, 靖安 一派에 有利할 資料면 차라리 針小棒大라고 하여도 可할만한 記述의 態度인 殘存 文籍에, 一點 具體的 實例는 勿論 이어니와 讀者로 推測이라도 시킬만한 것이 없으니, 그 陰謀計劃의 實在를 疑心하지 않을 수없다. 이런것을, 太宗 九年 十月에 이르러서는 這間의 消息을, 王은 <cite no="XX">「予聞茂之言, 固自有疑, 及觀事變有異, 托以如厠, 遂走出, 諸昆季, 亦自內走至吿變」</cite>이라고 하야, 「吿變」이란 文字를 泛然히 使用하게 되며, 또 이 文字에 依하여 무슨 陰謀의 實相이 宮內에 있었던 것을 推測시키려 한다. 이것을 다못 揑造라 하야 一笑에 付하기 보다는 文字의 援用이 空中에 虚事를 搆成하여가는 一例를 볼 수 있다고 銘心할것이다. 이 記事 中에는 「托以如厠, 遂走出」이라 하야, 前에 <cite no="XX">「入厠坐思」</cite>한 것과 相對된 點이 있으나, 이것은 前記가 正確할 것만 付記하고, 그 理由는 省畧에 從한다.  
|원문21번= {{TagSpage|18-2}}以上의 論述에 依하야, 筆者는 南誾等이 「謀害王子」하려하였다는 具體的 證左를 發見하지 못하며,더욱{{TagPage|19-1}}「己巳夕擧事」 云云의 李茂 閔無疾等의 密吿가 實體없는 寃罪이었던 것 을 믿는다. 그러면 다음에 第三의 李愛(李居易 子)의 密吿란 것은 如何한 것인가.  
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|원문21번= {{TagSpage|18-2}}以上의 論述에 依하야, 筆者는 南誾等이 「謀害王子」하려하였다는 具體的 證左를 發見하지 못하며,더욱{{TagPage|19-1}}<cite no="XX">「己巳夕擧事」</cite> 云云의 李茂 閔無疾等의 密吿가 實體없는 寃罪이었던 것을 믿는다. 그러면 다음에 第三의 李愛(李居易 子)의 密吿란 것은 如何한 것인가.  
|원문22번= {{TagSpage|19-2}}太宗 十一年 十一月의 記錄 中에 {{TagRef|13}}「己巳, 賜敎書于上黨君李愛……歲在戊寅, 南誾等將逐我母兄弟於海島, 愛以間之戚屬故, 知其謀, 潜語予曰, 禍將發矣, 兄將若何, 予吿之以先發之, 故自是歸心于我, 共定大計」<ref>太宗 十一年 十一月 己巳, 太宗實錄 卷二十二 三十八張.</ref>라는 것이 그 內容이니, 愛의 密吿한 바는 靖安君의 同母兄弟를 海島에 逐하려 한다는 陰謀요, 剪除라든지 謀害라던지 甚至於 己巳 夕에 內奴 甲士로써 攻之한다는 等의 急激手段은 아니었다. 이 愛의 密吿가 李茂의 密吿한 것과 다른 別箇의 陰謀인지 同一 陰謀의 內容 相違인지는 未確하나, 事理를 推測하건대 鄭南이 靖安君 同母兄弟틀 排斥하려고, 成은 流逐 或은 剪除를 計劃하였다 하기보단, 鄭南의 陰謀에 對한 風說 或은 그 內容에 對한 外間의 臆測과 解釋이 이 같이 數種에 나누어 있었다고 볼 것이다. 이런 觀點에서 보면, 이 李藻의 密吿 內容은 그 可能性이 前記李 茂等의 觀測보다는 多大할뿐 아니라, 形便에 따라서는 이만한 非常手段을 道傳과 南誾이 計劃할 可能性이 있으리라고도, 볼 수 있을지 모르겠다. 그것은 太祖가 繼妃康氏를 專寵하고 그 所出인 芳碩을 世子를 刑立하고, 康氏의 所產인 芳碩 芳蕃을 寵愛優待하는대 對한, 靖安君을 先頭로 한 益安 懷安 (永安君의 暫時 不問) 等 韓氏 所生의 異腹兄들의 家庭的 不平과, 鄭道傳 南誾 兩人의 太祖에 對한 誠忠이, 世子로 策立된 芳碩을 保護함에 傾倒하야, 世子를 嫉視하고 그 地位를 危殆하게하는, 運動과 存在에 對하여는, 그를 除排하기에 手段을 不惜할만한 態度를 推測할 수 있으며, 이 兩方의 利害가 相衝 突擊함도 不可避할 事態이라 할지 모르는 때문이다, 그러나 李 慶가 靖安君의 同母妹 慶愼翁主를 娶한 人物인 點으로 보아 그의 利害關係가 어느 便에 重할지 可知하겠으며,{{TagPage|20}}따라서 그 情報의 確實性에는 多少間 疑問이 있을것을 推測할수있다. 이렇게 이 李囊의密吿程度의實相에도 可 擁하 点이 있다면, 李茂의 密吿한것 갈은急激한 直接行動, 따라서 多大한準備를 必要로할 手段이 있었다고믿 雀수는 없으며, 또 當時의各方의 事態로 보아도 道傳(芳碩)派로서는 그다지 緊張할 必要가없었다는것이 眞相 일듯하다. 그是안이라 當時의事態星 推想하드래도 芳遠 一 派에 世子, 芳碩)에게對한 具體的 反抗運動이 없는 以上 이러한 非常手段을 取할 必要가없욜것이니, 問題는 現實로 權力의 中心을 잡고 있는 道傳(及世子)- 涙가 아 니요, 常時로 不平과憶刼에 焦燥햐는芳遠 - 派의 態度에 있었다 하겟다. 그러나 只今 現實의 事態를 眼中에두지 않고,  兩派의 根本的 利害關係是 考察하면,  靖安君 芳遠은 太祖의八子中에도 가장 氣力과 見識이豊富한 政治 家로, 太祖의「化家爲國」運戲에도 不少한 盡瘁是 하였다 하며, 道傳은 麗末國初에 있어가장 情熱과 實行力이 많 은 政治家이었을뿐 아니라, 太祖 即位後에는 太祖의 信任과 實力이 政界의最大存在였고, 또 이우에 當時에는 軍事의 主權을 掌握하笠엇다. 南聞도 亦 太祖 卽位에 第 一 位라고稱할만한 大功을 세웟을뿐 아니라,  當代의 軍 事의 大勢를 잡고, 그政見이 道傳과 肝膽相照한 사이었엇다. 沈孝生은 其女를 世子 芳碩의妃로 冊하였으니,  끄個人的 關係로 보아도 道傳과 合할 理由가있을것이다. 이러한 兩個의 勢力이 正面으로 衝突하엿다면,  當時의實力 程度로 보아 勿論 世子 芳碩派, 卽 道傳 南聞派가 領袖 一 觸외勝利률 可保할것이며,  萬若 太祖歿後의 芳 碩 繼位에 靖安等이 不服抗拒한다면, 流逐은 勿論 極刑이라도 避하지못하였을지모르겠다. 그러므로, 太祖의 病篤 한 當時에그 歿後의 地位에 不安한 靖安君立의 耳朶에는, 各種의 流說과 風聞이 들어왔을 것이며, 道傳 間等을中心으로 한 芳碩派(現狀維持派)의 威振天下하는 實力에 比하야너무도 貧弱한 靖安派의 勢力이 더욱더욱 削減{{TagPage|21-1}}하여가는 情勢가, 心中에 焦燥와 憶惑을 도아서, 實相없는 確實하지 않은 密吿틀 잡고, 決死의 勇氣로 影子와 間爭한 것이 아닌가. 그러므로, 이 靖安의 戊寅 擧事는 참으로 危機一髮이라고 할 것이오, 萬若 敵方에 少許의 準備가 있어도 決코 成功하지 못할 冒險일뿐 아니라, 萬若 一敗地에 떨어젔던들, 이 空然한 白紙의 擧事가 萬世의 嘲笑를 받였을 것이다. 그러나「勝爲官軍敗爲敵」이라는 日諺과 같이, 道傳間을 斬誅만하면 三軍府 門前에가서 次心의 所歸에 自己의 成敗를 一任하겠다는 靖安의 悲壯한 決意에서 나온 天運의 勝利가 歷史를 異常하게도 變革서킨 것어, 우리의 感懷를 크게도 일으킨다. 三峯의 謀叛說이 四百餘年의 定說이나, 이제 그 眞相을 訂正할 必要가 있지 않을가.  
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|원문22번= {{TagSpage|19-2}}太宗 十一年 十一月의 記錄 中에 {{TagRef|13}}<cite no="XX">「己巳, 賜敎書于上黨君李愛……歲在戊寅, 南誾等將逐我母兄弟於海島, 愛以間之戚屬故, 知其謀, 潜語予曰, 禍將發矣, 兄將若何, 予吿之以先發之, 故自是歸心于我, 共定大計」</cite> <ref>太宗 十一年 十一月 己巳, 太宗實錄 卷二十二 三十八張.</ref>라는 것이 그 內容이니, 愛의 密吿한 바는 靖安君의 同母兄弟를 海島에 逐하려 한다는 陰謀요, 剪除라든지 謀害라던지 甚至於 己巳 夕에 內奴 甲士로써 攻之한다는 等의 急激手段은 아니었다. 이 愛의 密吿가 李茂의 密吿한 것과 다른 別箇의 陰謀인지 同一 陰謀의 內容 相違인지는 未確하나, 事理를 推測하건대 鄭南이 靖安君 同母兄弟틀 排斥하려고, 成은 流逐 或은 剪除를 計劃하였다 하기보단, 鄭南의 陰謀에 對한 風說 或은 그 內容에 對한 外間의 臆測과 解釋이 이 같이 數種에 나누어 있었다고 볼 것이다. 이런 觀點에서 보면, 이 李藻의 密吿 內容은 그 可能性이 前記李 茂等의 觀測보다는 多大할뿐 아니라, 形便에 따라서는 이만한 非常手段을 道傳과 南誾이 計劃할 可能性이 있으리라고도, 볼 수 있을지 모르겠다. 그것은 太祖가 繼妃康氏를 專寵하고 그 所出인 芳碩을 世子를 刑立하고, 康氏의 所產인 芳碩 芳蕃을 寵愛優待하는대 對한, 靖安君을 先頭로 한 益安 懷安 (永安君의 暫時 不問) 等 韓氏 所生의 異腹兄들의 家庭的 不平과, 鄭道傳 南誾 兩人의 太祖에 對한 誠忠이, 世子로 策立된 芳碩을 保護함에 傾倒하야, 世子를 嫉視하고 그 地位를 危殆하게하는, 運動과 存在에 對하여는, 그를 除排하기에 手段을 不惜할만한 態度를 推測할 수 있으며, 이 兩方의 利害가 相衝 突擊함도 不可避할 事態이라 할지 모르는 때문이다, 그러나 李 慶가 靖安君의 同母妹 慶愼翁主를 娶한 人物인 點으로 보아 그의 利害關係가 어느 便에 重할지 可知하겠으며,{{TagPage|20}}따라서 그 情報의 確實性에는 多少間 疑問이 있을것을 推測할수있다. 이렇게 이 李囊의密吿程度의實相에도 可 擁하 点이 있다면, 李茂의 密吿한것 갈은急激한 直接行動, 따라서 多大한準備를 必要로할 手段이 있었다고믿 雀수는 없으며, 또 當時의各方의 事態로 보아도 道傳(芳碩)派로서는 그다지 緊張할 必要가없었다는것이 眞相 일듯하다. 그是안이라 當時의事態星 推想하드래도 芳遠 一 派에 世子, 芳碩)에게對한 具體的 反抗運動이 없는 以上 이러한 非常手段을 取할 必要가없욜것이니, 問題는 現實로 權力의 中心을 잡고 있는 道傳(及世子)- 涙가 아 니요, 常時로 不平과憶刼에 焦燥햐는芳遠 - 派의 態度에 있었다 하겟다. 그러나 只今 現實의 事態를 眼中에두지 않고,  兩派의 根本的 利害關係是 考察하면,  靖安君 芳遠은 太祖의八子中에도 가장 氣力과 見識이豊富한 政治 家로, 太祖의「化家爲國」運戲에도 不少한 盡瘁是 하였다 하며, 道傳은 麗末國初에 있어가장 情熱과 實行力이 많 은 政治家이었을뿐 아니라, 太祖 即位後에는 太祖의 信任과 實力이 政界의最大存在였고, 또 이우에 當時에는 軍事의 主權을 掌握하笠엇다. 南聞도 亦 太祖 卽位에 第 一 位라고稱할만한 大功을 세웟을뿐 아니라,  當代의 軍 事의 大勢를 잡고, 그政見이 道傳과 肝膽相照한 사이었엇다. 沈孝生은 其女를 世子 芳碩의妃로 冊하였으니,  끄個人的 關係로 보아도 道傳과 合할 理由가있을것이다. 이러한 兩個의 勢力이 正面으로 衝突하엿다면,  當時의實力 程度로 보아 勿論 世子 芳碩派, 卽 道傳 南聞派가 領袖 一 觸외勝利률 可保할것이며,  萬若 太祖歿後의 芳 碩 繼位에 靖安等이 不服抗拒한다면, 流逐은 勿論 極刑이라도 避하지못하였을지모르겠다. 그러므로, 太祖의 病篤 한 當時에그 歿後의 地位에 不安한 靖安君立의 耳朶에는, 各種의 流說과 風聞이 들어왔을 것이며, 道傳 間等을中心으로 한 芳碩派(現狀維持派)의 威振天下하는 實力에 比하야너무도 貧弱한 靖安派의 勢力이 더욱더욱 削減{{TagPage|21-1}}하여가는 情勢가, 心中에 焦燥와 憶惑을 도아서, 實相없는 確實하지 않은 密吿틀 잡고, 決死의 勇氣로 影子와 間爭한 것이 아닌가. 그러므로, 이 靖安의 戊寅 擧事는 참으로 危機一髮이라고 할 것이오, 萬若 敵方에 少許의 準備가 있어도 決코 成功하지 못할 冒險일뿐 아니라, 萬若 一敗地에 떨어젔던들, 이 空然한 白紙의 擧事가 萬世의 嘲笑를 받였을 것이다. 그러나<cite no="XX">「勝爲官軍敗爲敵」</cite>이라는 日諺과 같이, 道傳間을 斬誅만하면 三軍府 門前에가서 次心의 所歸에 自己의 成敗를 一任하겠다는 靖安의 悲壯한 決意에서 나온 天運의 勝利가 歷史를 異常하게도 變革서킨 것어, 우리의 感懷를 크게도 일으킨다. 三峯의 謀叛說이 四百餘年의 定說이나, 이제 그 眞相을 訂正할 必要가 있지 않을가.  
 
|원문23번= {{TagSpage|21-2}}以上의 畧論으로써 戊寅之變의 眞相을 一面으로 檢討하였으나, 그만으로 두어서는 너도무 皮相的 觀察만에 그칠 念應가 있기에, 다음에 鄭道傳 一派와 靖安君 芳遠과의 衝突한 根本的 利害에 對하야, 좀더 追求하여둘 必要가 있다. 곧 말하면.{{TagRef|14}} 前段 末句에 畧說한 王室 內部의 家庭的 不滿이 勿論 大部分의 根本 原因이나,<ref>本誌 第一卷 「庶孽差待의 淵源에 關한 一問題」 參照</ref> 이것을 또다른 半面으로 좀더 直接的 具體的인 利害關係로 보아서 兩者가 如何히 相容하지 못하게 되었느냐 하는 것을 一考할 必 要가 있다.  
 
|원문23번= {{TagSpage|21-2}}以上의 畧論으로써 戊寅之變의 眞相을 一面으로 檢討하였으나, 그만으로 두어서는 너도무 皮相的 觀察만에 그칠 念應가 있기에, 다음에 鄭道傳 一派와 靖安君 芳遠과의 衝突한 根本的 利害에 對하야, 좀더 追求하여둘 必要가 있다. 곧 말하면.{{TagRef|14}} 前段 末句에 畧說한 王室 內部의 家庭的 不滿이 勿論 大部分의 根本 原因이나,<ref>本誌 第一卷 「庶孽差待의 淵源에 關한 一問題」 參照</ref> 이것을 또다른 半面으로 좀더 直接的 具體的인 利害關係로 보아서 兩者가 如何히 相容하지 못하게 되었느냐 하는 것을 一考할 必 要가 있다.  
|원문24번= {{TagSpage|21-3}}이 問題를 생각할 때, 우리의 心中에 第一 먼저 일어나는 疑問은, 本文 初頭에 引用한 實錄 中의 「道傳, 又嗾卞仲良上疏, 請罷諸王子兵權, 至再一一」이라는 文句와, 太宗 三年에 王의 懷舊의 말 가운데 {{TagRef|15}} 「父王卽位之初, 以勇兵皆委於我」<ref>太宗 三年 六月 辛亥, 太宗實錄 卷五 二十五丁.</ref>라는 것을 比較하야, 靖安이 道傳에게 兵權의 削奪을 怨함이 있지 않았는지, 적어도 이 點이 兩者不容{{TagPage|22-1}}한 一理由가 되지 않았던가 하는 것이다. 그러나 이것은, 設令 그런 事實이 있다 하드라도, 李朝의 新國家가 成立된 以上, 諸般의 政治와 制度가 中央集權的 形態를 띄여가는 것이 當然한 現像이므로, 特히 道傳의 個人的 野心을 云云할 수는 勿論없을 뿐 아니라, 이 運動을 大觀하여보면, 芳碩과 芳遠間의 些少한 關係는 勿論, 細細한 政治的勢力 問題와는 關係없이,  別로히 獨立한 問題로 이 後에도 繼續되어간 것이요, 그것이 國家(王室)를 中心으로 利害를 顧慮할 問題인 즉, 道傳(卽 芳碩派)이 王室의 中心 利害를 代表할 때 그가 運動의 中軸이며, {{TagRef|16}}道傳 敗歿 後에 芳遠이 政權의 中心일 때 그가 亦 그 運動의 主動者 됨이 當然하다. <ref>이것은 定宗 太宗 時의 私兵改罷 運動을 보면 自明한 事實이다, 이 問題는 이곳에 詳述키 너무도 큰 問題나 조곰 說明할 機會가 있을듯하다.</ref> 그러므로 芳遠이 在野 時(?)에 道傳의 勢力集中的 政治施設에 不滿을 가젔다 하여도, 아무 異常한 點이 없지 않은가.
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|원문24번= {{TagSpage|21-3}}이 問題를 생각할 때, 우리의 心中에 第一 먼저 일어나는 疑問은, 本文 初頭에 引用한 實錄 中의 「道傳, 又嗾卞仲良上疏, 請罷諸王子兵權, 至再一一」이라는 文句와, 太宗 三年에 王의 懷舊의 말 가운데 {{TagRef|15}} <cite no="XX">「父王卽位之初, 以勇兵皆委於我」</cite><ref>太宗 三年 六月 辛亥, 太宗實錄 卷五 二十五丁.</ref>라는 것을 比較하야, 靖安이 道傳에게 兵權의 削奪을 怨함이 있지 않았는지, 적어도 이 點이 兩者不容{{TagPage|22-1}}한 一理由가 되지 않았던가 하는 것이다. 그러나 이것은, 設令 그런 事實이 있다 하드라도, 李朝의 新國家가 成立된 以上, 諸般의 政治와 制度가 中央集權的 形態를 띄여가는 것이 當然한 現像이므로, 特히 道傳의 個人的 野心을 云云할 수는 勿論없을 뿐 아니라, 이 運動을 大觀하여보면, 芳碩과 芳遠間의 些少한 關係는 勿論, 細細한 政治的勢力 問題와는 關係없이,  別로히 獨立한 問題로 이 後에도 繼續되어간 것이요, 그것이 國家(王室)를 中心으로 利害를 顧慮할 問題인 즉, 道傳(卽 芳碩派)이 王室의 中心 利害를 代表할 때 그가 運動의 中軸이며, {{TagRef|16}}道傳 敗歿 後에 芳遠이 政權의 中心일 때 그가 亦 그 運動의 主動者 됨이 當然하다. <ref>이것은 定宗 太宗 時의 私兵改罷 運動을 보면 自明한 事實이다, 이 問題는 이곳에 詳述키 너무도 큰 問題나 조곰 說明할 機會가 있을듯하다.</ref> 그러므로 芳遠이 在野 時(?)에 道傳의 勢力集中的 政治施設에 不滿을 가젔다 하여도, 아무 異常한 點이 없지 않은가.
 
|원문25번= {{TagSpage|22-2}}所謂 「私兵」 問題는, 이로만 하여도 別로 考慮할 큰 問題이나, 우에 引用한 文句를 解釋할 程度만 말하여 보기 爲하야, 李朝 初期에 道傳과 芳遠의 兵政에 對한 地位를 一考하고, 이 點으로써 이 私兵 問題에 對한 兩人의 態度를 探査해 보자.  
 
|원문25번= {{TagSpage|22-2}}所謂 「私兵」 問題는, 이로만 하여도 別로 考慮할 큰 問題이나, 우에 引用한 文句를 解釋할 程度만 말하여 보기 爲하야, 李朝 初期에 道傳과 芳遠의 兵政에 對한 地位를 一考하고, 이 點으로써 이 私兵 問題에 對한 兩人의 態度를 探査해 보자.  
|원문26번= {{TagSpage|22-3}}{{TagRef|17}}第一로 우리가 注目할 點은, 太祖 卽位 元年 八月에 王子 諸君을 封힐 때,<ref>太祖 元年 八月 丙辰, 太宗實錄 卷一</ref>  芳果외 芳蕃과 李濟를 義興親軍衛節制使로 任命한 것이다. 이것은 太祖 卽位가 七月 十七日인 後 一箇月 未滿의 때인즉, 道傳의 勢力이 아직 直接 兵政에 미칠 틈이 없을뿐 아니라, 武人 出身의 太祖가 그 兵權 委任에 特別한 考慮를 가졌을 것이 當然하니, 이 任命의 底意틀 推測할 價値가 絶大하다. 그것은 곧 筆者의 推測으로는 芳果는 韓妃 所產의 代表로 (芳果는 第二子나 長子 芳雨는 性이 嗜酒痛飮하야 發病하였을 뿐 아니라, {{TagRef|18}}時時로 常套를 벗어나는 言行이 있었으므로,<ref>太祖 二年 十二月 甲申 撫安若芳爾卒條恭希, 太實錄卷四.</ref> 이러한 職位는 不適任이요, 父祖 傳來의 東北面 高州, 咸州의 田畓을 賜하였으나,{{TagRef|19}}<ref>太祖 元年 八月, 李王職所藏文書 田咨賜給狀.</ref> 官職을 除授하지 않았으며, 이것{{TagPage|23}}이 또 芳碩을 世子로 冊立하게 된 一原因이 되였다고 생각한다),芳蕃은 康氏 所產의 代表로, 各一人식 分權委任한 것이며, 李濟는 駙馬이므로 任命하였다고 볼 수 있으나, 濟가 康氏出의 慶順公主를 娶한 것을 생각하면 韓康兩妃의 勢力 均平으로는 後者에 稍重할 것이나, 이것은 康氏가 當時 太祖의 寵愛를 받던 때라 不可避할 事情이라 하겠다. 이런 實相을 念頭에 두고 보면, 芳遠이 後日에 「父王卽位之初, 以勇兵皆委於我」라고 하는 것이, 얼마나 眞實性 있는 追懐인지 疑問이라 하겠다. {{TagRef|20}}太祖 二年 三月에 倭宼를 防禦하기 爲하야 節制使를 分遣할 때 <ref>仝 二年 三月 癸亥, 仝上 卷三.</ref> 義安伯 和前門下評理 朴巖 崔雲海를 楊廣道, 興安君 李濟 判中樞院事 南誾 恭賛門下府事 李之蘭을 慶尙道, 靖安君芳遠 前全州節制使 陳乙瑞를 全羅道로, 各히 分遣하게 되여, 芳遠이 비로소 全羅節制使가 된 것이다. {{TagRef|21}}今年 九月에 三軍摠制府를 義興三軍府로 改하고 重房을 罷한 失敗 改革에는<ref>仝 二年 九月 丙辰, 仝上 卷四.</ref>道傳의 關係한 部分이 많음이 勿論이어니와, 이 改革의 結果, 永安君 芳果가 三軍府中軍節制使, 撫安君 芳蕃이 左軍節制使, 興安君 李濟가 右軍節制使로 任命되어, 그 地位의 分布가 如前하였다. {{TagRef|22}}同 十一月에 判三司事 鄭道傳이 諸道節制使 所領 軍士의 武畧있는 者를 搾하야 陣圖를 敎習하였다 하니<ref>仝 二年 十一月 庚成, 仝上.</ref>  道傳의 兵政에 對한 識見과 抱費와 手腕을 可知하겠으며 三年 正月에는 이미 判義興三軍府事의 職으로 大牢에 識을 祭하고, {{TagRef|23}}道傳 以下 與祭將士가 다 鐵甲을 着하였다는 것을 보면<ref>仝 三年 正月 壬戍 戊辰, 仝上 卷五.</ref> 그 軍政에 對한 威風과 勢力의 確立함을 볼 수가 있다. 同 二月에는 有名한 府衛革新의 上書를 하였으니 {{TagRef|24}}「自古爲國者, 文以致治, 武以勘亂 文武兩幟, 如人兩臂, 不可偏廢, 故本朝旣有百司庶府号又有諸衛, 各領, 所以備文武之職也, 然, 府兵之制, 大抵 承前朝之舊, 前朝盛時, 唯府兵外無他軍號, 北有大遼, 東有女眞, 日本侵掠於外, 又有草賊, 往往竊發於中, 小則中郞將以下, 大則遣上將軍將軍禦之, 至於不得己而後發郡縣丘, 外攻內守, 傳至四百餘年, 當時府兵之盛可知, 無事則{{TagPage|24}}肆習兵法, 有事出軍則必爲五陣, 當時兵法之習, 亦可知也, 自忠烈王事元以來, 每因中朝宦寺婦女奉使者之請, 官靠汎濫, 皆以所托之人, 除衛職, 恃勢疇蹇, 莫肯宿衛, 由是, 府衛始毀, 始置忽只忠勇等愛馬, 姑備宿衛, 及僞朝法制大毀, 凡受府衛之職者, 徒食天錄, 不事其事, 遂至失國」<ref>仝 二月 己亥, 仝上 十二張. 이것을 迫衲한 것이 뒤에 太祖 四年 六月(戊辰)에 撰進한 「絕濟文鑑一에 收輯되여 남어있다 三峯集 卷之六 經濟文鑑下 衛兵 本朝將兵條.</ref>의 主意로 十衛 改稱을 爲始하야 將軍掌兵의 制限에 이른 八條의 改良 意見으로, 王의 採用嘉納한 바가 되었다. 그 本意는 여기 引用한 바로서도 推測할 수 있음과 같이, 中 央府兵의 實力 充實과 兵法 陣法의 平時 講習을 痛論한 것이다. 이 上書 中에 引用한 部分 外에 注意할 點은, 그 第二條의 官職名號 改稱 中에, 「又每一道節制使, 叙肾省宰, 副節制使, 中樞, 兵馬鈴轄使, 嘉善, ……中軍, 京畿左右道, 東北面, 左軍, 江陵, 交州, 慶尙, 全羅道, 右軍, 楊廣, 西海道, 西北面, 屬之」의 一句다. 이 各道 節制使를 宗室(或 省宰)로 任命한다는 主旨는 前年 三月 倭宼 防禦를 爲하야 節制使 分遣할 時에, 和濟, 芳遠을 任命 한 趣曾를 이은 듯 하나, 結果로써는 全羅道節制使 芳遠은 左軍에 屬하므로, 左軍府左軍節制使인 異母弟 芳蕃에게 易하게 되는 것을 볼 수 있다. 이것은 芳蕃이 芳果와 함께 最高 兵權을 把握함에 反하야, 芳遠의 最初부터 一屜 낮은 地位가 招來한 不得己한 事情일 것이나, 芳遠의 不平을 推測할 수 있을 것 같으며, 芳遠 自身으로서는 開風에 首功있다고 自任하던 態度로 보아, 그 心中을 생각할 수 있다. 더군다나 後日 戊寅之變에, 芳遠이 絕對的으로 依支하였을 뿐 아니라, 前後를 通하야 股肱의 忠臣이 된 李叔蕃. 河崙等이 다 芳遠의 全羅道 關係로 知遇하게 된 情勢를 照考하면, 這間에 處한 靖安의 心事를 臆測할 수 있다 하겟다. 道傳은 이런 些少한 一部의 不平은 勿論 眼中에 없는 것 갈이, 如前히 兵政 改革의 施設을 繼續하야, {{TagRef|25}}同年 三月 乙巳에는 各道 節制使率行軍官의 數를 定하고<ref>仝 三年 正月 壬戍 戊辰, 仝上 卷五.</ref>  {{TagRef|26}}仝 庚成에는 臨津 壽美浦에서 王의 幸行을 받아 五軍陣圖틀 講하고 同年 六月에 歷代 府兵侍衛의 制를 撰하고{{TagPage|25}}府衛의 弊와 其時 府兵沿革의 事宜를 論하야 圖를 지어서 獻하였다.<ref>仝上 壬辰, 仝上 卷六.</ref> {{TagRef|27}}同年 七月에 義興三軍府가 「嚴府史成法, 汕謗沮毀者,使憲司啓聞論罪」를 請한 것을 보면,<ref>仝上 七月 戊午, 仝上.</ref> 이 嚴格한 施設과 改革에 不平을 가진 者가 不少하였던 것을 推測할 수있다. 이러한 不平不安과 嫉視의 交錯한 訓謗沮毀의 一例가 同年 十一月의 卞仲良 等의 獄이니, {{TagRef|28}}記錄에 依하면 「囚殿中卞仲良于巡軍獄, 命大司憲朴經巡軍萬戶李稷等鞫之, 初仲良與兵曹正郞李曰, 自古, 政權兵椭, 不可兼任一人 兵權宜在宗室.政權宜在宰輔, 令趙浚. 鄭道傳, 南誾等, 旣掌兵權, 又掌政權, 實爲不可, 伸良以此言於義安伯和, 和吿于上, 上召仲良, 問之, 仲良對以實, 且曰, 朴苞亦謂殿下, 失爲國之賜, 屢致星礎, 上怒曰, 此數人, 皆我股肱之臣, 終始一心者也, 如或可疑, 則誰可信者, 爲此言者, 必有以也, 卽命韓仲良及苞曲」라고 있어,<ref>仝上 十一月 庚子, 仝上 十六張.</ref> 趙, 鄭, 南 等의 政權軍權集中 方針을 非難한 것이나, 이것은 太祖의 信任한 態度가 證明하는 바와 같이, 個人的 私欲이라고 하기 보담, 李氏國家를 爲한 公人的 施政인 것이 勿論이다. 그러나 中央集權의 餘波를 받는 權臣들이 이 政策에 不安을 가지는 것도 當然하며, 또 具體的 箇箇 事實을 보드라도, 鄭道傅은 判三軍府事라는 政權의 中軸에 있으면서, 判義興三軍府事라는 兵權의 大綱을 잡고 있었으니, 이러한 中傷이 일어날 根據는 있었다 할 것이다. 仲良의 吿辭 中에 前者의 節制使를 宗室과 省宰로 任命한다는 條件에 反하는 「兵權宜在宗室」이라는 말은, 從來의 用例辭로 같은 사람이 兩執함을 不可타 하는 意味로서 無心히 使用한 것인지, 權臣의 陰謀가 可畏라는 뜻이 있는지, 또는 義安君 和에게 吿하는 形便上으로 多少의 諂諛를 包含함인지(仲良은 元桂의 女婿이므로 府는 仲良의 妻三寸이 되는 簡係다) 그 眞意를 難測하겠으며, 또 이것을臆測한들 只今 이곳에서는 큰 所得을 期待할 수 없으나. 우리가 問題로 할 것은, 이곳에는 仲良은 「兵權宜在宗室」이라 하면서, 初頭 引用한 記錄에 依하면 「請罷諸王{{TagPage|26-1}}子兵權, 至再三」하였다는 것이 異常하며, 또 이 곳에는 道傳 等을 이같이 疑心 中傷함에 對하야, 上記 引文 內에는 道傳又嗾卞仲良上疏」라 하였으니, 이러한 矛盾을 如何히 解釋하여야 할가. 여기 引用한 太祖 三年 十一月의 仲良의 道傳 等을 中傷한 것을 當者가 王에게까지 直對한 確實한 事實이니 움즉일수 없으나, 此文 初頭에 引用한 것을 지금 靖安 一派의 想像의 所產이라고 할 밖에 確實한 證跡을 볼 수 없다. 仲良을 道傳 一派라 함은 그가 已巳 夕의 突變에 際하야, 宮內에서 靖安派의 行動에 不付하던 程度를 取한 것이 最大 原因이라 할듯하며, 仲良을 上記 一例만으로서 道傳과 不好한 關係에 있었다고 斷定할 수는 없으나, 적어도 靖安 一派의 認定한 바와 같이 道傳의 腹心이라고 볼 수도 없다. 그뿐 아니라 이러한 道傳 彈劾의 上吿를 하는 仲良이면 이 點에 있서 오히려 靖安의 利害를 도운다고 할 수 있거늘 靖安 一派는 仲良은 道傳의 腹心같이 云云하는 것이 異常하다. 그러므로 仲良의 兵政改革에 對한 意見은 卞仲良 當者를 中心으로 생각할 것이요, 다른 사람의 指嗾을 特히 狐疑할 것이 아니며, 仲良을 中心으로 볼 때, 最初에는 權臣掌兵에 不安을 感하고, 다음에 形勢를 보아 또 諸王子의 私兵을 危險하다고 上吿하였다 생각하는 것이 第一 自然하며, 또 이 解釋에 別로이  異常과 矛盾이 없을 것이 아닌가. 勿論 仲良이 諸王子의 兵權을 罷하자는 것이 道傳 一派의 賛同을 얻을 수 있는 點은 推想할 수가 있을 것이며, 그렇드라도 또 別로이 問題될 것이 없다. 이 仲良의 獄이 일어날 때, 곧 말하면 道傳의 兵政改革이 次第로 實現하여 가고, 따라서衆謗이 이러날 形勢가 보이는 이 때에, 靖安君 芳遠은 奏聞使로 明廷에 가서 아직 도라오지 않은 中이었었다. (三年 六月 乙亥出發. 同 十二月 乙卯 歸京, 即 仲良의 獄後 十五日에 歸京).  
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(三年 六月 乙亥出發. 同 十二月 乙卯 歸京, 即 仲良의 獄後 十五日에 歸京).  
 
|원문27번= {{TagSpage|26-2}}이 後에도 道傳의 兵政施設은 繼績되나, 그것은 本文에 只今 直接關係 없음으로 그만두고, 本文 初頭에 引用한 記錄{{TagPage|27-1}}中에, 이 兵政改革에 關聯있는 듯한 靖安派의 不平(?)을 大畧 考査하여 보자.  
 
|원문27번= {{TagSpage|26-2}}이 後에도 道傳의 兵政施設은 繼績되나, 그것은 本文에 只今 直接關係 없음으로 그만두고, 本文 初頭에 引用한 記錄{{TagPage|27-1}}中에, 이 兵政改革에 關聯있는 듯한 靖安派의 不平(?)을 大畧 考査하여 보자.  
|원문28번= {{TagSpage|27-2}}靖安涙가 道傳 一派의 罪狀으로 「將欲去諸王子, 暗嗾宦者金師幸, 密啓, 請依中朝諸皇封王之例, 分遣諸王子於各道」틀 말하는 眞相은 斷定하기 어렵고, 더욱 金師幸을 暗嗾하였다는 것은 當時라도 適確히 알지 못할 것을 지금 云云할 수는 없으니 問題 外로 두고, 그 分遣各道의 意味가, 글자대로 「一封王」을 가르친 것이면 이 역 지금 論議할 바가 안닐 것이다(實現치도 않고 問題될 可能性이 없으므로). 다만 그것이 萬若 各道 節制使 任命 또는 그 分遣과 무슨 聯想이 있고, 그것을 不平으로 하는 底意가 잇다면, 이 点은 우에 말한 바와 같이 兵政을 改革할 때, 各道 節制使는 重要한 職分이므로 宗室, 或은 省宰로 充用한다는 規定이 될 때 이미 作定된것이며, {{TagRef|29}}이 規定을 制作한 深意가 王子排斥에 있다면 모르거니와,<ref>이러한 臆測과 邪推를 할 必要와 根據가 없으며, 그것이 決코 王子排斥의 手段이 되지 않을 것이 自明하다.</ref> 이 規定 自體를 論議하지 않고 各道 分遣만 不平으로 한다면, 그 非難과 不平이 問題에 的中하지 않는 것이라 할 수밖에 없다. 더군다나 靖安君이 全羅道節制使가 되었을 때는, 芳蕃도 東北面節制使로 被任되었다 하니, 그 地位의 不平 外에 節制使 任命에는 不平이 있을 道理가 없으며, 또 各道 節制使라고 하나, 實相은 職名뿐이요, 依然히 京城에 留在한 狀態이었던 것을 보면 이것으로 不平 云云할 道理는 없을듯하다. 文意로 보아서 芳蕃을 東北面에 委任한대 무슨 不平이 있는 듯도 하나, 이것은 別問題이고, 金師幸의 分遣封王云云은 京畿를 떠나기 싫은 主意로 나온 말인듯하므로, 아마 節制使問題와는 直接 關係가 없을듯하다. 다음에 「時, 罷諸王子者所領侍衛牌, 已十餘日矣」云云은, 이 引文의 程度로서는 이 措處에 對하야 不平이있었다고 斷案하기에는 充分하지 못하나, 心中不安하던 次이라면, 이러한 處置가 不安과 狐疑의 마음을 도울 材料가 될 것은 推測할수 있다. 그러나 所謂 「侍衛牌」의 廢端은 이전부터 이후에 이르기까지 爲政者의 公評이며, 이것{{TagPage|28-1}}을 罷하자 함도 理論으로는 衆論 一致라 하여도 無關하며, 이런 問題는 이때보담, 오히려 道傳 敗及 後에 爲始하야 太宗 時에 이르러 더욱 커지고 改革도 보게 되었으니, 結局 다른 不平이 이것을 돕게 되었다할지언정, 이것이 不平의 根源이라고 할 수는 없을 듯하다. 그것은 「唯芳蕃, 總兵如舊」라는 語套틀 보아도 一端을 推察할 수 있다. 그러나 이러한 實力 削除의 施設이 芳遠의 神經을 더욱 激敏시킨 事情은 推察하여둘 必要가 있을 듯하다.
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|원문28번= {{TagSpage|27-2}}靖安涙가 道傳 一派의 罪狀으로 <cite no="XX">「將欲去諸王子, 暗嗾宦者金師幸, 密啓, 請依中朝諸皇封王之例, 分遣諸王子於各道」</cite>를 말하는 眞相은 斷定하기 어렵고, 더욱 金師幸을 暗嗾하였다는 것은 當時라도 適確히 알지 못할 것을 지금 云云할 수는 없으니 問題 外로 두고, 그 分遣各道의 意味가, 글자대로 <cite no="XX">「一封王」</cite>을 가르친 것이면 이 역 지금 論議할 바가 안닐 것이다(實現치도 않고 問題될 可能性이 없으므로). 다만 그것이 萬若 各道 節制使 任命 또는 그 分遣과 무슨 聯想이 있고, 그것을 不平으로 하는 底意가 잇다면, 이 点은 우에 말한 바와 같이 兵政을 改革할 때, 各道 節制使는 重要한 職分이므로 宗室, 或은 省宰로 充用한다는 規定이 될 때 이미 作定된것이며, {{TagRef|29}}이 規定을 制作한 深意가 王子排斥에 있다면 모르거니와,<ref>이러한 臆測과 邪推를 할 必要와 根據가 없으며, 그것이 決코 王子排斥의 手段이 되지 않을 것이 自明하다.</ref> 이 規定 自體를 論議하지 않고 各道 分遣만 不平으로 한다면, 그 非難과 不平이 問題에 的中하지 않는 것이라 할 수밖에 없다. 더군다나 靖安君이 全羅道節制使가 되었을 때는, 芳蕃도 東北面節制使로 被任되었다 하니, 그 地位의 不平 外에 節制使 任命에는 不平이 있을 道理가 없으며, 또 各道 節制使라고 하나, 實相은 職名뿐이요, 依然히 京城에 留在한 狀態이었던 것을 보면 이것으로 不平 云云할 道理는 없을듯하다. 文意로 보아서 芳蕃을 東北面에 委任한대 무슨 不平이 있는 듯도 하나, 이것은 別問題이고, 金師幸의 分遣封王云云은 京畿를 떠나기 싫은 主意로 나온 말인듯하므로, 아마 節制使問題와는 直接 關係가 없을듯하다. 다음에 <cite no="XX">「時, 罷諸王子者所領侍衛牌, 已十餘日矣」</cite>云云은, 이 引文의 程度로서는 이 措處에 對하야 不平이있었다고 斷案하기에는 充分하지 못하나, 心中不安하던 次이라면, 이러한 處置가 不安과 狐疑의 마음을 도울 材料가 될 것은 推測할수 있다. 그러나 所謂 <cite no="XX">「侍衛牌」</cite>의 廢端은 이전부터 이후에 이르기까지 爲政者의 公評이며, 이것{{TagPage|28-1}}을 罷하자 함도 理論으로는 衆論 一致라 하여도 無關하며, 이런 問題는 이때보담, 오히려 道傳 敗及 後에 爲始하야 太宗 時에 이르러 더욱 커지고 改革도 보게 되었으니, 結局 다른 不平이 이것을 돕게 되었다할지언정, 이것이 不平의 根源이라고 할 수는 없을 듯하다. 그것은 <cite no="XX">「唯芳蕃, 總兵如舊」</cite>라는 語套틀 보아도 一端을 推察할 수 있다. 그러나 이러한 實力 削除의 施設이 芳遠의 神經을 더욱 激敏시킨 事情은 推察하여둘 必要가 있을 듯하다.
|원문29번= {{TagSpage|28-2}}그러나 우리의 關心은 이러한 枝葉 末節보담도 兵政의 根本인 「私兵」 革罷에 對하야 道傳이 如何한 熊度를  取하였던가하는 問題다. 우리의 常識으로 말하면. 道傳과 그 一派가 王室(太祖 及 世子)의 權力集中 政策을 主眼으로 하고, 이 勢力에 對立할 念慮있는 周圍의 勢力을 削除할라면, 무엇보담도 가장 有效한 方法은, 當時 權力과 富力의 根源인 私兵을 革罷함에 있다하는 것이 當然하나, 前揭 「嗾卞仲良」云云의 記錄 外에는, 이 點에 確實한 證迹이 될 施設을 볼 수가 없다. 太祖 三年 二月의 府衛革新의 上書도 府兵의 充實율 云云함에 그치고, 各道에는 節制使를 두고 宗室省宰가 受任하게 하니, 이것은 亦是私兵의 存續인것이 確實하다. 그뿐 아니라, {{TagRef|30}}同年 五月에 道傳이 新成朝鮮國의 爲政制作의 根本을 記述하야 太祖의 觀覽嘆美를 받은 <ref>仝上 五月 戊辰, 太祖實錄 卷五.</ref>「朝鮮經國典」 中에도, {{TagRef|31}}「每道置節制使, 其州郡之兵, 番上宿衛, 亦內外相制之義」<ref>朝鮮遞國典上, 三峯集 卷七 軍官條.</ref>라고 하였으니, 道傳의 私兵에 對한 意見과 施設이 亦是 그 存置를 是認한 것이 確實하다. 그러나 時間의 經過와 事態의 進展은 道傳及 其 一派로 하여금 이러한 現實과의 安協을 어느 때까지라도 容恕하지 않게 되였든지, 太祖 六年 十二月에 東北面 都宣撫巡察使로 갓던 道傳이 同 七年 三月에 歸京하였을 때, 王의 賜宴예 際하야 {{TagRef|32}}「(王)又謂宣城君南聞曰, 忠言逆耳, 利於行, 卿等宜言之無諱, 因問都承旨李文和, 逆耳之言, 必自臺諫來, 予性頗急, 或未優容, 惟爾在左右, 敢言勿懼, 聞進曰, 上在潜邸, 不曾握兵, 何有{{TagPage|29}}今日, 如臣者亦無能保矣, 當開國之初,  令諸功臣掌兵可也, 今 即位己久, 宜革諸節制使,  合爲官軍, 庶爲萬全, 上曰孰謂南冊爲無實此言, 誠始終之戒也」<ref>太宗 七年 三月 丁卯, 太祖實錄 卷十三 九張.</ref>의 問答이음을 보면 南誾의 이 意見은 勿論 道傳의 所懷와 같은 것이 當然하니, 道傳 一派의 兵政에 對한 態度가 急激化하여온 것을 推測할 수 있다, 道傳等이 最初로부터 이러한 意見을 心底에 가지고 一時過渡期的 妥協施設을 하였는지 또는 周圍의 形勢의 事態가 漸々 그 必要를, 雅感하게 되였든 지 아마 雙方의 見解가 다 正當하다고 할 것이다, 그렇다면, 前記 仲良이 權臣兵政兩執不可論으로 王子私兵革罷의 低見에 進展하는 背後에도, 亦時功의 變化를 볼 수 있지 않을지, 그러나 이 當時의 事態는 王의 答한 態度에도 볼 수 있음과 같이, 이 種 改革을 必要로 하였든 것은 明白하나, 그 改革의 實現은 勿論, 意見을 公表하기도 危難한 形勢에 있었는 듯하다. 南誾의 言中에 節制使를 單除하라는 것이 前日의 笈協的施政에 內心不滿함을 表示하였으니.그런것을 念如에 두고 보면 「嗾卞仲良」云云의 想像이 날 原因도 없다 할 수 없으며. 또 이런 意見에는 靖安 反對 道傳 贊意의 利害相反이 當然하다. 그러므로 道傳派의 이러한 信念과 態度에 對하야, 芳速 一派가 英大한 不安을 抱藏하였던 것이 當然하다. 이것은 當時 芳遠이 芳蕃에 比하야는 不平이 있으나, 그래도 節制使라는 兵權을 가지고 依支할 若干의 實力을 所持하였던 것을 念頭에두면, 容易히 推測할 수 있다. 그러므로 道傳 等의 兵政改革에 對한 施設과 抱負가 더 些細히 말하면, 漸漸 急激해가는 中央集權政策의 熊度가, 所謂 己巳日 突變의 深柬한 原因이라고 銘念할 것이다, 이것이 兩派의 根本的 利害關係가 相容하지 않는 點이요, 이 外에 여러가지 理由와 所謂 「罪狀」은 이 根本에서 나온 枝葉에, 緊密하지 못한 理由를 附會한 것이 아닌가. 芳遠은 「吾同母兄弟」를 排斥한다고 極力 絕叫하나, 芳果(定宗)의 芳遠 起變에 對한 態度가 極力 消極的이었던 것을 다못 그 「仁愛純實之性」{{TagPage|30}}에만 歸할 것이 아닌 것 같다. {{TagRef|33}}定宗 二年 六月에 芳遠이 世子로서 「大學衍義」를 읽을 때 左輔德徐愈와 握兵의 弊를 論하는 말 中에 「戊寅, 南鄭之亂, 吾兄弟若不握丘八, 豈能應機制變也」<ref>定宗 二年 六月 癸丑, 定宗實錄 卷四 十九-二十張.</ref>라는 回想은 이것을 溯上하면 南誾이 太祖에게 「上在潜邸不曾握兵, 何有今日,  如臣者亦無保矣」와 같은 것이며, 芳遠의 自誇하는 此種 「應機」 活動이, 곧 鄭 南 等이 改革하고저하던 私兵의 廢일 것이니, 道傳이 當時에 諸王子 罷兵을 計劃하였드라도 後日에 不忠不道의 陰謀같이 맡할 것이 되지 못할 것이다. 道傳 等이 「諸王子 罷兵」을 實現할 機運이 濃厚하였다 하드라도, 芳遠의 處地로 본 些少한 個人的 利害觀念에서 나온 不平不安의 念이 있다 할지언정, 이것은 國家의 大體로 보면 當然하고 忠義賢明한 施政일 것을, 後日 芳遠의 王位獲得한 結果만으로, 이 態度를 百世의 逆臣의 陰謀라고 傳喧하는 것이 不合理한 것이며, 더욱 太祖 成桂를 始祖로 한 李氏 一家의 國家大體로 보아도, 功罪는 正當 公平히 評價하여야 할 것이 아닌가. 더욱 私兵革罷의 輿論은 定宗 即位後 芳毅 芳幹의 亂後에 더욱 紛糾하여지며, 道傳 當政時의 愼重한 態度에 比하야 確然히 公共히 主張하게 되고, 太宗 時에 이것을 斷行하게 되어, 宗室과 權臣의 群怨이 이러나게 되었으니, 芳遠의 前後 矛盾하는 態度가 너무도 異常하다 하기 보담도, 歷史의 迴轉하는 狀態가, 後世 우리의 興味를 이르킨다. 그뿐 아니라 더욱 異常한 點은 道傳 歿後에, 그의 私兵 革罷에 對한 態度가 徹底하지 못한 것이 戊寅變亂의 根本 原因이라 하야 道傳을 批難하는 議論이, 異常한 意味로 一般으로 行하게 되니,{{TagRef|34}} 定宗 二年 權近과 金若釆의 罷私兵上疏中에 있는 「惟我太上王開國之初, 特置義興三軍府, 專掌兵權, 規模宏遠, 而時議者, 以爲革命之初, 人心未定, 常備不虞之變, 宜令勳親, 各典私丘八, 以應倉卒, 由是, 私兵未能盡除, 而典兵者反謀煽亂禍在不測」 <ref>仝上 四月 辛꾜, 仝上 十五丁.</ref> 이 그 一例다. 이 文意는 當時의 私兵 存置의 主張者를 批難함에 있으나, 當事者가 宏遠한 三軍府 特{{TagPage|31-1}}置의 理想을 斷行하지 못한 것이 後日의 禍源이 되었다 하는 것이요, 이런 論調는 定宗 太宗時에 私兵 革罷主張者의 共通한 襟語이며, 太宗 (芳遠)自身이 兵權 不可散在의 理由로 恒時 口述하는 理由다. 道傳이 萬若 이것을 斷行하였든들, 芳遠의 所謂 「定社」 運動이 成功할 根據가 全無하니, 二點으로는 이러한 「不徹屋」한 施設이 도로 혀 當幸이 되였다 할 것이 아닌가. 昔日에 道傳이 主張할 때는 「陰謀」가 되며, 後日에 芳遠이 主張함에는 國家之 大統이 되니 그 變化가 너무도 甚하지 않다 할 수 없다. 國家의 本位로 보면 道傳과 芳遠의 主張이 다 同一히 眞理일 것을, 芳遠의 個人的 利害의 見地로 斷案하는 評價가 이 公平을 歪曲하게 되니, 이것이 從來의 「國家」의 性質이며, 歷史가 또 이 「國家」에 役使하는 奴隸였던 運命을 表示하는 好例라 하겠다.
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|원문29번= {{TagSpage|28-2}}그러나 우리의 關心은 이러한 枝葉 末節보담도 兵政의 根本인 「私兵」 革罷에 對하야 道傳이 如何한 熊度를  取하였던가하는 問題다. 우리의 常識으로 말하면. 道傳과 그 一派가 王室(太祖 及 世子)의 權力集中 政策을 主眼으로 하고, 이 勢力에 對立할 念慮있는 周圍의 勢力을 削除할라면, 무엇보담도 가장 有效한 方法은, 當時 權力과 富力의 根源인 私兵을 革罷함에 있다하는 것이 當然하나, 前揭 <cite no="XX">「嗾卞仲良」</cite>云云의 記錄 外에는, 이 點에 確實한 證迹이 될 施設을 볼 수가 없다. 太祖 三年 二月의 府衛革新의 上書도 府兵의 充實율 云云함에 그치고, 各道에는 節制使를 두고 宗室省宰가 受任하게 하니, 이것은 亦是私兵의 存續인것이 確實하다. 그뿐 아니라, {{TagRef|30}}同年 五月에 道傳이 新成朝鮮國의 爲政制作의 根本을 記述하야 太祖의 觀覽嘆美를 받은 <ref>仝上 五月 戊辰, 太祖實錄 卷五.</ref>「朝鮮經國典」 中에도, {{TagRef|31}}<cite no="XX">「每道置節制使, 其州郡之兵, 番上宿衛, 亦內外相制之義」</cite><ref>朝鮮遞國典上, 三峯集 卷七 軍官條.</ref>라고 하였으니, 道傳의 私兵에 對한 意見과 施設이 亦是 그 存置를 是認한 것이 確實하다. 그러나 時間의 經過와 事態의 進展은 道傳及 其 一派로 하여금 이러한 現實과의 安協을 어느 때까지라도 容恕하지 않게 되였든지, 太祖 六年 十二月에 東北面 都宣撫巡察使로 갓던 道傳이 同 七年 三月에 歸京하였을 때, 王의 賜宴예 際하야 {{TagRef|32}}<cite no="XX">「(王)又謂宣城君南聞曰, 忠言逆耳, 利於行, 卿等宜言之無諱, 因問都承旨李文和, 逆耳之言, 必自臺諫來, 予性頗急, 或未優容, 惟爾在左右, 敢言勿懼, 聞進曰, 上在潜邸, 不曾握兵, 何有{{TagPage|29}}今日, 如臣者亦無能保矣, 當開國之初,  令諸功臣掌兵可也, 今 即位己久, 宜革諸節制使,  合爲官軍, 庶爲萬全, 上曰孰謂南冊爲無實此言, 誠始終之戒也」</cite><ref>太宗 七年 三月 丁卯, 太祖實錄 卷十三 九張.</ref>의 問答이음을 보면 南誾의 이 意見은 勿論 道傳의 所懷와 같은 것이 當然하니, 道傳 一派의 兵政에 對한 態度가 急激化하여온 것을 推測할 수 있다, 道傳等이 最初로부터 이러한 意見을 心底에 가지고 一時過渡期的 妥協施設을 하였는지 또는 周圍의 形勢의 事態가 漸々 그 必要를, 雅感하게 되였든 지 아마 雙方의 見解가 다 正當하다고 할 것이다, 그렇다면, 前記 仲良이 權臣兵政兩執不可論으로 王子私兵革罷의 低見에 進展하는 背後에도, 亦時功의 變化를 볼 수 있지 않을지, 그러나 이 當時의 事態는 王의 答한 態度에도 볼 수 있음과 같이, 이 種 改革을 必要로 하였든 것은 明白하나, 그 改革의 實現은 勿論, 意見을 公表하기도 危難한 形勢에 있었는 듯하다. 南誾의 言中에 節制使를 單除하라는 것이 前日의 笈協的施政에 內心不滿함을 表示하였으니.그런것을 念如에 두고 보면 <cite no="XX">「嗾卞仲良」</cite>云云의 想像이 날 原因도 없다 할 수 없으며. 또 이런 意見에는 靖安 反對 道傳 贊意의 利害相反이 當然하다. 그러므로 道傳派의 이러한 信念과 態度에 對하야, 芳速 一派가 英大한 不安을 抱藏하였던 것이 當然하다. 이것은 當時 芳遠이 芳蕃에 比하야는 不平이 있으나, 그래도 節制使라는 兵權을 가지고 依支할 若干의 實力을 所持하였던 것을 念頭에두면, 容易히 推測할 수 있다. 그러므로 道傳 等의 兵政改革에 對한 施設과 抱負가 더 些細히 말하면, 漸漸 急激해가는 中央集權政策의 熊度가, 所謂 己巳日 突變의 深柬한 原因이라고 銘念할 것이다, 이것이 兩派의 根本的 利害關係가 相容하지 않는 點이요, 이 外에 여러가지 理由와 所謂 「罪狀」은 이 根本에서 나온 枝葉에, 緊密하지 못한 理由를 附會한 것이 아닌가. 芳遠은 <cite no="XX">「吾同母兄弟」</cite>를 排斥한다고 極力 絕叫하나, 芳果(定宗)의 芳遠 起變에 對한 態度가 極力 消極的이었던 것을 다못 그 <cite no="XX">「仁愛純實之性」</cite>{{TagPage|30}}에만 歸할 것이 아닌 것 같다. {{TagRef|33}}定宗 二年 六月에 芳遠이 世子로서 「大學衍義」를 읽을 때 左輔德徐愈와 握兵의 弊를 論하는 말 中에 <cite no="XX">「戊寅, 南鄭之亂, 吾兄弟若不握丘八, 豈能應機制變也」</cite><ref>定宗 二年 六月 癸丑, 定宗實錄 卷四 十九-二十張.</ref>라는 回想은 이것을 溯上하면 南誾이 太祖에게 <cite no="XX">「上在潜邸不曾握兵, 何有今日,  如臣者亦無保矣」</cite>와 같은 것이며, 芳遠의 自誇하는 此種 「應機」 活動이, 곧 鄭 南 等이 改革하고저하던 私兵의 廢일 것이니, 道傳이 當時에 諸王子 罷兵을 計劃하였드라도 後日에 不忠不道의 陰謀같이 맡할 것이 되지 못할 것이다. 道傳 等이 「諸王子 罷兵」을 實現할 機運이 濃厚하였다 하드라도, 芳遠의 處地로 본 些少한 個人的 利害觀念에서 나온 不平不安의 念이 있다 할지언정, 이것은 國家의 大體로 보면 當然하고 忠義賢明한 施政일 것을, 後日 芳遠의 王位獲得한 結果만으로, 이 態度를 百世의 逆臣의 陰謀라고 傳喧하는 것이 不合理한 것이며, 더욱 太祖 成桂를 始祖로 한 李氏 一家의 國家大體로 보아도, 功罪는 正當 公平히 評價하여야 할 것이 아닌가. 더욱 私兵革罷의 輿論은 定宗 即位後 芳毅 芳幹의 亂後에 더욱 紛糾하여지며, 道傳 當政時의 愼重한 態度에 比하야 確然히 公共히 主張하게 되고, 太宗 時에 이것을 斷行하게 되어, 宗室과 權臣의 群怨이 이러나게 되었으니, 芳遠의 前後 矛盾하는 態度가 너무도 異常하다 하기 보담도, 歷史의 迴轉하는 狀態가, 後世 우리의 興味를 이르킨다. 그뿐 아니라 더욱 異常한 點은 道傳 歿後에, 그의 私兵 革罷에 對한 態度가 徹底하지 못한 것이 戊寅變亂의 根本 原因이라 하야 道傳을 批難하는 議論이, 異常한 意味로 一般으로 行하게 되니,{{TagRef|34}} 定宗 二年 權近과 金若釆의 罷私兵上疏中에 있는 <cite no="XX">「惟我太上王開國之初, 特置義興三軍府, 專掌兵權, 規模宏遠, 而時議者, 以爲革命之初, 人心未定, 常備不虞之變, 宜令勳親, 各典私丘八, 以應倉卒, 由是, 私兵未能盡除, 而典兵者反謀煽亂禍在不測」</cite><ref>仝上 四月 辛꾜, 仝上 十五丁.</ref> 이 그 一例다. 이 文意는 當時의 私兵 存置의 主張者를 批難함에 있으나, 當事者가 宏遠한 三軍府 特{{TagPage|31-1}}置의 理想을 斷行하지 못한 것이 後日의 禍源이 되었다 하는 것이요, 이런 論調는 定宗 太宗時에 私兵 革罷主張者의 共通한 襟語이며, 太宗 (芳遠)自身이 兵權 不可散在의 理由로 恒時 口述하는 理由다. 道傳이 萬若 이것을 斷行하였든들, 芳遠의 所謂 「定社」 運動이 成功할 根據가 全無하니, 二點으로는 이러한 「不徹屋」한 施設이 도로 혀 當幸이 되였다 할 것이 아닌가. 昔日에 道傳이 主張할 때는 「陰謀」가 되며, 後日에 芳遠이 主張함에는 國家之 大統이 되니 그 變化가 너무도 甚하지 않다 할 수 없다. 國家의 本位로 보면 道傳과 芳遠의 主張이 다 同一히 眞理일 것을, 芳遠의 個人的 利害의 見地로 斷案하는 評價가 이 公平을 歪曲하게 되니, 이것이 從來의 「國家」의 性質이며, 歷史가 또 이 「國家」에 役使하는 奴隸였던 運命을 表示하는 好例라 하겠다.
|원문30번= {{TagSpage|31-2}}以上의 考證에 依하야, 從來에 道傳의 逆罪의 科目이라는 것이 大槪 아무 根據의 實相을 發見하지 못하고, 또 設令 道傳 敗及이 不可避할 運命이라 할지라도, 그 功過를 論評할 見地를 改訂할 必要가 있을 것을 可見하겟다 그러나 道傳에게는 이 外에도 「罪瑕」라고 後日에 添加받는 條目이 있으니, 明廷에 得罪하였다는 것이 그것이다, 勿論 이것은 戊寅之難에 直接關係는 없으나, 道傳에게 對한 後世의 評難을 探査하기에 必要하므로 觸筆하여 볼가한다. 太宗十一年 八月에 孫與宗, 黃居正이 李種學 等을 濫殺하였다는 罪로 純理를 받을 때, {{TagRef|35}} 太宗의 말가운대 「上召南在曰, 開國之事, 卿無不知, 種學等事, 何故不知, 壬申以前之事, 予皆知之, 其後人有忌我者, 故出使東北面矣 卿何以不知, 冒歟……上曰, 開國之功, 南簡居多, 至有涕泣而力白之者, 若道傳則其於開國也, 曾源一言, 其後辨嫡庶之時, 又無一言以及之, 至其得罪于, 高皇帝、則固避不赴, 挟私欺貞, 恣其凶暴, 以沒其身之咎, 濫殺崇仁等, 以{{TagPage|32}}滅其口」<ref>太宗 十一年 八月 辛印, 太宗實錄 卷二十二 十四-十五張.</ref> 의 述懷가 있어, 이것이 所謂 道傳 「罪狀」의 全部며 또 實情이라고 할 것이다, 이 文意에도 表現된 바와 같이 最大 「罪狀」이라면 太宗과 親好하지 못하였던 點이며, 곧 兩人(이라 하기보담도 더 芳遠便으로 보아)의 個人的 感情 不和라고 하여도 좋을만한 相容하지 못하였던 關係가 最大 根源이었다고 볼 수밖에 없다. 「人有忌我者」 云云은 即 道傳을 가르침이 明白하고, 開國에 別功이 없이 大功있는 것 같이 한다는 것들이다 이러한 心情에서 나옴 말이라고 봍 것이다. 그리고 이곳에 嫡庶를 辨할 때 無一言以及之라고 한 것은, 이 亦 上述한 바와 같이 道傳의 所謂 「立庶」 時에 아무 積極的의 罪狀 없음을 自認한 것이다. 이런것들은 우에 이미 말한 바이어니와,  새로이 「得罪于高皇帝, 則固避不赴」라는 事實에 對하야 簡單히 言及할 必要가 있을듯하다.  
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|원문30번= {{TagSpage|31-2}}以上의 考證에 依하야, 從來에 道傳의 逆罪의 科目이라는 것이 大槪 아무 根據의 實相을 發見하지 못하고, 또 設令 道傳 敗及이 不可避할 運命이라 할지라도, 그 功過를 論評할 見地를 改訂할 必要가 있을 것을 可見하겟다 그러나 道傳에게는 이 外에도 「罪瑕」라고 後日에 添加받는 條目이 있으니, 明廷에 得罪하였다는 것이 그것이다, 勿論 이것은 戊寅之難에 直接關係는 없으나, 道傳에게 對한 後世의 評難을 探査하기에 必要하므로 觸筆하여 볼가한다. 太宗十一年 八月에 孫與宗, 黃居正이 李種學 等을 濫殺하였다는 罪로 純理를 받을 때, {{TagRef|35}} 太宗의 말가운대 <cite no="XX">「上召南在曰, 開國之事, 卿無不知, 種學等事, 何故不知, 壬申以前之事, 予皆知之, 其後人有忌我者, 故出使東北面矣 卿何以不知, 冒歟……上曰, 開國之功, 南簡居多, 至有涕泣而力白之者, 若道傳則其於開國也, 曾源一言, 其後辨嫡庶之時, 又無一言以及之, 至其得罪于, 高皇帝、則固避不赴, 挟私欺貞, 恣其凶暴, 以沒其身之咎, 濫殺崇仁等, 以{{TagPage|32}}滅其口」</cite><ref>太宗 十一年 八月 辛印, 太宗實錄 卷二十二 十四-十五張.</ref> 의 述懷가 있어, 이것이 所謂 道傳 <cite no="XX">「罪狀」</cite>의 全部며 또 實情이라고 할 것이다, 이 文意에도 表現된 바와 같이 最大 <cite no="XX">「罪狀」</cite>이라면 太宗과 親好하지 못하였던 點이며, 곧 兩人(이라 하기보담도 더 芳遠便으로 보아)의 個人的 感情 不和라고 하여도 좋을만한 相容하지 못하였던 關係가 最大 根源이었다고 볼 수밖에 없다. <cite no="XX">「人有忌我者」</cite> 云云은 即 道傳을 가르침이 明白하고, 開國에 別功이 없이 大功있는 것 같이 한다는 것들이다 이러한 心情에서 나옴 말이라고 봍 것이다. 그리고 이곳에 嫡庶를 辨할 때 無一言以及之라고 한 것은, 이 亦 上述한 바와 같이 道傳의 所謂 <cite no="XX">「立庶」</cite> 時에 아무 積極的의 罪狀 없음을 自認한 것이다. 이런것들은 우에 이미 말한 바이어니와,  새로이 <cite no="XX">「得罪于高皇帝, 則固避不赴」</cite>라는 事實에 對하야 簡單히 言及할 必要가 있을듯하다.  
|원문31번= {{TagSpage|32-2}}{{TagRef|36}}問題의 起源은 太祖 五年에 明廷에 보낸 賀正使 柳瑜 (明史에는 询)의 가지고 간 表箋에 있으니,<ref>太祖 四年 十月 庚子出發, 太祖實錄 卷八.</ref> 同 二月에 柳琬에게 隨行한 打角夫 金乙珍 押物 高仁伯 等이, 明廷 禮部의 咨文을 暨來하였다. {{TagRef|37}}그 文中에는 「洪武二十九年正朝表箋文內, 輕薄戯侮, 又生一釁, 是欲構兵不靖, 若以言辭侮慢, 興師問罪, 尙未可也, ……今所以不即興師者, 爲此令李諱, 知釁端之所以, 將撰文者至使者方歸缺」<ref>仝 五年 二月 丁酉, 仝上 卷九 三張.</ref>이라고 있어, 柳殉는 抑留하고, 그 箋文 記草의 責任者 逮送올 求한 것이다.{{TagRef|38}} 여긔 對하야 政府는 同 癸卯에 大將軍 郭海隆을 보내서 表箋의 文辭를 陳謝하게 하고, 表文 撰者成均大司成 鄭擢은 風疾로 難起하므로, 賀東宮箋文의 撰者 中樞院學士 (撰文時에는 判典校事) 金若恒을 管送하였다.<ref>仝上 癸丑, 仝上 卷九. 郭海龍 金若恒 兩人을 管送키 爲하야 此前 辛丑日에 各히 大將軍 中樞院 學士로 任命하였다.</ref> 明의 態度는 더욱 强硬하여 가서, 同 三月 丙戍에 計禀使 鄭撼 一行의 隨人이 歸國하였을 때의 明廷 禮部 咨文 中에는 印信과 誥命을 請한 文中에 紂를 引用한 點이 失禮라 하야, {{TagRef|39}}撰寫 校正한 者의 執送을 命하고 使者의 抑留를 通告하게 되었다.<ref>仝 三月 丙戍, 仝上 卷九.</ref>  또 同 四月 乙未에 明에 被宙하는 賀正使 柳狗 一行의 朴光春이 歸國하야 傳한 禮部 咨文{{TagPage|33}}에는, {{TagRef|40}}京師에 拘留한 進表使者의 家小를 送來하야 各官 諸衙門에 隸屬하지 않으면 使者를 金密衛 (今 雲南有 永昌)에 流하겟다고 하였다.<ref>仝 四月 乙未, 仝上.</ref> 六月 丁酉에 明使 牛牛,{{TagRef|41}} 王艘 等이 가지고 온 禮部 咨文에는 撰表人 鄭道傳, 鄭擢, 賀正使 柳瑜 等의 家小管送을 命하여 왓다.<ref>仝 六月 丁酉, 仝上.</ref> 撰表者라고 道傳의 이름이 이때 비로소 나게 된 것이나, 道傳의 이 箋文 執筆에 對한 責任은 後에 明廷에 辯明한 政府의 奏文에 依한즉, 撰表는 勿論, 改抹校正한 일도 없다 하니, 이 明廷의 嫌疑는 道傳에게는 寃罪라 하는 것이 妥當할 듯하다. 그러면 明廷에서 엇재서 道傳을 指名하게 되었나 하면, 筆者의 臆測으로는, {{TagRef|42}}明史에 「帝以表文語慢, 詰責之, 拘言表文乃門下評理鄭道傳所撰, 遂命逮道傳 」<ref>明史 卷三二二 列傅 外國 一 朝鮮 六張.</ref>이라고 있는 바와 같이 柳国의 입에서 나온 말을 信用한 것이 아닌가 한다. {{TagRef|43}}柳匍가 故意로 이런 誣吿를 하였든지 또는 當時 朝鮮 政府 內部에 있서 文物制度의 撰進에 道傳의 關與가 莫大함을 보고 이 表文도 道傳의 손에서 나온 것이라 無心히 吿한 것인지<ref>더욱 出發前 三日 丁酉에는 道傅이 新建宮殿의 諸殿을 命名하였다.</ref> 確信할 수 없다. {{TagRef|44}}그러나 後日 (太祖 六年 七月 丙辰) 楊添植의 獄事의 內容을 보면, 「楊添植, 與明使楊帖木兒牛牛宇, 屛人密語, 勸使臣率鄭道傳, 以歸」<ref>太祖 六年 七月 丙辰, 太祖實錄 卷十 二五張.</ref>라고 하야, 道傳의 管送 後現을 希望하는 分子가 朝鮮 內部에 있었든 것을 보면, 術가 萬若 道傳 反對派와 무슨 關係가 있었다면, 或 故意에서 나온 誣吿라고 할지 모르겠다. 그러나 지금은 殉에 關한 程度로서는 그런 嫌疑를 둘 수 없다. 同年 七月 癸亥에 參賛門下府事 南誾이 撰箋者와 柳琬等의 家小發遣을 中止하기를 請한 것을 보면, 當時의 朝廷 內 空氣가 不得己 家小逮送을 計劃하였던 것을 推測할 수 있다. 南誾의 이 反對連動을 單只 道傳 逮送을 要求함에 對한 反對라고만 보기 보담은, 明廷의 無理 不道한 囈迫에 對한 奮激의反抗이라고 하는 것이 當然하며, 이 後로 道傳, 南誾, 沈孝生 等 武力主義者들의 對明積極反抗 行勵이 일어나게 된 것을 보아도 此間의 消息을 推測할 수 있다. 이것을 道傳 個人의 生命保存運動이라고 보기에{{TagPage|34-1}}는 너무 不合理한 點이 많으며, 또 너무도 狹隘한 見解라 할 것이다.  
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|원문31번= {{TagSpage|32-2}}{{TagRef|36}}問題의 起源은 太祖 五年에 明廷에 보낸 賀正使 柳瑜 (明史에는 询)의 가지고 간 表箋에 있으니,<ref>太祖 四年 十月 庚子出發, 太祖實錄 卷八.</ref> 同 二月에 柳琬에게 隨行한 打角夫 金乙珍 押物 高仁伯 等이, 明廷 禮部의 咨文을 暨來하였다. {{TagRef|37}}그 文中에는 <cite no="XX">「洪武二十九年正朝表箋文內, 輕薄戯侮, 又生一釁, 是欲構兵不靖, 若以言辭侮慢, 興師問罪, 尙未可也, ……今所以不即興師者, 爲此令李諱, 知釁端之所以, 將撰文者至使者方歸缺」</cite><ref>仝 五年 二月 丁酉, 仝上 卷九 三張.</ref>이라고 있어, 柳殉는 抑留하고, 그 箋文 記草의 責任者 逮送올 求한 것이다.{{TagRef|38}} 여긔 對하야 政府는 同 癸卯에 大將軍 郭海隆을 보내서 表箋의 文辭를 陳謝하게 하고, 表文 撰者成均大司成 鄭擢은 風疾로 難起하므로, 賀東宮箋文의 撰者 中樞院學士 (撰文時에는 判典校事) 金若恒을 管送하였다.<ref>仝上 癸丑, 仝上 卷九. 郭海龍 金若恒 兩人을 管送키 爲하야 此前 辛丑日에 各히 大將軍 中樞院 學士로 任命하였다.</ref> 明의 態度는 더욱 强硬하여 가서, 同 三月 丙戍에 計禀使 鄭撼 一行의 隨人이 歸國하였을 때의 明廷 禮部 咨文 中에는 印信과 誥命을 請한 文中에 紂를 引用한 點이 失禮라 하야, {{TagRef|39}}撰寫 校正한 者의 執送을 命하고 使者의 抑留를 通告하게 되었다.<ref>仝 三月 丙戍, 仝上 卷九.</ref>  또 同 四月 乙未에 明에 被宙하는 賀正使 柳狗 一行의 朴光春이 歸國하야 傳한 禮部 咨文{{TagPage|33}}에는, {{TagRef|40}}京師에 拘留한 進表使者의 家小를 送來하야 各官 諸衙門에 隸屬하지 않으면 使者를 金密衛 (今 雲南有 永昌)에 流하겟다고 하였다.<ref>仝 四月 乙未, 仝上.</ref> 六月 丁酉에 明使 牛牛,{{TagRef|41}} 王艘 等이 가지고 온 禮部 咨文에는 撰表人 鄭道傳, 鄭擢, 賀正使 柳瑜 等의 家小管送을 命하여 왓다.<ref>仝 六月 丁酉, 仝上.</ref> 撰表者라고 道傳의 이름이 이때 비로소 나게 된 것이나, 道傳의 이 箋文 執筆에 對한 責任은 後에 明廷에 辯明한 政府의 奏文에 依한즉, 撰表는 勿論, 改抹校正한 일도 없다 하니, 이 明廷의 嫌疑는 道傳에게는 寃罪라 하는 것이 妥當할 듯하다. 그러면 明廷에서 엇재서 道傳을 指名하게 되었나 하면, 筆者의 臆測으로는, {{TagRef|42}}明史에 <cite no="XX">「帝以表文語慢, 詰責之, 拘言表文乃門下評理鄭道傳所撰, 遂命逮道傳」</cite><ref>明史 卷三二二 列傅 外國 一 朝鮮 六張.</ref>이라고 있는 바와 같이 柳国의 입에서 나온 말을 信用한 것이 아닌가 한다. {{TagRef|43}}柳匍가 故意로 이런 誣吿를 하였든지 또는 當時 朝鮮 政府 內部에 있서 文物制度의 撰進에 道傳의 關與가 莫大함을 보고 이 表文도 道傳의 손에서 나온 것이라 無心히 吿한 것인지<ref>더욱 出發前 三日 丁酉에는 道傅이 新建宮殿의 諸殿을 命名하였다.</ref> 確信할 수 없다. {{TagRef|44}}그러나 後日 (太祖 六年 七月 丙辰) 楊添植의 獄事의 內容을 보면, <cite no="XX">「楊添植, 與明使楊帖木兒牛牛宇, 屛人密語, 勸使臣率鄭道傳, 以歸」<ref>太祖 六年 七月 丙辰, 太祖實錄 卷十 二五張.</cite></ref>라고 하야, 道傳의 管送 後現을 希望하는 分子가 朝鮮 內部에 있었든 것을 보면, 術가 萬若 道傳 反對派와 무슨 關係가 있었다면, 或 故意에서 나온 誣吿라고 할지 모르겠다. 그러나 지금은 殉에 關한 程度로서는 그런 嫌疑를 둘 수 없다. 同年 七月 癸亥에 參賛門下府事 南誾이 撰箋者와 柳琬等의 家小發遣을 中止하기를 請한 것을 보면, 當時의 朝廷 內 空氣가 不得己 家小逮送을 計劃하였던 것을 推測할 수 있다. 南誾의 이 反對連動을 單只 道傳 逮送을 要求함에 對한 反對라고만 보기 보담은, 明廷의 無理 不道한 囈迫에 對한 奮激의反抗이라고 하는 것이 當然하며, 이 後로 道傳, 南誾, 沈孝生 等 武力主義者들의 對明積極反抗 行勵이 일어나게 된 것을 보아도 此間의 消息을 推測할 수 있다. 이것을 道傳 個人의 生命保存運動이라고 보기에{{TagPage|34-1}}는 너무 不合理한 點이 많으며, 또 너무도 狹隘한 見解라 할 것이다.  
|원문32번= {{TagSpage|34-2}}{{TagRef|45}}前者 六月 丁酉에 온 明使牛牛 一行 中의 宋学羅가 七月 甲戍에 歸明할 때, 判司譯院事 李乙修를 管押使로하야 撰表箋人藝文春秋舘學士 權近, 右承旨 鄭擢, 啓禀校正者인 敬興府舍人 盧仁度를 管送하였다.<ref>仝 五年 七月 甲戍, 仝 卷十 一張.</ref> 道傳이 萬若 撰文하엿다면, 道傳만이 이 一行에 빠질 理由가 萬無하며, 또 朝廷의 物議와 公論이 이것을 就過할 理가 없을 것이어늘, 이런 證迹이 하나도 없을 뿐 안이라, {{TagRef|46}}도로혀 太宗實錄 中의 河崙傳에 「丙子, 高皇帝, 以箋文不謹, 徵我主文者鄭道傳, 入朝, 太祖密訪廷臣, 廷臣遣否, 皆顧望以爲不必遣, 崙獨言遣之便」이라고 있어,<ref>太宗十六年 十一月 癸巳 靑山府院君 河崙卒條, 太宗實錄 卷三十二 二十六張.</ref>當時의 朝議의 所歸를 可知할 것이다. 이 形勢를 반드시 朝臣들이 鄭道傳의 成勢에 㤼나서 그렇다고 하는 것은 後世 芳遠 一派의 曲解라 할 것이다. {{TagRef|47}}더욱 이때 이 一行과 同行한 啓禀使 河崙(漢城府使)이 携去한 奏文 中에 「前者進正旦衆, 箋文內輕薄戲侮着, 將撰文者發來, 止送撰箋者, 至其撰表人鄭道傳鄭擢, 至今不見送到, 今再差牛牛等, 其鄭道傳旣於鄭擢所撰表文,不曾改抹校正,事無干連, 又緣本人患敲脹脚氣病證不能起送, 所據柳爾等各項使臣, ……未蒙放還……今, 撰文人鄭擢, 金若恒等, 旣己欽依赴京, 更候明降, 伏望聚慈寬宥, 以慰國人之望」<ref>太祖五年十月甲戍, 太祖實錄卷十 二張.</ref>이라고 한 것을 參酌하면, 箋文의 直接責任者는 鄭擢과 金若恒이라는 것이 가장 明白하다. 그리고 이 奏文 中에 前者의 使臣 等의 家小管送을 免하기를 請한 것을 보면 前揭 河崙傳 中의 當時 朝臣의 態度와 合하야, 南誾 一派의 强硬論이 多少間 勢力을 얻었던 것을 알겟다, 그러나 明廷의 觸怒笹 憶慨하는 政府는 同 十一月 甲戍에 鄭拋, 權近, 金若恒, 盧仁度 等의 家小틀 管送하게 되었다.  
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|원문32번= {{TagSpage|34-2}}{{TagRef|45}}前者 六月 丁酉에 온 明使牛牛 一行 中의 宋学羅가 七月 甲戍에 歸明할 때, 判司譯院事 李乙修를 管押使로하야 撰表箋人藝文春秋舘學士 權近, 右承旨 鄭擢, 啓禀校正者인 敬興府舍人 盧仁度를 管送하였다.<ref>仝 五年 七月 甲戍, 仝 卷十 一張.</ref> 道傳이 萬若 撰文하엿다면, 道傳만이 이 一行에 빠질 理由가 萬無하며, 또 朝廷의 物議와 公論이 이것을 就過할 理가 없을 것이어늘, 이런 證迹이 하나도 없을 뿐 안이라, {{TagRef|46}}도로혀 太宗實錄 中의 河崙傳에 <cite no="XX">「丙子, 高皇帝, 以箋文不謹, 徵我主文者鄭道傳, 入朝, 太祖密訪廷臣, 廷臣遣否, 皆顧望以爲不必遣, 崙獨言遣之便」</cite>이라고 있어,<ref>太宗十六年 十一月 癸巳 靑山府院君 河崙卒條, 太宗實錄 卷三十二 二十六張.</ref>當時의 朝議의 所歸를 可知할 것이다. 이 形勢를 반드시 朝臣들이 鄭道傳의 成勢에 㤼나서 그렇다고 하는 것은 後世 芳遠 一派의 曲解라 할 것이다. {{TagRef|47}}더욱 이때 이 一行과 同行한 啓禀使 河崙(漢城府使)이 携去한 奏文 中에 <cite no="XX">「前者進正旦衆, 箋文內輕薄戲侮着, 將撰文者發來, 止送撰箋者, 至其撰表人鄭道傳鄭擢, 至今不見送到, 今再差牛牛等, 其鄭道傳旣於鄭擢所撰表文,不曾改抹校正,事無干連, 又緣本人患敲脹脚氣病證不能起送, 所據柳爾等各項使臣, ……未蒙放還……今, 撰文人鄭擢, 金若恒等, 旣己欽依赴京, 更候明降, 伏望聚慈寬宥, 以慰國人之望」</cite><ref>太祖五年十月甲戍, 太祖實錄卷十 二張.</ref>이라고 한 것을 參酌하면, 箋文의 直接責任者는 鄭擢과 金若恒이라는 것이 가장 明白하다. 그리고 이 奏文 中에 前者의 使臣 等의 家小管送을 免하기를 請한 것을 보면 前揭 河崙傳 中의 當時 朝臣의 態度와 合하야, 南誾 一派의 强硬論이 多少間 勢力을 얻었던 것을 알겟다, 그러나 明廷의 觸怒笹 憶慨하는 政府는 同 十一月 甲戍에 鄭拋, 權近, 金若恒, 盧仁度 等의 家小틀 管送하게 되었다.  
|원문33번= {{TagSpage|34-3}} 그 直後 同月 戊午에는 河崙과 鄭擢이 明에서 歸國하고, 그 時에 가지고온 禮部 咨文 中에는 다시 戲侮를 作하기를 念慮하야 表箋 撰者룔 留置하고 微職을 주겟다 하며,(註四十八) 同 庚申에는 謝恩進表使 權仲和, 進箋使 具成老 及 被{{TagPage|35-1}}留의 使臣柳瑜와 鄭臣義도 歸國하야, 이 問題에 一段落을 지운 것 같이 보였다. 이러한 明廷의 態度 緩和는 河崙과 權近의 明廷에 對한 敷奏 詳明이 成功하였다 한다, 表箋 撰者라고 道傳과 並呼하던 鄭擢(其實은 擢만이 責任者) 이 被許歸國한 것을 보면, 이때에 이 問題는 一次 解決하였다고 보아도 좋을 것 같다, 勿論 表箋 撰者를 留置한다는 말은 있으나 이것은 金若恒을 가르친 것이며, 鄭摠은 被留하였으나 表箋撰者라고 볼 수 없는 것이 自明하다.  
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|원문33번= {{TagSpage|34-3}}{{TagRef|48}} 그 直後 同月 戊午에는 河崙과 鄭擢이 明에서 歸國하고, 그 時에 가지고온 禮部 咨文 中에는 다시 戲侮를 作하기를 念慮하야 表箋 撰者룔 留置하고 微職을 주겟다 하며,<ref>仝 十一月 戊午, 庚申, 仝上 卷十.</ref>同 庚申에는 謝恩進表使 權仲和, 進箋使 具成老 及 被{{TagPage|35-1}}留의 使臣柳瑜와 鄭臣義도 歸國하야, 이 問題에 一段落을 지운 것 같이 보였다. 이러한 明廷의 態度 緩和는 河崙과 權近의 明廷에 對한 敷奏 詳明이 成功하였다 한다, 表箋 撰者라고 道傳과 並呼하던 鄭擢(其實은 擢만이 責任者) 이 被許歸國한 것을 보면, 이때에 이 問題는 一次 解決하였다고 보아도 좋을 것 같다, 勿論 表箋 撰者를 留置한다는 말은 있으나 이것은 金若恒을 가르친 것이며, 鄭摠은 被留하였으나 表箋撰者라고 볼 수 없는 것이 自明하다.  
|원문34번= {{TagSpage|35-2}}그러나 異常한 것은 이 直後 明使 牛牛와 偕行한 楊添植과 (同月 甲戍發), 謝恩使로 造明한 偿長壽 辛有賢(同 丁丑 發) 等이, 翌 六年 四月에 歸國하였을 때 道傳의 問題는 復活되어서 明帝가 道傳을 叱責함이 甚하였다, 곧 其時 咨文 中에 「開阈承家, 小人仞用, 朝鮮新造 所用之人, 見在表鬼 此非三韓生靈之福, 乃三韓之禍首也, ……今朝鮮國王李瘴所用文人鄭道傳者, 於王之助何爲也, 王若一小悟, 人心禍源环, 令就, 据, 盧仁废, 金若恒若在朝鲜, 必鄭道傳之羽翼, 即因各人己招禍及其身矣, 王其審之, 若不精審,國棉又將登假手於人」(註四十九)라고 있어管送하라는 말은 없으나 道傳을 小人이라 하며 禍首라 하니. 이것은 明帝가 道傳의 最初 入朝하지 않음을 怒한 것인지, 또는 明廷에 가서 道傳을 中傷한 人物이 있었던 때문인지, 引用한 文意와 權近의 師國을 許한 것을 보면, 草箋 問題는 解洗되었다 할것이며. 더욱 萬若 道傳이 箋文에 關係있는 것을 如前히 明廷에서 믿었드라면 管送을 默許할 道理가 萬無하겠다. 이것은 常特 明廷의 高壓的 態度와 細細한 問題를 一一이 問責하는 方針으로 보아서도. 推測할 수 있다. 이러한 疑間을 가지고 보면, 上記 謝恩使가 歸國한 三日後의 壬寅에 憲司가 楊天植을 切하고, 또 偰長壽와 權近을 劾한 것이 有意하게 보인다.(五十) 期錄에는 當時의 疏文을 볼 수 없으니 内容을 知悉하지 못하겟으나 權近에게 關한 点은 「瓶辱皆不得還, 獨近賞金遣之, 果如臣料, 請鞫之」라 하되, 이 賞金問題는 太祖實錄에 王이 下{{TagPage|36}}賜한 것이라 하니 이곳에는, 別로 이 問題로 할 것 없다고 不問하기로 하고 他 兩人에게 對하여는 「天植, 長壽, 亦道傳 所忌也, 翻以入上國有所言也」라 한 것을 보면, 上記 疑問이 明廷에 道傳을 中傷한 嫌疑가 이 兩人에게 있었다는 것을 可知하겠다. 實錄 中의 記事로는 道傳派가 이 兩人을 誣吿하였다는 主旨나, 事實을 探査하면 이 兩人의 態度에도 疑心할 點이 있다 하기 보담도, 憲司의 彈劾이 도리어 適當하다고 보이는 點이 많을 것 같다. 揚天植이란 如何한 人物인지 些細한 閱歷을 지금 明白히 할 수 없으나, 처음에 五年 六月 丁酉에 道傳, 擢, 柳瑜 等의 家小管送을 命한 明使 牛牛는 通事 楊添植 (天植과 同人이라고 믿는다, 考證은 畧)의 從人 金長이 引導하야 왓다하며, 이때 添靠이 「與明使楊帖木兒牛牛等, 屛人密語, 勸使臣, 率鄭道傳以歸, 且賂曹恂以匹帛奴婢, 謀免其罪」(註五十一)의 罪가 있었다 하야, 後日 太祖 六年 七月에 「籍沒家產, 徙諸海上, 終身不齒」하게 된 것을 보면, 五年 十一月에 明使 牛牛 等이 歸國할 때 戶曹典書로 同行한 添植이가(註五十二) 一次 解決된 것 같은 問題를 다시 어렵게 하여서 가지고 온 것을 보아 明廷에 가서 道傳을 中傷하였다 하는 嫌疑가 當然히 일어날 것이다. 또 偰長壽에 關하야는 確證을 얻을 수 없으나 四月 已亥에 前記 道傳에 關한 禮部 咨文을 奉한 後, 明帝의 宣諭를 傳하야 「二月 初二日 帝御右順門, 引見長壽等, 李某沒分暁, 鄭道傳用他做甚麽」(註五十三) 云云하였다하니, 長壽가 明廷에 道傳을 中傷하였다는 證迹을 볼 수는 없으나 明帝와 道傳에게 關한 말을 交換한것은 事實이며, 歸國 後에 그것을 王에게 傳한것도 事實이다. 그뿐 아니라 그 內容이 鄭에게 不利하였던 것도 亦 周圍의 狀態로 보아 推測할 수가 있다. 이 兩人이 何故로 道傳을 明廷에 中傷하였는가 하는 黠에 對하여는 探査할 手段이 없으니, 長壽는 明帝의 意中을 忖度하야 그것을 맞기에 努力할 뿐이엿다고 好意로 볼 수도 있으나, 楊天植의 前者의 積極的 態度는 이만으로 看過할 수 없으니, 天植이 或 道傳 反對派의{{TagPage|37-1}}利用함이 되었든지 또는 自身이 무슨 含怨할 理由가 있었든지 이 兩者에 벗어나지 않을 것이다. 左右間 이러한 問題 보담 中心인 道傳의 明廷에 對한 獲罪라 함은 結局 그 無理한 管送을 좇지 않은 것이며, 이것은 自己 一身만에 對한 것이 아니다. 다른 直接 責任者의 管送에도 不賛成하였으며, 더욱 그 家小의 管送에는 絕對로 反對한 것이다. 이것은 明廷의 理由없는 壓迫에 對한 反抗이니, 芳遠 一派가 이것을 如何히 「罪」라고 하드라도, 이 點에 있어서는 道傳 一派로 보면, 屈辱을 甘受하면서 「無罪」를 期望하지 않겠다 할 것이다. 곧 道傳 等은 이러한 明廷의 高壓的 態度에는 一時 屈服하드라도 底止함이 없이 去去益甚할 것을 믿고, 明廷에 對한 實力抗爭을 決意한 것이다, 兵政 改革에 瘁心하던 道傳 等의 兵力 充實 遞動이 이 前後로부터 더욱 一時에 活氣를 呈하게 된 것은 이런 强固한 決意가 心底에 潜在한 까닭이라고 한다,  
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|원문34번= {{TagSpage|35-2}}그러나 異常한 것은 이 直後 明使 牛牛와 偕行한 楊添植과 (同月 甲戍發), 謝恩使로 造明한 偿長壽 辛有賢(同 丁丑 發) 等이, 翌 六年 四月에 歸國하였을 때 道傳의 問題는 復活되어서 明帝가 道傳을 叱責함이 甚하였다, {{TagRef|49}}곧 其時 咨文 中에 <cite no="XX">「開阈承家, 小人仞用, 朝鮮新造 所用之人, 見在表鬼 此非三韓生靈之福, 乃三韓之禍首也, ……今朝鮮國王李瘴所用文人鄭道傳者, 於王之助何爲也, 王若一小悟, 人心禍源环, 令就, 据, 盧仁废, 金若恒若在朝鲜, 必鄭道傳之羽翼, 即因各人己招禍及其身矣, 王其審之, 若不精審,國棉又將登假手於人」</cite><ref>仝 六年 四月 己亥, 仝上 卷十一 九-十一張.</ref>라고 있어管送하라는 말은 없으나 道傳을 小人이라 하며 禍首라 하니. 이것은 明帝가 道傳의 最初 入朝하지 않음을 怒한 것인지, 또는 明廷에 가서 道傳을 中傷한 人物이 있었던 때문인지, 引用한 文意와 權近의 師國을 許한 것을 보면, 草箋 問題는 解洗되었다 할것이며. 더욱 萬若 道傳이 箋文에 關係있는 것을 如前히 明廷에서 믿었드라면 管送을 默許할 道理가 萬無하겠다. 이것은 常特 明廷의 高壓的 態度와 細細한 問題를 一一이 問責하는 方針으로 보아서도. 推測할 수 있다. 이러한 疑間을 가지고 보면, 上記 謝恩使가 歸國한 三日後의 壬寅에 憲司가 楊天植을 切하고, 또 偰長壽와 權近을 劾한 것이 有意하게 보인다.{{TagRef|50}}<ref>仝 六年 四月 壬寅, 仝上 卷十一 十一 二張.</ref> 記錄에는 當時의 疏文을 볼 수 없으니 内容을 知悉하지 못하겟으나 權近에게 關한 点은 <cite no="XX">「瓶辱皆不得還, 獨近賞金遣之, 果如臣料, 請鞫之」</cite>라 하되, 이 賞金問題는 太祖實錄에 王이 下{{TagPage|36}}賜한 것이라 하니 이곳에는, 別로 이 問題로 할 것 없다고 不問하기로 하고 他 兩人에게 對하여는 <cite no="XX">「天植, 長壽, 亦道傳 所忌也, 翻以入上國有所言也」</cite>라 한 것을 보면, 上記 疑問이 明廷에 道傳을 中傷한 嫌疑가 이 兩人에게 있었다는 것을 可知하겠다. 實錄 中의 記事로는 道傳派가 이 兩人을 誣吿하였다는 主旨나, 事實을 探査하면 이 兩人의 態度에도 疑心할 點이 있다 하기 보담도, 憲司의 彈劾이 도리어 適當하다고 보이는 點이 많을 것 같다. 揚天植이란 如何한 人物인지 些細한 閱歷을 지금 明白히 할 수 없으나, 처음에 五年 六月 丁酉에 道傳, 擢, 柳瑜 等의 家小管送을 命한 明使 牛牛는 通事 楊添植 (天植과 同人이라고 믿는다, 考證은 畧)의 從人 金長이 引導하야 왓다하며, {{TagRef|51}}이때 添靠이 <cite no="XX">「與明使楊帖木兒牛牛等, 屛人密語, 勸使臣, 率鄭道傳以歸, 且賂曹恂以匹帛奴婢, 謀免其罪」</cite><ref>仝 七月 丙辰, 仝上 卷十二 五張.</ref> 의 罪가 있었다 하야, 後日 太祖 六年 七月에 <cite no="XX">「籍沒家產, 徙諸海上, 終身不齒」</cite>하게 된 것을 보면, {{TagRef|52}}五年 十一月에 明使 牛牛 等이 歸國할 때 戶曹典書로 同行한 添植이가<ref>仝 五年 十一月 乙亥, 仝上 卷十一.</ref>  一次 解決된 것 같은 問題를 다시 어렵게 하여서 가지고 온 것을 보아 明廷에 가서 道傳을 中傷하였다 하는 嫌疑가 當然히 일어날 것이다. 또 偰長壽에 關하야는 確證을 얻을 수 없으나 四月 已亥에 前記 道傳에 關한 禮部 咨文을 奉한 後, {{TagRef|53}}明帝의 宣諭를 傳하야 <cite no="XX">「二月 初二日 帝御右順門, 引見長壽等, 李某沒分暁, 鄭道傳用他做甚麽」</cite><ref>仝 六年 四月 已亥, 仝上 卷十一 十-十一張.</ref> 云云하였다하니, 長壽가 明廷에 道傳을 中傷하였다는 證迹을 볼 수는 없으나 明帝와 道傳에게 關한 말을 交換한것은 事實이며, 歸國 後에 그것을 王에게 傳한것도 事實이다. 그뿐 아니라 그 內容이 鄭에게 不利하였던 것도 亦 周圍의 狀態로 보아 推測할 수가 있다. 이 兩人이 何故로 道傳을 明廷에 中傷하였는가 하는 黠에 對하여는 探査할 手段이 없으니, 長壽는 明帝의 意中을 忖度하야 그것을 맞기에 努力할 뿐이엿다고 好意로 볼 수도 있으나, 楊天植의 前者의 積極的 態度는 이만으로 看過할 수 없으니, 天植이 或 道傳 反對派의{{TagPage|37-1}}利用함이 되었든지 또는 自身이 무슨 含怨할 理由가 있었든지 이 兩者에 벗어나지 않을 것이다. 左右間 이러한 問題 보담 中心인 道傳의 明廷에 對한 獲罪라 함은 結局 그 無理한 管送을 좇지 않은 것이며, 이것은 自己 一身만에 對한 것이 아니다. 다른 直接 責任者의 管送에도 不賛成하였으며, 더욱 그 家小의 管送에는 絕對로 反對한 것이다. 이것은 明廷의 理由없는 壓迫에 對한 反抗이니, 芳遠 一派가 이것을 如何히 「罪」라고 하드라도, 이 點에 있어서는 道傳 一派로 보면, 屈辱을 甘受하면서 「無罪」를 期望하지 않겠다 할 것이다. 곧 道傳 等은 이러한 明廷의 高壓的 態度에는 一時 屈服하드라도 底止함이 없이 去去益甚할 것을 믿고, 明廷에 對한 實力抗爭을 決意한 것이다, 兵政 改革에 瘁心하던 道傳 等의 兵力 充實 遞動이 이 前後로부터 더욱 一時에 活氣를 呈하게 된 것은 이런 强固한 決意가 心底에 潜在한 까닭이라고 한다,  
|원문35번= {{TagSpage|37-2}}太祖 六年 六月 甲午에 判義興府使 鄭道傳이 五陳圖와 蒐狩圖를 撰進하였으므로, 王이 命하야 訓導官을 두어서 敎導하게 하고, 各節制使, 軍官, 西班各品, 成衆愛馬에게 陳圖를 講習시키고 通曉한 者률 各道에 分遣敎之 하였다는 記錄 中에 「時, 鄭道傳, 南誾, 沈孝生等, 謀興兵出境, 獻議於 上, 抵左政承趙浚之第諭之, 浚方疾病, 乃以與進闕 極言不可曰, 本國自古不失事大之禮, 且以新造之邦, 輕擧無名之丘八, 甚爲不可, 雖以利害壽之, 天朝堂堂, 無釁可圖 臣恐擧事不集, 而變生不虞也, 上聞之悅, 闍憤然曰, 政丞於出納斗升之事, 則可矣, 不可與圖大事也, 由是, 関等與浚有隙」(註五十四)이라고 있는 것을 보면, 道傳 等이 出兵 討遼할 具體的 腹案까지 가졌던 것이 明白하며, 이 問題를 中心으로 하야 武力的 積極侵畧主義의 鄭 一派와 文治的 消極的 平和主義의 趙浚이, 內部에서 暗暗 間에 相爭하였던 것을 可知하겠다. 다못 太祖가 趙浚의 自重主義에 賛成하는 態度가, 鄭 南 一派의 激烈한 逃動을 一時 눌렀을 뿐이다.
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|원문35번= {{TagSpage|37-2}}太祖 六年 六月 甲午에 判義興府使 鄭道傳이 五陳圖와 蒐狩圖를 撰進하였으므로, 王이 命하야 訓導官을 두어서 敎導하게 하고, {{TagRef|54}}各節制使, 軍官, 西班各品, 成衆愛馬에게 陳圖를 講習시키고 通曉한 者률 各道에 分遣敎之 하였다는 記錄 中에 <cite no="XX">「時, 鄭道傳, 南誾, 沈孝生等, 謀興兵出境, 獻議於 上, 抵左政承趙浚之第諭之, 浚方疾病, 乃以與進闕 極言不可曰, 本國自古不失事大之禮, 且以新造之邦, 輕擧無名之丘八, 甚爲不可, 雖以利害壽之, 天朝堂堂, 無釁可圖 臣恐擧事不集, 而變生不虞也, 上聞之悅, 闍憤然曰, 政丞於出納斗升之事, 則可矣, 不可與圖大事也, 由是, 関等與浚有隙」</cite> <ref>仝 六月 甲午, 仝上 卷十一 十六張.</ref> 이라고 있는 것을 보면, 道傳 等이 出兵 討遼할 具體的 腹案까지 가졌던 것이 明白하며, 이 問題를 中心으로 하야 武力的 積極侵畧主義의 鄭 一派와 文治的 消極的 平和主義의 趙浚이, 內部에서 暗暗 間에 相爭하였던 것을 可知하겠다. 다못 太祖가 趙浚의 自重主義에 賛成하는 態度가, 鄭 南 一派의 激烈한 逃動을 一時 눌렀을 뿐이다.
|원문36번= {{TagSpage|38}}이 後에도 鄭南 等은 이 大望을 버리지 않고, 軍糧의 充實과 兵力의 調鍊에는 特別한 注意를 加하였다. 그러나 同 六年 十二月에 道傳이 東北面宣撫察使로 任命되어 離京하였으므로,(註五十五) 그 歸京한 翌 七年 三月까지의 사이에는(註五十六) 이 運動의 形勢를 알 수 없으나, 그 歸京 賜宴席上에서, 南誾이 節制使를 官軍에 合하자는 「私兵」 革罷의 上言을 痛論한 것을 보면,(註五十七) 이 運動이 亦 對明準備의 하나임을 推測할 수 있다, 그러나 明廷의 此 種 廳迫은 이 前後로도 조금 減하지 않고 難題가 頻發하야, 此等 强硬派를 더욱 煽動하고 있었다. 곧 道傳의 東西面 出發 前의 十一月 癸亥에는 賀聖節使 鄭允輔가 明으로 歸國하야, 明에 抑留된 鄭擒, 金若恒, 盧仁度 等의 被殺을 報吿하였으며,(註五十八) 十二月 丙申에는 千秋使 柳顒의 打角夫 崔浩가 明으로 歸國하야, 明 禮部尙書 鄭沂의 書를 傳하야 啓本의 用字가 譏訓에 涉하므로 그 使臣을 拘하고 撰寫人을 管送하라고 하였으며,(註五十九) 이에 對하야 政府는 道傳 出發後 同月 丙午에 通事 郭海龍을 보내서 陳謝하게 하고, 또 寫啓本人 禮曹典書 曹庶를 管送하였다.(註六十) 翌 七年 二月에는 賀正使 趙胖 等이 登州까지 갔다가 齊王 (明 太祖 第七子)의 阻止를 받아 無爲歸國하고, 道傳 歸京한 後 五月 庚申에는, 上耕의 被留人 曹庶의 從人 崔祿이 歸國하야, 明 禮部侍郞 張炳의 書와 庶及 郭海龍의 招狀을 가지고 와서, 千秋節의 啓本에 譏侮의 字가 있음을 責하고, 庶와 같이 撰文한 前 禮曹正郞 尹珪 成均司成 孔俯 禮曹正郞 尹須의 管送을 要求하여 왔다.(註八十一) 同 壬戍에 王은 百官 耆老를모아 孔俯 等 三人의 送明 與否를 議하였으나 决치 않고, 西原君 韓尙 敬等 十數人이 그 不可를 論하였으나, 大多數는 管送의 不得己함을 말할 뿐이요 王은 左政丞 趙浚과 議論하였으나 猶豫不決하였다. 이에 對하야 閏五月 戊寅에 右散騎常侍 卞仲良 等이 上疏하야 此等 三人의 發遣不可를 痛論하고, 「留此三人, 具狀辯明其寃, 队科小對匕警被留鄭萼金若恒, 宋希靖, 吳珍, 楊遇, 盧仁度, 吳世謙, 權乙松, 柳{{TagPage|39-1}}瀬, 鄭安止, 曹庶, 郭海龍等家, 時加存問, 優養其父母妻子, 以示仁愛」할 것을 請하였다. 王이 이 上疏를 都評議使司에게 擬議시킨 結果는, 다 發遣觀變하자 함에 있었다 한다.(註六十二) 이것을 보아도 아는 바와 같이 當時 王과 朝臣이 上下 一致하야 明廷의 態度에 憤激困却을 하였으나, 大部分의 意見은 消極的 屈服이 結局 得策이라 하는 것이며, 急激派는 積極的 抗爭을 主張한 것이다. 卞仲良 等은 自强之勢를 보이면, 明廷이라도 조금 念慮하야 이 같은 侮辱을 하지는 않을 것이라 하는 것이나, 鄭, 南, 沈 等은 自進하야 攻擊하자는 것이었으니, 더 一層 積極的이라고 하겠다. 그러므로, 이러한 氣分이 反映되어 軍兵講習은 猛烈의 度를 加하여가서, 閏五月 癸卯와 그 翌日에 陣圖를 楊州 牧場에 習하고, 六月 戊辰에 宦者 朴英文을 全羅, 慶尙道에 보내서 陳圖講習의 能否를 點檢하고, 七月 己亥에 巡軍千戶 金千益을 全羅, 慶尙道 名鎭에 보내서 僉節制使의 陳圖에 通하지 못한 者를 答하고, 八月 丁未에는 憲司가 三軍節制使, 上大將軍等 二百九十二人을 陳圖不習의 罪로 劾하고, 同 庚戍에는 諸道陳圖敎訓者틀 杖하고, 陳圖에 通한 者 五人을 뽑아 各道에 分遣하고, 同 壬子에는 節制使 以下 大小員將, 陳圖를 講習하지 않는 者를 責罰 하는 等, 緊張한 訓鍊이 連續하는 中에, 同 丁巳에 王이 不豫하게 되고, 그 己巳에 問題의 突變이 나게 되었다.  
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|원문36번= {{TagSpage|38}}{{TagRef|55}}이 後에도 鄭南 等은 이 大望을 버리지 않고, 軍糧의 充實과 兵力의 調鍊에는 特別한 注意를 加하였다. 그러나 同 六年 十二月에 道傳이 東北面宣撫察使로 任命되어 離京하였으므로,<ref>仝 十二月 庚子, 仝上 卷十二.</ref> {{TagRef|56}}그 歸京한 翌 七年 三月까지의 사이에는<ref>仝 丁卯, 仝上 卷十三.</ref>이 運動의 形勢를 알 수 없으나, 그 歸京 賜宴席上에서, {{TagRef|57}}南誾이 節制使를 官軍에 合하자는 「私兵」 革罷의 上言을 痛論한 것을 보면,<ref>仝 七年 三月 丁卯, 仝上 卷十三 九張.</ref> 이 運動이 亦 對明準備의 하나임을 推測할 수 있다, 그러나 明廷의 此 種 廳迫은 이 前後로도 조금 減하지 않고 難題가 頻發하야, 此等 强硬派를 더욱 煽動하고 있었다. {{TagRef|58}}곧 道傳의 東西面 出發 前의 十一月 癸亥에는 賀聖節使 鄭允輔가 明으로 歸國하야, 明에 抑留된 鄭擒, 金若恒, 盧仁度 等의 被殺을 報吿하였으며,<ref>仝 六年 十一月 癸亥, 戊寅, 仝上 卷十二.</ref> 十二月 丙申에는 千秋使 柳顒의 打角夫 崔浩가 明으로 歸國하야, {{TagRef|59}}明 禮部尙書 鄭沂의 書를 傳하야 啓本의 用字가 譏訓에 涉하므로 그 使臣을 拘하고 撰寫人을 管送하라고 하였으며,<ref>仝 十二月 丙申, 仝上 卷十二.</ref>  이에 對하야 政府는 道傳 出發後 同月 丙午에 通事 郭海龍을 보내서 陳謝하게 하고, {{TagRef|60}}또 寫啓本人 禮曹典書 曹庶를 管送하였다.<ref>仝上 丙午, 仝上.</ref>  翌 七年 二月에는 賀正使 趙胖 等이 登州까지 갔다가 齊王 (明 太祖 第七子)의 阻止를 받아 無爲歸國하고, 道傳 歸京한 後 五月 庚申에는, 上耕의 被留人 曹庶의 從人 崔祿이 歸國하야, 明 禮部侍郞 張炳의 書와 庶及 郭海龍의 招狀을 가지고 와서, 千秋節의 啓本에 譏侮의 字가 있음을 責하고,{{TagRef|61}} 庶와 같이 撰文한 前 禮曹正郞 尹珪 成均司成 孔俯 禮曹正郞 尹須의 管送을 要求하여 왔다.<ref>仝 七年 五月 庚申, 仝上 卷十四</ref>同 壬戍에 王은 百官 耆老를모아 孔俯 等 三人의 送明 與否를 議하였으나 决치 않고, 西原君 韓尙 敬等 十數人이 그 不可를 論하였으나, 大多數는 管送의 不得己함을 말할 뿐이요 王은 左政丞 趙浚과 議論하였으나 猶豫不決하였다. 이에 對하야 閏五月 戊寅에 右散騎常侍 卞仲良 等이 上疏하야 此等 三人의 發遣不可를 痛論하고, <cite no="XX">「留此三人, 具狀辯明其寃, 队科小對匕警被留鄭萼金若恒, 宋希靖, 吳珍, 楊遇, 盧仁度, 吳世謙, 權乙松, 柳{{TagPage|39-1}}瀬, 鄭安止, 曹庶, 郭海龍等家, 時加存問, 優養其父母妻子, 以示仁愛」</cite>할 것을 請하였다. 王이 이 上疏를 都評議使司에게 擬議시킨 結果는, {{TagRef|62}}다 發遣觀變하자 함에 있었다 한다.<ref>仝 六月 丁未에 一行을 押送, 仝上 卷十四.</ref>이것을 보아도 아는 바와 같이 當時 王과 朝臣이 上下 一致하야 明廷의 態度에 憤激困却을 하였으나, 大部分의 意見은 消極的 屈服이 結局 得策이라 하는 것이며, 急激派는 積極的 抗爭을 主張한 것이다. 卞仲良 等은 自强之勢를 보이면, 明廷이라도 조금 念慮하야 이 같은 侮辱을 하지는 않을 것이라 하는 것이나, 鄭, 南, 沈 等은 自進하야 攻擊하자는 것이었으니, 더 一層 積極的이라고 하겠다. 그러므로, 이러한 氣分이 反映되어 軍兵講習은 猛烈의 度를 加하여가서, 閏五月 癸卯와 그 翌日에 陣圖를 楊州 牧場에 習하고, 六月 戊辰에 宦者 朴英文을 全羅, 慶尙道에 보내서 陳圖講習의 能否를 點檢하고, 七月 己亥에 巡軍千戶 金千益을 全羅, 慶尙道 名鎭에 보내서 僉節制使의 陳圖에 通하지 못한 者를 答하고, 八月 丁未에는 憲司가 三軍節制使, 上大將軍等 二百九十二人을 陳圖不習의 罪로 劾하고, 同 庚戍에는 諸道陳圖敎訓者틀 杖하고, 陳圖에 通한 者 五人을 뽑아 各道에 分遣하고, 同 壬子에는 節制使 以下 大小員將, 陳圖를 講習하지 않는 者를 責罰 하는 等, 緊張한 訓鍊이 連續하는 中에, 同 丁巳에 王이 不豫하게 되고, 그 己巳에 問題의 突變이 나게 되었다.  
|원문37번= {{TagSpage|39-2}}이러한 形勢를 推察하여 보면, 此種 陳圖講習이 全혀 對明準備인것을 可知하或으며, 더욱「以攻遼故, 使習陳圖 (註六十三) ……如此其急」이란 말이 亦 그 眞相일듯하다. 그러나 이 攻遼 計劃을 「道傳稱疾不赴, 恐將有問罪之擧獻謀於 上以爲軍士不可不知兵法, 上陳圖」(註六十四)라든지 「(道傳)托疾不行, 乃陰謀, 以爲擧國而絕, 則己可免禍, 遂建言, 訓鍊將士, 軍國急務, 增置陳圖」(註六十五)라는 等의 觀測은 正確하지 못한 見解라 하겠다. 道傳의 箋文에 對한 責任은 이미 解消하였으며 그 後 偰長壽 歸國 時에 道傳을 叱責한 말은 있으나 管送하라든지 罰하라는 말을 볼 수는 없으니, 이때에 와서 道傳{{TagPage|40}}이 그 前科의 問罪받을 것을 念慮하야 準備할 必要가 없을 것이며, 더욱 이런 軍國大事를 個人의 生命保全을 爲하야 計劃하였다 볼 수도 없고, 또 道傳의 이러한 私的利害에 南誾, 沈孝生 等을 爲始하야 卞季良, 韓尙敬 等까지 或은 出兵을 主張하고 或은 自强之態를 보이자 할 리가 없다. 此等 强硬派의 主張은 亦是國家 百年의 計를 深心하였던 것이 確實하니, 이것을 道傳 一人의 私心 所出로 云云하는 後世의 短見과 曲解가 可嘆할 만하다. 이러한 缺點은 趙浚에게도 있으니, 戊寅難 直後 趙浚乞辭의 箋文 中에 「自道傳得罪於天子, 與南簡結好, 謀攻遼東, 規免一己之禍」(註六十六)라는 것이 그 例다. 勿論 浚은 道傳, 南誾 等의 攻遼에 極力反對한 當者인즉 趙가 道傳 等의 計劃을 惡意로 말함은, 當然할 뿐 아니라, 이 箋文이 또 道傳 敗歿의 直後이므로 그 文辭가 强하게 된 것도 推測할수있으나, 道傳 等의 計劃이 決코 그 罪를 免하려는等 消極的의 態度가 아니었던 것은, 「……遂建諄, 訓鍊將士, 軍國急務, 增置陳圖 訓導官大小中外官帶武職者, 下至軍卒, 幷令隸習, 考察嚴峻, 深結南誾, 使簡上書曰, 士卒己鍊, 糧餉己備, 可以乘時復東明之舊壤 太上殊不以爲然, 間屢言之, 太上問道傳, 道傳歷論往古外展得王中原者, 深以閭言爲可信」(註六十七)의 壯大한 抱負가 이것을 說明한다. 趙浚과 道傳이 麗末로부터 意氣 相投하야 李成桂의 兩手가 되고, 이때까지 運命을 같이하여 왔다가, 末頃에 相容하지 못하게 된 것은 實로 이 攻遼運動에 趙가 極力 反對한 때문이니, 道傳 等의 決心의 强固함을 알 수가 있다. 그 間의 消息은 「道傳, 間等詣趙浚第曰 攻遼之擧, 今己定矣, 公勿復有言, 浚答曰 予居 開國元勳之列, 豈有負殿下, 殿下即位之後, 因遷國都創始, 民困土木之役, 未見仁愛之施, 怨咨斯極, 糕餉不給, 安有率其怨民, 而能濟事者哉, 謂道傳曰, 萬一予與閣下, 率諸道之民, 以征其疾視也久矣, 豈肯用命乎, 吾恐身亡國敗, 不及遼而止矣, 病勢方熾, 未能興造, 願諸公, 以臣言復于上, 疾愈, 臣當親啓,  厥後, 浚力諫, 上從之」(註八十八)에 볼 수{{TagPage|41}}있으니, 浚의 深慮와 赤誠도 알 수가 있으며 또 그 論爭의 根據도 可知하다, 이러한 浚의 經濟的 自重論은 當時 武斷派 等의 興奮한 耳朶에 들어오지 않았으며, 그것이 너무도 卑屈的이라 하야 「闇憤然曰, 政丞於出納斗자之事 則可矣, 不可與圖大事也」라고 罵詈까지 하게 되었다. 浚이 이 사이의 友恃相曲를 「臣與道傳南闍, 同功一體, 初無纖毫之隔, 自道傳得罪於天子, 與南誾結好, 謀攻遼東, 規免一己之禍, 臣當是時, 病臥於家, 太上遣二人枉咨於臣力疾作氣, 上謁天門, 奮發愚衷, 得回天意, 邪謀遂阻, 由是, 二人與臣猜隙, 勢不相容, 路人所知」(註六十九)라고 後日에 述懷하였다. 그리고 이 問題로서 浚과 鄭, 南等이 서로 지지 않고, 太祖를 中心으로 하야 暗暗의 間에 論爭함이 月餘에 지난 것이 亦 太宗實錄 中의 趙浚傳에 依하야 알 수 있으며, 이 起의 反對와 太祖의 趙說 賛成에도 不拘坏고 鄭, 南 等은 依然히 攻遼를 斷念하지 않고, 極力 陳网를 訓習하였던 것은 上揭한 바와 같은 狀態이었으며, 그 別錬의 嚴格함과, 陳圖에 未通하거나 講習怠慢으로 受罰하는 軍官이 續出하였음도 上記한 바와 같다, 이 같은 鄭, 南等 武斷派의 嚴格한 態度가 當時 一般의 群怨을 받게 된 點이 不少하니, 그들의 地位가 亦後世의 우리 눈으로 보아 자못 危常한 虑地에 있었다고 하겠다 더욱 此種 强硬派가 鄭道傅, 南誾, 沈孝生 等 芳碩系의 實力파이며, 芳碩 推戴에는 道傅과 「同罪」이면서 그 最後의 突禍를 免한 趙浚이 出兵反對 國力充實의 主必者였던 點에 무슨 意味가 있지 않는가, 道傳等의 이러한 大志로서 나온 焦急한 集權政策이 周團의 群怨을 받게되었다는 點은, 아무리 하여도 認定하지 않을 수 없으니, 이 攻遼間题가 亦 戊寅難의 一 楔子가 된다고 할 수도 있겠다. 그러나 從來의 所觀과 같이 이 問題를 單純히 「得罪 高皇帝」라 하야, 그것이 무슨 道傳 纖除의 口實이나 되는 듯하는 淺薄牛陋한 俗說은, 一點의 價値가 없다 할 것이다. (未完)
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|원문37번= {{TagSpage|39-2}}이러한 形勢를 推察하여 보면, 此種 陳圖講習이 全혀 對明準備인것을 可知하或으며, {{TagRef|63}} 더욱「以攻遼故, 使習陳圖 <ref>仝 七年 閏五月 壬子, 仝上 卷十四 十八張.</ref>……如此其急」이란 말이 亦 그 眞相일듯하다. {{TagRef|64}} 그러나 이 攻遼 計劃을 <cite no="XX">「道傳稱疾不赴, 恐將有問罪之擧獻謀於 上以爲軍士不可不知兵法, 上陳圖」</cite><ref>仝上 癸卯 甲辰, 仝上.</ref>라든지 {{TagRef|65}} <cite no="XX">「(道傳)托疾不行, 乃陰謀, 以爲擧國而絕, 則己可免禍, 遂建言, 訓鍊將士, 軍國急務, 增置陳圖」</cite><ref>太宗 五年 六月 辛卯 趙浚卒條, 太宗實錄 卷九 二十五張</ref>라는 等의 觀測은 正確하지 못한 見解라 하겠다. 道傳의 箋文에 對한 責任은 이미 解消하였으며 그 後 偰長壽 歸國 時에 道傳을 叱責한 말은 있으나 管送하라든지 罰하라는 말을 볼 수는 없으니, 이때에 와서 道傳{{TagPage|40}}이 그 前科의 問罪받을 것을 念慮하야 準備할 必要가 없을 것이며, 더욱 이런 軍國大事를 個人의 生命保全을 爲하야 計劃하였다 볼 수도 없고, 또 道傳의 이러한 私的利害에 南誾, 沈孝生 等을 爲始하야 卞季良, 韓尙敬 等까지 或은 出兵을 主張하고 或은 自强之態를 보이자 할 리가 없다. 此等 强硬派의 主張은 亦是國家 百年의 計를 深心하였던 것이 確實하니, 이것을 道傳 一人의 私心 所出로 云云하는 後世의 短見과 曲解가 可嘆할 만하다. 이러한 缺點은 趙浚에게도 있으니, {{TagRef|66}} 戊寅難 直後 趙浚乞辭의 箋文 中에 <cite no="XX">「自道傳得罪於天子, 與南簡結好, 謀攻遼東, 規免一己之禍」</cite><ref>定宗 元年 八月 庚子 定宗實錄 卷二 四五張.</ref>라는 것이 그 例다. 勿論 浚은 道傳, 南誾 等의 攻遼에 極力反對한 當者인즉 趙가 道傳 等의 計劃을 惡意로 말함은, 當然할 뿐 아니라, 이 箋文이 또 道傳 敗歿의 直後이므로 그 文辭가 强하게 된 것도 推測할수있으나, 道傳 等의 計劃이 決코 그 罪를 免하려는等 消極的의 態度가 아니었던 것은, {{TagRef|67}}<cite no="XX">「……遂建諄, 訓鍊將士, 軍國急務, 增置陳圖 訓導官大小中外官帶武職者, 下至軍卒, 幷令隸習, 考察嚴峻, 深結南誾, 使簡上書曰, 士卒己鍊, 糧餉己備, 可以乘時復東明之舊壤 太上殊不以爲然, 間屢言之, 太上問道傳, 道傳歷論往古外展得王中原者, 深以閭言爲可信」</cite><ref>註六十五와 同.</ref>의 壯大한 抱負가 이것을 說明한다. 趙浚과 道傳이 麗末로부터 意氣 相投하야 李成桂의 兩手가 되고, 이때까지 運命을 같이하여 왔다가, 末頃에 相容하지 못하게 된 것은 實로 이 攻遼運動에 趙가 極力 反對한 때문이니, 道傳 等의 決心의 强固함을 알 수가 있다. {{TagRef|68}}그 間의 消息은 <cite no="XX">「道傳, 間等詣趙浚第曰 攻遼之擧, 今己定矣, 公勿復有言, 浚答曰 予居 開國元勳之列, 豈有負殿下, 殿下即位之後, 因遷國都創始, 民困土木之役, 未見仁愛之施, 怨咨斯極, 糕餉不給, 安有率其怨民, 而能濟事者哉, 謂道傳曰, 萬一予與閣下, 率諸道之民, 以征其疾視也久矣, 豈肯用命乎, 吾恐身亡國敗, 不及遼而止矣, 病勢方熾, 未能興造, 願諸公, 以臣言復于上, 疾愈, 臣當親啓,  厥後, 浚力諫, 上從之」</cite><ref>太祖 七年 閏五月 壬子, 太祖實錄 卷十四 十八張.</ref>에 볼 수{{TagPage|41}}있으니, 浚의 深慮와 赤誠도 알 수가 있으며 또 그 論爭의 根據도 可知하다, 이러한 浚의 經濟的 自重論은 當時 武斷派 等의 興奮한 耳朶에 들어오지 않았으며, 그것이 너무도 卑屈的이라 하야 <cite no="XX">「闇憤然曰, 政丞於出納斗자之事 則可矣, 不可與圖大事也」</cite>라고 罵詈까지 하게 되었다. {{TagRef|69}}浚이 이 사이의 友恃相曲를 <cite no="XX">「臣與道傳南闍, 同功一體, 初無纖毫之隔, 自道傳得罪於天子, 與南誾結好, 謀攻遼東, 規免一己之禍, 臣當是時, 病臥於家, 太上遣二人枉咨於臣力疾作氣, 上謁天門, 奮發愚衷, 得回天意, 邪謀遂阻, 由是, 二人與臣猜隙, 勢不相容, 路人所知」</cite><ref>註六十六과 同.</ref>라고 後日에 述懷하였다. 그리고 이 問題로서 浚과 鄭, 南等이 서로 지지 않고, 太祖를 中心으로 하야 暗暗의 間에 論爭함이 月餘에 지난 것이 亦 太宗實錄 中의 趙浚傳에 依하야 알 수 있으며, 이 起의 反對와 太祖의 趙說 賛成에도 不拘坏고 鄭, 南 等은 依然히 攻遼를 斷念하지 않고, 極力 陳网를 訓習하였던 것은 上揭한 바와 같은 狀態이었으며, 그 別錬의 嚴格함과, 陳圖에 未通하거나 講習怠慢으로 受罰하는 軍官이 續出하였음도 上記한 바와 같다, 이 같은 鄭, 南等 武斷派의 嚴格한 態度가 當時 一般의 群怨을 받게 된 點이 不少하니, 그들의 地位가 亦後世의 우리 눈으로 보아 자못 危常한 虑地에 있었다고 하겠다 더욱 此種 强硬派가 鄭道傅, 南誾, 沈孝生 等 芳碩系의 實力파이며, 芳碩 推戴에는 道傅과 「同罪」이면서 그 最後의 突禍를 免한 趙浚이 出兵反對 國力充實의 主必者였던 點에 무슨 意味가 있지 않는가, 道傳等의 이러한 大志로서 나온 焦急한 集權政策이 周團의 群怨을 받게되었다는 點은, 아무리 하여도 認定하지 않을 수 없으니, 이 攻遼間题가 亦 戊寅難의 一 楔子가 된다고 할 수도 있겠다. 그러나 從來의 所觀과 같이 이 問題를 單純히 <cite no="XX">「得罪 高皇帝」</cite>라 하야, 그것이 무슨 道傳 纖除의 口實이나 되는 듯하는 淺薄牛陋한 俗說은, 一點의 價値가 없다 할 것이다. (未完)
  
  
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|해독문1번= 이조 초기의 조선사회를 연구하려 하면 여러 방면으로 고찰할 필요가 있을 것이나 가장 평범한 방법으로도 종래의 사승(史乘) 상에 문제 많은 인물을 다시 고찰하므로 가장 간편히 큰 수확을 얻을 수 있으리라고 생각한다. 이 점은 종래의 역사가 근래의 소위 학문적 방법의 결핍 혹은 전무에 의한 결점 외에 그 기록과 소전(所傳)이 너무도 공평함을 잃은 태도의 소산이므로 보아서, 숙독심안(熟讀深案)하여 세심히 당시의 진상을 적출할 필요가 있는 때문이다. 필자는 원래 소위 역사상 저명한 개인의 사적 공과의 논평에는 특별한 흥미도 없고, 또 이러한 고증을 본의로 하지도 않으나, 여상(如上)의 의미에 있어서 종래의 인물 평가와 전기에는 절심(絕深)한 불평을 가지고 있으므로 그 일례를 이에 약기(略記)하여볼까 한다.
 
|해독문1번= 이조 초기의 조선사회를 연구하려 하면 여러 방면으로 고찰할 필요가 있을 것이나 가장 평범한 방법으로도 종래의 사승(史乘) 상에 문제 많은 인물을 다시 고찰하므로 가장 간편히 큰 수확을 얻을 수 있으리라고 생각한다. 이 점은 종래의 역사가 근래의 소위 학문적 방법의 결핍 혹은 전무에 의한 결점 외에 그 기록과 소전(所傳)이 너무도 공평함을 잃은 태도의 소산이므로 보아서, 숙독심안(熟讀深案)하여 세심히 당시의 진상을 적출할 필요가 있는 때문이다. 필자는 원래 소위 역사상 저명한 개인의 사적 공과의 논평에는 특별한 흥미도 없고, 또 이러한 고증을 본의로 하지도 않으나, 여상(如上)의 의미에 있어서 종래의 인물 평가와 전기에는 절심(絕深)한 불평을 가지고 있으므로 그 일례를 이에 약기(略記)하여볼까 한다.
|해독문2번= 이러한 관점으로 우리 사상의 인물을 점검하면 문제의 표적이 많을 것이나 더욱 여말 국초의 허다한 인물은 그 시기가 왕조 교체기인 만큼 검사할 문제가 많다. 三峯(삼봉) 鄭道傳(정도전)은 그 중에도 가장 현저한 일례이니, 삼봉의 一上一下(일상일하) 하고 一顯一沒(일현일몰)하던 반복한 생애도 문제가 많거니와 그 막대한 공적에 비하여 참담한 최후를 어떻게 해석하여야 할지 毀譽(훼예)가 紛紜(분운)하고 流傳(유전)이 不少(불소)한즉 그 진상을 포착하기 지난한 형세에 있다. 三峯集(삼봉집) 십사권이(주1) 있으나 이 점에는 아무 명답을 주지 않으니, 각종의 주위와 형세를 추찰하여 산출하는 결론으로 焦急(초급)히 장담하기는 어려울듯하나, 일종의 해석으로 통용하게 되면 다행일까 한다.  
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|해독문2번= 이러한 관점으로 우리 사상의 인물을 점검하면 문제의 표적이 많을 것이나 더욱 여말 국초의 허다한 인물은 그 시기가 왕조 교체기인 만큼 검사할 문제가 많다. 삼봉 정도전은 그 중에도 가장 현저한 일례이니, 삼봉의 일상일하(一上一下) 하고 일현일몰(一顯一沒)하던 반복한 생애도 문제가 많거니와 그 막대한 공적에 비하여 참담한 최후를 어떻게 해석하여야 할지 훼예(毀譽)가 분운(紛紜)하고 유전(流傳)이 불소(不少)한즉 그 진상을 포착하기 지난한 형세에 있다. {{TagRefI|1}}三峯集(삼봉집) 십사권이<ref group="a">삼봉집 14권 태조 6년 (홍무 정축 서기 1397)에 시간, 성종 18년(성화 정미 서기 1487) 중간</ref> 있으나 이 점에는 아무 명답을 주지 않으니, 각종의 주위와 형세를 추찰하여 산출하는 결론으로 초급히 장담하기는 어려울듯하나, 일종의 해석으로 통용하게 되면 다행일까 한다.  
|해독문3번= 삼봉의 전기는 전기 삼봉집에(주2) 의하여 알 수 있으며, 髙麗史(고려사)와 기타의 舊蹟(구적)을 종합하여 흥미있는 문제가 불소하나 이 논고 중에는 삼봉의 전반생, 아니 생애의 대부분 즉 가장 활발하고 榮辱交至(영욕교지)하던 생존 시는 잠깐 주제 외로 두고, 그의 전광석화같이 몰락한 최후, 소위 恭昭之難(공소지난) 또는 戊寅之亂(무인지란)의 진상을 중심으로 고구해보고, 그 몰후에 삼봉의 일신에 첨가된 세평을 따라서 考査(고사)하여볼까 한다.
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|해독문3번= {{TagRefI|2}}삼봉의 전기는 전기 삼봉집에 <ref group="a">삼봉집 권54 부록 사실.</ref> 의하여 알 수 있으며, 고려사와 기타의 구적(舊蹟)을 종합하여 흥미있는 문제가 불소하나 이 논고 중에는 삼봉의 전반생, 아니 생애의 대부분 즉 가장 활발하고 영욕교지(榮辱交至)하던 생존 시는 잠깐 주제 외로 두고, 그의 전광석화같이 몰락한 최후, 소위 공소지난(恭昭之難) 또는 무인지란(戊寅之亂)의 진상을 중심으로 고구해보고, 그 몰후에 삼봉의 일신에 첨가된 세평을 따라서 고사(考査)하여볼까 한다.
 
|해독문4번= 삼봉이 피주(被誅)한 태조 7년 8월 26일의 돌변에 대한 태조실록의 기재를 먼저 일독할 필요가 있다.
 
|해독문4번= 삼봉이 피주(被誅)한 태조 7년 8월 26일의 돌변에 대한 태조실록의 기재를 먼저 일독할 필요가 있다.
|해독문5번= <blockquote no="01">己巳, 奉化伯鄭道傳, 宜城君南誾, 及富城君沈孝生等, 謀害諸王子, 不克, 伏誅, 初 上以 靖安君開國之功, 諸子無與爲比, 特 賜世傳東北面加別赤五百餘戶, 其後以諸王子及功臣, 爲各道節制使, 分管侍衛兵馬, 靖安君全羅道, 撫安君芳蕃東北面, 於是, 靖安君, 以加別赤, 讓芳蕃, 芳蕃受而不辭, 上知之, 亦不責還也, 道傳, 間等, 謀欲擅權, 貧立幼孽, 謂孝生孤寒易制, 譽其女有婦德, 精爲世子芳碩嬪, 與世子同母兄芳蕃, 姊夫興安君李濟等, 同謀多樹黨與, 將欲去諸王子, 暗嗾宦者金師幸密啓, 請依中朝諸皇封王之例, 分遣諸王子於各道, 上 不答, 其後, 上諷諭 靖安君曰, 外間之議, 汝輩不可不知, 宜論諸兄戒愼之, 道傳等又嗾卞仲良上疏,  請罷諸王 子兵權, 至再三, 上不允, 卜者安植曰, 世子異母兄, 有天命者非.道傳聞之曰, 即當除之, 何患乎, 義安君和 知其謀, 密吿 靖安君, 至是宦者曹恂傳旨曰, 予病甚不欲接人,  惟世子外, 母得入見, 師幸恂皆其黨也, 道傳, 閭, 孝生, 判中樞李勲, 前恭賛李茂, 興城君張至和, 星山君李稷等, 托以省問 上疾, 日夜聚松覗闍妾家, 相與 密謀.令芳碩, 濟, 及親軍衛都鎭撫朴藏,  左副承旨盧石柱, 右副承知卞仲良, 在內, 稱 上病篤, 急召諸王子, 入則以內奴及甲士攻之, 道傳閭等外應, 初财古巴麥恥, 先是, 蹟安君密謂知安山那事李叔蕃曰, 姦殲在平時, 固無疑矣, 伺上違豫必生變, 予若召汝則宜速來, 至是, 閔無咎以埔安君命, 召之而至.時, 上病劇, 靖安君及:益安君芳毅, 懷安君芳幹, 淸原君沈惊, 上黨君李伯卿, 義安君和, 及李濟等, 皆會宿勤政殿門外西廊, 至是日哺. 時, 閔無疾詣靖安君邸, 入與夫人偶語良久, 夫人急召小斤曰, 汝速詣闕, 請公來, 小斤曰, 諸君皆會一廳, 奴將何辭以吿, 夫人曰, 汝以我胸腹卒痛奔吿則 公當速來矣, 小斤, 牽馬詣西廊, 具吿之, 義安君贈以請心蘇合 等藥曰, 宜速往治之, 靖安君即還邸,  俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎立密語良久, 夫人執君衣, 請勿詣闕, 君曰豈可畏死不詣, 且諸兄皆在禁中, 不可不使知之, 若有變則我當出來擧兵, 以觀國人之心也, 乃拂衣而出, 夫人追及戶外曰, 愼之愼之, 日己昏矣, 時命罷諸王子所領侍衛牌, 己十餘日矣, 唯芳蕃撼兵如舊, 靖安君初罷兵, 盡燒營中軍器至是, 夫人潜備兵仗, 爲應變計, 李茂素有中立之計, 密以閣等謀, 甞吿靖安, 至是, 隨無疾來謁, 少頃先去, 茂無疾之近姻也, 竹城君朴苞亦徃來其間, 暗伺彼之動靜, 於是, 靖安君命無咎, 使叔蕃備兵甲, 宿于本邸門前辛克禮家待變. 乃詣闕入西廊, 直宿諸君皆不留馬, 獨靖安君使小斤秣馬西廊後, 芳蕃將入內, 靖安君呼之, 芳蕃搔首逡巡不應而入, 至初夜, 有人自內出曰 上疾劇, 欲避病, 諸王子速入內, 從者命勿許入,和, 琮, 濟, 先出立庭, 靖安君與益安, 懷安, 上黨諸君, 暫立戶內, 密語, 舊制, 宮中諸門夜必張燈, 至是, 見宮門無燈, 益疑之, 和, 及濟, 琮, 先入內, 靖安君稱腹痛, 出西廊門外, 入厠坐思良久, 益安, 懷安等走出, 呼靖安君者再, 君曰, 諸兄是何高聲呼耶, 乃立以兩袖拍之曰, 勢不得己也, 卽馳馬出宮城西門, 益安, 懷(安), 上黨, 皆步走, 唯上黨能及靖安君馬, 益安懷安, 或仆蹭, 靖安君使馬天牧, 召芳蕃曰, 請出來從我, 厥終彼亦不全汝矣, 芳蕃臥內廊房, 見天牧, 起坐聞訖, 還臥, 芳蕃億從,皆無賴之徒, 唯事射御, 且妄欲謀移儲位久矣, 一日謂芳蕃曰 吾等己緣中, 乾使公得代芳碩位, 敎命將至矣, 請母出以待, 芳蕃信而不出外人哂之, 靖安知其不相容, 故召之不從, 靖安君到本邸洞口軍營前路, 駐馬呼叔蕃, 叔蕃率壯士二人, 甲而出, 安益公仓安)上羸懷安父子亦得騎馬, 有李居易, 趙英茂.辛克禮, 徐益, 文彬, 沈龜齡等, 皆歸心靖安者也"至是, 無咎, 無疾, 皆會, 騎兵纔十, 步卒纔九人, 乃出夫人所備鐵槍, 中折分與軍士, 諸君從者及备人奴僕十餘皆執杖, 獨小斤把翎, 君馳至栽所北癒呼叔蕃曰, 今日之事若之何. 叔蕃對曰, 事己至此不須懼也, 請出軍暁辭君命以山城二字, 行岌三軍府門前以待天命. 芳碩等, 聞變欲率兵出戰, 令軍士禮賓少卿奉元良, 登宫南門, 覘軍衆寡, 自光化門至南山, 鐵騎彌滿, 芳碩等惧不敢出, 時人以爲神助, 君又呼叔蕃曰, 如何則可, 叔蕃對曰, 到姦黨會所, 以兵圍而火之, 出者輒殺可矣, 夜二鼓, 將過松覗, 叔蕃奔馬吿曰, 此小洞即間妾家也, 靖安君駐馬, 先使步卒小斤等十餘人, 圍其家有鞍馬數匹, 其在門外奴僕皆睡, 道傳間等, 張燈會坐言笑, 小斤等窺戶未入, 忽有三矢相繼落屋瓦有聲, 小斤等還出洞口, 問矢之所從來, 叔蕃曰我矢也. 令小斤等還入圍之. 火其隣家三處, 道傳等皆逃匿, 孝生, 勲, 至和等皆見殺, 道傳逃入其隣前判事閔富家, 富吿曰, 有皤腹者入吾家, 君知其爲道傳, 乃令小斤等四人, 捕之, 道傳伏閨中, 小斤等叱之出外, 道傳持尺劎不能行步, 匍匐而出, 小斤等叱令棄劎, 道傳棄劎出門曰, 請勿殺, 願二言而死, 小斤等曳出至靖安君馬前, 道傳曰, 昔者公旣活我, 願今亦活之, 昔者指壬申歲也, 君曰, 汝爲朝鮮奉化伯顧不足耶, 何爲惡至是也, 令斬之, 初夫人欲自至君所立處, 同其禍敗, 徒步而出, 君麾下士崔廣大等力諫止之, 間奴金夫分以道傳笠劎來, 夫人乃還, 道傳有子四人, 游泳聞變急赴, 爲游兵所殺, 湛自刎於家, 初湛吿於父曰, 今日之事不可不吿於靖安君也, 道傳曰, 我旣背髙麗, 今又背:此附彼, 人雖不, 獨無愧於心乎, 李茂, 出門中流矢, 乃曰我李茂也, 步卒將殺之靖安君曰勿殺, 乃與之馬, 閭, 率伴人河景崔泛等逃竄, 稷乘屋, 詐爲. 奴僕, 作滅火狀, 仍得逃免. 闕內人, 望見松靦火焰張天, 奔吿于上, 宮中衛士. 鼓角而噪, 李天祐, 自其家率伴二人將, 赴闕馬天牧望之, 追及於安國坊洞口曰, 非天祐令公乎, 天祐不答, 天牧曰, 令公不答而去則矢可畏也, 天祐曰, 汝非馬司直乎, 何呼我耶, 天牧答曰, 靖安君與諸王子會于此矣, 天祐趨詣靖安君, 且曰, 今擧此事, 何不早使我知之, 靖安君遣朴苞閔無疾, 召左政丞趙浚, 浚猶豫, 使卜者筮其去就, 而不即赴, 又使叔蕃促之, 靖安君迎至中路, 浚已與右政丞金士衡來, 帶甲伴人多從之, 到嘉會坊洞口橋, 步卒以兵把截曰, 唯兩政丞入, 浚士衡等, 下馬, 趨而過橋, 靖安君曰, 卿等何不憂李氏社稷, 浚士衡等.驚懼跪于馬前, 君曰, 道傳聞等舍心如世那象斜孙亦跳, 方幣我是以爲弱者先手也, 浚等叩頭冃術阡堂世警, 就虾也, 君曰, 如此大事, 宜吿國家, 今日之事, 勢迫不暇吿耳, 公等宜速合坐, 石柱, 神良, 在闕內, 使人呼都承旨李文和, 右承旨金陸于家, 文和奔至, 問曰上體若何石柱曰, 上疾篇, 牛夜子時, 欲避病于西小凉亭, 於是, 諸承旨俱謂勤政殿門, 都鎭撫朴歲, 立於勤政殿門, 高聲呼曰, 軍士來杏, 文和問曰, 此時避御乎, 何吹角耶, 菠曰, 何嗣避御, 奉化伯, 宜城君會處, 有數多軍馬, 圍而火之, 故吹角耳, 先是, 靖安君謂叔蕃曰, 勢力則不可敵矣, 斬道傳闍等然後, 我四五兄弟, 駐馬于三車府門前, 以槻國人之心, 人心不從則己, 翕然從之則我輩得生, 至是, 靖安君還到三軍府門前駐馬, 夜己四鼓, 素所注篱者, 相權來集矣, 賛成柳曼殊率子原之 謁馬前, 靖安君曰, 何故來耶, 曼殊曰, 聞上將移御臣家’今不移御, 且聞有變, 故急來欲侍衛耳, 曰甲而來乎, 曼殊曰否, 即與之甲, 令立馬後, 天祐吿曰, 曼殊乃道傳間之黨, 不可不殺, 埔安君曰, 不可, 懷安及天祐强之曰, 如此倉卒之際, 衆議不可沮也, 靖安君顧謂叔蕃曰, 勢難得己, 命數其罪, 曼殊即下馬, 執靖安君馬轡曰, 我當白之矣白之矣, 靖安君, 令從者解之, 殊猶, 堅執不解, 小斤以小刀剌頷下曼殊仰倒, 乃斬之, 靖安君謂原之曰, 汝無罪可歸家矣, 懷安, 追斬于融賓門前, 浚士衡等, 入坐都評議司, 靖安 君意荆, 方碩等若搴術士出宫門交戰, 則我軍少勢將却矣, 若稍却則合坐諸相, 當在彼軍之後而或從彼矣, 使人詳於都堂曰, 我兄弟在路上而諸相入坐都堂,  不可, 宜即移坐于雲從街上, 遂令禮曹, 率會百官, 親軍衛都鎭撫趙溫, 亦直宿闕內, 靖安君使人召溫及朴蕨, 湿聞命即以麾丁甲士牌頭等出謁馬前, 蕨不應良次, 不得己佩劎而出, 增宣君溫賞以待, 聽見筆勢弱, 乃吿曰, 凡諸處分乞待天明, 其志, 以謂天明則, 兵弱之形著而衆心不附矣, 靖诙君使赴都堂, 懷安請于君使人斬之, 靖安君命温盡出宿衛甲士, 溫即遣牌頭等入闕, 盡以宿衛甲士出, 於是, 勤政股以南, 甲士攏出, 脫甲棄兵, 命各自歸家, 初, 李茂, 見兵勢弱, 詐稱恍惚, 使人扶持, 白於靖安君曰, 中箭處痛甚. 請就都堂兒房, 休息, 君曰可, 小頃, 茂聞朴歲見誅, 即還出, 翌日鷄鳴, 上召石柱入內, 黎明不召文和, 文和詣西凉亭, 世子與芳蕃, 濟, 和, 良祐, 淙叩樞相張思吉, 張湛, 鄭臣義等. 皆己入內, 自諸君樞相大小內官丁至內奴, 皆被甲帶劎, 唯曹恂及金陸石柱仲良不甲, 石柱傳 旨文和曰, 製敎書, 文和曰請辭, 石柱曰, 倣韓山君所製誅三元帥敎書之意, 製之可也, 文和曰, 看知之乎, 石柱曰, 破賊之功一時之或有, 無君之心萬世之不宥, 是其詞也, 文和曰, 今之罪魁離歟, 石柱曰, 罪魁則更禀于上, 先可起草, 督之急, 文和執筆曰, 君亦解屬文以親禀之意製之, 我當書之, 石柱製曰, 某某等, 潜圖不軌, 欲害開國元勳某某等, 以漏洩被捉, 皆令就戮, 其刼從鷺與, 皆宥不問, 草成, 石桂賛草入啓, 上曰, 姑待兩政丞來, 擬議頒之, 已而, 都堂率百官, 聞于上曰, 道傳間孝生等, 結黨陰謀, 欲害我親勳, 以亂我國家, 臣等, 事迫不及以聞, 已得誅除, 願上勿驚, 李濟方在側, 復于土曰, 諸王子起兵, 共誅間等, 禍將及身, 請以衛士出攻, 上曰, 勿憂一禍豈及汝和亦止之曰, 自中事也. 不必相戰, 濟拨劎睥睨者數矣, 和安然不動, 時永安, 爲上禱病致齋于昭格殿, 聞變, 潜率一奴, 繩城而出, 步至豐壤,隱於金仁貴家, 靖安君使人尋之, 迎到宮城南門外, 日腾吳矣, 時人皆欲請於上, 以靖安君爲世子, 增安君固讓, 請以永安君爲世子, 永安君曰, 當初建義開國至於今日之事, 皆是靖安之功, 我不可爲世子, 靖安君讓益固曰, 欲定國本嘗在嫡長, 永安君曰, 然則我當有以處之. 於是, 靖安君令都堂率百官上疏曰, 立嫡以長萬世之經, 殿下捨長立幼, 道傳等挾世子欲害諸王子, 禍在不測, 幸賴天地宗社之靈, 亂臣伏誅, 願殿下立嫡長, 永安君爲世子, 疏上, 文和讀訖, 世子亦在側, 上良久曰, 皆吾子也, 何不可之有, 顧謂芳磧曰, 於汝便矣, 上旣允下, 在內諸相問何事, 文和答曰, 易世子也, 石柱奉敎草, 使文和署名, 文和不受, 次請和, 亦不受 次請坐 中諸相, 皆不受, 文和曰, 君之所製書, 何不自増乎, 石柱曰, 諾, 乃署名袖之, 石柱, 石柱入內, 承 命出曰, 教書改寫速下, 文和曰何以改之, 石柱曰, 開國功臣道傳南誾等, 潜圖不軌, 謀害王子宗室, 今己漏洩, 功不掩罪, 己皆就戳, 其刼從黨與, 罔治, 使仲良書以進, 上令侍女扶起, 押訖還臥, 病劇, 欲吐未吐曰, 如有物在咽喉間不下, 靖安君令軍器直長金謊, 開武庫, 出甲槍, 授火桶軍百餘人, 用勢稍振, 甲士申龍鳳, 入闕傳 靖安君言曰, 與安君撫安君各歸私第, 義安君以下何不出來, 睹君相目不言, 更督之, 和以下皆出, 惊, 由宮城水門逃出, 獨鄭臣義遲留, 促之乃出, 都堂請出芳硝, 上曰, 旣己判付, 出去何害, 芳, 碩泣辭, 賢嬪牽衣而哭, 芳磧拂衣而出, 初議置遠方, 出宮城西門, 李居易, 李伯卿, 趙璞等, 議于都堂, 使人殺于道, 都堂又請出芳蕃, 上謂芳蕃曰, 世子則己矣, 汝不過置遠方耳, 芳蕃將出宮, 城南門, 靖安君下馬入門內, 携手語曰.簡等旣剪除我輩, 則汝亦終不免, 故我招之, 汝何不從耶, 今雖出外, 未幾必曜矣, 好去好去, 將置通津, 過楊花渡, 宿渡丞館, 芳幹與李伯卿等, 又議於都堂,,使人殺之, 靖安君聞芳碩芳蕃之死, 密語叔蕃曰, 柳曼殊予尙欲保全, 况骨肉乎, 居易父子不吿於我, 議於都堂, 戕害我母氣, 今人心未定, 故我隱忍不敢示怒也, 汝母出僦言, 軍士執仲良石柱及南贄等以出, 仲良仰視靖安君曰, 我注意於公, 今己數年矣, 君曰, 彼口亦肉也, 贄, 聞之弟, 時爲右廂節制使, 並囚于巡 軍而追斬于路, 李濟出, 靖安君胴濟曰, 可歸本家, 上遂策, 永安宼爲世子, 敎曰, 立嫡以長萬世之經, 宗子維城 寡人之望, 惟爾父臣甞開國, 捨長立幼, 乃以芳碩爲世于, 於孙科点暫盐幺知, 置穿聾弋 小林制费曳容, 賢舟團瓦死虾趴硏八詠, 折陌會町 朴世林那, 如當就赤僧林部, 部蠻駅込, 日者, 道傳闔孝生至和等, 潜圖 不軌, 搖亂根本, 幸賴天地 宗社之佑, 罪人伏誅, 王室再安, 芳碩禍胎, 不可留置國都, 放諸東裔, 予旣悔前日之裡, 又因百僚之請, 席建爾爲王世子, 於戲, 克明其德, 無忝爾所生, 徃盡乃心, 鎭撫我社稷, 乃命文和, 金瞼, 出謁,世子, 世子召文和曰, 內無可侍衛者, 爾速還入內, 文和即還入, 曹恂宣毋子命曰, 除侍女及內奴外, 餘皆出之, 文和亦出, 世子曰, 爾何出來, 文和具吿其由, 世子曰非謂汝也, 宜速還入侍, 又谷上將軍李敷, 入內待衛 ... 南时选出城水門, 瞟於城外圃幕, 沄景等左右扶持, 暫不離焉, 間欲詣巡軍, 法等止之, 闔曰, 道傳爲人鼻故見誅我無憎之者, 自脂巡軍門外,(註三) 見斬……靖安君與諸王子, 張幕於監巡廳前, 會宿三日, 其後, 入褚三軍府, 至世子受內彈後, 各還私第.</blockquote>
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|해독문5번= <blockquote no="01">己巳, 奉化伯鄭道傳, 宜城君南誾, 及富城君沈孝生等, 謀害諸王子, 不克, 伏誅, 初 上以 靖安君開國之功, 諸子無與爲比, 特 賜世傳東北面加別赤五百餘戶, 其後以諸王子及功臣, 爲各道節制使, 分管侍衛兵馬, 靖安君全羅道, 撫安君芳蕃東北面, 於是, 靖安君, 以加別赤, 讓芳蕃, 芳蕃受而不辭, 上知之, 亦不責還也, 道傳, 間等, 謀欲擅權, 貧立幼孽, 謂孝生孤寒易制, 譽其女有婦德, 精爲世子芳碩嬪, 與世子同母兄芳蕃, 姊夫興安君李濟等, 同謀多樹黨與, 將欲去諸王子, 暗嗾宦者金師幸密啓, 請依中朝諸皇封王之例, 分遣諸王子於各道, 上 不答, 其後, 上諷諭 靖安君曰, 外間之議, 汝輩不可不知, 宜論諸兄戒愼之, 道傳等又嗾卞仲良上疏,  請罷諸王 子兵權, 至再三, 上不允, 卜者安植曰, 世子異母兄, 有天命者非.道傳聞之曰, 即當除之, 何患乎, 義安君和 知其謀, 密吿 靖安君, 至是宦者曹恂傳旨曰, 予病甚不欲接人,  惟世子外, 母得入見, 師幸恂皆其黨也, 道傳, 閭, 孝生, 判中樞李勲, 前恭賛李茂, 興城君張至和, 星山君李稷等, 托以省問 上疾, 日夜聚松覗闍妾家, 相與 密謀.令芳碩, 濟, 及親軍衛都鎭撫朴藏,  左副承旨盧石柱, 右副承知卞仲良, 在內, 稱 上病篤, 急召諸王子, 入則以內奴及甲士攻之, 道傳閭等外應, 初财古巴麥恥, 先是, 蹟安君密謂知安山那事李叔蕃曰, 姦殲在平時, 固無疑矣, 伺上違豫必生變, 予若召汝則宜速來, 至是, 閔無咎以埔安君命, 召之而至.時, 上病劇, 靖安君及:益安君芳毅, 懷安君芳幹, 淸原君沈惊, 上黨君李伯卿, 義安君和, 及李濟等, 皆會宿勤政殿門外西廊, 至是日哺. 時, 閔無疾詣靖安君邸, 入與夫人偶語良久, 夫人急召小斤曰, 汝速詣闕, 請公來, 小斤曰, 諸君皆會一廳, 奴將何辭以吿, 夫人曰, 汝以我胸腹卒痛奔吿則 公當速來矣, 小斤, 牽馬詣西廊, 具吿之, 義安君贈以請心蘇合 等藥曰, 宜速往治之, 靖安君即還邸,  俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎立密語良久, 夫人執君衣, 請勿詣闕, 君曰豈可畏死不詣, 且諸兄皆在禁中, 不可不使知之, 若有變則我當出來擧兵, 以觀國人之心也, 乃拂衣而出, 夫人追及戶外曰, 愼之愼之, 日己昏矣, 時命罷諸王子所領侍衛牌, 己十餘日矣, 唯芳蕃撼兵如舊, 靖安君初罷兵, 盡燒營中軍器至是, 夫人潜備兵仗, 爲應變計, 李茂素有中立之計, 密以閣等謀, 甞吿靖安, 至是, 隨無疾來謁, 少頃先去, 茂無疾之近姻也, 竹城君朴苞亦徃來其間, 暗伺彼之動靜, 於是, 靖安君命無咎, 使叔蕃備兵甲, 宿于本邸門前辛克禮家待變. 乃詣闕入西廊, 直宿諸君皆不留馬, 獨靖安君使小斤秣馬西廊後, 芳蕃將入內, 靖安君呼之, 芳蕃搔首逡巡不應而入, 至初夜, 有人自內出曰 上疾劇, 欲避病, 諸王子速入內, 從者命勿許入,和, 琮, 濟, 先出立庭, 靖安君與益安, 懷安, 上黨諸君, 暫立戶內, 密語, 舊制, 宮中諸門夜必張燈, 至是, 見宮門無燈, 益疑之, 和, 及濟, 琮, 先入內, 靖安君稱腹痛, 出西廊門外, 入厠坐思良久, 益安, 懷安等走出, 呼靖安君者再, 君曰, 諸兄是何高聲呼耶, 乃立以兩袖拍之曰, 勢不得己也, 卽馳馬出宮城西門, 益安, 懷(安), 上黨, 皆步走, 唯上黨能及靖安君馬, 益安懷安, 或仆蹭, 靖安君使馬天牧, 召芳蕃曰, 請出來從我, 厥終彼亦不全汝矣, 芳蕃臥內廊房, 見天牧, 起坐聞訖, 還臥, 芳蕃億從,皆無賴之徒, 唯事射御, 且妄欲謀移儲位久矣, 一日謂芳蕃曰 吾等己緣中, 乾使公得代芳碩位, 敎命將至矣, 請母出以待, 芳蕃信而不出外人哂之, 靖安知其不相容, 故召之不從, 靖安君到本邸洞口軍營前路, 駐馬呼叔蕃, 叔蕃率壯士二人, 甲而出, 安益公仓安)上羸懷安父子亦得騎馬, 有李居易, 趙英茂.辛克禮, 徐益, 文彬, 沈龜齡等, 皆歸心靖安者也"至是, 無咎, 無疾, 皆會, 騎兵纔十, 步卒纔九人, 乃出夫人所備鐵槍, 中折分與軍士, 諸君從者及备人奴僕十餘皆執杖, 獨小斤把翎, 君馳至栽所北癒呼叔蕃曰, 今日之事若之何. 叔蕃對曰, 事己至此不須懼也, 請出軍暁辭君命以山城二字, 行岌三軍府門前以待天命. 芳碩等, 聞變欲率兵出戰, 令軍士禮賓少卿奉元良, 登宫南門, 覘軍衆寡, 自光化門至南山, 鐵騎彌滿, 芳碩等惧不敢出, 時人以爲神助, 君又呼叔蕃曰, 如何則可, 叔蕃對曰, 到姦黨會所, 以兵圍而火之, 出者輒殺可矣, 夜二鼓, 將過松覗, 叔蕃奔馬吿曰, 此小洞即間妾家也, 靖安君駐馬, 先使步卒小斤等十餘人, 圍其家有鞍馬數匹, 其在門外奴僕皆睡, 道傳間等, 張燈會坐言笑, 小斤等窺戶未入, 忽有三矢相繼落屋瓦有聲, 小斤等還出洞口, 問矢之所從來, 叔蕃曰我矢也. 令小斤等還入圍之. 火其隣家三處, 道傳等皆逃匿, 孝生, 勲, 至和等皆見殺, 道傳逃入其隣前判事閔富家, 富吿曰, 有皤腹者入吾家, 君知其爲道傳, 乃令小斤等四人, 捕之, 道傳伏閨中, 小斤等叱之出外, 道傳持尺劎不能行步, 匍匐而出, 小斤等叱令棄劎, 道傳棄劎出門曰, 請勿殺, 願二言而死, 小斤等曳出至靖安君馬前, 道傳曰, 昔者公旣活我, 願今亦活之, 昔者指壬申歲也, 君曰, 汝爲朝鮮奉化伯顧不足耶, 何爲惡至是也, 令斬之, 初夫人欲自至君所立處, 同其禍敗, 徒步而出, 君麾下士崔廣大等力諫止之, 間奴金夫分以道傳笠劎來, 夫人乃還, 道傳有子四人, 游泳聞變急赴, 爲游兵所殺, 湛自刎於家, 初湛吿於父曰, 今日之事不可不吿於靖安君也, 道傳曰, 我旣背髙麗, 今又背:此附彼, 人雖不, 獨無愧於心乎, 李茂, 出門中流矢, 乃曰我李茂也, 步卒將殺之靖安君曰勿殺, 乃與之馬, 閭, 率伴人河景崔泛等逃竄, 稷乘屋, 詐爲. 奴僕, 作滅火狀, 仍得逃免. 闕內人, 望見松靦火焰張天, 奔吿于上, 宮中衛士. 鼓角而噪, 李天祐, 自其家率伴二人將, 赴闕馬天牧望之, 追及於安國坊洞口曰, 非天祐令公乎, 天祐不答, 天牧曰, 令公不答而去則矢可畏也, 天祐曰, 汝非馬司直乎, 何呼我耶, 天牧答曰, 靖安君與諸王子會于此矣, 天祐趨詣靖安君, 且曰, 今擧此事, 何不早使我知之, 靖安君遣朴苞閔無疾, 召左政丞趙浚, 浚猶豫, 使卜者筮其去就, 而不即赴, 又使叔蕃促之, 靖安君迎至中路, 浚已與右政丞金士衡來, 帶甲伴人多從之, 到嘉會坊洞口橋, 步卒以兵把截曰, 唯兩政丞入, 浚士衡等, 下馬, 趨而過橋, 靖安君曰, 卿等何不憂李氏社稷, 浚士衡等.驚懼跪于馬前, 君曰, 道傳聞等舍心如世那象斜孙亦跳, 方幣我是以爲弱者先手也, 浚等叩頭冃術阡堂世警, 就虾也, 君曰, 如此大事, 宜吿國家, 今日之事, 勢迫不暇吿耳, 公等宜速合坐, 石柱, 神良, 在闕內, 使人呼都承旨李文和, 右承旨金陸于家, 文和奔至, 問曰上體若何石柱曰, 上疾篇, 牛夜子時, 欲避病于西小凉亭, 於是, 諸承旨俱謂勤政殿門, 都鎭撫朴歲, 立於勤政殿門, 高聲呼曰, 軍士來杏, 文和問曰, 此時避御乎, 何吹角耶, 菠曰, 何嗣避御, 奉化伯, 宜城君會處, 有數多軍馬, 圍而火之, 故吹角耳, 先是, 靖安君謂叔蕃曰, 勢力則不可敵矣, 斬道傳闍等然後, 我四五兄弟, 駐馬于三車府門前, 以槻國人之心, 人心不從則己, 翕然從之則我輩得生, 至是, 靖安君還到三軍府門前駐馬, 夜己四鼓, 素所注篱者, 相權來集矣, 賛成柳曼殊率子原之 謁馬前, 靖安君曰, 何故來耶, 曼殊曰, 聞上將移御臣家’今不移御, 且聞有變, 故急來欲侍衛耳, 曰甲而來乎, 曼殊曰否, 即與之甲, 令立馬後, 天祐吿曰, 曼殊乃道傳間之黨, 不可不殺, 埔安君曰, 不可, 懷安及天祐强之曰, 如此倉卒之際, 衆議不可沮也, 靖安君顧謂叔蕃曰, 勢難得己, 命數其罪, 曼殊即下馬, 執靖安君馬轡曰, 我當白之矣白之矣, 靖安君, 令從者解之, 殊猶, 堅執不解, 小斤以小刀剌頷下曼殊仰倒, 乃斬之, 靖安君謂原之曰, 汝無罪可歸家矣, 懷安, 追斬于融賓門前, 浚士衡等, 入坐都評議司, 靖安 君意荆, 方碩等若搴術士出宫門交戰, 則我軍少勢將却矣, 若稍却則合坐諸相, 當在彼軍之後而或從彼矣, 使人詳於都堂曰, 我兄弟在路上而諸相入坐都堂,  不可, 宜即移坐于雲從街上, 遂令禮曹, 率會百官, 親軍衛都鎭撫趙溫, 亦直宿闕內, 靖安君使人召溫及朴蕨, 湿聞命即以麾丁甲士牌頭等出謁馬前, 蕨不應良次, 不得己佩劎而出, 增宣君溫賞以待, 聽見筆勢弱, 乃吿曰, 凡諸處分乞待天明, 其志, 以謂天明則, 兵弱之形著而衆心不附矣, 靖诙君使赴都堂, 懷安請于君使人斬之, 靖安君命温盡出宿衛甲士, 溫即遣牌頭等入闕, 盡以宿衛甲士出, 於是, 勤政股以南, 甲士攏出, 脫甲棄兵, 命各自歸家, 初, 李茂, 見兵勢弱, 詐稱恍惚, 使人扶持, 白於靖安君曰, 中箭處痛甚. 請就都堂兒房, 休息, 君曰可, 小頃, 茂聞朴歲見誅, 即還出, 翌日鷄鳴, 上召石柱入內, 黎明不召文和, 文和詣西凉亭, 世子與芳蕃, 濟, 和, 良祐, 淙叩樞相張思吉, 張湛, 鄭臣義等. 皆己入內, 自諸君樞相大小內官丁至內奴, 皆被甲帶劎, 唯曹恂及金陸石柱仲良不甲, 石柱傳 旨文和曰, 製敎書, 文和曰請辭, 石柱曰, 倣韓山君所製誅三元帥敎書之意, 製之可也, 文和曰, 看知之乎, 石柱曰, 破賊之功一時之或有, 無君之心萬世之不宥, 是其詞也, 文和曰, 今之罪魁離歟, 石柱曰, 罪魁則更禀于上, 先可起草, 督之急, 文和執筆曰, 君亦解屬文以親禀之意製之, 我當書之, 石柱製曰, 某某等, 潜圖不軌, 欲害開國元勳某某等, 以漏洩被捉, 皆令就戮, 其刼從鷺與, 皆宥不問, 草成, 石桂賛草入啓, 上曰, 姑待兩政丞來, 擬議頒之, 已而, 都堂率百官, 聞于上曰, 道傳間孝生等, 結黨陰謀, 欲害我親勳, 以亂我國家, 臣等, 事迫不及以聞, 已得誅除, 願上勿驚, 李濟方在側, 復于土曰, 諸王子起兵, 共誅間等, 禍將及身, 請以衛士出攻, 上曰, 勿憂一禍豈及汝和亦止之曰, 自中事也. 不必相戰, 濟拨劎睥睨者數矣, 和安然不動, 時永安, 爲上禱病致齋于昭格殿, 聞變, 潜率一奴, 繩城而出, 步至豐壤,隱於金仁貴家, 靖安君使人尋之, 迎到宮城南門外, 日腾吳矣, 時人皆欲請於上, 以靖安君爲世子, 增安君固讓, 請以永安君爲世子, 永安君曰, 當初建義開國至於今日之事, 皆是靖安之功, 我不可爲世子, 靖安君讓益固曰, 欲定國本嘗在嫡長, 永安君曰, 然則我當有以處之. 於是, 靖安君令都堂率百官上疏曰, 立嫡以長萬世之經, 殿下捨長立幼, 道傳等挾世子欲害諸王子, 禍在不測, 幸賴天地宗社之靈, 亂臣伏誅, 願殿下立嫡長, 永安君爲世子, 疏上, 文和讀訖, 世子亦在側, 上良久曰, 皆吾子也, 何不可之有, 顧謂芳磧曰, 於汝便矣, 上旣允下, 在內諸相問何事, 文和答曰, 易世子也, 石柱奉敎草, 使文和署名, 文和不受, 次請和, 亦不受 次請坐 中諸相, 皆不受, 文和曰, 君之所製書, 何不自増乎, 石柱曰, 諾, 乃署名袖之, 石柱, 石柱入內, 承 命出曰, 教書改寫速下, 文和曰何以改之, 石柱曰, 開國功臣道傳南誾等, 潜圖不軌, 謀害王子宗室, 今己漏洩, 功不掩罪, 己皆就戳, 其刼從黨與, 罔治, 使仲良書以進, 上令侍女扶起, 押訖還臥, 病劇, 欲吐未吐曰, 如有物在咽喉間不下, 靖安君令軍器直長金謊, 開武庫, 出甲槍, 授火桶軍百餘人, 用勢稍振, 甲士申龍鳳, 入闕傳 靖安君言曰, 與安君撫安君各歸私第, 義安君以下何不出來, 睹君相目不言, 更督之, 和以下皆出, 惊, 由宮城水門逃出, 獨鄭臣義遲留, 促之乃出, 都堂請出芳硝, 上曰, 旣己判付, 出去何害, 芳, 碩泣辭, 賢嬪牽衣而哭, 芳磧拂衣而出, 初議置遠方, 出宮城西門, 李居易, 李伯卿, 趙璞等, 議于都堂, 使人殺于道, 都堂又請出芳蕃, 上謂芳蕃曰, 世子則己矣, 汝不過置遠方耳, 芳蕃將出宮, 城南門, 靖安君下馬入門內, 携手語曰.簡等旣剪除我輩, 則汝亦終不免, 故我招之, 汝何不從耶, 今雖出外, 未幾必曜矣, 好去好去, 將置通津, 過楊花渡, 宿渡丞館, 芳幹與李伯卿等, 又議於都堂,,使人殺之, 靖安君聞芳碩芳蕃之死, 密語叔蕃曰, 柳曼殊予尙欲保全, 况骨肉乎, 居易父子不吿於我, 議於都堂, 戕害我母氣, 今人心未定, 故我隱忍不敢示怒也, 汝母出僦言, 軍士執仲良石柱及南贄等以出, 仲良仰視靖安君曰, 我注意於公, 今己數年矣, 君曰, 彼口亦肉也, 贄, 聞之弟, 時爲右廂節制使, 並囚于巡 軍而追斬于路, 李濟出, 靖安君胴濟曰, 可歸本家, 上遂策, 永安宼爲世子, 敎曰, 立嫡以長萬世之經, 宗子維城 寡人之望, 惟爾父臣甞開國, 捨長立幼, 乃以芳碩爲世于, 於孙科点暫盐幺知, 置穿聾弋 小林制费曳容, 賢舟團瓦死虾趴硏八詠, 折陌會町 朴世林那, 如當就赤僧林部, 部蠻駅込, 日者, 道傳闔孝生至和等, 潜圖 不軌, 搖亂根本, 幸賴天地 宗社之佑, 罪人伏誅, 王室再安, 芳碩禍胎, 不可留置國都, 放諸東裔, 予旣悔前日之裡, 又因百僚之請, 席建爾爲王世子, 於戲, 克明其德, 無忝爾所生, 徃盡乃心, 鎭撫我社稷, 乃命文和, 金瞼, 出謁,世子, 世子召文和曰, 內無可侍衛者, 爾速還入內, 文和即還入, 曹恂宣毋子命曰, 除侍女及內奴外, 餘皆出之, 文和亦出, 世子曰, 爾何出來, 文和具吿其由, 世子曰非謂汝也, 宜速還入侍, 又谷上將軍李敷, 入內待衛 ... 南时选出城水門, 瞟於城外圃幕, 沄景等左右扶持, 暫不離焉, 間欲詣巡軍, 法等止之, 闔曰, 道傳爲人鼻故見誅我無憎之者, 自脂巡軍門外, {{TagRefI|3}}<ref group="a">태조 7년 8월 기사, 태조실록 권14, 16-26장. 삼봉집에 「恭昭之難, 公不得其終」이 9월이라 함은 어떠한 근거로 나온 기록인지 모르겠으나 8월 설이 더 확실하다고 생각한다. (삼봉집 권14 부록 사실)</ref>見斬……靖安君與諸王子, 張幕於監巡廳前, 會宿三日, 其後, 入褚三軍府, 至世子受內彈後, 各還私第.</blockquote>
 
|해독문6번= 이상에 적배(摘配)한 실록의 인문(引文)은 삼봉 정도전이 이씨(성계)를 화가위국(化家爲國)하기 위하여, 심혈을 경진하고 일신의 복멸(覆滅)을 몇 번이나 경험하면서도 불요불굴(不撓不屈)한 막대의 공에 비하여 너무도 이상하고 돌연한 비참한 최후를 설명하기에 가장 필요한 기록이며, 500여 년을 지난 금일에 이르도록 망연모호한 그 진상을 추찰하기에 유일 최대의 자료라 하여도 불가함이 없을 듯하므로, 약간 용장(冗長)한 점이 있음을 불구하고 전문을 재록(載錄)한 것이다.
 
|해독문6번= 이상에 적배(摘配)한 실록의 인문(引文)은 삼봉 정도전이 이씨(성계)를 화가위국(化家爲國)하기 위하여, 심혈을 경진하고 일신의 복멸(覆滅)을 몇 번이나 경험하면서도 불요불굴(不撓不屈)한 막대의 공에 비하여 너무도 이상하고 돌연한 비참한 최후를 설명하기에 가장 필요한 기록이며, 500여 년을 지난 금일에 이르도록 망연모호한 그 진상을 추찰하기에 유일 최대의 자료라 하여도 불가함이 없을 듯하므로, 약간 용장(冗長)한 점이 있음을 불구하고 전문을 재록(載錄)한 것이다.
|해독문7번=  이 기록을 일독하고 우리가 생각할 수 있는바 정도전 남은의 소위 죄상이란 무엇인가. 가장 중요한 죄상은 (1) 방석(芳碩)을 세자로 추대하였다는 것이며, (2) 또 종친을 배척하였다는 것이다. 이것을 좀 더 구체적으로 말하면, 「食立幼孽, 欲爲後嗣, 以奪長幼之序, 以亂嫡庶之分」(주4) 이라는 것과, 「道傳等, 挟世子飲害諸王子, 禍在不測」(주5)이란 것이니, 이것을 더욱 자세히 말하면 태조의 신의왕후(神懿王后) 한씨(태조 즉위 전년 몰, 후년 봉작)의 출인 5인의 왕자를 배척하고 신덕왕후(神德王后) 강씨의 소출인 제8자 방석(芳碩)을 세자로 영립(迎立)한 것 까지도, 도전의 소치같이 선언하는 것이며、이 세자를 보찬(保讚)하기 위하여 이복형들을 다못 배척할 뿐이 아니라 「전제(剪除)」하려는 비상수단의 실현이 경각의 간에 있었다고 한다. 이 외에도 여러가지 사소한 문제가 후일에 첨가되나, 죄상의 주목은 이 양점에 다하는 듯 하므로, 우선 이 점을 탐사하여 볼 필요가 있다.  
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|해독문7번=  이 기록을 일독하고 우리가 생각할 수 있는바 정도전 남은의 소위 죄상이란 무엇인가. 가장 중요한 죄상은 (1) 방석(芳碩)을 세자로 추대하였다는 것이며, (2) 또 종친을 배척하였다는 것이다. 이것을 좀 더 구체적으로 말하면,{{TagRefI|4}} <cite no="XX">「食立幼孽, 欲爲後嗣, 以奪長幼之序, 以亂嫡庶之分」</cite><ref group="a">태조 7년 9월 정해 정종 고즉위우태묘반교지(吿即位于大廟頒敎旨) 중, 권15 24장.</ref> 이라는 것과, {{TagRefI|5}}<cite no="XX">「道傳等, 挟世子飲害諸王子, 禍在不測」</cite><ref group="a">동상, 정안군 합도평솔백관(合都堂率百官) 상소 중 어구, 동상 24장.</ref>
|해독문8번= 방석을 세자로 책립(册立)함에 대하여는 태조실록에 「已巳, 立幼孽芳碩, 爲王世子, 初, 功臣裴克廉, 趙浚, 鄭道傳等, 請建世子, 欲以年以功爲請, 王重康氏意在芳蕃, 芳蕃狂率無狀, 功臣等難之, 私相謂曰, 若必欲立康氏出, 季子差可, 及是, 上問誰可爲世子者, 未有以立長立功切言者, 克廉曰, 季子爲可, 上遂決意立之」(주6)라고 있으며, 이 사실은, 태조가 7월 17일에 즉위한 후 1개월밖에 지나지 않은 8월 20일에 결정된 것이라, 이것이 7, 8년을 경과한 후에 비로소 돌변을 일으킬 직접 원인이 되리라고 보기는 좀 이상한 점이 있다 하겠다. 더욱 그 사실의 내용을 점검하면 방석을 건립한 것은 태조가 계비(繼妃) 강씨의 의중을 맞았다는 것이 진상일 것이며 (소위 賢否(현부)는 이곳에는 잠시 불문하더라도), 방석을 進言(진언)한 죄를 말하려면 裴克廉(배극렴)이 最重(최중)할 것이거늘, 세자 건립의 연유로 배를 문책한 사실은 물론. 후일에라도 배를 운운함이 전무하니 이상하다 않을 수 없다 물론 배는 태조 원년 11월에 졸하였으므로(주7) 후일의 논난을 면하였다 볼수있으나, 배, 정과 같이 왕의 문의를 받은 趙浚(조준)은, 이 무인의 난에 생명을 보존하였을 뿐 아니라 소위 定社功臣(정사공신)의 영예를 받았으니, 방석 건립의 책임만으로 도전을 滅誅(멸주)하였다고 볼 수는 전연 불가능한 것을 알 것이다. 그뿐 아니라 조준이 방석 건립에 관여함이 중대한 것은, 太宗實錄(태종실록)의 조준졸 항에 그 전기를 약기한 일에도 기재한 바가 있으며,(주8) 定宗(정종) 2년 1월 芳幹之亂(방간지난)에 조준이 두문불출한 죄를 司法府(사법부)가 (해)하는 글 중에도 「姑以顯著五事縷陳如左, 當國初廢嫡立庶之際, 浚方爲上相, 力陳大義, 以回 天意, 以正天偷, 則戊寅之嬷, 何日而生乎, 慮不出此, 阿意曲從, 與道傳南誾, 遂立庶孽, 勢將損國……此其一 也」(주9)라고 있으니, 이 세자 건립의 죄상으로 말하면, 적어도 도전과 조준은 동죄라고 볼 것이거늘, 후세의 所論(소론)이 罪同罰異(동죄벌이)의 불공평한 평가를 할 이유가 없는 것을 可知(가지)할 것이다.  
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이란 것이니, 이것을 더욱 자세히 말하면 태조의 신의왕후(神懿王后) 한씨(태조 즉위 전년 몰, 후년 봉작)의 출인 5인의 왕자를 배척하고 신덕왕후(神德王后) 강씨의 소출인 제8자 방석(芳碩)을 세자로 영립(迎立)한 것 까지도, 도전의 소치같이 선언하는 것이며、이 세자를 보찬(保讚)하기 위하여 이복형들을 다못 배척할 뿐이 아니라 「전제(剪除)」하려는 비상수단의 실현이 경각의 간에 있었다고 한다. 이 외에도 여러가지 사소한 문제가 후일에 첨가되나, 죄상의 주목은 이 양점에 다하는 듯 하므로, 우선 이 점을 탐사하여 볼 필요가 있다.  
|해독문9번= 그뿐 아니라 좀 더 깊이 생각하면 이 도전의 최중한 죄상이라고 후세에 선전하는 것이, 당시에는 결코 그렇지도 않았던것을 추상할 수도 있을 것 같다. 그것은 위에 인용한 태조실록 引文(인문) 중에 있는바 希安公(희안공) 芳速(방속)의 쿠-데타-가 성공한 후 태조가 병석에서 永安君(영안군) 방과를 세자로 수립하기를 허락하고 내린 교서 중에 있는 「立嫡以長萬世之經, 宗子維城寡人之望, 惟诫父臣甞開國, 捨長立幼, 乃以芳碩爲世子, 不獨予昵愛不明之過, 道傳闔等亦不得辭其責矣, 卧岭卧新加林您黔玲為智, 當其時若以楚國愛少之誡, 據經廷靜, 予不敢不從, 如道傳等, 不惟不靜, 猶恐其不立」이라는 말이 어떻게 도전의 「葬」가 소극적이며 미소한가를 표시한다. 이 교서는 당시의 상태로 보아 설령 태조의 승락을 얻은 교서라 하더라도 정안군 방원 일파의 의사가 그대로 발표되었다 볼 수 있을 것이나, 방원 일파로도 도전의 죄상이 적극적으로 방석 옹립에 있다고 할 수는 없고, 단지 극히 소극적으로 태조의 소위를 정정하지 않았음에 있다 하니, 그것이 문죄의 이유로서는 如何(여하)히 미약무력한가를 알수있으며, 따라서 당시의 이 점을 문책한 의미가 후세의 그것과 판이함을 추측할 수 있다.  
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|해독문8번= 방석을 세자로 책립(册立)함에 대하여는 태조실록에 {{TagRefI|6}}<cite no="XX">「已巳, 立幼孽芳碩, 爲王世子, 初, 功臣裴克廉, 趙浚, 鄭道傳等, 請建世子, 欲以年以功爲請, 王重康氏意在芳蕃, 芳蕃狂率無狀, 功臣等難之, 私相謂曰, 若必欲立康氏出, 季子差可, 及是, 上問誰可爲世子者, 未有以立長立功切言者, 克廉曰, 季子爲可, 上遂決意立之」</cite><ref group="a">태조 원년 8월 기사 태조실록 권, 52장.</ref>
|해독문10번=  이러한 추측은 태종 9년 8월에 왕이 세자에게 선위하려고 할 때 河崙(하륜)에게 그 內意(내의)를 말한 중에 「我 太祖, 亦於乙宴年間, 傳位劳碩, 退居後宮, 則吾等終無敢動矣, 安有戊寅之變乎」(주10)라고 한 것을 보면, 방석 책립에 대하여 불평을 가졌던 것은 사실이나, 그 문제는 부득이 단념하였던 것 같은 심사와, 무인년에 특별한 이유가 있지 않았으면 이 이유와 불평만으로 변란을 일으키지 않았으리라는 감상을 규찰할 수 있다.  
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라고 있으며, 이 사실은, 태조가 7월 17일에 즉위한 후 1개월밖에 지나지 않은 8월 20일에 결정된 것이라, 이것이 7, 8년을 경과한 후에 비로소 돌변을 일으킬 직접 원인이 되리라고 보기는 좀 이상한 점이 있다 하겠다. 더욱 그 사실의 내용을 점검하면 방석을 건립한 것은 태조가 계비(繼妃) 강씨의 의중을 맞았다는 것이 진상일 것이며 (소위 현부(賢否)는 이곳에는 잠시 불문하더라도), 방석을 進言(진언)한 죄를 말하려면 裴克廉(배극렴)이 最重(최중)할 것이거늘, 세자 건립의 연유로 배를 문책한 사실은 물론.{{TagRefI|7}} 후일에라도 배를 운운함이 전무하니 이상하다 않을 수 없다 물론 배는 태조 원년 11월에 졸하였으므로<ref group="a">태조 2년 1월 계묘, 동상 권2.</ref> 후일의 논난을 면하였다 볼수있으나, 배, 정과 같이 왕의 문의를 받은 趙浚(조준)은, 이 무인의 난에 생명을 보존하였을 뿐 아니라 소위 定社功臣(정사공신)의 영예를 받았으니, 방석 건립의 책임만으로 도전을 滅誅(멸주)하였다고 볼 수는 전연 불가능한 것을 알 것이다. 그뿐 아니라 조준이 방석 건립에 관여함이 중대한 것은, {{TagRefI|8}}태종실록의 조준졸 항에 그 전기를 약기한 일에도 기재한 바가 있으며,<ref group="a">태종 5년 6월 신묘 조준졸조(趙浚卒條), 태종실록 권9 27장</ref>定宗(정종) 2년 1월 방간지난(芳幹之亂)에 조준이 두문불출한 죄를 사법부가 해(該)하는 글 중에도 {{TagRefI|9}}<cite no="XX">「姑以顯著五事縷陳如左, 當國初廢嫡立庶之際, 浚方爲上相, 力陳大義, 以回 天意, 以正天偷, 則戊寅之嬷, 何日而生乎, 慮不出此, 阿意曲從, 與道傳南誾, 遂立庶孽, 勢將損國……此其一 也」</cite><ref group="a">정종 2년 2월 기해, 정종실록 권3 10-11장.</ref>라고 있으니, 이 세자 건립의 죄상으로 말하면, 적어도 도전과 조준은 동죄라고 볼 것이거늘, 후세의 소론(所論)이 동죄벌이(罪同罰異)의 불공평한 평가를 할 이유가 없는 것을 가지(可知)할 것이다.  
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|해독문9번= 그뿐 아니라 좀 더 깊이 생각하면 이 도전의 최중한 죄상이라고 후세에 선전하는 것이, 당시에는 결코 그렇지도 않았던것을 추상할 수도 있을 것 같다. 그것은 위에 인용한 태조실록 인문(引文) 중에 있는 바 희안공(希安公) 방속(芳速)의 쿠-데타-가 성공한 후 태조가 병석에서 영안군(永安君) 방과를 세자로 수립하기를 허락하고 내린 교서 중에 있는 <cite no="XX">「立嫡以長萬世之經, 宗子維城寡人之望, 惟诫父臣甞開國, 捨長立幼, 乃以芳碩爲世子, 不獨予昵愛不明之過, 道傳闔等亦不得辭其責矣, 卧岭卧新加林您黔玲為智, 當其時若以楚國愛少之誡, 據經廷靜, 予不敢不從, 如道傳等, 不惟不靜, 猶恐其不立」</cite>이라는 말이 어떻게 도전의 <cite no="XX">「葬」</cite>가 소극적이며 미소한가를 표시한다. 이 교서는 당시의 상태로 보아 설령 태조의 승락을 얻은 교서라 하더라도 정안군 방원 일파의 의사가 그대로 발표되었다 볼 수 있을 것이나, 방원 일파로도 도전의 죄상이 적극적으로 방석 옹립에 있다고 할 수는 없고, 단지 극히 소극적으로 태조의 소위를 정정하지 않았음에 있다 하니, 그것이 문죄의 이유로서는 여하히 미약무력한가를 알수있으며, 따라서 당시의 이 점을 문책한 의미가 후세의 그것과 판이함을 추측할 수 있다.  
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|해독문10번=  이러한 추측은 태종 9년 8월에 왕이 세자에게 선위하려고 할 때 하륜에게 그 내의(內意)를 말한 중에 {{TagRefI|10}}<cite no="XX">「我 太祖, 亦於乙宴年間, 傳位劳碩, 退居後宮, 則吾等終無敢動矣, 安有戊寅之變乎」</cite><ref group="a">태종 9년 8월 기유, 태종실록 권18 10장.</ref>라고 한 것을 보면, 방석 책립에 대하여 불평을 가졌던 것은 사실이나, 그 문제는 부득이 단념하였던 것 같은 심사와, 무인년에 특별한 이유가 있지 않았으면 이 이유와 불평만으로 변란을 일으키지 않았으리라는 감상을 규찰할 수 있다.  
 
|해독문11번= 그러면 무인년 변란 당시의 「특별한 사정」이란 무엇을 말함인가.  
 
|해독문11번= 그러면 무인년 변란 당시의 「특별한 사정」이란 무엇을 말함인가.  
|해독문12번=  이것이 위에 거조한 중의 제2에 당하는 소위 「謀害宗親」의 음모일 것이나, 이 점에 대한 결론을 먼저 들면 그것은 진위 불명한 풍설 또는 실상이 있다고 인정할 수 없는 억측에 불과하다고 생각되며, 靖安君(정안군) 芳遠(방원)연래의 불평이 이 풍설의 影子(영자)에 경악한 것이며, 태조의 위중한 병세가 이 억겁을 일층 더 선란하게 한 것이라고 보는 것이 가장 타당한 관측일 것 같다.
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|해독문12번=  이것이 위에 거조한 중의 제2에 당하는 소위 <cite no="XX">「謀害宗親」</cite>의 음모일 것이나, 이 점에 대한 결론을 먼저 들면 그것은 진위 불명한 풍설 또는 실상이 있다고 인정할 수 없는 억측에 불과하다고 생각되며, 정안군(靖安君) 방원의 연래의 불평이 이 풍설의 영자(影子)에 경악한 것이며, 태조의 위중한 병세가 이 억겁을 일층 더 선란하게 한 것이라고 보는 것이 가장 타당한 관측일 것 같다.
|해독문13번= 소위 도전 음모 (즉 謀害宗親(모해종친))의 풍설 혹 중상을 방원에게 전도한 길을 추적하여 보면 대략 3종이 있는 것 같으니. 그 제1은 義安君(의안군) (화)요 제2는 李茂(이무)와 閔無疾(민무질) 無咎(무구) 형제요 제3은 李憂李(이우리) 居易(거이) 부자이다. 이 외에도 朴苞(박포)와 기타의 인물이 있으나 이들은 이하에 기술하는 바와 같이 이 3자 중의 동계의 소식이므로 별시하지 않는다. 이들 각종 각양의 밀고를 일일히 그 내용을 知悉(지실)할 수 없으나, 그 중에는 서로 상이한 듯한 점도 있은즉, 그 내용을 한번 탐사하여 볼 필요가 있을까 한다.  
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|해독문13번= 소위 도전 음모 (즉 모해종친(謀害宗親))의 풍설 혹 중상을 방원에게 전도한 길을 추적하여 보면 대략 3종이 있는 것 같으니. 그 제1은 의안군(義安君) 화(和)요 제2는 이무와 민무질 무구 형제요 제3은 이우리 거이 부자이다. 이 외에도 박포와 기타의 인물이 있으나 이들은 이하에 기술하는 바와 같이 이 3자 중의 동계의 소식이므로 별시하지 않는다. 이들 각종 각양의 밀고를 일일히 그 내용을 지실(知悉)할 수 없으나, 그 중에는 서로 상이한 듯한 점도 있은즉, 그 내용을 한번 탐사하여 볼 필요가 있을까 한다.  
|해독문14번= 의안군 화의 밀고는, 상기한 바에 의하여서는 그 내용을 명백히 단언할 수 없고, 단지 「知其謀」라 하나 「卜者安植曰, 世子異母兄有天命者非. 道傳聞之曰, 即當除之, 何患乎, 義安君和, 知其謀, 밀고 靖安君」의 기록은 해석에 의하여는 이 卜者(복자) 安植(안식)에게 대한 도전의 폭언을 화가 밀고한 것 같이 보인다. 혹은 그 밀고의 내용이 이하에 기록할 민무질 이무의 밀고 내용과 같은 것이었을는지 모르나 그 점은 다음에 미루고, 이 도전 장담의 풍설만을 문제로 하면 그것이 深房密語(심방밀어)일만침 그 진위를 難測(난측)하며, 그 밀어를 대화자 안식이가 누설하였다면 容或無怪(용혹무괴)하였으나 그 所自出(소자출)이 전연 불명할뿐 아니라 다못 화가 知其謀(지기모)하였다고 기재한 바로서 진상을 운운할 수 없다. 그뿐 아니라 설혹 그 장담이 진상이라 하나 이미 방석을 세자로 책립한 이상, 태조 몰 후에는 당연히 국주가 될것이며, 이 세자에게 대하여 異母兄(이모형)이 소견 「有天命」하다고 하여 그 實頊(실욱)을 도모한다면 정이 국군을 위하여 「即當除之」하는 것이 충렬의 士(사)이라고 할지언정 謀逆(모역)라 할수는 만무하니, 도전의 此種壯言(차종장언)의 풍설을 방원 형제가 개인적으로 불쾌불안하게 생각함은 당연하다 할지라도 이것을 潜謀不軌(잠모부궤)라고 할 수는 없을 것이다. 더군다나 이 문의를 有天命(유천명)하다고 하여 여하간 即當除之(즉당제지)하자는 뜻으로 보지않고, 그 소위 천명을 實理(실리)시키려하면 (보위를 窺(규)하는 야심으로 준동하면) 즉 當除之(당제지)하리니 何患之有(하환지유)리오 하였다 하면 당연한 사실일 뿐 아니라 정도전으로서는 그만한 책임과 의지가 있었으리라고 추측하여도 부당하지는 않을 것이다. 그러나 이 밀고는 그 내용의 진위를 첫째 단정하기 어려우므로 중시할 문제는 되지 못할듯하다.
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|해독문14번= 의안군 화의 밀고는, 상기한 바에 의하여서는 그 내용을 명백히 단언할 수 없고, 단지 <cite no="XX">「知其謀」</cite>라 하나 <cite no="XX">「卜者安植曰, 世子異母兄有天命者非. 道傳聞之曰, 即當除之, 何患乎, 義安君和, 知其謀, 密告 靖安君」</cite>의 기록은 해석에 의하여는 이 복자(卜者) 안식(安植)에게 대한 도전의 폭언을 화가 밀고한 것 같이 보인다. 혹은 그 밀고의 내용이 이하에 기록할 민무질 이무의 밀고 내용과 같은 것이었을는지 모르나 그 점은 다음에 미루고, 이 도전 장담의 풍설만을 문제로 하면 그것이 심방밀어(深房密語)일만침 그 진위를 난측(難測)하며, 그 밀어를 대화자 안식이가 누설하였다면 용혹무괴(容或無怪)하였으나 그 소자출(所自出)이 전연 불명할뿐 아니라 자못 화가 지기모(知其謀)하였다고 기재한 바로서 진상을 운운할 수 없다. 그뿐 아니라 설혹 그 장담이 진상이라 하나 이미 방석을 세자로 책립한 이상, 태조 몰 후에는 당연히 국주가 될것이며, 이 세자에게 대하여 이모형(異母兄)이 소견 <cite no="XX">「有天命」</cite>하다고 하여 그 실욱(實頊)을 도모한다면 정이 국군을 위하여 「即當除之」하는 것이 충렬의 사(士)이라고 할지언정 모역(謀逆)라 할수는 만무하니, 도전의 차종장언(此種壯言)의 풍설을 방원 형제가 개인적으로 불쾌불안하게 생각함은 당연하다 할지라도 이것을 잠모부궤(潜謀不軌)라고 할 수는 없을 것이다. 더군다나 이 문의를 유천명(有天命)하다고 하여 여하간 즉당제지(即當除之)하자는 뜻으로 보지 않고, 그 소위 천명을 실리(實理)시키려하면 (보위를 규(窺)하는 야심으로 준동하면) 즉 당제지(當除之)하리니 하환지유(何患之有)리오 하였다 하면 당연한 사실일 뿐 아니라 정도전으로서는 그만한 책임과 의지가 있었으리라고 추측하여도 부당하지는 않을 것이다. 그러나 이 밀고는 그 내용의 진위를 첫째 단정하기 어려우므로 중시할 문제는 되지 못할듯하다.
|해독문15번= 제2의 이무, 민무질 일파의 밀고 내용은 태종 9년에 이무의 죄를 議(의)할 때의 기록 중에 있는 「上謂群臣曰, 李茂今繫獄中, 卿等豈能悉知其故, 予欲盡召臣僚而吿之, 勢未可也, 卿等明聽予言, 歲在戊寅, 父王疾篤彌留, 予與昆季, 侍疾于景福宮時, 予只聞李茂之名, 未之相親, 茂因無疾, 交納於我, 日吿予臼, 南誾鄭道傳伺上疾篤, 謀不利於正嫡, 公其預圖, 間五六日, 復來謂予曰, 冬外警徽颦冷聲普時哉不可失也, 予曰, 君請先徃會處, 稽留其計, 至日暮, 義安大君入闕內, 呼予者再, 時日己昏矣, 大君暨諸昆季, 待我至甚忙, 及至中官尹貴自內而出, 問靖安君來歟, 予應曰諾, 貴風召諸君入內, 興安君跌予靴曰, 速入, 予聞茂之言, 固自有疑, 及觀事變有異, 托以如厠遂走出, 諸昆季亦自內走至吿變, 遂與至道傳會處」(주11)의 기록을 보면, 초두에 인용한 태조 7년 8월 26일의 기사 중에 있는 「至是日晡時, 閔無疾詣 靖安君邸, 入與 夫人偶語良久……靖安君即還邸, 俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎坐密語良久」한 것이 이무의 所吿(소고)와 동일한 내용이었던 것을 추측할 수 있으며, 더욱 「李茂, 素有中立之計, 密以間等謀甞罟由竭安, 至是, 隨無疾來謁, 少頃先去, 茂, 無疾近姻也, 竹城君朴苞, 亦徃來其間, 暗伺彼之動靜」의 기록을 참조하여 보면, 이 밀고의 내용은 전문에 인용한 바와 같이 이무의 所自出(소자출)로, 李茂(이무)와 朴苞(박포)가 居中探査(거중심사)하여 밀고한 것을 可知(가지)할 것이다. 그리고 그 내용은 정도전, 남은, 沈孝生(심효생), 張至和(장지화) 등이 「托以省問 上疾, 日夜聚松靦闔妾家, 相與密謀,  令芳碩, 濟及親軍衛都鎭撫朴懿, 左副承旨盧石柱, 右副承旨卞仲良在內, 稱上病篤, 急召諸王子, 入內則以內奴及甲士攻之, 道傳間等外應, 約以己巳擧事」라고 수밖에 없다.
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|해독문15번= 제2의 이무, 민무질 일파의 밀고 내용은 태종 9년에 이무의 죄를 議(의)할 때의 기록 중에 있는 {{TagRefI|11}}<cite no="XX">「上謂群臣曰, 李茂今繫獄中, 卿等豈能悉知其故, 予欲盡召臣僚而吿之, 勢未可也, 卿等明聽予言, 歲在戊寅, 父王疾篤彌留, 予與昆季, 侍疾于景福宮時, 予只聞李茂之名, 未之相親, 茂因無疾, 交納於我, 日吿予臼, 南誾鄭道傳伺上疾篤, 謀不利於正嫡, 公其預圖, 間五六日, 復來謂予曰, 冬外警徽颦冷聲普時哉不可失也, 予曰, 君請先徃會處, 稽留其計, 至日暮, 義安大君入闕內, 呼予者再, 時日己昏矣, 大君暨諸昆季, 待我至甚忙, 及至中官尹貴自內而出, 問靖安君來歟, 予應曰諾, 貴風召諸君入內, 興安君跌予靴曰, 速入, 予聞茂之言, 固自有疑, 及觀事變有異, 托以如厠遂走出, 諸昆季亦自內走至吿變, 遂與至道傳會處」</cite><ref group="a">태종 9년 10월 기해삭, 태종실록 권18 27-28장.</ref>의 기록을 보면, 초두에 인용한 태조 7년 8월 26일의 기사 중에 있는 <cite no="XX">「至是日晡時, 閔無疾詣 靖安君邸, 入與 夫人偶語良久……靖安君即還邸, 俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎坐密語良久」</cite>한 것이 이무의 소고(所吿)와 동일한 내용이었던 것을 추측할 수 있으며, 더욱 <cite no="XX">「李茂, 素有中立之計, 密以間等謀甞罟由竭安, 至是, 隨無疾來謁, 少頃先去, 茂, 無疾近姻也, 竹城君朴苞, 亦徃來其間, 暗伺彼之動靜」</cite>의 기록을 참조하여 보면, 이 밀고의 내용은 전문에 인용한 바와 같이 이무의 소자출(所自出)로, 이무와 박포가 거중심사(居中探査)하여 밀고한 것을 가지(可知)할 것이다. 그리고 그 내용은 정도전, 남은, 심효생, 장지화 등이 <cite no="XX">「托以省問 上疾, 日夜聚松靦闔妾家, 相與密謀,  令芳碩, 濟及親軍衛都鎭撫朴懿, 左副承旨盧石柱, 右副承旨卞仲良在內, 稱上病篤, 急召諸王子, 入內則以內奴及甲士攻之, 道傳間等外應, 約以己巳擧事」</cite>라고 수 밖에 없다.
|해독문16번= 그러면 이 이무의 밀고한 내용이 과연 여하한 정도의 진실성을 가지고 있었나? 이무의 제2차 밀고 시의 말이 「今夕道傳等欲擧事」라 하며 또 「約以己巳擧事」라 한 것을 보면, 정안군의 쿠데타 단행 당일이 소위 도전 거사의 當夕(당석)이거늘, 도전 일파의 행동과 당시의 사태가 이러한 준비와 용의를 추측할 수 있는 一點證左(일점증좌)가 없으니, 이것을 여하히 해석하여야 가할까. 첫째, 夜二鼓(야이고)에 궁내에서 제 왕자를 召入(소입)한 즉 후의 시간이라면, 정남 일파에게 상기한 바와 같은 계획이 있었다 하면 당연히 무슨 긴장한 태도와 준비가 있어야 할 것이거늘, 정안군이 남은 첩가를 습격하였을 때 도전, 은 등은 會座言笑(회좌언소)하고 평연히 있으며 문 외에는 鞍馬(안마) 수 필과 奴僕皆睡(노복개수)하는 상태가 可疑(가의)하다고 않을 수 없다. 더군다나 당시의 정안군의 군세가 전부 합하여 「騎兵纔十, 步卒纔九人, 乃出 夫人所備鐵槍, 中折分與軍士, 諸君從者及各人奴僕十餘皆執杖, 獨小斤把劎」의 빈약한 세력으로 만약 상기한 것 같은 용의가 도전의 편에 있었다 하면, 당시 병권의 대세를 잡고 있는 정도전과 남은을 麟息(인식) 간에 覆滅(복멸)시키기는 새로이 도리어 蟠螂(반랑)의 龍車(용차)에 향하는 비유가 될 것이 아닌가. 이 점은 상기문 중에도 정안군 일파 외 危懼憶彻(위구억철)한 태도가 그 실상을 전하는 것이니, 「靖安君謂叔蕃曰, 세력則不可敵矣, 斬道傳閭等, 然後我四五兄弟, 駐馬于三軍府門前, 以觀國人之心, 人心不從則己, 翕然從之則我等得生」이라는 비장한 결심이 그 평시의 실력 차이를 보이는 것이다. 만약 도전, 은 등이 이 기사일에 거사할라 하였으면 더군다나 외응할라 하였다하면, 그 평시의 실력과 당야의 너무도 무비한 것이 이상하지 않을까. 또한 편으로 궁내에서도 「諸王子, 入則以內奴甲士攻之」하리라 하나 그러한 준비와 형적은 전연히 볼 수 없으며, 진상은 그런 준비가 없더래도 그럴듯하게 억측할 수나 견강부회할 수만 있더라도 그렇다고 기재할 만한 당시의 情狀(정상)임에도 불구하고 전연 상상만한 기록도 없으니, 그 진위는 추상하기 어렵지 않다 할 것이다.  
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|해독문16번= 그러면 이 이무의 밀고한 내용이 과연 여하한 정도의 진실성을 가지고 있었나? 이무의 제2차 밀고 시의 말이 <cite no="XX">「今夕道傳等欲擧事」</cite>라 하며 또 <cite no="XX">「約以己巳擧事」</cite>라 한 것을 보면, 정안군의 쿠데타 단행 당일이 소위 도전 거사의 당석(當夕)이거늘, 도전 일파의 행동과 당시의 사태가 이러한 준비와 용의를 추측할 수 있는 일점증좌(一點證左)가 없으니, 이것을 여하히 해석하여야 가할까. 첫째, 야이고(夜二鼓)에 궁내에서 제 왕자를 소입(召入)한 즉 후의 시간이라면, 정남 일파에게 상기한 바와 같은 계획이 있었다 하면 당연히 무슨 긴장한 태도와 준비가 있어야 할 것이거늘, 정안군이 남은 첩가를 습격하였을 때 도전, 은 등은 회좌언소(會座言笑)하고 평연히 있으며 문 외에는 안마(鞍馬) 수 필과 노복개수(奴僕皆睡)하는 상태가 가의(可疑)하다고 않을 수 없다. 더군다나 당시의 정안군의 군세가 전부 합하여 <cite no="XX">「騎兵纔十, 步卒纔九人, 乃出 夫人所備鐵槍, 中折分與軍士, 諸君從者及各人奴僕十餘皆執杖, 獨小斤把劎」</cite>의 빈약한 세력으로 만약 상기한 것 같은 용의가 도전의 편에 있었다 하면, 당시 병권의 대세를 잡고 있는 정도전과 남은을 인식(麟息) 간에 복멸(覆滅)시키기는 새로이 도리어 반랑(蟠螂)의 龍車(용차)에 향하는 비유가 될 것이 아닌가. 이 점은 상기문 중에도 정안군 일파 외 危懼憶彻(위구억철)한 태도가 그 실상을 전하는 것이니, <cite no="XX">「靖安君謂叔蕃曰, 세력則不可敵矣, 斬道傳閭等, 然後我四五兄弟, 駐馬于三軍府門前, 以觀國人之心, 人心不從則己, 翕然從之則我等得生」</cite>이라는 비장한 결심이 그 평시의 실력 차이를 보이는 것이다. 만약 도전, 은 등이 이 기사일에 거사할라 하였으면 더군다나 외응할라 하였다하면, 그 평시의 실력과 당야의 너무도 무비한 것이 이상하지 않을까. 또한 편으로 궁내에서도 <cite no="XX">「諸王子, 入則以內奴甲士攻之」</cite>하리라 하나 그러한 준비와 형적은 전연히 볼 수 없으며, 진상은 그런 준비가 없더래도 그럴듯하게 억측할 수나 견강부회할 수만 있더라도 그렇다고 기재할 만한 당시의 情狀(정상)임에도 불구하고 전연 상상만한 기록도 없으니, 그 진위는 추상하기 어렵지 않다 할 것이다.  
|해독문17번= 또 정적을 모해할 음모가 구체화되었고, 더욱 기사일 당석에 임박하였다고 해서는 조준과 金士衡(김사형) 등의 좌우 양상이 전연 이러한 형세도 상상할 수도 없다는 듯하는 태도가 이상하니, 「浚士衡等下馬, 趨而過橋, 靖安君曰, 卿等何不憂李氏社稷, 浚士衡等, 驚懼跪于馬前, 君曰, 道傳間等貪立幼孽, 欲勢除我同母兄弟, 我是以爲弱者先手也, 浚等叩頭曰, 彼之所爲吾等未甞知也」라는 기록이 그것이며, 또 정안군이 조준을 초청함에 대하여 정안의 초조한 마음에도 불구하고 조준이 오랫동안 거취를 유예 불결한 것도 준이 도전, 은 등의 음모설을 신용하지 못한 때문이 아니었던가 한다. 당시의 조준과 도전 남은과의 사이에는 昔日(석일)과 다른 간극이있었으므로 (이것은 이 밀에 상술) 만약 조금이라도 可疑(가의)할 점이 있었더라면 조준이 이다지 유예하지도 않을 것이며, 복자에게 筮(서)하거나 우상 김사술에게 상의하거나 할 필요도 없을 것이 아닌가 생각된다. 이러한 대사가 (종자들을 전제하려는) 정안군 일파 자세히는 이무 이외에는 아무도 豫察(예찰)한 형적이 전무한 것이 가의하니 조준, 김사형은 물론하고 소위 궁내에서 예로를 단행할 李濟(이제)와 卞仲良(변중량) 등의 태도도 이 글 초두에 인용한 바로서 보아서는 이러한 대사를 결행할 용의는 물론, 그러한 긴박한 상태를 예측하지도 못한 듯한 것이 이상하다.
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|해독문17번= 또 정적을 모해할 음모가 구체화되었고, 더욱 기사일 당석에 임박하였다고 해서는 조준과 金士衡(김사형) 등의 좌우 양상이 전연 이러한 형세도 상상할 수도 없다는 듯하는 태도가 이상하니, <cite no="XX">「浚士衡等下馬, 趨而過橋, 靖安君曰, 卿等何不憂李氏社稷, 浚士衡等, 驚懼跪于馬前, 君曰, 道傳間等貪立幼孽, 欲勢除我同母兄弟, 我是以爲弱者先手也, 浚等叩頭曰, 彼之所爲吾等未甞知也」</cite>라는 기록이 그것이며, 또 정안군이 조준을 초청함에 대하여 정안의 초조한 마음에도 불구하고 조준이 오랫동안 거취를 유예 불결한 것도 준이 도전, 은 등의 음모설을 신용하지 못한 때문이 아니었던가 한다. 당시의 조준과 도전 남은과의 사이에는 昔日(석일)과 다른 간극이있었으므로 (이것은 이 밀에 상술) 만약 조금이라도 可疑(가의)할 점이 있었더라면 조준이 이다지 유예하지도 않을 것이며, 복자에게 筮(서)하거나 우상 김사술에게 상의하거나 할 필요도 없을 것이 아닌가 생각된다. 이러한 대사가 (종자들을 전제하려는) 정안군 일파 자세히는 이무 이외에는 아무도 豫察(예찰)한 형적이 전무한 것이 가의하니 조준, 김사형은 물론하고 소위 궁내에서 예로를 단행할 李濟(이제)와 卞仲良(변중량) 등의 태도도 이 글 초두에 인용한 바로서 보아서는 이러한 대사를 결행할 용의는 물론, 그러한 긴박한 상태를 예측하지도 못한 듯한 것이 이상하다.
|해독문18번=  또 한 가지 더 실례를 들어 소위 此種(차종) 모역의 실체 可疑(가의)함을 證明하여 보자. 초두 引文(인문) 중 남은의 항에 「南誾, 逃出城水門, 隱於城外圃幕, 法景等左右扶持, 暫不離焉, 閭欲詣巡軍, 法等止之, 誾曰, 道傳爲人所憎故見誅, 我無憎之者, 自詣巡軍門外, 見斬」이라는 기사가 있으니, 이것이 왕자들을 劾除(핵제)하려고 음모한 자의 태도며 음모 실행 當夜(당야)에 습격을 받은 자의 언행일까. 이 기사를 平心(평심)으로 해석하면 남은은 정안군의 돌연한 습격이 何故(하고)인지 전연 무지하며 그것은 다못 평시 私怨(사원)을 가진 자가 도전을 습격함에 불과하다고 깊이 믿었던 것을 표시하는 것이 아닌가. 평소로 도전과 상기한 바와 같은 음모가 있었다 하면 더욱 그것이 거사 당일이라 하면 이러한 평연한 일 언행을 取一(취일)할 수 없을 것이 아닌가. 그 무죄함을 자신하고 자진하여 巡軍門(순군부) 외에 간 행동만을 보더라도 만사가 轄然自明(할연자명)하다고 할 것이다. 死者無口(사자무구)하니 이 외에 참살올 당한 인물들을 일일히 탐사할 수 없으나 이 남은의 태연한 최후의 행동이 후일의 소위 무인지변의 원인이라고 千言萬記(천언만기)하는 것보단 확연한 진상을 우리의 뇌 중에 銘刻(명각)하는 것 같다. (남은의 태도로 이 변란의 성질을 검사증명할 방책은 이 외에도 허다하나 생략한다).  
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|해독문18번=  또 한 가지 더 실례를 들어 소위 此種(차종) 모역의 실체 可疑(가의)함을 證明하여 보자. 초두 引文(인문) 중 남은의 항에 <cite no="XX">「南誾, 逃出城水門, 隱於城外圃幕, 法景等左右扶持, 暫不離焉, 閭欲詣巡軍, 法等止之, 誾曰, 道傳爲人所憎故見誅, 我無憎之者, 自詣巡軍門外, 見斬」</cite>이라는 기사가 있으니, 이것이 왕자들을 劾除(핵제)하려고 음모한 자의 태도며 음모 실행 當夜(당야)에 습격을 받은 자의 언행일까. 이 기사를 平心(평심)으로 해석하면 남은은 정안군의 돌연한 습격이 何故(하고)인지 전연 무지하며 그것은 다못 평시 私怨(사원)을 가진 자가 도전을 습격함에 불과하다고 깊이 믿었던 것을 표시하는 것이 아닌가. 평소로 도전과 상기한 바와 같은 음모가 있었다 하면 더욱 그것이 거사 당일이라 하면 이러한 평연한 일 언행을 取一(취일)할 수 없을 것이 아닌가. 그 무죄함을 자신하고 자진하여 巡軍門(순군부) 외에 간 행동만을 보더라도 만사가 轄然自明(할연자명)하다고 할 것이다. 死者無口(사자무구)하니 이 외에 참살올 당한 인물들을 일일히 탐사할 수 없으나 이 남은의 태연한 최후의 행동이 후일의 소위 무인지변의 원인이라고 千言萬記(천언만기)하는 것보단 확연한 진상을 우리의 뇌 중에 銘刻(명각)하는 것 같다. (남은의 태도로 이 변란의 성질을 검사증명할 방책은 이 외에도 허다하나 생략한다).  
|해독문19번= 이 때의 소위 陰圖不軌(음도불궤)라는 밀고에 대한 진상은 후일에 이르러 태종 9년 10월에 왕이 「予聞度之言, 固身有疑」라 하고(주12) 대단히 냉정한 태도와 이성의 판단있는 형적을 보이는 점이 있다. 물론 「及觀事變有異」라고 당시의 자기 행동을 시인하려는 노력은 변함이 없으나, 최초(태조 7년 8월 26일)에 민무질의 밀고를 들은 직후의 흥분한 태도 즉 「靖安君即還邸, 俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎立密讀良久, 夫人執君衣, 請勿謂闕君曰, 豈可畏死不詣……若有變則我當出來擧八, 以觀國人之心也, 乃佛衣而出」한 상태와는 판이함이 있다. 이것을 10년이란 시간이 경과한 때문에 당시의 흥분이 沈消(침소)하였다고 보는 것이 당연하나, 또 한 층 더 깊이 일시의 흥분이 소침하고 보니, 그 이무의 밀고라는 것이 아무 실상 없었던 것과 따라서 이 밀고만으로 輕輕(경경)히 대사를 거행하였다고 보이기틀 미안히 생각한 일종 발명에 가까운 심경을 抱持(포지)하고 있던 것을 추상할 수 있다고 하지 못할까?  
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|해독문19번= 이 때의 소위 陰圖不軌(음도불궤)라는 밀고에 대한 진상은 후일에 이르러 태종 9년 10월에 왕이 {{TagRefI|12}}「予聞度之言, 固身有疑」라 하고<ref group="a">동상 28장.</ref> 대단히 냉정한 태도와 이성의 판단있는 형적을 보이는 점이 있다. 물론 <cite no="XX">「及觀事變有異」</cite>라고 당시의 자기 행동을 시인하려는 노력은 변함이 없으나, 최초(태조 7년 8월 26일)에 민무질의 밀고를 들은 직후의 흥분한 태도 즉 <cite no="XX">「靖安君即還邸, 俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎立密讀良久, 夫人執君衣, 請勿謂闕君曰, 豈可畏死不詣……若有變則我當出來擧八, 以觀國人之心也, 乃佛衣而出」</cite>한 상태와는 판이함이 있다. 이것을 10년이란 시간이 경과한 때문에 당시의 흥분이 沈消(침소)하였다고 보는 것이 당연하나, 또 한 층 더 깊이 일시의 흥분이 소침하고 보니, 그 이무의 밀고라는 것이 아무 실상 없었던 것과 따라서 이 밀고만으로 輕輕(경경)히 대사를 거행하였다고 보이기틀 미안히 생각한 일종 발명에 가까운 심경을 抱持(포지)하고 있던 것을 추상할 수 있다고 하지 못할까?  
|해독문20번= 이것은 소위 「事變有異」라는 것이 아무 실체를 명확히 할 수 없는 그 기록 상태로 보아서도 추측할 수 있다. 그것은 「至初夜, 有人, 自內出曰, 上病劇, 欲避病, 諸王子速入內, 從者命勿許入」이라는 것이 최대 혐의며, 이 직전에 「芳蕃將入內, 靖安君呼之, 芳蕃搔首遂巡, 不應而入」이란 사실이 더욱 정안의 의심을 돋우고, 왕자 入內(입내)를 청하였을 때 궁내 無燈(무등)한 것을 보고 정안의 의심에는 暗鬼(암귀)가 생겨서 이무 민무질의 밀고에 있는 「入內則以內奴甲士攻之」라는 례로의 실현을 믿은 것이다. 물론 정안도 이것만으로서는 아무리 하여도 너무 자신하기 막연하였던지 복통이라 하여 入厠坐思良久(입측좌사량구)한 것이 당시의 흥분과 襲惻(습측)과 이성의 相刻(상각)을 이기지 못하여 혼란한 두뇌로 초조하던 情相(정상)을 볼 수 있다. 이때 입내하였던 益安(익안)과 懷安(회안)이 走出呼嘲安君者再(주출호조정안자재)함을 만나 憶慟(억통)의 정에 격동을 받아 순간에 대결의를 맺고 頹欄(퇴란)을 기도에 돌리려는 건곤일척의 반항을 결의한 것이다. 소위 弱者先手(약자선수)라는 결단이 여기서 비로소 생긴 것이라고 볼 것이다. 익안 회안의 走出呼靖安(주출호정안)하였다는 것을 중대 의미있는 듯이 보는 이가 있을지 모르나, 이것은 제왕자 입내 중에 정참만 입내하지 않음이 良久(양구)함에 의심하여 불러나온 것이라 해석하여 아무 무리가 없으며, 더군다나 제왕자가 입내의 명을 받아 西廊(서랑)에서 下庭(하정)하였을 때 「靖安君與益安, 懷安, 上黨諸君, 暫立戶內, 密語舊制, 宮中諸門夜必張燈」이라 하고 이날에 마침 「見宮門無燈, 益疑之」한 사실을 참조하면, 익안, 회안에게도 此夕(차석)의 정안군의 이상한 태도와 밀어가 심중에 무슨 暗影(암영)을 던졌을 것이 당연히 추측되며. 그 당자 정안이 밀어하고 의지한 직후에 良久(양구)히 입내하지 않는 태도가, 양인에게 일극의 공포와 危懼(위구)의 정을 일으킬 것이 당연하다. 走出呼靖安(주출호정안) 하는 것을 특히 궁내에 이상한 준비있는 것을 목격한 결과라고만 할 필요가 없으며, 더욱 익안 회안이 평시로 부터 同母兄弟(동모형제)로, 계비 강씨를 專寵(전총)하는 태조 아래에 있어 가정 내부의 苦勞(고로)와 불평이 공통하였으리라고 추상되는 상태로 보면, 정안의 평시 태도 (방석 芳蕃(방번)의 寵位(총위)에 대한 불평) 가 즉 同母兄(동모형) 익안 회안에게도 동일한 심사라 볼 것이며, 또 정안의 접수한 밀고가 그 전부는 아니라도 그 경향과 풍문만이라도 양인에게까지 전도될 가능이 있었다면, 정안군이 상술한 바와 갈이 흥분하였던 당석의 익안 회안 양인의 주출호명을 과대히 중대히 생각하고 의미를 부회할 필요가 전무할 것이다. 무엇보다도 만약 궁내에 정안 등이 상상한 바 같은 례로의 준비가 있었다 하면, 정안 일파에 유리할 자료면 차라리 침소봉대라고 하여도 가할만한 기술의 태도인 잔존 문적에, 일점 구체적 실례는 물론 이어니와 독자로 추측이라도 시킬만한 것이 없으니, 그 음모계획의 실재를 의심하지 않을 수없다. 이런것을, 태종 9년 10월에 이르러서는 저간의 소식을, 왕은 「予聞茂之言, 固自有疑, 及觀事變有異, 托以如厠, 遂走出, 諸昆季, 亦自內走至吿變」이라고 하여, 「吿變」이란 문자를 범연히 사용하게 되며, 또 이 문자에 의하여 무슨 음모의 실상이 궁내에 있었던 것을 추측시키려 한다. 이것을 다못 揑造(열조)라 하여 일소에 付(부)하기 보다는 문자의 援用(원용)이 공중에 허사를 구성하여가는 일례를 볼 수 있다고 명심할 것이다. 이 기사 중에는 「托以如厠, 遂走出」이라 하여, 전에 「入厠坐思」한 것과 상대된 점이 있으나, 이것은 전기가 정확할 것만 부기하고, 그 이유는 생략에 종한다.  
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|해독문20번= 이것은 소위 <cite no="XX">「事變有異」</cite>라는 것이 아무 실체를 명확히 할 수 없는 그 기록 상태로 보아서도 추측할 수 있다. 그것은 <cite no="XX">「至初夜, 有人, 自內出曰, 上病劇, 欲避病, 諸王子速入內, 從者命勿許入」</cite>이라는 것이 최대 혐의며, 이 직전에 <cite no="XX">「芳蕃將入內, 靖安君呼之, 芳蕃搔首遂巡, 不應而入」</cite>이란 사실이 더욱 정안의 의심을 돋우고, 왕자 入內(입내)를 청하였을 때 궁내 無燈(무등)한 것을 보고 정안의 의심에는 暗鬼(암귀)가 생겨서 이무 민무질의 밀고에 있는 <cite no="XX">「入內則以內奴甲士攻之」</cite>라는 례로의 실현을 믿은 것이다. 물론 정안도 이것만으로서는 아무리 하여도 너무 자신하기 막연하였던지 복통이라 하여 入厠坐思良久(입측좌사량구)한 것이 당시의 흥분과 襲惻(습측)과 이성의 相刻(상각)을 이기지 못하여 혼란한 두뇌로 초조하던 情相(정상)을 볼 수 있다. 이때 입내하였던 益安(익안)과 懷安(회안)이 走出呼嘲安君者再(주출호조정안자재)함을 만나 憶慟(억통)의 정에 격동을 받아 순간에 대결의를 맺고 頹欄(퇴란)을 기도에 돌리려는 건곤일척의 반항을 결의한 것이다. 소위 弱者先手(약자선수)라는 결단이 여기서 비로소 생긴 것이라고 볼 것이다. 익안 회안의 走出呼靖安(주출호정안)하였다는 것을 중대 의미있는 듯이 보는 이가 있을지 모르나, 이것은 제왕자 입내 중에 정참만 입내하지 않음이 良久(양구)함에 의심하여 불러나온 것이라 해석하여 아무 무리가 없으며, 더군다나 제왕자가 입내의 명을 받아 西廊(서랑)에서 下庭(하정)하였을 때 <cite no="XX">「靖安君與益安, 懷安, 上黨諸君, 暫立戶內, 密語舊制, 宮中諸門夜必張燈」</cite>이라 하고 이날에 마침 <cite no="XX">「見宮門無燈, 益疑之」</cite>한 사실을 참조하면, 익안, 회안에게도 此夕(차석)의 정안군의 이상한 태도와 밀어가 심중에 무슨 暗影(암영)을 던졌을 것이 당연히 추측되며. 그 당자 정안이 밀어하고 의지한 직후에 良久(양구)히 입내하지 않는 태도가, 양인에게 일극의 공포와 危懼(위구)의 정을 일으킬 것이 당연하다. 走出呼靖安(주출호정안) 하는 것을 특히 궁내에 이상한 준비있는 것을 목격한 결과라고만 할 필요가 없으며, 더욱 익안 회안이 평시로 부터 同母兄弟(동모형제)로, 계비 강씨를 專寵(전총)하는 태조 아래에 있어 가정 내부의 苦勞(고로)와 불평이 공통하였으리라고 추상되는 상태로 보면, 정안의 평시 태도 (방석 芳蕃(방번)의 寵位(총위)에 대한 불평) 가 즉 同母兄(동모형) 익안 회안에게도 동일한 심사라 볼 것이며, 또 정안의 접수한 밀고가 그 전부는 아니라도 그 경향과 풍문만이라도 양인에게까지 전도될 가능이 있었다면, 정안군이 상술한 바와 갈이 흥분하였던 당석의 익안 회안 양인의 주출호명을 과대히 중대히 생각하고 의미를 부회할 필요가 전무할 것이다. 무엇보다도 만약 궁내에 정안 등이 상상한 바 같은 례로의 준비가 있었다 하면, 정안 일파에 유리할 자료면 차라리 침소봉대라고 하여도 가할만한 기술의 태도인 잔존 문적에, 일점 구체적 실례는 물론 이어니와 독자로 추측이라도 시킬만한 것이 없으니, 그 음모계획의 실재를 의심하지 않을 수없다. 이런것을, 태종 9년 10월에 이르러서는 저간의 소식을, 왕은 <cite no="XX">「予聞茂之言, 固自有疑, 及觀事變有異, 托以如厠, 遂走出, 諸昆季, 亦自內走至吿變」</cite>이라고 하여, <cite no="XX">「吿變」</cite>이란 문자를 범연히 사용하게 되며, 또 이 문자에 의하여 무슨 음모의 실상이 궁내에 있었던 것을 추측시키려 한다. 이것을 다못 揑造(열조)라 하여 일소에 付(부)하기 보다는 문자의 援用(원용)이 공중에 허사를 구성하여가는 일례를 볼 수 있다고 명심할 것이다. 이 기사 중에는 <cite no="XX">「托以如厠, 遂走出」</cite>이라 하여, 전에 <cite no="XX">「入厠坐思」</cite>한 것과 상대된 점이 있으나, 이것은 전기가 정확할 것만 부기하고, 그 이유는 생략에 종한다.  
|해독문21번= 이상의 논술에 의하야, 필자는 남은등이 「謀害王子」하려하였다는 구체적 증좌를 발견하지 못하며,더욱 「己巳夕擧事」 운운의 이무 민무질 등의 밀고가 실체없는 원죄이었던 것을 믿는다. 그러면 다음에 제3의 李愛(이애, 李居易(이거이) 아들)의 밀고란 것은 여하한 것인가.  
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|해독문21번= 이상의 논술에 의하여, 필자는 남은 등이 <cite no="XX">「謀害王子」</cite>하려하였다는 구체적 증좌를 발견하지 못하며,더욱 <cite no="XX">「己巳夕擧事」</cite> 운운의 이무 민무질 등의 밀고가 실체없는 원죄이었던 것을 믿는다. 그러면 다음에 제3의 李愛(이애, 李居易(이거이) 아들)의 밀고란 것은 여하한 것인가.  
|해독문22번= 태종 11년 11월의 기록 중에 「己巳, 賜敎書于上黨君李愛……歲在戊寅, 南誾等將逐我母兄弟於海島, 愛以間之戚屬故, 知其謀, 潜語予曰, 禍將發矣, 兄將若何, 予吿之以先發之, 故自是歸心于我, 共定大計」(주13)라는 것이 그 내용이니, 애의 밀고한 바는 정안군의 동모형제를 海島(해도)에 逐(축)하려 한다는 음모요, 剪除(전제)라든지 모해라던지 심지어 기사 夕(석)에 內奴 (내노) 甲士(갑사)로써 攻之(공지)한다는 등의 급격 수단은 아니었다. 이 애의 밀고가 이무의 밀고한 것과 다른 별개의 음모인지 동일 음모의 내용 相違(상위)인지는 未確(미확)하나, 사리를 추측하건대 鄭南(정남)이 정안군 동모형제틀 배척하려고, 혹은 流逐(유축) 혹은 剪除(전제)를 계획하였다 하기보단, 정남의 음모에 대한 풍설 혹은 그 내용에 대한 외간의 억측과 해석이 이같이 수종에 나누어 있었다고 볼 것이다. 이런 관점에서 보면, 이 이애의 밀고 내용은 그 가능성이 전기 이무 등의 관측보다는 다대할뿐 아니라, 형편에 따라서는 이만한 비상수단을 도전과 남은이 계획할 가능성이 있으리라고도, 볼 수 있을지 모르겠다. 그것은 태조가 계비 강씨를 전총하고 그 소출인 방석을 세자를 책립하고, 강씨의 소산인 방석 방번을 총애 우대하는데 대한, 정안군을 선두로 한 익안 회안 (永安君(영안군)의 잠시 불문) 등 한씨 소생의 이복형들의 가정적 불평과, 정도전 남은 양인의 태조에 대한 誠忠(성충)이, 세자로 책립된 방석을 보호함에 傾倒(경도)하여, 세자를 嫉視(질시)하고 그 지위를 위태하게하는, 운동과 존재에 대하여는, 그를 除排(제배)하기에 수단을 不惜(불석)할 만한 태도를 추측할 수 있으며, 이 양방의 이해가 상충 돌격함도 불가피할 사태이라 할지 모르는 때문이다, 그러나 이애가 정안군의 同母妹(동모매) 慶愼翁主(경신옹주)를 취한 인물인 점으로 보아 그의 이해관계가 어느 편에 중할지 可知(가지)하겠으며, 따라서 그 정보의 확실성에는 다소간 의문이 있을 것을 추측할수있다. 이렇게 이 이애의 밀吿정도의 실상에도 가의한 점이 있다면, 이무의 밀고한 것 같은 급격한 직접 행동, 따라서 다대한 준비를 필요로할 수단이 있었다고 믿을 수는 없으며, 또 당시의 각방의 사태로 보아도 도전(방석)파로서는 그다지 긴장할 필요가 없었다는 것이 진상 일듯하다. 그 뿐 아니라 당시의 사태를 추상하드래도 방원 일파에 세자, 방석에게 대한 구체적 반항 운동이 없는 이상 이러한 비상수단을 취할 필요가 없을 것이니, 문제는 현실로 권력의 중심을 잡고있는 도전(및 세자) 일파가 아니요, 상시로 불평과 억겁에 초조하는 방원 일파의 태도에 있었다 하겠다. 그러나 지금 현실의 사태를 안중에 두지 않고, 양파의 근본적 이해 관계를 고찰하면,  정안군 방원은 태조의 8자 중에도 가장 기력과 견식이 풍부한 정치가로, 태조의 「化家爲國」 운동에도 불소한 盡瘁(진췌)를 하였다 하며, 도전은 여말국초에 있어 가장 정열과 실행력이 많은 정치가이었을뿐 아니라, 태조 즉위 후에는 태조의 신임과 실력이 정계의 최대 존재였고, 또 이우에 당시에는 군사의 주권을 장악하였었다. 남은도 亦(역) 태조 즉위에 제1위라고 칭할만한 대공을 세웠을 뿐 아니라,  당대의 군사의 대세를 잡고, 그 정견이 도전과 肝膽相照(간담상조)한 사이였었다. 沈孝生(심효생)은 其女(기녀)를 세자 방석의 비로 冊(책)하였으니, 그 개인적 관계로 보아도 도전과 합할 이유가 있을 것이다. 이러한 양개의 세력이 정면으로 충돌하였다면, 당시의 실력 정도로 보아 물론 세자 방석파, 즉 도전 남은파가 領袖(영수) 一觸(일촉)의 승리를 可保(가보)할 것이며, 만약 태조 몰후의 방석 繼位(계위)에 정안 등이 불복 항거한다면, 流逐(유축)은 물론 극형이라도 피하지 못하였을지 모르겠다. 그러므로, 태조의 병독한 당시에 그 몰후의 지위에 불안한 靖安君立(정안군립)의 耳朶(이타)에는, 각종의 流說(유설)과 풍문이 들어왔을 것이며, 도전 은 등을 중심으로 한 방석파(현상유지파)의 威振天下(위진천하)하는 실력에 비하여너무도 빈약한 정안파의 세력이 더욱 더욱 삭감하여가는 정세가, 심중에 초조와 憶惑(억혹)을 도와서, 실상없는 확실하지 않은 밀고를 잡고, 결사의 용기로 影子(영자)와 간쟁한 것이 아닌가. 그러므로, 이 정안의 무인 거사는 참으로 위기일발이라고 할 것이오, 만약 敵方(적방)에 少許(소허)의 준비가 있어도 결코 성공하지 못할 모험일뿐 아니라, 만약 一敗地(일패지)에 떨어젔던들, 이 공연한 백지의 거사가 만세의 조소를 받았을 것이다. 그러나 「勝爲官軍敗爲敵」이라는 日諺(일언)과 같이, 도전 은을 斬誅(참주)만 하면 三軍府(삼군부) 문전에 가서 次心(차심)의 所歸(소귀)에 자기의 성패를 일임하겠다는 정안의 비장한 결의에서 나온 천운의 승리가 역사를 이상하게도 변혁시킨 것이, 우리의 감회를 크게도 일으킨다. 삼봉의 모반설이 400여 년의 정설이나, 이제 그 진상을 정정할 필요가 있지 않을까.  
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|해독문22번= {{TagRefI|13}}태종 11년 11월의 기록 중에 <cite no="XX">「己巳, 賜敎書于上黨君李愛……歲在戊寅, 南誾等將逐我母兄弟於海島, 愛以間之戚屬故, 知其謀, 潜語予曰, 禍將發矣, 兄將若何, 予吿之以先發之, 故自是歸心于我, 共定大計」</cite><ref group="a">태종 11년 11월 기사, 태종실록 권22 38장.</ref>라는 것이 그 내용이니, 애의 밀고한 바는 정안군의 동모형제를 海島(해도)에 逐(축)하려 한다는 음모요, 剪除(전제)라든지 모해라던지 심지어 기사 夕(석)에 內奴 (내노) 甲士(갑사)로써 攻之(공지)한다는 등의 급격 수단은 아니었다. 이 애의 밀고가 이무의 밀고한 것과 다른 별개의 음모인지 동일 음모의 내용 相違(상위)인지는 未確(미확)하나, 사리를 추측하건대 鄭南(정남)이 정안군 동모형제틀 배척하려고, 혹은 流逐(유축) 혹은 剪除(전제)를 계획하였다 하기보단, 정남의 음모에 대한 풍설 혹은 그 내용에 대한 외간의 억측과 해석이 이같이 수종에 나누어 있었다고 볼 것이다. 이런 관점에서 보면, 이 이애의 밀고 내용은 그 가능성이 전기 이무 등의 관측보다는 다대할뿐 아니라, 형편에 따라서는 이만한 비상수단을 도전과 남은이 계획할 가능성이 있으리라고도, 볼 수 있을지 모르겠다. 그것은 태조가 계비 강씨를 전총하고 그 소출인 방석을 세자를 책립하고, 강씨의 소산인 방석 방번을 총애 우대하는데 대한, 정안군을 선두로 한 익안 회안 (永安君(영안군)의 잠시 불문) 등 한씨 소생의 이복형들의 가정적 불평과, 정도전 남은 양인의 태조에 대한 誠忠(성충)이, 세자로 책립된 방석을 보호함에 傾倒(경도)하여, 세자를 嫉視(질시)하고 그 지위를 위태하게하는, 운동과 존재에 대하여는, 그를 除排(제배)하기에 수단을 不惜(불석)할 만한 태도를 추측할 수 있으며, 이 양방의 이해가 상충 돌격함도 불가피할 사태이라 할지 모르는 때문이다, 그러나 이애가 정안군의 同母妹(동모매) 慶愼翁主(경신옹주)를 취한 인물인 점으로 보아 그의 이해관계가 어느 편에 중할지 可知(가지)하겠으며, 따라서 그 정보의 확실성에는 다소간 의문이 있을 것을 추측할수있다. 이렇게 이 이애의 밀吿정도의 실상에도 가의한 점이 있다면, 이무의 밀고한 것 같은 급격한 직접 행동, 따라서 다대한 준비를 필요로할 수단이 있었다고 믿을 수는 없으며, 또 당시의 각방의 사태로 보아도 도전(방석)파로서는 그다지 긴장할 필요가 없었다는 것이 진상 일듯하다. 그 뿐 아니라 당시의 사태를 추상하드래도 방원 일파에 세자, 방석에게 대한 구체적 반항 운동이 없는 이상 이러한 비상수단을 취할 필요가 없을 것이니, 문제는 현실로 권력의 중심을 잡고있는 도전(및 세자) 일파가 아니요, 상시로 불평과 억겁에 초조하는 방원 일파의 태도에 있었다 하겠다. 그러나 지금 현실의 사태를 안중에 두지 않고, 양파의 근본적 이해 관계를 고찰하면,  정안군 방원은 태조의 8자 중에도 가장 기력과 견식이 풍부한 정치가로, 태조의 「化家爲國」 운동에도 불소한 盡瘁(진췌)를 하였다 하며, 도전은 여말국초에 있어 가장 정열과 실행력이 많은 정치가이었을뿐 아니라, 태조 즉위 후에는 태조의 신임과 실력이 정계의 최대 존재였고, 또 이우에 당시에는 군사의 주권을 장악하였었다. 남은도 亦(역) 태조 즉위에 제1위라고 칭할만한 대공을 세웠을 뿐 아니라,  당대의 군사의 대세를 잡고, 그 정견이 도전과 肝膽相照(간담상조)한 사이였었다. 沈孝生(심효생)은 其女(기녀)를 세자 방석의 비로 冊(책)하였으니, 그 개인적 관계로 보아도 도전과 합할 이유가 있을 것이다. 이러한 양개의 세력이 정면으로 충돌하였다면, 당시의 실력 정도로 보아 물론 세자 방석파, 즉 도전 남은파가 領袖(영수) 一觸(일촉)의 승리를 可保(가보)할 것이며, 만약 태조 몰후의 방석 繼位(계위)에 정안 등이 불복 항거한다면, 流逐(유축)은 물론 극형이라도 피하지 못하였을지 모르겠다. 그러므로, 태조의 병독한 당시에 그 몰후의 지위에 불안한 靖安君立(정안군립)의 耳朶(이타)에는, 각종의 流說(유설)과 풍문이 들어왔을 것이며, 도전 은 등을 중심으로 한 방석파(현상유지파)의 威振天下(위진천하)하는 실력에 비하여너무도 빈약한 정안파의 세력이 더욱 더욱 삭감하여가는 정세가, 심중에 초조와 憶惑(억혹)을 도와서, 실상없는 확실하지 않은 밀고를 잡고, 결사의 용기로 影子(영자)와 간쟁한 것이 아닌가. 그러므로, 이 정안의 무인 거사는 참으로 위기일발이라고 할 것이오, 만약 敵方(적방)에 少許(소허)의 준비가 있어도 결코 성공하지 못할 모험일뿐 아니라, 만약 一敗地(일패지)에 떨어젔던들, 이 공연한 백지의 거사가 만세의 조소를 받았을 것이다. 그러나 <cite no="XX">「勝爲官軍敗爲敵」</cite>이라는 日諺(일언)과 같이, 도전 은을 斬誅(참주)만 하면 三軍府(삼군부) 문전에 가서 次心(차심)의 所歸(소귀)에 자기의 성패를 일임하겠다는 정안의 비장한 결의에서 나온 천운의 승리가 역사를 이상하게도 변혁시킨 것이, 우리의 감회를 크게도 일으킨다. 삼봉의 모반설이 400여 년의 정설이나, 이제 그 진상을 정정할 필요가 있지 않을까.  
|해독문23번=  이상의 약론으로써 무인지변의 진상을 일면으로 검토하였으나, 그만으로 두어서는 너무도 피상적 관찰만에 그칠 염려가 있기에, 다음에 정도전 일파와 정안군 방원과의 충돌한 근본적 이해에 대하여, 좀 더 추구하여 둘 필요가 있다. 곧 말하면. 전단 末句(말구)에 약설한 왕실 내부의 가정적 불만이 물론 대부분의 근본 원인이나,(주14) 이것을 또 다른 반면으로 좀 더 직접적 구체적인 이해관계로 보아서 양자가 여하히 상용하지 못하게 되었느냐 하는 것을 일고할 필요가 있다.  
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|해독문23번=  이상의 약론으로써 무인지변의 진상을 일면으로 검토하였으나, 그만으로 두어서는 너무도 피상적 관찰만에 그칠 염려가 있기에, 다음에 정도전 일파와 정안군 방원과의 충돌한 근본적 이해에 대하여, 좀 더 추구하여 둘 필요가 있다. 곧 말하면. {{TagRefI|14}}전단 末句(말구)에 약설한 왕실 내부의 가정적 불만이 물론 대부분의 근본 원인이나,<ref group="a">본지 제1권 「서얼차대(庶孽差待)의 연원에 관한 일 문제」 참조</ref> 이것을 또 다른 반면으로 좀 더 직접적 구체적인 이해관계로 보아서 양자가 여하히 상용하지 못하게 되었느냐 하는 것을 일고할 필요가 있다.  
|해독문24번= 이 문제를 생각할 때, 우리의 심중에 제일 먼저 일어나는 의문은, 본문 초두에 인용한 실록 중의 「道傳, 又嗾卞仲良上疏, 請罷諸王子兵權, 至再一一」이라는 문구와, 태종 3년에 왕의 懷舊(회구)의 말 가운데 「父王卽位之初, 以勇兵皆委於我」(주15)라는 것을 비교하여, 정안이 도전에게 병권의 삭탈을 원함이 있지 않았는지, 적어도 이 점이 양자 불용한 이유가 되지 않았던가 하는 것이다. 그러나 이것은, 설령 그런 사실이 있다 하더라도, 이조의 신국가가 성립된 이상, 제반의 정치와 제도가 중앙집권적 형태를 띄어가는 것이 당연한 현상이므로, 특히 도전의 개인적 야심을 운운할 수는 물론 없을 뿐 아니라, 이 운동을 大觀(대관)하여보면, 방석과 방원 간의 사소한 관계는 물론, 세세한 정치적 세력 문제와는 관계없이, 별로히 독립한 문제로 이 후에도 계속되어 간 것이요, 그것이 국가(왕실)를 중심으로 이해를 고려할 문제인 즉, 도전(즉 방석파)이 왕실의 중심 이해를 대표할 때 그가 운동의 중축이며, 도전 패몰 후에 방원이 정권의 중심일 때 그가 亦(역) 그 운동의 주동자 됨이 당연하다.(주16) 그러므로 방원이 재야 시(?)에 도전의 세력 집중적 정치시설에 불만을 가졌다 하여도, 아무 이상한 점이 없지 않은가.
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|해독문24번= 이 문제를 생각할 때, 우리의 심중에 제일 먼저 일어나는 의문은, 본문 초두에 인용한 실록 중의 <cite no="XX">「道傳, 又嗾卞仲良上疏, 請罷諸王子兵權, 至再一一」</cite>이라는 문구와, {{TagRefI|15}}태종 3년에 왕의 懷舊(회구)의 말 가운데 <cite no="XX">「父王卽位之初, 以勇兵皆委於我」</cite><ref group="a">태종 3년 6월 신해, 태종실록 권5 25정.</ref>
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라는 것을 비교하여, 정안이 도전에게 병권의 삭탈을 원함이 있지 않았는지, 적어도 이 점이 양자 불용한 이유가 되지 않았던가 하는 것이다. 그러나 이것은, 설령 그런 사실이 있다 하더라도, 이조의 신국가가 성립된 이상, 제반의 정치와 제도가 중앙집권적 형태를 띄어가는 것이 당연한 현상이므로, 특히 도전의 개인적 야심을 운운할 수는 물론 없을 뿐 아니라, 이 운동을 大觀(대관)하여보면, 방석과 방원 간의 사소한 관계는 물론, 세세한 정치적 세력 문제와는 관계없이, 별로히 독립한 문제로 이 후에도 계속되어 간 것이요, 그것이 국가(왕실)를 중심으로 이해를 고려할 문제인 즉, 도전(즉 방석파)이 왕실의 중심 이해를 대표할 때 그가 운동의 중축이며, {{TagRefI|16}}도전 패몰 후에 방원이 정권의 중심일 때 그가 亦(역) 그 운동의 주동자 됨이 당연하다.<ref group="a">이것은 정종 태종 시의 사병 개파 운동을 보면 자명한 사실이다, 이 문제는 이곳에 상술키 너무도 큰 문제나 조금 설명할 기회가 있을 듯하다.</ref> 그러므로 방원이 재야 시(?)에 도전의 세력 집중적 정치시설에 불만을 가졌다 하여도, 아무 이상한 점이 없지 않은가.
 
|해독문25번= 소위 「私兵」 문제는, 이로만 하여도 별로 고려할 큰 문제이나, 위에 인용한 문구를 해석할 정도만 말하여 보기 위하여, 이조 초기에 도전과 방원의 병정에 대한 지위를 일고하고, 이 점으로써 이 사병 문제에 대한 양인의 태도를 탐사해보자.  
 
|해독문25번= 소위 「私兵」 문제는, 이로만 하여도 별로 고려할 큰 문제이나, 위에 인용한 문구를 해석할 정도만 말하여 보기 위하여, 이조 초기에 도전과 방원의 병정에 대한 지위를 일고하고, 이 점으로써 이 사병 문제에 대한 양인의 태도를 탐사해보자.  
|해독문26번= 제일로 우리가 주목할 점은, 태조 즉위 원년 8월에 왕자 제군을 봉할 때,(주17) 芳果(방과) 외 芳蕃(방번)과 李濟(이제)를 義興親軍衛節制使(의흥친군위절제사)로 임명한 것이다. 이것은 태조 즉위가 7월 17일인 후 1개월 미만의 때인즉, 도전의 세력이 아직 직접 병정에 미칠 틈이 없을 뿐 아니라, 무인 출신의 태조가 그 병권 위임에 특별한 고려를 가졌을 것이 당연하니, 이 임명의 저의를 추측할 가치가 절대하다. 그것은 곧 필자의 추측으로는 방과는 한비 소산의 대표로 (방과는 제2자나 장자 芳雨(방우)는 性(성)이 嗜酒痛飮(기주통음)하여 發病(발병)하였을 뿐 아니라, 시시로 常套(상투)를 벗어나는 언행이 있었으므로,(주18) 이러한 직위는 불적임이요, 부조 전래의 東北面(동북면) 高州(고주), 咸州(함주)의 전답을 賜(사)하였으나,(주19) 관직을 除授(제수)하지 않았으며, 이것이 또 방석을 세자로 책립하게 된 한 원인이 되었다고 생각한다). 방번은 강씨 소산의 대표로, 각 일인씩 분권 위임한 것이며, 이제는 駙馬(부마)이므로 임명하였다고 볼 수 있으나, 제가 강씨 出(출)의 慶順公主(경순옹주)를 취한 것을 생각하면 韓康(한강) 양비의 세력 균평으로는 후자에 稍重(초중)할 것이나, 이것은 강씨가 당시 태조의 총애를 받던 때라 불가피할 사정이라 하겠다. 이런 실상을 염두에 두고 보면, 방원이 후일에 「父王卽位之初, 以勇兵皆委於我」라고 하는 것이, 얼마나 진실성 있는 追懐(추회)인지 의문이라 하겠다. 태조 2년 3월에 왜구를 방어하기 위하여 節制使(절제사)를 分遣(분견)할 때(주20) 義安伯(의안백) 和前門下評理(화전문하평리) 朴巖(박암) 崔雲海(최운해)를 楊廣道(양광도), 興安君(흥안군) 이제 判中樞院事(판중추부사) 남은 參贊門下府事(참찬문하부사) 李之蘭(이지란)을 경상도, 정안군 방원 前(전) 全州節制使(전주절제사) 陳乙瑞(진을서)를 전라도로, 各(각)히 분견하게 되여, 방원이 비로소 전라절제사가 된 것이다. 금년 9월에 三軍摠制府(삼군총제부)를 義興三軍府(의흥삼군부)로 改(개)하고 重房(중방)을 파한 실패 개혁에는(주21) 도전의 관계한 부분이 많음이 물론이어니와, 이 개혁의 결과, 永安君(영안군) 방과가 三軍府中軍節制使(삼군부중군절제사), 撫安君(무안군) 芳蕃(방번)이 左軍節制使(좌군절제사), 興安君(흥안군) 이제가 右軍節制使(우군절제사)로 임명되어, 그 지위의 분포가 여전하였다. 동 11월에 判三司事(판삼사사) 정도전이 諸道節制使(제도절제사) 所領(소령) 군사의 武畧(무략)있는 자를 搾(착)하여 陣圖(진도)를 교습하였다 하니(주22) 도전의 병정에 대한 식견과 抱費(포비)와 수완을 可知(가지)하겠으며 3년 정월에는 이미 判義興三軍府事(판의흥삼군부사)의 직으로 大牢(대뢰)에 뜻을 祭(제)하고, 도전 이하 與祭將士(여제장사)가 다 철갑을 着(착)하였다는 것을 보면(주23) 그 군정에 대한 위풍과 세력의 확립함을 볼 수가 있다. 동 2월에는 유명한 府衛革新(부위혁신)의 상서를 하였으니 「自古爲國者, 文以致治, 武以勘亂 文武兩幟, 如人兩臂, 不可偏廢, 故本朝旣有百司庶府号又有諸衛, 各領, 所以備文武之職也, 然, 府兵之制, 大抵 承前朝之舊, 前朝盛時, 唯府兵外無他軍號, 北有大遼, 東有女眞, 日本侵掠於外, 又有草賊, 往往竊發於中, 小則中郞將以下, 大則遣上將軍將軍禦之, 至於不得己而後發郡縣丘, 外攻內守, 傳至四百餘年, 當時府兵之盛可知, 無事則肆習兵法, 有事出軍則必爲五陣, 當時兵法之習, 亦可知也, 自忠烈王事元以來, 每因中朝宦寺婦女奉使者之請, 官靠汎濫, 皆以所托之人, 除衛職, 恃勢疇蹇, 莫肯宿衛, 由是, 府衛始毀, 始置忽只忠勇等愛馬, 姑備宿衛, 及僞朝法制大毀, 凡受府衛之職者, 徒食天錄, 不事其事, 遂至失國」(주24)의 주의로 10위 개칭을 위시하여 將軍掌兵(장군장병)의 제한에 이른 8조의 개량 의견으로, 왕의 채용 嘉納(가납)한 바가 되었다. 그 본의는 여기 인용한 바로서도 추측할 수 있음과 같이, 중앙 부병의 실력 충실과 병법 진법의 평시 강습을 통론한 것이다. 이 상서 중에 인용한 部分 외에 주의할 점은, 그 제2조의 관직 명호 개칭 중에, 「又每一道節制使, 叙肾省宰, 副節制使, 中樞, 兵馬鈴轄使, 嘉善, ……中軍, 京畿左右道, 東北面, 左軍, 江陵, 交州, 慶尙, 全羅道, 右軍, 楊廣, 西海道, 西北面, 屬之」의 일구다. 이 각도 절제사를 종실(혹 省宰(성재))로 임명한다는 주지는 전년 3월 왜구 방어를 위하여 절제사 분견할 때에, 화, 제, 방원을 임명 한 취지를 이은 듯 하나, 결과로써는 전라도절제사 방원은 左軍(좌군)에 속하므로, 左軍府左軍節制使(좌군부좌군절제사)인 異母弟(이모제) 방번에게 易(역)하게 되는 것을 볼 수 있다. 이것은 방번이 방과와 함께 최고 병권을 파악함에 반하여, 방원의 최초부터 일층 낮은 지위가 초래한 부득기한 사정일 것이나, 방원의 불평을 추측할 수 있을 것 같으며, 방원 자신으로서는 開風(개풍)에 首功(수공)있다고 자임하던 태도로 보아, 그 심중을 생각할 수 있다. 더군다나 후일 무인지변에, 방원이 절대적으로 의지하였을 뿐 아니라, 전후를 통하여 股肱(고굉)의 충신이 된 李叔蕃(이숙번). 하륜 등이 다 방원의 전라도 관계로 知遇(지우)하게 된 정세를 照考(조고)하면, 저간에 처한 정안의 심사를 억측할 수 있다 하겠다. 도전은 이런 사소한 일부의 불평은 물론 안중에 없는 것 갈이, 여전히 병정 개혁의 시설을 계속하여, 동년 3월 을사에는 각도 節制使率行軍官(절제사솔행군관)의 수를 정하고(주23) 동 무인에는 臨津(임진) 壽美浦(수미포)에서 왕의 幸行(행행)을 받아 五軍陣圖(오군진도)를 강하고 동년 6월에 역대 府兵侍衛(부병시위)의 制(제)를 찬하고 府衛(부위)의 폐와 其時(기시) 府兵(부병) 연혁의 事宜(사의)를 논하여 圖(도)를 지어서 獻(헌)하였다.(주26) 동년 7월에 義興三軍府(의흥삼군부)가 「嚴府史成法, 汕謗沮毀者,使憲司啓聞論罪」를 청한 것을 보면,(주27) 이 엄격한 시설과 개혁에 불평을 가진 자가 불소하였던 것을 추측할 수 있다. 이러한 불평불안과 질시의 교착한 訓謗沮毀(훈방저훼)의 일례가 동년 11월의 변중량 등의 옥이니, 기록에 의하면 「囚殿中卞仲良于巡軍獄, 命大司憲朴經巡軍萬戶李稷等鞫之, 初仲良與兵曹正郞李曰, 自古, 政權兵椭, 不可兼任一人 兵權宜在宗室.政權宜在宰輔, 令趙浚. 鄭道傳, 南誾等, 旣掌兵權, 又掌政權, 實爲不可, 伸良以此言於義安伯和, 和吿于上, 上召仲良, 問之, 仲良對以實, 且曰, 朴苞亦謂殿下, 失爲國之賜, 屢致星礎, 上怒曰, 此數人, 皆我股肱之臣, 終始一心者也, 如或可疑, 則誰可信者, 爲此言者, 必有以也, 卽命韓仲良及苞曲」라고 있어,(주27) 조, 정, 남 등의 정권군권집중 방침을 비난한 것이나, 이것은 태조의 신임한 태도가 증명하는 바와 같이, 개인적 사욕이라고 하기 보단, 이씨 국가를 위한 공인적 시정인 것이 물론이다. 그러나 중앙집권의 여파를 받는 권신들이 이 정책에 불안을 가지는 것도 당연하며, 또 구체적 개개 사실을 보더라도, 정도전은 判三軍府事(판삼군부사)라는 정권의 중축에 있으면서, 判義興三軍府事(판의흥삼군부사)라는 병권의 대강을 잡고 있었으니, 이러한 중상이 일어날 근거는 있었다 할 것이다. 중량의 吿辭(고사) 중에 전자의 절제사를 종실과 省宰(성재)로 임명한다는 조건에 반하는 「兵權宜在宗室」이라는 말은, 종래의 용례사로 같은 사람이 兩執(양집)함을 불가타 하는 의미로서 무심히 사용한 것인지, 권신의 음모가 可畏(가외)라는 뜻이 있는지, 또는 義安君(의안군) 화에게 吿하는 형편상으로 다소의 諂諛(첨유)를 포함함인지(중량은 元桂(원계)의 女婿(여서)이므로 府(부)는 중량의 처삼촌이 되는 관계다) 그 진의를 難測(난측)하겠으며, 또 이것을 억측한들 지금 이곳에서는 큰 소득을 기대할 수 없으나. 우리가 문제로 할 것은, 이곳에는 중량은 「兵權宜在宗室」이라 하면서, 초두 인용한 기록에 의하면 「請罷諸王子兵權, 至再三」하였다는 것이 이상하며, 또 이 곳에는 도전 등을 이같이 의심 중상함에 대하여, 상기 引文(인문) 내에는 「道傳又嗾卞仲良上疏」라 하였으니, 이러한 모순을 여하히 해석하여야 할까. 여기 인용한 태조 3년 11월의 중량의 도전 등을 중상한 것을 當者(당자)가 왕에게까지 直對(직대)한 확실한 사실이니 움직일 수 없으나, 이 글 초두에 인용한 것을 지금 정안 일파의 상상의 소산이라고 할 밖에 확실한 證跡(증적)을 볼 수 없다. 중량을 도전 일파라 함은 그가 기사 夕(석)의 돌변에 際(제)하여, 궁내에서 정안파의 행동에 不付(불부)하던 정도를 취한 것이 최대 원인이라 할듯하며, 중량을 상기 일례만으로서 도전과 불호한 관계에 있었다고 단정할 수는 없으나, 적어도 정안 일파의 인정한 바와 같이 도전의 복심이라고 볼 수도 없다. 그뿐 아니라 이러한 도전 탄핵의 상고를 하는 중량이면 이 점에 있어 오히려 정안의 이해를 도운다고 할 수 있거늘 정안 일파는 중량은 도전의 복심같이 운운하는 것이 이상하다. 그러므로 중량의 병정개혁에 대한 의견은 변중량 當者(당자)를 중심으로 생각할 것이요, 다른 사람의 指嗾(지주)을 특히 狐疑(호의)할 것이 아니며, 중량을 중심으로 볼 때, 최초에는 권신 掌兵(장병)에 불안을 感(감)하고, 다음에 형세를 보아 또 제왕자의 사병을 위험하다고 상고하였다 생각하는 것이 제일 자연하며, 또 이 해석에 별로이 이상과 모순이 없을 것이 아닌가. 물론 중량이 제왕자의 병권을 파하자는 것이 도전 일파의 찬동을 얻을 수 있는 점은 추상할 수가 있을 것이며, 그렇더도 또 별로이 문제될 것이 없다. 이 중량의 옥이 일어날 때, 곧 말하면 도전의 병정개혁이 次第(차제)로 실현하여 가고, 따라서 衆謗(중방)이 일어날 형세가 보이는 이 때에, 정안군 방원은 奏聞使(주문사)로 明廷(명정)에 가서 아직 돌아오지 않은 중이었었다. (3년 6월 을해 출발. 동 12월 을묘 귀경, 즉 중량의 옥 후 15일에 귀경).  
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|해독문26번= 제일로 우리가 주목할 점은, {{TagRefI|17}} 태조 즉위 원년 8월에 왕자 제군을 봉할 때,<ref group="a">태조 원년 8월 병진, 태종실록 권1</ref> 芳果(방과) 외 芳蕃(방번)과 李濟(이제)를 義興親軍衛節制使(의흥친군위절제사)로 임명한 것이다. 이것은 태조 즉위가 7월 17일인 후 1개월 미만의 때인즉, 도전의 세력이 아직 직접 병정에 미칠 틈이 없을 뿐 아니라, 무인 출신의 태조가 그 병권 위임에 특별한 고려를 가졌을 것이 당연하니, 이 임명의 저의를 추측할 가치가 절대하다. 그것은 곧 필자의 추측으로는 방과는 한비 소산의 대표로 (방과는 제2자나 장자 芳雨(방우)는 性(성)이 嗜酒痛飮(기주통음)하여 發病(발병)하였을 뿐 아니라, {{TagRefI|18}}시시로 常套(상투)를 벗어나는 언행이 있었으므로,<ref group="a">태조 2년 12월 갑신 무안약방이졸조공희, 태조실록 권4.</ref> 이러한 직위는 불적임이요, {{TagRefI|19}}부조 전래의 東北面(동북면) 高州(고주), 咸州(함주)의 전답을 賜(사)하였으나,<ref group="a">태조 원년 8월, 이왕직 소장문서 전답사급장(田畓賜給狀).</ref> 관직을 除授(제수)하지 않았으며, 이것이 또 방석을 세자로 책립하게 된 한 원인이 되었다고 생각한다). 방번은 강씨 소산의 대표로, 각 일인씩 분권 위임한 것이며, 이제는 駙馬(부마)이므로 임명하였다고 볼 수 있으나, 제가 강씨 出(출)의 慶順公主(경순옹주)를 취한 것을 생각하면 韓康(한강) 양비의 세력 균평으로는 후자에 稍重(초중)할 것이나, 이것은 강씨가 당시 태조의 총애를 받던 때라 불가피할 사정이라 하겠다. 이런 실상을 염두에 두고 보면, 방원이 후일에 <cite no="XX">「父王卽位之初, 以勇兵皆委於我」</cite>라고 하는 것이, 얼마나 진실성 있는 追懐(추회)인지 의문이라 하겠다. {{TagRefI|20}}태조 2년 3월에 왜구를 방어하기 위하여 節制使(절제사)를 分遣(분견)할 때<ref group="a">동 2년 3월 계해, 동상 권3.</ref> 義安伯(의안백) 和前門下評理(화전문하평리) 朴巖(박암) 崔雲海(최운해)를 楊廣道(양광도), 興安君(흥안군) 이제 判中樞院事(판중추부사) 남은 參贊門下府事(참찬문하부사) 李之蘭(이지란)을 경상도, 정안군 방원 前(전) 全州節制使(전주절제사) 陳乙瑞(진을서)를 전라도로, 各(각)히 분견하게 되여, 방원이 비로소 전라절제사가 된 것이다. {{TagRefI|21}}금년 9월에 三軍摠制府(삼군총제부)를 義興三軍府(의흥삼군부)로 改(개)하고 重房(중방)을 파한 실패 개혁에는<ref group="a">동 2년 9월 병진, 동상 권4.</ref> 도전의 관계한 부분이 많음이 물론이어니와, 이 개혁의 결과, 永安君(영안군) 방과가 三軍府中軍節制使(삼군부중군절제사), 撫安君(무안군) 芳蕃(방번)이 左軍節制使(좌군절제사), 興安君(흥안군) 이제가 右軍節制使(우군절제사)로 임명되어, 그 지위의 분포가 여전하였다. {{TagRefI|22}}동 11월에 判三司事(판삼사사) 정도전이 諸道節制使(제도절제사) 所領(소령) 군사의 武畧(무략)있는 자를 搾(착)하여 陣圖(진도)를 교습하였다 하니<ref group="a">동 2년 11월 경술, 동상.</ref> 도전의 병정에 대한 식견과 抱費(포비)와 수완을 可知(가지)하겠으며 3년 정월에는 이미 判義興三軍府事(판의흥삼군부사)의 직으로 大牢(대뢰)에 뜻을 祭(제)하고, {{TagRefI|23}}도전 이하 與祭將士(여제장사)가 다 철갑을 着(착)하였다는 것을 보면<ref group="a">동 3년 정월 임술 무진, 동상 권5.</ref>그 군정에 대한 위풍과 세력의 확립함을 볼 수가 있다. {{TagRefI|24}}동 2월에는 유명한 府衛革新(부위혁신)의 상서를 하였으니 <cite no="XX">「自古爲國者, 文以致治, 武以勘亂 文武兩幟, 如人兩臂, 不可偏廢, 故本朝旣有百司庶府号又有諸衛, 各領, 所以備文武之職也, 然, 府兵之制, 大抵 承前朝之舊, 前朝盛時, 唯府兵外無他軍號, 北有大遼, 東有女眞, 日本侵掠於外, 又有草賊, 往往竊發於中, 小則中郞將以下, 大則遣上將軍將軍禦之, 至於不得己而後發郡縣丘, 外攻內守, 傳至四百餘年, 當時府兵之盛可知, 無事則肆習兵法, 有事出軍則必爲五陣, 當時兵法之習, 亦可知也, 自忠烈王事元以來, 每因中朝宦寺婦女奉使者之請, 官靠汎濫, 皆以所托之人, 除衛職, 恃勢疇蹇, 莫肯宿衛, 由是, 府衛始毀, 始置忽只忠勇等愛馬, 姑備宿衛, 及僞朝法制大毀, 凡受府衛之職者, 徒食天錄, 不事其事, 遂至失國」</cite><ref group="a">동 2월 기해, 동상 12장. 이것을 迫衲(박납)한 것이 뒤에 태조 4년 6월(무진)에 찬진한 「경제문감(絕濟文鑑)」에 수집되어 남아있다 삼봉집 권지6 경제문감 하 위병 본조 장병조.</ref>의 주의로 10위 개칭을 위시하여 將軍掌兵(장군장병)의 제한에 이른 8조의 개량 의견으로, 왕의 채용 嘉納(가납)한 바가 되었다. 그 본의는 여기 인용한 바로서도 추측할 수 있음과 같이, 중앙 부병의 실력 충실과 병법 진법의 평시 강습을 통론한 것이다. 이 상서 중에 인용한 部分 외에 주의할 점은, 그 제2조의 관직 명호 개칭 중에, <cite no="XX">「又每一道節制使, 叙肾省宰, 副節制使, 中樞, 兵馬鈴轄使, 嘉善, ……中軍, 京畿左右道, 東北面, 左軍, 江陵, 交州, 慶尙, 全羅道, 右軍, 楊廣, 西海道, 西北面, 屬之」</cite>의 일구다. 이 각도 절제사를 종실(혹 省宰(성재))로 임명한다는 주지는 전년 3월 왜구 방어를 위하여 절제사 분견할 때에, 화, 제, 방원을 임명 한 취지를 이은 듯 하나, 결과로써는 전라도절제사 방원은 左軍(좌군)에 속하므로, 左軍府左軍節制使(좌군부좌군절제사)인 異母弟(이모제) 방번에게 易(역)하게 되는 것을 볼 수 있다. 이것은 방번이 방과와 함께 최고 병권을 파악함에 반하여, 방원의 최초부터 일층 낮은 지위가 초래한 부득기한 사정일 것이나, 방원의 불평을 추측할 수 있을 것 같으며, 방원 자신으로서는 開風(개풍)에 首功(수공)있다고 자임하던 태도로 보아, 그 심중을 생각할 수 있다. 더군다나 후일 무인지변에, 방원이 절대적으로 의지하였을 뿐 아니라, 전후를 통하여 股肱(고굉)의 충신이 된 李叔蕃(이숙번). 하륜 등이 다 방원의 전라도 관계로 知遇(지우)하게 된 정세를 照考(조고)하면, 저간에 처한 정안의 심사를 억측할 수 있다 하겠다. 도전은 이런 사소한 일부의 불평은 물론 안중에 없는 것 갈이, 여전히 병정 개혁의 시설을 계속하여, {{TagRefI|25}}동년 3월 을사에는 각도 節制使率行軍官(절제사솔행군관)의 수를 정하고<ref group="a">태조 3년 3월 을사 태조실록 권5.</ref>동 무인에는 臨津(임진) 壽美浦(수미포)에서 왕의 幸行(행행)을 받아 五軍陣圖(오군진도)를 강하고 {{TagRefI|26}}동년 6월에 역대 부병시위(府兵侍衛)의 제(制)를 찬하고 府衛(부위)의 폐와 其時(기시) 府兵(부병) 연혁의 事宜(사의)를 논하여 圖(도)를 지어서 獻(헌)하였다.<ref group="a">동상 임진, 동상 권6,</ref> 동년 7월에 의흥삼군부(義興三軍府)가 {{TagRefI|27}}<cite no="XX">「嚴府史成法, 汕謗沮毀者,使憲司啓聞論罪」</cite>를 청한 것을 보면,<ref group="a">동상 7월 무오, 동상.</ref>이 엄격한 시설과 개혁에 불평을 가진 자가 불소하였던 것을 추측할 수 있다. 이러한 불평불안과 질시의 교착한 훈방저훼(訓謗沮毀)의 일례가 동년 11월의 변중량 등의 옥이니, {{TagRefI|28}}기록에 의하면 <cite no="XX">「囚殿中卞仲良于巡軍獄, 命大司憲朴經巡軍萬戶李稷等鞫之, 初仲良與兵曹正郞李曰, 自古, 政權兵椭, 不可兼任一人 兵權宜在宗室.政權宜在宰輔, 令趙浚. 鄭道傳, 南誾等, 旣掌兵權, 又掌政權, 實爲不可, 伸良以此言於義安伯和, 和吿于上, 上召仲良, 問之, 仲良對以實, 且曰, 朴苞亦謂殿下, 失爲國之賜, 屢致星礎, 上怒曰, 此數人, 皆我股肱之臣, 終始一心者也, 如或可疑, 則誰可信者, 爲此言者, 必有以也, 卽命韓仲良及苞曲」</cite>라고 있어,<ref group="a">동상 11월 경자, 동상 16장.</ref> 조, 정, 남 등의 정권군권집중 방침을 비난한 것이나, 이것은 태조의 신임한 태도가 증명하는 바와 같이, 개인적 사욕이라고 하기 보단, 이씨 국가를 위한 공인적 시정인 것이 물론이다. 그러나 중앙집권의 여파를 받는 권신들이 이 정책에 불안을 가지는 것도 당연하며, 또 구체적 개개 사실을 보더라도, 정도전은 판삼군부사(判三軍府事)라는 정권의 중축에 있으면서, 判義興三軍府事(판의흥삼군부사)라는 병권의 대강을 잡고 있었으니, 이러한 중상이 일어날 근거는 있었다 할 것이다. 중량의 고사(吿辭) 중에 전자의 절제사를 종실과 성재(省宰)로 임명한다는 조건에 반하는 <cite no="XX">「兵權宜在宗室」</cite>이라는 말은, 종래의 용례사로 같은 사람이 兩執(양집)함을 불가타 하는 의미로서 무심히 사용한 것인지, 권신의 음모가 가외(可畏)라는 뜻이 있는지, 또는 義安君(의안군) 화에게 吿하는 형편상으로 다소의 諂諛(첨유)를 포함함인지(중량은 元桂(원계)의 女婿(여서)이므로 府(부)는 중량의 처삼촌이 되는 관계다) 그 진의를 難測(난측)하겠으며, 또 이것을 억측한들 지금 이곳에서는 큰 소득을 기대할 수 없으나. 우리가 문제로 할 것은, 이곳에는 중량은 <cite no="XX">「兵權宜在宗室」</cite>이라 하면서, 초두 인용한 기록에 의하면 <cite no="XX">「請罷諸王子兵權, 至再三」</cite>하였다는 것이 이상하며, 또 이 곳에는 도전 등을 이같이 의심 중상함에 대하여, 상기 引文(인문) 내에는 <cite no="XX">「道傳又嗾卞仲良上疏」</cite>라 하였으니, 이러한 모순을 여하히 해석하여야 할까. 여기 인용한 태조 3년 11월의 중량의 도전 등을 중상한 것을 當者(당자)가 왕에게까지 直對(직대)한 확실한 사실이니 움직일 수 없으나, 이 글 초두에 인용한 것을 지금 정안 일파의 상상의 소산이라고 할 밖에 확실한 證跡(증적)을 볼 수 없다. 중량을 도전 일파라 함은 그가 기사 夕(석)의 돌변에 際(제)하여, 궁내에서 정안파의 행동에 불부(不付)하던 정도를 취한 것이 최대 원인이라 할듯하며, 중량을 상기 일례만으로서 도전과 불호한 관계에 있었다고 단정할 수는 없으나, 적어도 정안 일파의 인정한 바와 같이 도전의 복심이라고 볼 수도 없다. 그뿐 아니라 이러한 도전 탄핵의 상고를 하는 중량이면 이 점에 있어 오히려 정안의 이해를 도운다고 할 수 있거늘 정안 일파는 중량은 도전의 복심같이 운운하는 것이 이상하다. 그러므로 중량의 병정개혁에 대한 의견은 변중량 當者(당자)를 중심으로 생각할 것이요, 다른 사람의 지주(指嗾)을 특히 호의(狐疑)할 것이 아니며, 중량을 중심으로 볼 때, 최초에는 권신 장병(掌兵)에 불안을 감(感)하고, 다음에 형세를 보아 또 제왕자의 사병을 위험하다고 상고하였다 생각하는 것이 제일 자연하며, 또 이 해석에 별로이 이상과 모순이 없을 것이 아닌가. 물론 중량이 제왕자의 병권을 파하자는 것이 도전 일파의 찬동을 얻을 수 있는 점은 추상할 수가 있을 것이며, 그렇더도 또 별로이 문제될 것이 없다. 이 중량의 옥이 일어날 때, 곧 말하면 도전의 병정개혁이 次第(차제)로 실현하여 가고, 따라서 중방(衆謗)이 일어날 형세가 보이는 이 때에, 정안군 방원은 주문사(奏聞使)로 명정(明廷)에 가서 아직 돌아오지 않은 중이었었다. (3년 6월 을해 출발. 동 12월 을묘 귀경, 즉 중량의 옥 후 15일에 귀경).  
 
|해독문27번= 이후에도 도전의 병정 시설은 계속되나, 그것은 본문에 지금 직접 관계 없음으로 그만두고, 본문 초두에 인용한 기록 중에, 이 병정 개혁에 관련있는 듯한 정안파의 불평(?)을 대략 고사(考査)하여 보자.  
 
|해독문27번= 이후에도 도전의 병정 시설은 계속되나, 그것은 본문에 지금 직접 관계 없음으로 그만두고, 본문 초두에 인용한 기록 중에, 이 병정 개혁에 관련있는 듯한 정안파의 불평(?)을 대략 고사(考査)하여 보자.  
|해독문28번= 정안파가 도전 일파의 죄상으로 「將欲去諸王子, 暗嗾宦者金師幸, 密啓, 請依中朝諸皇封王之例, 分遣諸王子於各道」를 말하는 진상은 단정하기 어렵고, 더욱 金師幸(김사행)을 暗嗾(암주)하였다는 것은 당시라도 적확히 알지 못할 것을 지금 운운할 수는 없으니 문제 외로 두고, 그 分遣各道(분견각도)의 의미가, 글자대로 「一封王」을 가르친 것이면 이 역 지금 논의할 바가 아닐 것이다(실현치도 않고 문제될 가능성이 없으므로). 다만 그것이 만약 각도 절제사 임명 또는 그 분견과 무슨 연상이 있고, 그것을 불평으로 하는 저의가 있다면, 이 점은 위에 말한 바와 같이 병정을 개혁할 때, 각도 절제사는 중요한 직분이므로 종실, 혹은 성재로 충용한다는 규정이 될 때 이미 작정된 것이며, 이 규정을 제작한 深意(심의)가 왕자 배척에 있다면 모르거니와,(주29) 이 규정 자체를 논의하지 않고 각도 분견만 불평으로 한다면, 그 비난과 불평이 문제에 적중하지 않는 것이라 할 수밖에 없다. 더군다나 정안군이 전라도절제사가 되었을 때는, 방번도 동북면절제사로 被任(피임)되었다 하니, 그 지위의 불평 외에 절제사 임명에는 불평이 있을 도리가 없으며, 또 각도 절제사라고 하나, 실상은 직명뿐이요, 의연히 京城(경성)에 留在(유재)한 상태이었던 것을 보면 이것으로 불평 운운할 도리는 없을 듯하다. 文意(문의)로 보아서 방번을 동북면에 위임한대 무슨 불평이 있는 듯도 하나, 이것은 별문제이고, 김사행의 分遣封王云云(분견책왕운운)은 경기를 떠나기 싫은 主意(주의)로 나온 말인 듯하므로, 아마 절제사 문제와는 직접 관계가 없을 듯하다. 다음에 「時, 罷諸王子者所領侍衛牌, 已十餘日矣」운운은, 이 引文(인문)의 정도로서는 이 조처에 대하여 불평이 있었다고 斷案(단안)하기에는 충분하지 못하나, 심중 불안하던 차이라면, 이러한 처치가 불안과 狐疑(호의)의 마음을 도울 재료가 될 것은 추측할 수 있다. 그러나 소위 「侍衛牌」의 폐단은 이전부터 이후에 이르기까지 위정자의 公評(공평)이며, 이것을 파하자 함도 이론으로는 衆論(중론) 일치라 하여도 무관하며, 이런 문제는 이때보단, 오히려 도전 敗及(패급) 후에 위시하여 태종 시에 이르러 더욱 커지고 개혁도 보게 되었으니, 결국 다른 불평이 이것을 돕게 되었다할지언정, 이것이 불평의 근원이라고 할 수는 없을 듯하다. 그것은 「唯芳蕃, 總兵如舊」라는 어투를 보아도 일단을 추찰할 수 있다. 그러나 이러한 실력 삭제의 시설이 방원의 신경을 더욱 激敏(격민)시킨 사정은 추찰하여 둘 필요가 있을 듯하다.  
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|해독문28번= 정안파가 도전 일파의 죄상으로 <cite no="XX">「將欲去諸王子, 暗嗾宦者金師幸, 密啓, 請依中朝諸皇封王之例, 分遣諸王子於各道」</cite>를 말하는 진상은 단정하기 어렵고, 더욱 김사행을 암주(暗嗾)하였다는 것은 당시라도 적확히 알지 못할 것을 지금 운운할 수는 없으니 문제 외로 두고, 그 분견각도(分遣各道)의 의미가, 글자대로 <cite no="XX">「一封王」</cite>을 가르친 것이면 이 역 지금 논의할 바가 아닐 것이다(실현치도 않고 문제될 가능성이 없으므로). 다만 그것이 만약 각도 절제사 임명 또는 그 분견과 무슨 연상이 있고, 그것을 불평으로 하는 저의가 있다면, 이 점은 위에 말한 바와 같이 병정을 개혁할 때, 각도 절제사는 중요한 직분이므로 종실, 혹은 성재로 충용한다는 규정이 될 때 이미 작정된 것이며, {{TagRefI|29}}이 규정을 제작한 深意(심의)가 왕자 배척에 있다면 모르거니와,<ref group="a">이러한 억측과 사추를 할 필요와 근거가 없으며, 그것이 결코 왕자 배척의 수단이 되지 않을 것이 자명하다.</ref> 이 규정 자체를 논의하지 않고 각도 분견만 불평으로 한다면, 그 비난과 불평이 문제에 적중하지 않는 것이라 할 수밖에 없다. 더군다나 정안군이 전라도절제사가 되었을 때는, 방번도 동북면절제사로 피임(被任)되었다 하니, 그 지위의 불평 외에 절제사 임명에는 불평이 있을 도리가 없으며, 또 각도 절제사라고 하나, 실상은 직명뿐이요, 의연히 京城(경성)에 留在(유재)한 상태이었던 것을 보면 이것으로 불평 운운할 도리는 없을 듯하다. 文意(문의)로 보아서 방번을 동북면에 위임한대 무슨 불평이 있는 듯도 하나, 이것은 별문제이고, 김사행의 分遣封王云云(분견책왕운운)은 경기를 떠나기 싫은 主意(주의)로 나온 말인 듯하므로, 아마 절제사 문제와는 직접 관계가 없을 듯하다. 다음에 「時, 罷諸王子者所領侍衛牌, 已十餘日矣」운운은, 이 引文(인문)의 정도로서는 이 조처에 대하여 불평이 있었다고 斷案(단안)하기에는 충분하지 못하나, 심중 불안하던 차이라면, 이러한 처치가 불안과 狐疑(호의)의 마음을 도울 재료가 될 것은 추측할 수 있다. 그러나 소위 「侍衛牌」의 폐단은 이전부터 이후에 이르기까지 위정자의 公評(공평)이며, 이것을 파하자 함도 이론으로는 衆論(중론) 일치라 하여도 무관하며, 이런 문제는 이때보단, 오히려 도전 敗及(패급) 후에 위시하여 태종 시에 이르러 더욱 커지고 개혁도 보게 되었으니, 결국 다른 불평이 이것을 돕게 되었다할지언정, 이것이 불평의 근원이라고 할 수는 없을 듯하다. 그것은 「唯芳蕃, 總兵如舊」라는 어투를 보아도 일단을 추찰할 수 있다. 그러나 이러한 실력 삭제의 시설이 방원의 신경을 더욱 激敏(격민)시킨 사정은 추찰하여 둘 필요가 있을 듯하다.  
|해독문29번= 그러나 우리의 관심은 이러한 지엽 末節(말절)보다도 병정의 근본인 「私兵」 혁파에 대하여 도전이 여하한 태도를 취하였던가하는 문제다. 우리의 상식으로 말하면. 도전과 그 일파가 왕실(태조 및 세자)의 권력집중 정책을 주안으로 하고, 이 세력에 대립할 염려있는 주위의 세력을 삭제할라면, 무엇보다도 가장 유효한 방법은, 당시 권력과 부력의 근원인 사병을 혁파함에 있다하는 것이 당연하나, 前揭(전게) 「嗾卞仲良」운운의 기록 외에는, 이 점에 확실한 證迹(증적)이 될 시설을 볼 수가 없다. 태조 3년 2월의 府衛革新(부위혁신)의 상서도 府兵(부병)의 충실율 운운함에 그치고, 각도에는 절제사를 두고 종실 성재가 수임하게 하니, 이것은 역시 사병의 존속인 것이 확실하다. 그뿐 아니라, 동년 5월에 도전이 新成(신성) 조선국의 爲政(위정) 제작의 근본을 기술하여 태조의 관람 嘆美(탄미)를 받은(30) 「朝鮮經國典(조선경국전)」 중에도, 「每道置節制使, 其州郡之兵, 番上宿衛, 亦內外相制之義」(주31)라고 하였으니, 도전의 사병에 대한 의견과 시설이 역시 그 존치를 시인한 것이 확실하다. 그러나 시간의 경과와 사태의 진전은 도전 및 그 일파로 하여금 이러한 현실과의 安協(안협)을 어느 때까지라도 용서하지 않게 되었던지, 태조 6년 12월에 동북면 都宣撫巡察使(도선무순찰사)로 갔던 도전이 동 7년 3월에 귀경하였을 때, 왕의 賜宴(사연)에 際(제)하여 「(王)又謂宣城君南聞曰, 忠言逆耳, 利於行, 卿等宜言之無諱, 因問都承旨李文和, 逆耳之言, 必自臺諫來, 予性頗急, 或未優容, 惟爾在左右, 敢言勿懼, 聞進曰, 上在潜邸, 不曾握兵, 何有今日, 如臣者亦無能保矣, 當開國之初,  令諸功臣掌兵可也, 今 即位己久, 宜革諸節制使,  合爲官軍, 庶爲萬全, 上曰孰謂南冊爲無實此言, 誠始終之戒也」(주32)의 문답이음을 보면 남은의 이 의견은 물론 도전의 소회와 같은 것이 당연하니, 도전 일파의 병정에 대한 태도가 급격화하여온 것을 추측할 수 있다, 도전 등이 최초로부터 이러한 의견을 심저에 가지고 일시 과도기적 妥協(안협) 시설을 하였는지 또는 주위의 형세의 사태가 점점그 필요를, 雅感(아감)하게 되었던 지 아마 쌍방의 견해가 다 정당하다고 할 것이다, 그렇다면, 前記(전기) 仲良(중량)이 權臣兵政兩執不可論(권신병정양집불가론)으로 왕자 사병혁파의 低見(저견)에 진전하는 배후에도, 역시 공의 변화를 볼 수 있지 않을지, 그러나 이 당시의 사태는 왕의 답한 태도에도 볼 수 있음과 같이, 이 종 개혁을 필요로 하였던 것은 명백하나, 그 개혁의 실현은 물론, 의견을 공표하기도 危難(위난)한 형세에 있었는 듯하다. 남은의 言中(언중)에 절제사를 單除(단제)하라는 것이 전일의 笈協的(급협적) 시정에 내심 불만함을 표시하였으니. 그런 것을 念如(염여)에 두고 보면 「嗾卞仲良」운운의 상상이 날 원인도 없다 할 수 없으며. 또 이런 의견에는 정안 반대 도전 찬의의 이해 상반이 당연하다. 그러므로 도전파의 이러한 신념과 태도에 대하여, 방원 일파가 英大(영대)한 불안을 포장하였던 것이 당연하다. 이것은 당시 방원이 방번에 비하여는 불평이 있으나, 그래도 절제사라는 병권을 가지고 의지할 약간의 실력을 소지하였던 것을 염두에 두면, 容易(용이)히 추측할 수 있다. 그러므로 도전 등의 병정개혁에 대한 시설과 포부가 더 자세히 말하면, 점점 급격해 가는 중앙집권정책의 태도가, 소위 기사일 돌변의 深柬(심간)한 원인이라고 銘念(명념)할 것이다, 이것이 양파의 근본적 이해 관계가 相容(상용)하지 않는 점이요, 이 외에 여러 가지 이유와 소위 「罪狀」은 이 근본에서 나온 지엽에, 긴밀하지 못한 이유를 부회한 것이 아닌가. 방원은 「吾同母兄弟」를 배척한다고 극력 절규하나, 방과(定宗, 정종)의 방원 起變(기변)에 대한 태도가 극력 소극적이었던 것을 다못 그 「仁愛純實之性」에만 歸(귀)할 것이 아닌 것 같다. 정종 2년 6월에 방원이 세자로서 「大學衍義」를 읽을 때 左輔德徐愈(좌보덕서유)와 握兵(악병)의 폐를 논하는 말 중에 「戊寅, 南鄭之亂, 吾兄弟若不握丘八, 豈能應機制變也」(주33)라는 회상은 이것을 溯上(소상)하면 남은이 태조에게 「上在潜邸不曾握兵, 何有今日,  如臣者亦無保矣」와 같은 것이며, 방원의 自誇(자과)하는 此種(차종) 「應機」 활동이, 곧 정 남 등이 개혁하고자하던 사병의 폐일 것이니, 도전이 당시에 제 왕자 파병을 계획하였더라도 후일에 不忠不道(불충불도)의 음모같이 말할 것이 되지 못할 것이다. 도전 등이 「諸王子 罷兵」을 실현할 기운이 농후하였다 하더라도, 방원의 처지로 본 사소한 개인적 이해 관념에서 나온 불평불안의 念(념)이 있다 할지언정, 이것은 국가의 대체로 보면 당연하고 忠義賢明(충의현명)한 시정일 것을, 후일 방원의 왕위 획득한 결과만으로, 이 태도를 백세의 역신의 음모라고 傳喧(전훤)하는 것이 불합리한 것이며, 더욱 태조 성계를 시조로 한 이씨 일가의 국가 대체로 보아도, 功罪(공죄)는 정당 공평히 평가하여야 할 것이 아닌가. 더욱 사병혁파의 여론은 정종 즉위후 芳毅(방의) 芳幹(방간)의 난 후에 더욱 분규하여지며, 도전 當政(당정) 시의 신중한 태도에 비하여 확연히 공공히 주장하게 되고, 태종 시에 이것을 단행하게 되어, 종실과 권신의 群怨(군원)이 일어나게 되었으니, 방원의 전후 모순하는 태도가 너무도 이상하다 하기 보다도, 역사의 회전하는 상태가, 후세 우리의 흥미를 일으킨다. 그뿐 아니라 더욱 이상한 점은 도전 몰후에, 그의 사병 혁파에 대한 태도가 철저하지 못한 것이 무인변란의 근본 원인이라 하여 도전을 비난하는 의론이, 이상한 의미로 일반으로 행하게 되니, 정종 2년 權近(권근)과 金若釆(김약변)의 罷私兵上疏(파사병상소) 중에 있는 「惟我太上王開國之初, 特置義興三軍府, 專掌兵權, 規模宏遠, 而時議者, 以爲革命之初, 人心未定, 常備不虞之變, 宜令勳親, 各典私丘八, 以應倉卒, 由是, 私兵未能盡除, 而典兵者反謀煽亂禍在不測」(주34)이 그 일례다. 이 文意(문의)는 당시의 사병 존치의 주장자를 비난함에 있으나, 당사자가 宏遠(굉원)한 삼군부 特置(특치)의 이상을 단행하지 못한 것이 후일의 禍源(화원)이 되었다 하는 것이요, 이런 논조는 정종 태종 시에 사병 혁파 주장자의 공통한 襟語(금어)이며, 태종 (방원) 자신이 병권 不可散在(불가산재)의 이유로 항시 구술하는 이유다. 도전이 만약 이것을 단행하였던들, 방원의 소위 「定社」 운동이 성공할 근거가 전무하니, 2 점으로는 이러한 「不徹屋」한 시설이 도로 혀 當幸(당행)이 되었다 할 것이 아닌가. 昔日(석일)에 도전이 주장할 때는 「陰謀」가 되며, 후일에 방원이 주장함에는 國家之大統(국가지대통)이 되니 그 변화가 너무도 심하지 않다 할 수 없다. 국가의 본위로 보면 도전과 방원의 주장이 다 동일히 진리일 것을, 방원의 개인적 이해의 견지로 斷案(단안)하는 평가가 이 공평을 왜곡하게 되니, 이것이 종래의 「國家」의 성질이며, 역사가 또 이 「國家」에 役使(역사)하는 노예였던 운명을 표시하는 好例(호례)라 하겠다.
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|해독문29번= 그러나 우리의 관심은 이러한 지엽 末節(말절)보다도 병정의 근본인 「私兵」 혁파에 대하여 도전이 여하한 태도를 취하였던가하는 문제다. 우리의 상식으로 말하면. 도전과 그 일파가 왕실(태조 및 세자)의 권력집중 정책을 주안으로 하고, 이 세력에 대립할 염려있는 주위의 세력을 삭제할라면, 무엇보다도 가장 유효한 방법은, 당시 권력과 부력의 근원인 사병을 혁파함에 있다하는 것이 당연하나, 前揭(전게) <cite no="XX">「嗾卞仲良」</cite>운운의 기록 외에는, 이 점에 확실한 證迹(증적)이 될 시설을 볼 수가 없다. 태조 3년 2월의 府衛革新(부위혁신)의 상서도 府兵(부병)의 충실율 운운함에 그치고, 각도에는 절제사를 두고 종실 성재가 수임하게 하니, 이것은 역시 사병의 존속인 것이 확실하다. 그뿐 아니라, {{TagRefI|30}}동년 5월에 도전이 新成(신성) 조선국의 爲政(위정) 제작의 근본을 기술하여 태조의 관람 嘆美(탄미)를 받은<ref group="a">동상 5월 무진, 태조실록 권5.</ref> 「朝鮮經國典(조선경국전)」 중에도, {{TagRefI|31}}<cite no="XX">「每道置節制使, 其州郡之兵, 番上宿衛, 亦內外相制之義」</cite><ref group="a">조선경국전 상, 삼봉집 권7 군관조.</ref>라고 하였으니, 도전의 사병에 대한 의견과 시설이 역시 그 존치를 시인한 것이 확실하다. 그러나 시간의 경과와 사태의 진전은 도전 및 그 일파로 하여금 이러한 현실과의 安協(안협)을 어느 때까지라도 용서하지 않게 되었던지, 태조 6년 12월에 동북면 都宣撫巡察使(도선무순찰사)로 갔던 도전이 동 7년 3월에 귀경하였을 때, {{TagRefI|32}}왕의 賜宴(사연)에 際(제)하여 <cite no="XX">「(王)又謂宣城君南聞曰, 忠言逆耳, 利於行, 卿等宜言之無諱, 因問都承旨李文和, 逆耳之言, 必自臺諫來, 予性頗急, 或未優容, 惟爾在左右, 敢言勿懼, 聞進曰, 上在潜邸, 不曾握兵, 何有今日, 如臣者亦無能保矣, 當開國之初,  令諸功臣掌兵可也, 今 即位己久, 宜革諸節制使,  合爲官軍, 庶爲萬全, 上曰孰謂南冊爲無實此言, 誠始終之戒也」</cite><ref group="a">태종 7년 3월 정묘, 태조실록 권13 9장.</ref>의 문답이음을 보면 남은의 이 의견은 물론 도전의 소회와 같은 것이 당연하니, 도전 일파의 병정에 대한 태도가 급격화하여온 것을 추측할 수 있다, 도전 등이 최초로부터 이러한 의견을 심저에 가지고 일시 과도기적 妥協(안협) 시설을 하였는지 또는 주위의 형세의 사태가 점점그 필요를, 雅感(아감)하게 되었던 지 아마 쌍방의 견해가 다 정당하다고 할 것이다, 그렇다면, 前記(전기) 仲良(중량)이 權臣兵政兩執不可論(권신병정양집불가론)으로 왕자 사병혁파의 低見(저견)에 진전하는 배후에도, 역시 공의 변화를 볼 수 있지 않을지, 그러나 이 당시의 사태는 왕의 답한 태도에도 볼 수 있음과 같이, 이 종 개혁을 필요로 하였던 것은 명백하나, 그 개혁의 실현은 물론, 의견을 공표하기도 危難(위난)한 형세에 있었는 듯하다. 남은의 言中(언중)에 절제사를 單除(단제)하라는 것이 전일의 笈協的(급협적) 시정에 내심 불만함을 표시하였으니. 그런 것을 念如(염여)에 두고 보면 「嗾卞仲良」운운의 상상이 날 원인도 없다 할 수 없으며. 또 이런 의견에는 정안 반대 도전 찬의의 이해 상반이 당연하다. 그러므로 도전파의 이러한 신념과 태도에 대하여, 방원 일파가 英大(영대)한 불안을 포장하였던 것이 당연하다. 이것은 당시 방원이 방번에 비하여는 불평이 있으나, 그래도 절제사라는 병권을 가지고 의지할 약간의 실력을 소지하였던 것을 염두에 두면, 容易(용이)히 추측할 수 있다. 그러므로 도전 등의 병정개혁에 대한 시설과 포부가 더 자세히 말하면, 점점 급격해 가는 중앙집권정책의 태도가, 소위 기사일 돌변의 深柬(심간)한 원인이라고 銘念(명념)할 것이다, 이것이 양파의 근본적 이해 관계가 相容(상용)하지 않는 점이요, 이 외에 여러 가지 이유와 소위 「罪狀」은 이 근본에서 나온 지엽에, 긴밀하지 못한 이유를 부회한 것이 아닌가. 방원은 「吾同母兄弟」를 배척한다고 극력 절규하나, 방과(定宗, 정종)의 방원 起變(기변)에 대한 태도가 극력 소극적이었던 것을 다못 그 <cite no="XX">「仁愛純實之性」</cite>에만 歸(귀)할 것이 아닌 것 같다. {{TagRefI|33}}정종 2년 6월에 방원이 세자로서 「大學衍義」를 읽을 때 左輔德徐愈(좌보덕서유)와 握兵(악병)의 폐를 논하는 말 중에 <cite no="XX">「戊寅, 南鄭之亂, 吾兄弟若不握丘八, 豈能應機制變也」</cite><ref group="a">정종 2년 6월 계축, 정종실록 권4 19-20장.</ref>라는 회상은 이것을 溯上(소상)하면 남은이 태조에게 <cite no="XX">「上在潜邸不曾握兵, 何有今日,  如臣者亦無保矣」</cite>와 같은 것이며, 방원의 自誇(자과)하는 此種(차종) 「應機」 활동이, 곧 정 남 등이 개혁하고자하던 사병의 폐일 것이니, 도전이 당시에 제 왕자 파병을 계획하였더라도 후일에 不忠不道(불충불도)의 음모같이 말할 것이 되지 못할 것이다. 도전 등이 <cite no="XX">「諸王子 罷兵」</cite>을 실현할 기운이 농후하였다 하더라도, 방원의 처지로 본 사소한 개인적 이해 관념에서 나온 불평불안의 念(념)이 있다 할지언정, 이것은 국가의 대체로 보면 당연하고 忠義賢明(충의현명)한 시정일 것을, 후일 방원의 왕위 획득한 결과만으로, 이 태도를 백세의 역신의 음모라고 傳喧(전훤)하는 것이 불합리한 것이며, 더욱 태조 성계를 시조로 한 이씨 일가의 국가 대체로 보아도, 功罪(공죄)는 정당 공평히 평가하여야 할 것이 아닌가. 더욱 사병혁파의 여론은 정종 즉위후 芳毅(방의) 芳幹(방간)의 난 후에 더욱 분규하여지며, 도전 當政(당정) 시의 신중한 태도에 비하여 확연히 공공히 주장하게 되고, 태종 시에 이것을 단행하게 되어, 종실과 권신의 群怨(군원)이 일어나게 되었으니, 방원의 전후 모순하는 태도가 너무도 이상하다 하기 보다도, 역사의 회전하는 상태가, 후세 우리의 흥미를 일으킨다. 그뿐 아니라 더욱 이상한 점은 도전 몰후에, 그의 사병 혁파에 대한 태도가 철저하지 못한 것이 무인변란의 근본 원인이라 하여 도전을 비난하는 의론이, 이상한 의미로 일반으로 행하게 되니, {{TagRefI|34}}정종 2년 權近(권근)과 金若釆(김약변)의 罷私兵上疏(파사병상소) 중에 있는 <cite no="XX">「惟我太上王開國之初, 特置義興三軍府, 專掌兵權, 規模宏遠, 而時議者, 以爲革命之初, 人心未定, 常備不虞之變, 宜令勳親, 各典私丘八, 以應倉卒, 由是, 私兵未能盡除, 而典兵者反謀煽亂禍在不測」</cite><ref group="a">동상 4월 신해, 동상 15정.</ref>이 그 일례다. 이 文意(문의)는 당시의 사병 존치의 주장자를 비난함에 있으나, 당사자가 宏遠(굉원)한 삼군부 特置(특치)의 이상을 단행하지 못한 것이 후일의 禍源(화원)이 되었다 하는 것이요, 이런 논조는 정종 태종 시에 사병 혁파 주장자의 공통한 襟語(금어)이며, 태종 (방원) 자신이 병권 不可散在(불가산재)의 이유로 항시 구술하는 이유다. 도전이 만약 이것을 단행하였던들, 방원의 소위 「定社」 운동이 성공할 근거가 전무하니, 2 점으로는 이러한 「不徹屋」한 시설이 도로 혀 當幸(당행)이 되었다 할 것이 아닌가. 昔日(석일)에 도전이 주장할 때는 「陰謀」가 되며, 후일에 방원이 주장함에는 國家之大統(국가지대통)이 되니 그 변화가 너무도 심하지 않다 할 수 없다. 국가의 본위로 보면 도전과 방원의 주장이 다 동일히 진리일 것을, 방원의 개인적 이해의 견지로 斷案(단안)하는 평가가 이 공평을 왜곡하게 되니, 이것이 종래의 「國家」의 성질이며, 역사가 또 이 「國家」에 役使(역사)하는 노예였던 운명을 표시하는 好例(호례)라 하겠다.
|해독문30번= 이상의 고증에 의하여, 종래에 도전의 역죄의 과목이라는 것이 대개 아무 근거의 실상을 발견하지 못하고, 또 설령 도전 敗及(패급)이 불가피할 운명이라 할지라도, 그 공과를 논평할 견지를 개정할 필요가 있을 것을 可見(가견)하겠다 그러나 도전에게는 이 외에도 「罪瑕」라고 후일에 첨가받는 조목이 있으니, 明廷(명정)에 득죄하였다는 것이 그것이다, 물론 이것은 무인지난에 직접 관계는 없으나, 도전에게 대한 후세의 評難(평난)을 탐사하기에 필요하므로 觸筆(촉필)하여 볼까한다. 태종 11년 8월에 孫與宗(손여종), 黃居正(황거정)이 李種學(이종학) 등을 남살하였다는 죄로 純理(순리)를 받을 때, 태종의 말 가운데 「上召南在曰, 開國之事, 卿無不知, 種學等事, 何故不知, 壬申以前之事, 予皆知之, 其後人有忌我者, 故出使東北面矣 卿何以不知, 冒歟……上曰, 開國之功, 南簡居多, 至有涕泣而力白之者, 若道傳則其於開國也, 曾源一言, 其後辨嫡庶之時, 又無一言以及之, 至其得罪于, 高皇帝、則固避不赴, 挟私欺貞, 恣其凶暴, 以沒其身之咎, 濫殺崇仁等, 以滅其口」(주34)의 술회가 있어, 이것이 소위 도전 「罪狀」의 전부며 또 실정이라고 할 것이다, 이 文意(문의)에도 표현된 바와 같이 최대 「罪狀」이라면 태종과 親好(친호)하지 못하였던 점이며, 곧 양인(이라 하기보다도 더 방원편으로 보아)의 개인적 감정 불화라고 하여도 좋을 만한 相容(상용)하지 못하였던 관계가 최대 근원이었다고 볼 수밖에 없다. 「人有忌我者」 운운은 즉 도전을 가르침이 명백하고, 개국에 別功(별공)이 없이 大功(대공)있는 것 같이 한다는 것들이다 이러한 심정에서 나옴 말이라고 봍 것이다. 그리고 이곳에 嫡庶(적서)를 辨(판)할 때 無一言以及之(무일언이급지)라고 한 것은, 이 亦(역) 상술한 바와 같이 도전의 소위 「立庶」 시에 아무 적극적의 죄상 없음을 자인한 것이다. 이런 것들은 위에 이미 말한 바이어니와, 새로이 「得罪于高皇帝, 則固避不赴」라는 사실에 대하여 간단히 언급할 필요가 있을듯하다.  
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|해독문30번= 이상의 고증에 의하여, 종래에 도전의 역죄의 과목이라는 것이 대개 아무 근거의 실상을 발견하지 못하고, 또 설령 도전 敗及(패급)이 불가피할 운명이라 할지라도, 그 공과를 논평할 견지를 개정할 필요가 있을 것을 可見(가견)하겠다 그러나 도전에게는 이 외에도 「罪瑕」라고 후일에 첨가받는 조목이 있으니, 明廷(명정)에 득죄하였다는 것이 그것이다, 물론 이것은 무인지난에 직접 관계는 없으나, 도전에게 대한 후세의 評難(평난)을 탐사하기에 필요하므로 觸筆(촉필)하여 볼까한다. 태종 11년 8월에 孫與宗(손여종), 黃居正(황거정)이 李種學(이종학) 등을 남살하였다는 죄로 純理(순리)를 받을 때, {{TagRefI|35}}태종의 말 가운데 <cite no="XX">「上召南在曰, 開國之事, 卿無不知, 種學等事, 何故不知, 壬申以前之事, 予皆知之, 其後人有忌我者, 故出使東北面矣 卿何以不知, 冒歟……上曰, 開國之功, 南簡居多, 至有涕泣而力白之者, 若道傳則其於開國也, 曾源一言, 其後辨嫡庶之時, 又無一言以及之, 至其得罪于, 高皇帝、則固避不赴, 挟私欺貞, 恣其凶暴, 以沒其身之咎, 濫殺崇仁等, 以滅其口」</cite><ref group="a">태종 11년 8월 신묘, 태종실록 권22 14-15장.</ref>의 술회가 있어, 이것이 소위 도전 <cite no="XX">「罪狀」</cite>의 전부며 또 실정이라고 할 것이다, 이 文意(문의)에도 표현된 바와 같이 최대 <cite no="XX">「罪狀」</cite>이라면 태종과 親好(친호)하지 못하였던 점이며, 곧 양인(이라 하기보다도 더 방원편으로 보아)의 개인적 감정 불화라고 하여도 좋을 만한 相容(상용)하지 못하였던 관계가 최대 근원이었다고 볼 수밖에 없다. <cite no="XX">「人有忌我者」</cite> 운운은 즉 도전을 가르침이 명백하고, 개국에 別功(별공)이 없이 大功(대공)있는 것 같이 한다는 것들이다 이러한 심정에서 나옴 말이라고 봍 것이다. 그리고 이곳에 嫡庶(적서)를 辨(판)할 때 無一言以及之(무일언이급지)라고 한 것은, 이 亦(역) 상술한 바와 같이 도전의 소위 <cite no="XX">「立庶」</cite> 시에 아무 적극적의 죄상 없음을 자인한 것이다. 이런 것들은 위에 이미 말한 바이어니와, 새로이 <cite no="XX">「得罪于高皇帝, 則固避不赴」</cite>라는 사실에 대하여 간단히 언급할 필요가 있을듯하다.  
|해독문31번= 문제의 기원은 태조 5년에 明廷(명정)에 보낸 賀正使(하정사) 柳玽(유구) (明史(명사)에는 询(순))의 가지고 간 表箋(표전)에 있으니,(주36) 동 2월에 유구에게 수행한 打角夫(타각부) 金乙珍(김을진) 押物(압물) 高仁伯(고인백) 등이, 명정 禮部(예부)의 咨文(자문)을 暨來(기내)하였다. 그 文中(문중)에는 「洪武二十九年正朝表箋文內, 輕薄戯侮, 又生一釁, 是欲構兵不靖, 若以言辭侮慢, 興師問罪, 尙未可也, ……今所以不即興師者, 爲此令李諱, 知釁端之所以, 將撰文者至使者方歸缺」(주37)이라고 있어, 유구는 억류하고, 그 箋文(전문) 記草(기초)의 책임자 逮送(체송)을 구한 것이다. 여기 대하여 정부는 동 계묘에 대장군 郭海隆(곽해륭)을 보내서 표전의 文辭(문사)를 陳謝(진사)하게 하고, 표문 찬자 成均大司成(성균대사성) 鄭擢(정탁)은 풍질로 難起(난기)하므로, 賀東宮箋文(하동궁전문)의 찬자 中樞院學士(중추원학사) (찬문 시에는 判典校事(판전교사)) 金若恒(김약항)을 管送(관송)하였다.(주38) 명의 태도는 더욱 강경하여 가서, 동 3월 병술에 計禀使(계품사) 鄭摠(정총) 일행의 隨人(수인)이 귀국하였을 때의 명정 예부 자문 중에는 인신과 誥命(고명)을 청한 文中(문중)에 紂(주)를 인용한 점이 실례라 하여, 撰寫(찬사) 교정한 자의 執送(집송)을 명하고 사자의 억류를 통고하게 되었다.(주39) 또 동 4월 을미에 명에 被留(피류)하는 하정사 유구 일행의 朴光春(박광춘)이 귀국하여 전한 예부 자문에는, 京師(경사)에 拘留(구류)한 進表使者(진표사자)의 家小(가소)를 送來(송래)하여 각관 제 아문에 隸屬(예속)하지 않으면 사자를 金密衛(금밀위, 금 雲南省(운남성) 永昌(영창))에 流(유)하겠다고 하였다.(주40) 6월 정유에 명사 牛牛(우우), 王艘(왕소) 등이 가지고 온 예부 자문에는 撰表人(찬표인) 정도전, 정탁, 하정사 유구 등의 家小(가소) 管送(관송)을 명하여 왓다.(주41) 찬표자라고 도전의 이름이 이때 비로소 나게 된 것이나, 도전의 이 전문 집필에 대한 책임은 후에 명정에 변명한 정부의 奏文(주문)에 의한즉, 찬표는 물론, 改抹(개말)교정한 일도 없다 하니, 이 명정의 혐의는 도전에게는 寃罪(원죄)라 하는 것이 타당할 듯하다. 그러면 명정에서 어째서 도전을 지명하게 되었나 하면, 필자의 억측으로는, 명사에 「帝以表文語慢, 詰責之, 拘言表文乃門下評理鄭道傳所撰, 遂命逮道傳」(주42)이라고 있는 바와 같이 유구의 입에서 나온 말을 신용한 것이 아닌가 한다. 유구가 고의로 이런 誣吿(무고)를 하였던지 또는 당시 조선 정부 내부에 있어 문물제도의 撰進(찬진)에 도전의 관여가 막대함을 보고 이 표문도 도전의 손에서 나온 것이라 무심히 고한 것인지(주43) 확신할 수 없다. 그러나 후일 (태조 6년 7월 병진) 楊添植(양첨식)의 옥사의 내용을 보면, 「楊添植, 與明使楊帖木兒牛牛宇, 屛人密語, 勸使臣率鄭道傳, 以歸」(주44)라고 하여, 도전의 관송 실현을 희망하는 분자가 조선 내부에 있었던 것을 보면, 구가 만약 도전 반대파와 무슨 관계가 있었다면, 혹 고의에서 나온 무고라고 할지 모르겠다. 그러나 지금은 구에 관한 정도로서는 그런 혐의를 둘 수 없다. 동년 7월 계해에 參賛門下府事(참찬문하부사) 남은이 撰箋者(찬전자)와 유구 등의 家小(가소) 發遣(발견)을 중지하기를 청한 것을 보면, 당시의 조정 내 공기가 부득기 家小逮送(가소체송)을 계획하였던 것을 추측할 수 있다. 남은의 이 반대 운동을 단지 도전 체송을 요구함에 대한 반대라고만 보기 보다는, 명정의 무리 불도한 囈迫(예박)에 대한 奮激(분격)의 반항이라고 하는 것이 당연하며, 이 후로 도전, 남은, 심효생 등 무력주의자들의 대명 적극 반항 행동이 일어나게 된 것을 보아도 이 간의 소식을 추측할 수 있다. 이것을 도전 개인의 생명보존운동이라고 보기에는 너무 불합리한 점이 많으며, 또 너무도 협애한 견해라 할 것이다.  
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|해독문31번= {{TagRefI|36}}문제의 기원은 태조 5년에 明廷(명정)에 보낸 賀正使(하정사) 柳玽(유구) (明史(명사)에는 询(순))의 가지고 간 表箋(표전)에 있으니,<ref group="a">태조 4년 10월 경자 출발, 태조실록 권8.</ref> 동 2월에 유구에게 수행한 打角夫(타각부) 金乙珍(김을진) 押物(압물) 高仁伯(고인백) 등이, 명정 禮部(예부)의 咨文(자문)을 暨來(기내)하였다. {{TagRefI|37}}그 文中(문중)에는 <cite no="XX">「洪武二十九年正朝表箋文內, 輕薄戯侮, 又生一釁, 是欲構兵不靖, 若以言辭侮慢, 興師問罪, 尙未可也, ……今所以不即興師者, 爲此令李諱, 知釁端之所以, 將撰文者至使者方歸缺」</cite><ref group="a">동 5년 2월 정유, 동상 권9 3장.</ref>이라고 있어, 유구는 억류하고, 그 箋文(전문) 記草(기초)의 책임자 逮送(체송)을 구한 것이다. 여기 대하여 정부는 동 계묘에 대장군 郭海隆(곽해륭)을 보내서 표전의 文辭(문사)를 陳謝(진사)하게 하고, 표문 찬자 成均大司成(성균대사성) 鄭擢(정탁)은 풍질로 難起(난기)하므로, {{TagRefI|38}}賀東宮箋文(하동궁전문)의 찬자 中樞院學士(중추원학사) (찬문 시에는 判典校事(판전교사)) 金若恒(김약항)을 管送(관송)하였다.<ref group="a">동상 계축, 동상 권9. 곽해룡 김약항 양인을 관송키 위하여 이 전 신축일에 각히 대장군 중추원 학사로 임명하였다.</ref> 명의 태도는 더욱 강경하여 가서, {{TagRefI|39}}동 3월 병술에 計禀使(계품사) 鄭摠(정총) 일행의 隨人(수인)이 귀국하였을 때의 명정 예부 자문 중에는 인신과 誥命(고명)을 청한 文中(문중)에 紂(주)를 인용한 점이 실례라 하여, 撰寫(찬사) 교정한 자의 執送(집송)을 명하고 사자의 억류를 통고하게 되었다.<ref group="a">동 3월 병술, 동상 권9.</ref> 또 동 4월 을미에 명에 被留(피류)하는 하정사 유구 일행의 朴光春(박광춘)이 귀국하여 전한 예부 자문에는, {{TagRefI|40}}京師(경사)에 拘留(구류)한 進表使者(진표사자)의 家小(가소)를 送來(송래)하여 각관 제 아문에 隸屬(예속)하지 않으면 사자를 金密衛(금밀위, 금 雲南省(운남성) 永昌(영창))에 流(유)하겠다고 하였다.<ref group="a">동 4월 을미, 동상.</ref> {{TagRefI|41}}6월 정유에 명사 牛牛(우우), 王艘(왕소) 등이 가지고 온 예부 자문에는 撰表人(찬표인) 정도전, 정탁, 하정사 유구 등의 家小(가소) 管送(관송)을 명하여 왓다.<ref group="a">동 6월 정유, 동상.</ref> 찬표자라고 도전의 이름이 이때 비로소 나게 된 것이나, 도전의 이 전문 집필에 대한 책임은 후에 명정에 변명한 정부의 奏文(주문)에 의한즉, 찬표는 물론, 改抹(개말)교정한 일도 없다 하니, 이 명정의 혐의는 도전에게는 寃罪(원죄)라 하는 것이 타당할 듯하다. 그러면 명정에서 어째서 도전을 지명하게 되었나 하면, 필자의 억측으로는, {{TagRefI|42}}명사에 <cite no="XX">「帝以表文語慢, 詰責之, 拘言表文乃門下評理鄭道傳所撰, 遂命逮道傳」</cite><ref group="a">명사 권322 열전 외국 1 조선 6장.</ref>이라고 있는 바와 같이 유구의 입에서 나온 말을 신용한 것이 아닌가 한다. {{TagRefI|43}}유구가 고의로 이런 誣吿(무고)를 하였던지 또는 당시 조선 정부 내부에 있어 문물제도의 撰進(찬진)에 도전의 관여가 막대함을 보고 이 표문도 도전의 손에서 나온 것이라 무심히 고한 것인지<ref group="a">더욱 출발 전 3일 정유에는 도전이 新建(신건) 궁전의 諸殿(제전)을 명명하였다.</ref> 확신할 수 없다. {{TagRefI|44}}그러나 후일 (태조 6년 7월 병진) 楊添植(양첨식)의 옥사의 내용을 보면, <cite no="XX">「楊添植, 與明使楊帖木兒牛牛宇, 屛人密語, 勸使臣率鄭道傳, 以歸」</cite><ref group="a">태조 6년 7월 병진, 태조실록 권10 25장.</ref>라고 하여, 도전의 관송 실현을 희망하는 분자가 조선 내부에 있었던 것을 보면, 구가 만약 도전 반대파와 무슨 관계가 있었다면, 혹 고의에서 나온 무고라고 할지 모르겠다. 그러나 지금은 구에 관한 정도로서는 그런 혐의를 둘 수 없다. 동년 7월 계해에 參賛門下府事(참찬문하부사) 남은이 撰箋者(찬전자)와 유구 등의 家小(가소) 發遣(발견)을 중지하기를 청한 것을 보면, 당시의 조정 내 공기가 부득기 家小逮送(가소체송)을 계획하였던 것을 추측할 수 있다. 남은의 이 반대 운동을 단지 도전 체송을 요구함에 대한 반대라고만 보기 보다는, 명정의 무리 불도한 囈迫(예박)에 대한 奮激(분격)의 반항이라고 하는 것이 당연하며, 이 후로 도전, 남은, 심효생 등 무력주의자들의 대명 적극 반항 행동이 일어나게 된 것을 보아도 이 간의 소식을 추측할 수 있다. 이것을 도전 개인의 생명보존운동이라고 보기에는 너무 불합리한 점이 많으며, 또 너무도 협애한 견해라 할 것이다.  
|해독문32번= 전자 6월 정유에 온 明使(명사) 우우 일행 중의 宋学羅(송자라)가 7월 갑술에 歸明(귀명)할 때, 判司譯院事(판사역원사) 李乙修(이을수)를 管押使(관압사)로하여 撰表箋人藝文春秋舘學士(찬표전인예문춘추관학사) 권근, 右承旨(우승지) 정탁, 啓禀校正者(계품교정자)인 敬興府舍人(경흥부사인) 盧仁度(노인도)를 관송하였다.(주43) 도전이 만약 찬문하였다면, 도전만이 이 일행에 빠질 이유가 만무하며, 또 조정의 물의와 공론이 이것을 就過(취과)할 리가 없을 것이거늘, 이런 證迹(증적)이 하나도 없을 뿐 아니라, 도로혀 태종실록 중의 하륜전에 「丙子, 高皇帝, 以箋文不謹, 徵我主文者鄭道傳, 入朝, 太祖密訪廷臣, 廷臣遣否, 皆顧望以爲不必遣, 崙獨言遣之便」이라고 있어,(주46) 당시의 朝議(조의)의 所歸(소귀)를 可知(가지)할 것이다. 이 형세를 반드시 조신들이 정도전의 成勢(성세)에 겁나서 그렇다고 하는 것은 후세 방원 일파의 곡해라 할 것이다. 더욱 이때 이 일행과 동행한 啓禀使(계품사) 하륜(漢城府使, 한성부사)이 携去(휴거)한 奏文(전문) 중에 「前者進正旦衆, 箋文內輕薄戲侮着, 將撰文者發來, 止送撰箋者, 至其撰表人鄭道傳鄭擢, 至今不見送到, 今再差牛牛等, 其鄭道傳旣於鄭擢所撰表文,不曾改抹校正,事無干連, 又緣本人患敲脹脚氣病證不能起送, 所據柳爾等各項使臣, ……未蒙放還……今, 撰文人鄭擢, 金若恒等, 旣己欽依赴京, 更候明降, 伏望聚慈寬宥, 以慰國人之望」(주47)이라고 한 것을 참작하면, 전문의 직접 책임자는 정탁과 金若恒(김약항)이라는 것이 가장 명백하다. 그리고 이 奏文(주문) 중에 전자의 사신 등의 家小管送(가소관송)을 면하기를 청한 것을 보면 前揭(전게) 하륜전 중의 당시 조신의 태도와 합하여, 남은 일파의 강경론이 다소간 세력을 얻었던 것을 알겠다, 그러나 명정의 觸怒(촉로)를 憶㤼(억겁)하는 정부는 동 11월 甲戍(갑술)에 정탁, 권근, 김약행, 노인도 등의 가소를 관송하게 되었다.  
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|해독문32번= 전자 6월 정유에 온 明使(명사) 우우 일행 중의 宋学羅(송자라)가 7월 갑술에 歸明(귀명)할 때, {{TagRefI|45}}判司譯院事(판사역원사) 李乙修(이을수)를 管押使(관압사)로하여 撰表箋人藝文春秋舘學士(찬표전인예문춘추관학사) 권근, 右承旨(우승지) 정탁, 啓禀校正者(계품교정자)인 敬興府舍人(경흥부사인) 盧仁度(노인도)를 관송하였다.<ref group="a">동 5년 7월 갑수, 동 권10 1장.</ref> 도전이 만약 찬문하였다면, 도전만이 이 일행에 빠질 이유가 만무하며, 또 조정의 물의와 공론이 이것을 就過(취과)할 리가 없을 것이거늘, 이런 證迹(증적)이 하나도 없을 뿐 아니라, {{TagRefI|46}}도리어 태종실록 중의 하륜전에 「丙子, 高皇帝, 以箋文不謹, 徵我主文者鄭道傳, 入朝, 太祖密訪廷臣, 廷臣遣否, 皆顧望以爲不必遣, 崙獨言遣之便」</cite>이라고 있어,<ref group="a">태종 16년 11월 계사 靑山府院君(청산부원군) 하륜졸조, 태종실록 권32 26장.</ref> 당시의 朝議(조의)의 所歸(소귀)를 可知(가지)할 것이다. 이 형세를 반드시 조신들이 정도전의 成勢(성세)에 겁나서 그렇다고 하는 것은 후세 방원 일파의 곡해라 할 것이다. {{TagRefI|47}}더욱 이때 이 일행과 동행한 啓禀使(계품사) 하륜(한성부사)이 携去(휴거)한 奏文(전문) 중에 <cite no="XX">「前者進正旦衆, 箋文內輕薄戲侮着, 將撰文者發來, 止送撰箋者, 至其撰表人鄭道傳鄭擢, 至今不見送到, 今再差牛牛等, 其鄭道傳旣於鄭擢所撰表文,不曾改抹校正,事無干連, 又緣本人患敲脹脚氣病證不能起送, 所據柳爾等各項使臣, ……未蒙放還……今, 撰文人鄭擢, 金若恒等, 旣己欽依赴京, 更候明降, 伏望聚慈寬宥, 以慰國人之望」</cite><ref group="a">태조 5년 10월 갑술, 태조실록 권10 2장.</ref>이라고 한 것을 참작하면, 전문의 직접 책임자는 정탁과 金若恒(김약항)이라는 것이 가장 명백하다. 그리고 이 奏文(주문) 중에 전자의 사신 등의 家小管送(가소관송)을 면하기를 청한 것을 보면 前揭(전게) 하륜전 중의 당시 조신의 태도와 합하여, 남은 일파의 강경론이 다소간 세력을 얻었던 것을 알겠다, 그러나 명정의 觸怒(촉로)를 憶㤼(억겁)하는 정부는 동 11월 甲戍(갑술)에 정탁, 권근, 김약행, 노인도 등의 가소를 관송하게 되었다.  
|해독문33번= 그 직후 동월 무오에는 하륜과 정탁이 명에서 귀국하고, 그 때에 가지고 온 예부 자문 중에는 다시 戲侮(희모)를 作(작)하기를 염려하여 표전 찬자를 留置(유치)하고 微職(미직)을 주겠다 하며,(주48) 동 경신에는 謝恩進表使(사은진표사) 權仲和(권중화), 進箋使(진전사) 具成老(구성로) 및 被留(피류)의 사신 유구와 鄭臣義(정신의)도 귀국하여, 이 문제에 일단락을 지운 것 같이 보였다. 이러한 명정의 태도 완화는 하륜과 권근의 명정에 대한 敷奏(부주) 詳明(상명)이 성공하였다 한다, 표전 찬자라고 도전과 並呼(병호)하던 정탁(기실은 탁만이 책임자) 이 被許歸國(피허귀국)한 것을 보면, 이 때에 이 문제는 일차 해결하였다고 보아도 좋을 것 같다, 물론 표전 찬자를 유치한다는 말은 있으나 이것은 김약항을 가르친 것이며, 정총은 피류하였으나 표전 찬자라고 볼 수 없는 것이 자명하다.  
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|해독문33번= 그 직후 동월 무오에는 하륜과 정탁이 명에서 귀국하고, {{TagRefI|48}}그 때에 가지고 온 예부 자문 중에는 다시 戲侮(희모)를 作(작)하기를 염려하여 표전 찬자를 留置(유치)하고 微職(미직)을 주겠다 하며,<ref group="a">동 11월 무오, 경신, 동상 권10.</ref> 동 경신에는 謝恩進表使(사은진표사) 權仲和(권중화), 進箋使(진전사) 具成老(구성로) 및 被留(피류)의 사신 유구와 鄭臣義(정신의)도 귀국하여, 이 문제에 일단락을 지운 것 같이 보였다. 이러한 명정의 태도 완화는 하륜과 권근의 명정에 대한 敷奏(부주) 詳明(상명)이 성공하였다 한다, 표전 찬자라고 도전과 並呼(병호)하던 정탁(기실은 탁만이 책임자) 이 被許歸國(피허귀국)한 것을 보면, 이 때에 이 문제는 일차 해결하였다고 보아도 좋을 것 같다, 물론 표전 찬자를 유치한다는 말은 있으나 이것은 김약항을 가르친 것이며, 정총은 피류하였으나 표전 찬자라고 볼 수 없는 것이 자명하다.  
|해독문34번= 그러나 이상한 것은 이 직후 명사 우우와 偕行(해행)한 양첨식과 (동월 갑술 발), 사은사로 造明(조명)한 偰長壽(설장수) 辛有賢(신유현, 동 정축 발) 등이, 익 6년 4월에 귀국하였을 때 도전의 문제는 부활되어서 明帝(명제)가 도전을 질책함이 심하였다, 곧 그 때 자문 중에 「開阈承家, 小人仞用, 朝鮮新造 所用之人, 見在表鬼 此非三韓生靈之福, 乃三韓之禍首也, ……今朝鮮國王李瘴所用文人鄭道傳者, 於王之助何爲也, 王若一小悟, 人心禍源环, 令就, 据, 盧仁废, 金若恒若在朝鲜, 必鄭道傳之羽翼, 即因各人己招禍及其身矣, 王其審之, 若不精審,國棉又將登假手於人」(주49)라고 있어 관송하라는 말은 없으나 도전을 小人(소인)이라 하며 禍首(화수)라 하니. 이것은 明帝(명제)가 도전의 최초 入朝(입조)하지 않음을 怒(노)한 것인지, 또는 명정에 가서 도전을 중상한 인물이 있었던 때문인지, 인용한 文意(문의)와 권근의 귀국을 허한 것을 보면, 표전 문제는 해결되었다 할 것이며. 더욱 만약 도전이 전문에 관계있는 것을 여전히 명정에서 믿었더라면 관송을 默許(묵허)할 도리가 만무하겠다. 이것은 당시 명정의 고압적 태도와 세세한 문제를 일일히 문책하는 방침으로 보아서도. 추측할 수 있다. 이러한 의문을 가지고 보면, 상기 사은사가 귀국한 3일 후의 임인에 憲司(헌사)가 楊天植(양천식)을 切(절)하고, 또 설장수와 권근을 劾(핵)한 것이 유의하게 보인다.(50) 기록에는 당시의 소문을 볼 수 없으니 내용을 知悉(지실)하지 못하겠으나 권근에게 관한 점은 「瓶辱皆不得還, 獨近賞金遣之, 果如臣料, 請鞫之」라 하되, 이 상금 문제는 태조실록에 왕이 하사한 것이라 하니 이곳에는, 별로 이 문제로 할 것 없다고 불문하기로 하고 타 양인에게 대하여는 「天植, 長壽, 亦道傳 所忌也, 翻以入上國有所言也」라 한 것을 보면, 상기 의문이 명정에 도전을 중상한 혐의가 이 양인에게 있었다는 것을 可知(가지)하겠다. 실록 중의 기사로는 도전파가 이 양인을 무고하였다는 주지나, 사실을 탐사하면 이 양인의 태도에도 의심할 점이 있다 하기 보다도, 憲司(헌사)의 탄핵이 도리어 적당하다고 보이는 점이 많을 것 같다. 양천식이란 여하한 인물인지 자세한 閱歷(열력)을 지금 명백히 할 수 없으나, 처음에 5년 6월 정유에 도전, 탁, 유구 등의 家小管送(가소관송)을 명한 명사 우우는 通事(통사) 양첨식 (천식과 동인이라고 믿는다, 고증은 략)의 從人(종인) 金長(김장)이 인도하여 왔다하며, 이때 첨식이 「與明使楊帖木兒牛牛等, 屛人密語, 勸使臣, 率鄭道傳以歸, 且賂曹恂以匹帛奴婢, 謀免其罪」(주51)의 죄가 있었다 하여, 후일 태조 6년 7월에 「籍沒家產, 徙諸海上, 終身不齒」하게 된 것을 보면, 5년 11월에 명사 우우 등이 귀국할 때 戶曹典書(호조전서)로 동행한 첨식이가(주52) 일차 해결된 것 같은 문제를 다시 어렵게 하여서 가지고 온 것을 보아 명정에 가서 도전을 중상하였다 하는 혐의가 당연히 일어날 것이다. 또 설장수에 관하여는 확증을 얻을 수 없으나 4월 이해에 前記(전기) 도전에 관한 예부 자문을 봉한 후, 명제의 宣諭(선유)를 전하여 「二月 初二日 帝御右順門, 引見長壽等, 李某沒分暁, 鄭道傳用他做甚麽」(주53) 운운하였다 하니, 장수가 명정에 도전을 중상하였다는 證迹(증적)을 볼 수는 없으나 명제와 도전에게 관한 말을 교환한 것은 사실이며, 귀국 후에 그것을 왕에게 전한것도 사실이다. 그뿐 아니라 그 내용이 정에게 불리하였던 것도 亦(역) 주위의 상태로 보아 추측할 수가 있다. 이 양인이 何故(하고)로 도전을 명정에 중상하였는가 하는 점에 대하여는 탐사할 수단이 없으니, 장수는 명제의 의중을 忖度(촌탁)하여 그것을 맞기에 노력할 뿐이었다고 호의로 볼 수도 있으나, 양천식의 전자의 적극적 태도는 이만으로 간과할 수 없으니, 천식이 혹 도전 반대파의 이용함이 되었든지 또는 자신이 무슨 含怨(함원)할 이유가 있었든지 이 양자에 벗어나지 않을 것이다. 좌우간 이러한 문제보단 중심인 도전의 명정에 대한 獲罪(획죄)라 함은 결국 그 무리한 관송을 좇지 않은 것이며, 이것은 자기 일신만에 대한 것이 아니다. 다른 직접 책임자의 관송에도 불찬성하였으며, 더욱 그 가소의 관송에는 절대로 반대한 것이다. 이것은 명정의 이유없는 압박에 대한 반항이니, 방원 일파가 이것을 如何(여하)히 「罪」라고 하더라도, 이 점에 있어서는 도전 일파로 보면, 굴욕을 감수하면서 「無罪」를 期望(기망)하지 않겠다 할 것이다. 곧 도전 등은 이러한 명정의 고압적 태도에는 일시 굴복하더라도 저지함이 없이 去去益甚(거거익심)할 것을 믿고, 명정에 대한 실력 항쟁을 결의한 것이다, 병정 개혁에 瘁心(췌심)하던 도전 등의 병력 충실 운동이 이 전후로부터 더욱 일시에 활기를 呈(정)하게 된 것은 이런 강고한 결의가 心底(심저)에 잠재한 까닭이라고 한다,  
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|해독문34번= 그러나 이상한 것은 이 직후 명사 우우와 偕行(해행)한 양첨식과 (동월 갑술 발), 사은사로 造明(조명)한 偰長壽(설장수) 辛有賢(신유현, 동 정축 발) 등이, 익 6년 4월에 귀국하였을 때 도전의 문제는 부활되어서 明帝(명제)가 도전을 질책함이 심하였다, {{TagRefI|49}}곧 그 때 자문 중에 <cite no="XX">「開阈承家, 小人仞用, 朝鮮新造 所用之人, 見在表鬼 此非三韓生靈之福, 乃三韓之禍首也, ……今朝鮮國王李瘴所用文人鄭道傳者, 於王之助何爲也, 王若一小悟, 人心禍源环, 令就, 据, 盧仁废, 金若恒若在朝鲜, 必鄭道傳之羽翼, 即因各人己招禍及其身矣, 王其審之, 若不精審,國棉又將登假手於人」</cite><ref group="a">동 6년 4월 기해, 동상 권11 9-11장.</ref>라고 있어 관송하라는 말은 없으나 도전을 小人(소인)이라 하며 禍首(화수)라 하니. 이것은 明帝(명제)가 도전의 최초 入朝(입조)하지 않음을 怒(노)한 것인지, 또는 명정에 가서 도전을 중상한 인물이 있었던 때문인지, 인용한 文意(문의)와 권근의 귀국을 허한 것을 보면, 표전 문제는 해결되었다 할 것이며. 더욱 만약 도전이 전문에 관계있는 것을 여전히 명정에서 믿었더라면 관송을 默許(묵허)할 도리가 만무하겠다. 이것은 당시 명정의 고압적 태도와 세세한 문제를 일일히 문책하는 방침으로 보아서도. 추측할 수 있다. 이러한 의문을 가지고 보면, {{TagRefI|50}}상기 사은사가 귀국한 3일 후의 임인에 憲司(헌사)가 楊天植(양천식)을 切(절)하고, 또 설장수와 권근을 劾(핵)한 것이 유의하게 보인다.<ref group="a">동 6년 4월 壬寅, 동상 권11 11 2장.</ref> 기록에는 당시의 소문을 볼 수 없으니 내용을 知悉(지실)하지 못하겠으나 권근에게 관한 점은 <cite no="XX">「瓶辱皆不得還, 獨近賞金遣之, 果如臣料, 請鞫之」</cite>라 하되, 이 상금 문제는 태조실록에 왕이 하사한 것이라 하니 이곳에는, 별로 이 문제로 할 것 없다고 불문하기로 하고 타 양인에게 대하여는 <cite no="XX">「天植, 長壽, 亦道傳 所忌也, 翻以入上國有所言也」</cite>라 한 것을 보면, 상기 의문이 명정에 도전을 중상한 혐의가 이 양인에게 있었다는 것을 可知(가지)하겠다. 실록 중의 기사로는 도전파가 이 양인을 무고하였다는 주지나, 사실을 탐사하면 이 양인의 태도에도 의심할 점이 있다 하기 보다도, 憲司(헌사)의 탄핵이 도리어 적당하다고 보이는 점이 많을 것 같다. 양천식이란 여하한 인물인지 자세한 閱歷(열력)을 지금 명백히 할 수 없으나, 처음에 5년 6월 정유에 도전, 탁, 유구 등의 家小管送(가소관송)을 명한 명사 우우는 通事(통사) 양첨식 (천식과 동인이라고 믿는다, 고증은 략)의 從人(종인) 金長(김장)이 인도하여 왔다하며, {{TagRefI|51}}이때 첨식이 <cite no="XX">「與明使楊帖木兒牛牛等, 屛人密語, 勸使臣, 率鄭道傳以歸, 且賂曹恂以匹帛奴婢, 謀免其罪」</cite><ref group="a">동 7월 병진, 동상 권12 5장.</ref>의 죄가 있었다 하여, 후일 태조 6년 7월에 「籍沒家產, 徙諸海上, 終身不齒」하게 된 것을 보면, {{TagRefI|52}}5년 11월에 명사 우우 등이 귀국할 때 戶曹典書(호조전서)로 동행한 첨식이가<ref group="a">동 5년 11월 을해, 동상 권11.</ref> 일차 해결된 것 같은 문제를 다시 어렵게 하여서 가지고 온 것을 보아 명정에 가서 도전을 중상하였다 하는 혐의가 당연히 일어날 것이다. 또 설장수에 관하여는 확증을 얻을 수 없으나 4월 이해에 前記(전기) 도전에 관한 예부 자문을 봉한 후, {{TagRefI|53}}명제의 宣諭(선유)를 전하여 <cite no="XX">「二月 初二日 帝御右順門, 引見長壽等, 李某沒分暁, 鄭道傳用他做甚麽」</cite><ref group="a">동 6년 4월 기해, 동상 권11 10-11장.</ref> 운운하였다 하니, 장수가 명정에 도전을 중상하였다는 證迹(증적)을 볼 수는 없으나 명제와 도전에게 관한 말을 교환한 것은 사실이며, 귀국 후에 그것을 왕에게 전한것도 사실이다. 그뿐 아니라 그 내용이 정에게 불리하였던 것도 亦(역) 주위의 상태로 보아 추측할 수가 있다. 이 양인이 何故(하고)로 도전을 명정에 중상하였는가 하는 점에 대하여는 탐사할 수단이 없으니, 장수는 명제의 의중을 忖度(촌탁)하여 그것을 맞기에 노력할 뿐이었다고 호의로 볼 수도 있으나, 양천식의 전자의 적극적 태도는 이만으로 간과할 수 없으니, 천식이 혹 도전 반대파의 이용함이 되었든지 또는 자신이 무슨 含怨(함원)할 이유가 있었든지 이 양자에 벗어나지 않을 것이다. 좌우간 이러한 문제보단 중심인 도전의 명정에 대한 獲罪(획죄)라 함은 결국 그 무리한 관송을 좇지 않은 것이며, 이것은 자기 일신만에 대한 것이 아니다. 다른 직접 책임자의 관송에도 불찬성하였으며, 더욱 그 가소의 관송에는 절대로 반대한 것이다. 이것은 명정의 이유없는 압박에 대한 반항이니, 방원 일파가 이것을 如何(여하)히 「罪」라고 하더라도, 이 점에 있어서는 도전 일파로 보면, 굴욕을 감수하면서 「無罪」를 期望(기망)하지 않겠다 할 것이다. 곧 도전 등은 이러한 명정의 고압적 태도에는 일시 굴복하더라도 저지함이 없이 去去益甚(거거익심)할 것을 믿고, 명정에 대한 실력 항쟁을 결의한 것이다, 병정 개혁에 瘁心(췌심)하던 도전 등의 병력 충실 운동이 이 전후로부터 더욱 일시에 활기를 呈(정)하게 된 것은 이런 강고한 결의가 心底(심저)에 잠재한 까닭이라고 한다,  
|해독문35번=  태조 6년 6월 갑오에 判義興府使(판의흥부사) 정도전이 五陳圖(오진도)와 蒐狩圖(수수도)를 찬진하였으므로, 왕이 명하여 訓導官(훈도관)을 두어서 敎導(교도)하게 하고, 각 절제사, 군관, 西班各品(서반각품), 成衆愛馬(성중애마)에게 진도를 강습시키고 通曉(통효)한 자를 각도에 分遣敎之(분견교지) 하였다는 기록 중에 「時, 鄭道傳, 南誾, 沈孝生等, 謀興兵出境, 獻議於 上, 抵左政承趙浚之第諭之, 浚方疾病, 乃以與進闕 極言不可曰, 本國自古不失事大之禮, 且以新造之邦, 輕擧無名之丘八, 甚爲不可, 雖以利害壽之, 天朝堂堂, 無釁可圖 臣恐擧事不集, 而變生不虞也, 上聞之悅, 闍憤然曰, 政丞於出納斗升之事, 則可矣, 不可與圖大事也, 由是, 関等與浚有隙」(주54)이라고 있는 것을 보면, 도전 등이 출병 討遼(토요)할 구체적 복안까지 가졌던 것이 명백하며, 이 문제를 중심으로 하여 무력적 적극침략주의의 정 일파와 문치적 소극적 평화주의의 조준이, 내부에서 암암 간에 상쟁하였던 것을 可知(가지)하겠다. 다못 태조가 조준의 自重主義(자중주의)에 찬성하는 태도가, 정 남 일파의 격렬한 운동을 일시 눌렀을 뿐이다.
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|해독문35번=  {{TagRefI|54}}태조 6년 6월 갑오에 判義興府使(판의흥부사) 정도전이 五陳圖(오진도)와 蒐狩圖(수수도)를 찬진하였으므로, 왕이 명하여 訓導官(훈도관)을 두어서 敎導(교도)하게 하고, 각 절제사, 군관, 西班各品(서반각품), 成衆愛馬(성중애마)에게 진도를 강습시키고 通曉(통효)한 자를 각도에 分遣敎之(분견교지) 하였다는 기록 중에 <cite no="XX">「時, 鄭道傳, 南誾, 沈孝生等, 謀興兵出境, 獻議於 上, 抵左政承趙浚之第諭之, 浚方疾病, 乃以與進闕 極言不可曰, 本國自古不失事大之禮, 且以新造之邦, 輕擧無名之丘八, 甚爲不可, 雖以利害壽之, 天朝堂堂, 無釁可圖 臣恐擧事不集, 而變生不虞也, 上聞之悅, 闍憤然曰, 政丞於出納斗升之事, 則可矣, 不可與圖大事也, 由是, 関等與浚有隙」</cite><ref group="a">동 6월 갑오, 동상 권11 16장.</ref>이라고 있는 것을 보면, 도전 등이 출병 討遼(토요)할 구체적 복안까지 가졌던 것이 명백하며, 이 문제를 중심으로 하여 무력적 적극침략주의의 정 일파와 문치적 소극적 평화주의의 조준이, 내부에서 암암 간에 상쟁하였던 것을 可知(가지)하겠다. 다못 태조가 조준의 自重主義(자중주의)에 찬성하는 태도가, 정 남 일파의 격렬한 운동을 일시 눌렀을 뿐이다.
|해독문36번= 이후에도 정, 남 등은 이 대망을 버리지 않고, 군량의 충실과 병력의 조련에는 특별한 주의를 가하였다. 그러나 동 6년 12월 도전이 東北面宣撫察使(동북면선무찰사)로 임명되어 離京(이경)하였으므로,(주55) 그 귀경한 익 7년 3월까지의 사이에는(주56) 이 운동의 형세를 알 수 없으나, 그 귀경 賜宴席(사연석) 상에서, 남은이 절제사를 관군에 합하자는 「私兵」 혁파의 상언을 통론한 것을 보면,(주57) 이 운동이 亦(역) 대명 준비의 하나임을 추측할 수 있다, 그러나 명정의 此種(차종) 廳迫(청박)은 이 전후로도 조금 감하지 않고 난제가 빈발하여, 이들 강경파를 더욱 선동하고 있었다. 곧 도전의 東西面(동서면) 출발 전의 11월 계해에는 賀聖節使(하성절사) 鄭允輔(정윤보)가 명으로 귀국하여, 명에 억류된 정탁, 김약항, 노인도 등의 피살을 보吿하였으며,(주58) 12월 병신에는 千秋使(천추사) 柳灝(유호) 打角夫(타각부) 崔浩(최호)가 명으로 귀국하여, 명 禮部尙書(예부상서) 鄭沂(정기)의 書(서)를 전하여 啓本(계본)의 用(용)자가 譏訓(기훈)에 涉(섭)하므로 그 사신을 拘(구)하고 撰寫人(찬사인)을 관송하라고 하였으며,(주59) 이에 대하여 정부는 도전 출발 후 동월 병오에 通事(통사) 郭海龍(곽해룡)을 보내서 陳謝(진사)하게 하고, 또 寫啓本人(계사본인) 禮曹典書(예조전서) 曹庶(조서)를 관송하였다.(주60) 익 7년 2월에는 하정사 趙胖(조반) 등이 登州(등주)까지 갔다가 齊王(제왕, 명 태조 제7자)의 阻止(조지)를 받아 無爲歸國(무위귀국)하고, 도전 귀경한 후 5월 경신에는, 上記(상기)의 被留人(피류인) 曹庶(조서)의 從人(종인) 崔祿(최록)이 귀국하여, 명 禮部侍郞(예부시랑) 張炳(장병)의 書(서)와 서 및 곽해룡의 招狀(초장)을 가지고 와서, 千秋節(천추절)의 계본에 譏侮(기모)의 자가 있음을 책하고, 서와 같이 撰文(찬문)한 전 禮曹正郞(예조정랑) 尹珪(윤규) 成均司成(성균사성) 孔俯(공부) 禮曹正郞(예조정랑) 尹須(윤수)의 관송을 요구하여 왔다.(주61) 동 임술에 왕은 백관 기로를 모아 공부 등 3인의 送明(송명) 여부를 議(의)하였으나 决(결)치 않고, 西原君(서원군) 韓尙敬(한상경) 등 십수인이 그 불가를 논하였으나, 대다수는 관송의 부득기함을 말할 뿐이요 왕은 左政丞(좌정승) 조준과 의논하였으나 猶豫不決(유예부결)하였다. 이에 대하여 윤5월 무인에 右散騎常侍(우산기상시) 변중량 등이 상소하여 이들 3인의 發遣(발견) 불가를 통론하고, 「留此三人, 具狀辯明其寃, 队科小對匕警被留鄭萼金若恒, 宋希靖, 吳珍, 楊遇, 盧仁度, 吳世謙, 權乙松, 柳瀬, 鄭安止, 曹庶, 郭海龍等家, 時加存問, 優養其父母妻子, 以示仁愛」할 것을 청하였다. 왕이 이 상소를 都評議使司(도평의사사)에게 擬議(의의)시킨 결과는, 다 發遣(발견) 觀變(관변)하자 함에 있었다 한다.(주62) 이것을 보아도 아는 바와 같이 당시 왕과 조신이 상하 일치하여 명정의 태도에 憤激困却(분격곤각)을 하였으나, 대부분의 의견은 소극적 굴복이 결국 득책이라 하는 것이며, 급격파는 적극적 항쟁을 주장한 것이다. 변중량 등은 自强之勢(자강지세)를 보이면, 명정이라도 조금 염려하여 이 같은 모욕을 하지는 않을 것이라 하는 것이나, 정, 남, 심 등은 자진하여 공격하자는 것이었으니, 더 일층 적극적이라고 하겠다. 그러므로, 이러한 기분이 반영되어 군병 강습은 맹렬의 도를 가하여가서, 윤5월 계묘와 그 익일에 진도를 楊州(양주) 목장에 習(습)하고, 6월 무진에 宦者(환자) 朴英文(박영문)을 전라, 경상도에 보내서 진도강습의 能否(능부)를 점검하고, 7월 기해에 巡軍千戶(순군천호) 金千益(김천익)을 전라, 경상도 名鎭(명진)에 보내서 僉節制使(첨절제사)의 진도에 통하지 못한 자를 답하고, 8월 정미에는 憲司(헌사)가 三軍節制使(삼군절제사), 上大將軍(상대장군) 등 292인을 진도 不習(불습)의 죄로 劾(핵)하고, 동 경술에는 諸道陳圖敎訓者(제도진도교훈자)를 杖(장)하고, 진도에 통한 자 5인을 뽑아 각도에 분견하고, 동 임자에는 절제사 이하 大小員將(대소원장), 진도를 강습하지 않는 자를 책벌 하는 등, 긴장한 훈련이 연속하는 중에, 동 정사에 왕이 不豫(불예)하게 되고, 그 기사에 문제의 돌변이 나게 되었다.
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|해독문36번= 이후에도 정, 남 등은 이 대망을 버리지 않고, 군량의 충실과 병력의 조련에는 특별한 주의를 가하였다. {{TagRefI|55}}그러나 동 6년 12월 도전이 東北面宣撫察使(동북면선무찰사)로 임명되어 離京(이경)하였으므로,<ref group="a">동 12월 경자, 동상 권12.</ref> {{TagRefI|56}}그 귀경한 익 7년 3월까지의 사이에는<ref group="a">동 정묘, 동상 권13.</ref> 이 운동의 형세를 알 수 없으나, 그 귀경 賜宴席(사연석) 상에서, {{TagRefI|57}}남은이 절제사를 관군에 합하자는 「私兵」 혁파의 상언을 통론한 것을 보면,<ref group="a">동 7년 3월 정묘, 동상 권13 9장.</ref> 이 운동이 亦(역) 대명 준비의 하나임을 추측할 수 있다, 그러나 명정의 此種(차종) 廳迫(청박)은 이 전후로도 조금 감하지 않고 난제가 빈발하여, 이들 강경파를 더욱 선동하고 있었다. 곧 도전의 東西面(동서면) 출발 전의 11월 계해에는 賀聖節使(하성절사) 鄭允輔(정윤보)가 명으로 귀국하여, {{TagRefI|58}}명에 억류된 정탁, 김약항, 노인도 등의 피살을 보고하였으며,<ref group="a">동 6년 11월 계해, 무인, 동상 권12.</ref> 12월 병신에는 千秋使(천추사) 柳灝(유호) 打角夫(타각부) 崔浩(최호)가 명으로 귀국하여, {{TagRefI|59}}명 禮部尙書(예부상서) 鄭沂(정기)의 書(서)를 전하여 啓本(계본)의 用(용)자가 譏訓(기훈)에 涉(섭)하므로 그 사신을 拘(구)하고 撰寫人(찬사인)을 관송하라고 하였으며,<ref group="a">동 12월 병신, 동상 권12.</ref> {{TagRefI|60}}이에 대하여 정부는 도전 출발 후 동월 병오에 通事(통사) 郭海龍(곽해룡)을 보내서 陳謝(진사)하게 하고, 또 寫啓本人(계사본인) 禮曹典書(예조전서) 曹庶(조서)를 관송하였다.<ref group="a">동상 병오, 동상.</ref> 다음 7년 2월에는 하정사 趙胖(조반) 등이 登州(등주)까지 갔다가 齊王(제왕, 명 태조 제7자)의 阻止(조지)를 받아 無爲歸國(무위귀국)하고, 도전 귀경한 후 5월 경신에는, 上記(상기)의 被留人(피류인) 曹庶(조서)의 從人(종인) 崔祿(최록)이 귀국하여, 명 禮部侍郞(예부시랑) 張炳(장병)의 書(서)와 서 및 곽해룡의 招狀(초장)을 가지고 와서, {{TagRefI|61}}千秋節(천추절)의 계본에 譏侮(기모)의 자가 있음을 책하고, 서와 같이 撰文(찬문)한 전 禮曹正郞(예조정랑) 尹珪(윤규) 成均司成(성균사성) 孔俯(공부) 禮曹正郞(예조정랑) 尹須(윤수)의 관송을 요구하여 왔다.<ref group="a">동 7년 5월 경신, 동상 권14.</ref> 동 임술에 왕은 백관 기로를 모아 공부 등 3인의 送明(송명) 여부를 議(의)하였으나 决(결)치 않고, 西原君(서원군) 韓尙敬(한상경) 등 십수인이 그 불가를 논하였으나, 대다수는 관송의 부득기함을 말할 뿐이요 왕은 左政丞(좌정승) 조준과 의논하였으나 猶豫不決(유예부결)하였다. 이에 대하여 윤5월 무인에 右散騎常侍(우산기상시) 변중량 등이 상소하여 이들 3인의 發遣(발견) 불가를 통론하고, <cite no="XX">「留此三人, 具狀辯明其寃, 队科小對匕警被留鄭萼金若恒, 宋希靖, 吳珍, 楊遇, 盧仁度, 吳世謙, 權乙松, 柳瀬, 鄭安止, 曹庶, 郭海龍等家, 時加存問, 優養其父母妻子, 以示仁愛」</cite>할 것을 청하였다. {{TagRefI|62}}왕이 이 상소를 都評議使司(도평의사사)에게 擬議(의의)시킨 결과는, 다 發遣(발견) 觀變(관변)하자 함에 있었다 한다.<ref group="a">동 6월 정미에 일행을 압송, 동상 권14.</ref> 이것을 보아도 아는 바와 같이 당시 왕과 조신이 상하 일치하여 명정의 태도에 憤激困却(분격곤각)을 하였으나, 대부분의 의견은 소극적 굴복이 결국 득책이라 하는 것이며, 급격파는 적극적 항쟁을 주장한 것이다. 변중량 등은 自强之勢(자강지세)를 보이면, 명정이라도 조금 염려하여 이 같은 모욕을 하지는 않을 것이라 하는 것이나, 정, 남, 심 등은 자진하여 공격하자는 것이었으니, 더 일층 적극적이라고 하겠다. 그러므로, 이러한 기분이 반영되어 군병 강습은 맹렬의 도를 가하여가서, 윤5월 계묘와 그 익일에 진도를 楊州(양주) 목장에 習(습)하고, 6월 무진에 宦者(환자) 朴英文(박영문)을 전라, 경상도에 보내서 진도강습의 能否(능부)를 점검하고, 7월 기해에 巡軍千戶(순군천호) 金千益(김천익)을 전라, 경상도 名鎭(명진)에 보내서 僉節制使(첨절제사)의 진도에 통하지 못한 자를 답하고, 8월 정미에는 憲司(헌사)가 三軍節制使(삼군절제사), 上大將軍(상대장군) 등 292인을 진도 不習(불습)의 죄로 劾(핵)하고, 동 경술에는 諸道陳圖敎訓者(제도진도교훈자)를 杖(장)하고, 진도에 통한 자 5인을 뽑아 각도에 분견하고, 동 임자에는 절제사 이하 大小員將(대소원장), 진도를 강습하지 않는 자를 책벌 하는 등, 긴장한 훈련이 연속하는 중에, 동 정사에 왕이 不豫(불예)하게 되고, 그 기사에 문제의 돌변이 나게 되었다.
|해독문37번= 이러한 형세를 추찰하여 보면, 此種(차종) 진도 강습이 전혀 대명 준비인 것을 可知(가지)하겠으며, 더욱 「以攻遼故, 使習陳圖 (주63) ……如此其急」이란 말이 亦(역) 그 진상일듯하다. 그러나 이 攻遼(공요) 계획을 「道傳稱疾不赴, 恐將有問罪之擧獻謀於 上以爲軍士不可不知兵法, 上陳圖」(주64)라든지 「(道傳)托疾不行, 乃陰謀, 以爲擧國而絕, 則己可免禍, 遂建言, 訓鍊將士, 軍國急務, 增置陳圖」(주65)라는 등의 관측은 정확하지 못한 견해라 하겠다. 도전의 箋文(전문)에 대한 책임은 이미 해소하였으며 그 후 설장수 귀국 시에 도전을 질책한 말은 있으나 관송하라든지 벌하라는 말을 볼 수는 없으니, 이 때에 와서 도전이 그 前科(전과)의 문죄받을 것을 염려하여 준비할 필요가 없을 것이며, 더욱 이런 군국 대사를 개인의 생명보전을 위하여 계획하였다 볼 수도 없고, 또 도전의 이러한 사적 이해에 남은, 심효생 등을 위시하여 변계량, 한상경 등까지 혹은 출병을 주장하고 혹은 自强之態(자강지태)를 보이자 할 리가 없다. 이들 강경파의 주장은 역시 국가 백년의 계를 深心(심심)하였던 것이 확실하니, 이것을 도전 1인의 私心(사심) 소출로 운운하는 후세의 短見(단견)과 곡해가 可嘆(가탄)할 만하다. 이러한 결점은 조준에게도 있으니, 무인난 직후 趙浚乞辭(조준걸사)의 箋文(전문) 중에 「自道傳得罪於天子, 與南簡結好, 謀攻遼東, 規免一己之禍」(주66)라는 것이 그 예다. 물론 준은 도전, 남은 등의 공요에 극력 반대한 當者(당자)인즉 조가 도전 등의 계획을 악의로 말함은, 당연할 뿐 아니라, 이 전문이 또 도전 敗歿(패몰)의 직후이므로 그 文辭(문사)가 강하게 된 것도 추측할 수 있으나, 도전 등의 계획이 결코 그 죄를 면하려는 등 소극적의 태도가 아니었던 것은, 「……遂建諄, 訓鍊將士, 軍國急務, 增置陳圖 訓導官大小中外官帶武職者, 下至軍卒, 幷令隸習, 考察嚴峻, 深結南誾, 使簡上書曰, 士卒己鍊, 糧餉己備, 可以乘時復東明之舊壤 太上殊不以爲然, 間屢言之, 太上問道傳, 道傳歷論往古外展得王中原者, 深以閭言爲可信」(주67)의 장대한 포부가 이것을 설명한다. 조준과 도전이 여말로부터 의기 相投(상투)하여 이성계의 兩手(양수)가 되고, 이때까지 운명을 같이하여 왔다가, 말경에 相容(상용)하지 못하게 된 것은 실로 이 공요 운동에 조가 극력 반대한 때문이니, 도전 등의 결심의 강고함을 알 수가 있다. 그 간의 소식은 「道傳, 間等詣趙浚第曰 攻遼之擧, 今己定矣, 公勿復有言, 浚答曰 予居 開國元勳之列, 豈有負殿下, 殿下即位之後, 因遷國都創始, 民困土木之役, 未見仁愛之施, 怨咨斯極, 糕餉不給, 安有率其怨民, 而能濟事者哉, 謂道傳曰, 萬一予與閣下, 率諸道之民, 以征其疾視也久矣, 豈肯用命乎, 吾恐身亡國敗, 不及遼而止矣, 病勢方熾, 未能興造, 願諸公, 以臣言復于上, 疾愈, 臣當親啓,  厥後, 浚力諫, 上從之」(주68)에 볼 수 있으니, 준의 심려와 赤誠(적성)도 알 수가 있으며 또 그 논쟁의 근거도 可知(가지)하다, 이러한 준의 경제적 자중론은 당시 무단파 등의 흥분한 耳朶(이타)에 들어오지 않았으며, 그것이 너무도 비굴적이라 하여 「闇憤然曰, 政丞於出納斗자之事 則可矣, 不可與圖大事也」라고 罵詈(매리)까지 하게 되었다. 준이 이 사이의 友恃相曲(우시상곡)를 「臣與道傳南闍, 同功一體, 初無纖毫之隔, 自道傳得罪於天子, 與南誾結好, 謀攻遼東, 規免一己之禍, 臣當是時, 病臥於家, 太上遣二人枉咨於臣力疾作氣, 上謁天門, 奮發愚衷, 得回天意, 邪謀遂阻, 由是, 二人與臣猜隙, 勢不相容, 路人所知」(주69)라고 후일에 술회하였다. 그리고 이 문제로서 준과 정, 남 등이 서로 지지 않고, 태조를 중심으로 하여 암암의 간에 논쟁함이 月餘(월여)에 지난 것이 亦(역) 태종실록 중의 조준전에 의하여 알 수 있으며, 이 조의 반대와 태조의 趙(조)설 찬성에도 불구하고 정, 남 등은 의연히 공요를 단념하지 않고, 극력 진도를 訓習(훈습)하였던 것은 上揭(상게)한 바와 같은 상태이었으며, 그 別錬(별동)의 엄격함과, 진도에 未通(미통)하거나 강습 태만으로 受罰(수벌)하는 군관이 속출하였음도 상기한 바와 같다, 이 같은 정, 남 등 무단파의 엄격한 태도가 당시 일반의 群怨(군원)을 받게 된 점이 불소하니, 그들의 지위가 亦(역) 후세의 우리 눈으로 보아 자못 危常(위상)한 처지에 있었다고 하겠다 더욱 此種(차종) 강경파가 정도전, 남은, 심효생 등 방석계의 실력파이며, 방석 추대에는 도전과 「同罪」이면서 그 최후의 突禍(돌화)를 면한 조준이 출병 반대 국력 충실의 主必者(주필자)였던 점에 무슨 의미가 있지 않는가, 도전 등의 이러한 大志(대지)로서 나온 초급한 집권 정책이 주단의 군원을 받게 되었다는 점은, 아무리 하여도 인정하지 않을 수 없으니, 이 공요 문제가 亦(역) 무인난의 한 楔子(설자)가 된다고 할 수도 있겠다. 그러나 종래의 所觀(소관)과 같이 이 문제를 단순히 「得罪 高皇帝」라 하여, 그것이 무슨 도전 纖除(섬제)의 구실이나 되는 듯하는 淺薄牛陋(천박우루)한 속설은, 일점의 가치가 없다 할 것이다. (미완)
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|해독문37번= 이러한 형세를 추찰하여 보면, 此種(차종) 진도 강습이 전혀 대명 준비인 것을 可知(가지)하겠으며, {{TagRefI|63}}더욱 <cite no="XX">「以攻遼故, 使習陳圖 <ref group="a">동 7년 윤5월 임자, 동상 권14 18장.</ref> ……如此其急」</cite>이란 말이 亦(역) 그 진상일듯하다. {{TagRefI|64}}그러나 이 攻遼(공요) 계획을 「道傳稱疾不赴, 恐將有問罪之擧獻謀於 上以爲軍士不可不知兵法, 上陳圖」<ref group="a">동상 계묘 갑진, 동상.</ref>라든지 {{TagRefI|65}}<cite no="XX">「(道傳)托疾不行, 乃陰謀, 以爲擧國而絕, 則己可免禍, 遂建言, 訓鍊將士, 軍國急務, 增置陳圖」</cite><ref group="a">태종 5년 6월 신묘 조준졸조, 태종실록 권9 25장</ref>라는 등의 관측은 정확하지 못한 견해라 하겠다. 도전의 箋文(전문)에 대한 책임은 이미 해소하였으며 그 후 설장수 귀국 시에 도전을 질책한 말은 있으나 관송하라든지 벌하라는 말을 볼 수는 없으니, 이 때에 와서 도전이 그 前科(전과)의 문죄받을 것을 염려하여 준비할 필요가 없을 것이며, 더욱 이런 군국 대사를 개인의 생명보전을 위하여 계획하였다 볼 수도 없고, 또 도전의 이러한 사적 이해에 남은, 심효생 등을 위시하여 변계량, 한상경 등까지 혹은 출병을 주장하고 혹은 自强之態(자강지태)를 보이자 할 리가 없다. 이들 강경파의 주장은 역시 국가 백년의 계를 深心(심심)하였던 것이 확실하니, 이것을 도전 1인의 私心(사심) 소출로 운운하는 후세의 短見(단견)과 곡해가 可嘆(가탄)할 만하다. 이러한 결점은 조준에게도 있으니, {{TagRefI|66}}무인난 직후 趙浚乞辭(조준걸사)의 箋文(전문) 중에 「自道傳得罪於天子, 與南簡結好, 謀攻遼東, 規免一己之禍」<ref group="a">정종 원년 8월 경자 정종실록 권2 45장.</ref>라는 것이 그 예다. 물론 준은 도전, 남은 등의 공요에 극력 반대한 當者(당자)인즉 조가 도전 등의 계획을 악의로 말함은, 당연할 뿐 아니라, 이 전문이 또 도전 敗歿(패몰)의 직후이므로 그 文辭(문사)가 강하게 된 것도 추측할 수 있으나, 도전 등의 계획이 결코 그 죄를 면하려는 등 소극적의 태도가 아니었던 것은, {{TagRefI|67}}<cite no="XX">「……遂建諄, 訓鍊將士, 軍國急務, 增置陳圖 訓導官大小中外官帶武職者, 下至軍卒, 幷令隸習, 考察嚴峻, 深結南誾, 使簡上書曰, 士卒己鍊, 糧餉己備, 可以乘時復東明之舊壤 太上殊不以爲然, 間屢言之, 太上問道傳, 道傳歷論往古外展得王中原者, 深以閭言爲可信」</cite><ref group="a">주65와 동.</ref>의 장대한 포부가 이것을 설명한다. 조준과 도전이 여말로부터 의기 相投(상투)하여 이성계의 兩手(양수)가 되고, 이때까지 운명을 같이하여 왔다가, 말경에 相容(상용)하지 못하게 된 것은 실로 이 공요 운동에 조가 극력 반대한 때문이니, 도전 등의 결심의 강고함을 알 수가 있다. {{TagRefI|68}}그 간의 소식은 <cite no="XX">「道傳, 間等詣趙浚第曰 攻遼之擧, 今己定矣, 公勿復有言, 浚答曰 予居 開國元勳之列, 豈有負殿下, 殿下即位之後, 因遷國都創始, 民困土木之役, 未見仁愛之施, 怨咨斯極, 糕餉不給, 安有率其怨民, 而能濟事者哉, 謂道傳曰, 萬一予與閣下, 率諸道之民, 以征其疾視也久矣, 豈肯用命乎, 吾恐身亡國敗, 不及遼而止矣, 病勢方熾, 未能興造, 願諸公, 以臣言復于上, 疾愈, 臣當親啓,  厥後, 浚力諫, 上從之」</cite><ref group="a">태조 7년 윤5월 임자, 태조실록 권14 18장.</ref>에 볼 수 있으니, 준의 심려와 赤誠(적성)도 알 수가 있으며 또 그 논쟁의 근거도 可知(가지)하다, 이러한 준의 경제적 자중론은 당시 무단파 등의 흥분한 耳朶(이타)에 들어오지 않았으며, 그것이 너무도 비굴적이라 하여 <cite no="XX">「闇憤然曰, 政丞於出納斗자之事 則可矣, 不可與圖大事也」</cite>라고 罵詈(매리)까지 하게 되었다. {{TagRefI|69}}준이 이 사이의 友恃相曲(우시상곡)를 <cite no="XX">「臣與道傳南闍, 同功一體, 初無纖毫之隔, 自道傳得罪於天子, 與南誾結好, 謀攻遼東, 規免一己之禍, 臣當是時, 病臥於家, 太上遣二人枉咨於臣力疾作氣, 上謁天門, 奮發愚衷, 得回天意, 邪謀遂阻, 由是, 二人與臣猜隙, 勢不相容, 路人所知」</cite><ref group="a">주66과 동.</ref>라고 후일에 술회하였다. 그리고 이 문제로서 준과 정, 남 등이 서로 지지 않고, 태조를 중심으로 하여 암암의 간에 논쟁함이 月餘(월여)에 지난 것이 亦(역) 태종실록 중의 조준전에 의하여 알 수 있으며, 이 조의 반대와 태조의 趙(조)설 찬성에도 불구하고 정, 남 등은 의연히 공요를 단념하지 않고, 극력 진도를 訓習(훈습)하였던 것은 上揭(상게)한 바와 같은 상태이었으며, 그 別錬(별동)의 엄격함과, 진도에 未通(미통)하거나 강습 태만으로 受罰(수벌)하는 군관이 속출하였음도 상기한 바와 같다, 이 같은 정, 남 등 무단파의 엄격한 태도가 당시 일반의 群怨(군원)을 받게 된 점이 불소하니, 그들의 지위가 亦(역) 후세의 우리 눈으로 보아 자못 危常(위상)한 처지에 있었다고 하겠다 더욱 此種(차종) 강경파가 정도전, 남은, 심효생 등 방석계의 실력파이며, 방석 추대에는 도전과 「同罪」이면서 그 최후의 突禍(돌화)를 면한 조준이 출병 반대 국력 충실의 主必者(주필자)였던 점에 무슨 의미가 있지 않는가, 도전 등의 이러한 大志(대지)로서 나온 초급한 집권 정책이 주단의 군원을 받게 되었다는 점은, 아무리 하여도 인정하지 않을 수 없으니, 이 공요 문제가 亦(역) 무인난의 한 楔子(설자)가 된다고 할 수도 있겠다. 그러나 종래의 所觀(소관)과 같이 이 문제를 단순히 <cite no="XX">「得罪 高皇帝」</cite>라 하여, 그것이 무슨 도전 纖除(섬제)의 구실이나 되는 듯하는 淺薄牛陋(천박우루)한 속설은, 일점의 가치가 없다 할 것이다. (미완)
  
  

2024년 11월 28일 (목) 12:47 기준 최신판

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삼봉인물고(1) -무인난설원기를 중심으로- 만들기
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출처 :
 
원제목 三峰人物考(一) -戊寅難雪寃記를 中心으로- 학술지 진단학보 수록권호 진단학보 2 발행기관 진단학회
저자 이상백 역자 @ 집필일자 @ 게재연월 1935년04월
시작쪽 001쪽 종료쪽 045쪽 전체쪽 045쪽 연재여부 범주 논문 분야 역사학



항목

차례


해제 목차 본문 데이터 주석




해제


내용을 입력합니다.@




본문


이조 초기의 조선사회를 연구하려 하면 여러 방면으로 고찰할 필요가 있을 것이나 가장 평범한 방법으로도 종래의 사승(史乘) 상에 문제 많은 인물을 다시 고찰하므로 가장 간편히 큰 수확을 얻을 수 있으리라고 생각한다. 이 점은 종래의 역사가 근래의 소위 학문적 방법의 결핍 혹은 전무에 의한 결점 외에 그 기록과 소전(所傳)이 너무도 공평함을 잃은 태도의 소산이므로 보아서, 숙독심안(熟讀深案)하여 세심히 당시의 진상을 적출할 필요가 있는 때문이다. 필자는 원래 소위 역사상 저명한 개인의 사적 공과의 논평에는 특별한 흥미도 없고, 또 이러한 고증을 본의로 하지도 않으나, 여상(如上)의 의미에 있어서 종래의 인물 평가와 전기에는 절심(絕深)한 불평을 가지고 있으므로 그 일례를 이에 약기(略記)하여볼까 한다.
쪽수▶P1 相李朝 初期의 朝鮮社會를 硏究하려하면 여러 方面으로 考察할 必要가 있을 것이나 가장 平凡한 方法으로도 從來의 史乘上에 問題 많은 人物을 다시 考察하므로 가장 簡便히 큰 收穫을 얻을 수 있으리라고 생각한다. 이 點은 從來의 歷史가 近來의 所謂 學問的 方法의 缺乏 或은 全無에 依한 缺點 外에 그 記錄과 所傳이 너무도 公平함을 잃은 態度의 所産이므로 보아서, 熟讀深案하야 細心히 當時의 眞相을 摘出할 必要가 있는 때문이다. 筆者는 元來 所謂 歷史上 著名한 個人의 事蹟 功過의 論評에는 特別한 興味도 없고, 또 이러한 考證을 本意로 하지도 않으나, 如上의 意味에 있어서 從來의 人物 評價와 傳記에는 絕深한 不平을 가지고 있으므로 그 一例를 이에 略記하여볼까 한다.
이러한 관점으로 우리 사상의 인물을 점검하면 문제의 표적이 많을 것이나 더욱 여말 국초의 허다한 인물은 그 시기가 왕조 교체기인 만큼 검사할 문제가 많다. 삼봉 정도전은 그 중에도 가장 현저한 일례이니, 삼봉의 일상일하(一上一下) 하고 일현일몰(一顯一沒)하던 반복한 생애도 문제가 많거니와 그 막대한 공적에 비하여 참담한 최후를 어떻게 해석하여야 할지 훼예(毀譽)가 분운(紛紜)하고 유전(流傳)이 불소(不少)한즉 그 진상을 포착하기 지난한 형세에 있다. 주석1▶三峯集(삼봉집) 십사권이[a 1] 있으나 이 점에는 아무 명답을 주지 않으니, 각종의 주위와 형세를 추찰하여 산출하는 결론으로 초급히 장담하기는 어려울듯하나, 일종의 해석으로 통용하게 되면 다행일까 한다.
쪽수▶P2-1 이러한 觀點으로 우리 史上의 人物을 點檢하면 問題의 標的이 많을 것이나 더욱 麗末 國初의 許多한 人物은 그 時機가 王朝 交替期인 만큼 檢査할 問題가 많다. 三峯 鄭道傳은 그 中에도 가장 顯著한 一例이니, 三峯의 一上一下 하고 一顯一沒하던 反覆한 生涯도 問題가 많거니와 그 莫大한 功績에 比하야 慘憺한 最後를 어떻게 解釋하여야 할지 毀譽가 紛紜하고 流傳이 不少한즉 그 眞相을 捕捉하기 至難한 形勢에 있다. 원문주1▶三峯集 十四卷이[1] 있으나 이 点에는 아무 明答을 주지 않으니, 各種의 周圍와 形勢를 推察하야 產出하는 結論으로 焦急히 壯談하기는 어려울듯하나, 一種의 解釋으로 通用하게 되면 多幸일까 한다.
주석2▶삼봉의 전기는 전기 삼봉집에 [a 2] 의하여 알 수 있으며, 고려사와 기타의 구적(舊蹟)을 종합하여 흥미있는 문제가 불소하나 이 논고 중에는 삼봉의 전반생, 아니 생애의 대부분 즉 가장 활발하고 영욕교지(榮辱交至)하던 생존 시는 잠깐 주제 외로 두고, 그의 전광석화같이 몰락한 최후, 소위 공소지난(恭昭之難) 또는 무인지란(戊寅之亂)의 진상을 중심으로 고구해보고, 그 몰후에 삼봉의 일신에 첨가된 세평을 따라서 고사(考査)하여볼까 한다.
쪽수▶P2-2원문주2▶ 三峯의 傳記는 前記 三峯集에 [2] 依하야 알 수 있으며, 髙麗史와 其他의 舊籟을 綜合하야 興味있는 問題가 不少하나 이 論稿 中에는 三峯의 前半生, 아니 生涯의 大部分 即 가장 活潑하고 榮辱交至하던 生存時는 暫間 主題 外로 두고, 그의 電光石火같이 沒落한 最後, 所謂 恭昭之難 또는 戊寅之亂의 眞相을 中心으로 考究해보고, 그 沒後에 三峯의 一身에 添加된 世評을 따라서 考査하여볼가 한다.
삼봉이 피주(被誅)한 태조 7년 8월 26일의 돌변에 대한 태조실록의 기재를 먼저 일독할 필요가 있다.
쪽수▶P2-3三峯이 被誅한 太祖 七年 八月 二十六日의 突變에 對한 太祖實錄의 記載를 먼저 一讀할 必要가 있다.

己巳, 奉化伯鄭道傳, 宜城君南誾, 及富城君沈孝生等, 謀害諸王子, 不克, 伏誅, 初 上以 靖安君開國之功, 諸子無與爲比, 特 賜世傳東北面加別赤五百餘戶, 其後以諸王子及功臣, 爲各道節制使, 分管侍衛兵馬, 靖安君全羅道, 撫安君芳蕃東北面, 於是, 靖安君, 以加別赤, 讓芳蕃, 芳蕃受而不辭, 上知之, 亦不責還也, 道傳, 間等, 謀欲擅權, 貧立幼孽, 謂孝生孤寒易制, 譽其女有婦德, 精爲世子芳碩嬪, 與世子同母兄芳蕃, 姊夫興安君李濟等, 同謀多樹黨與, 將欲去諸王子, 暗嗾宦者金師幸密啓, 請依中朝諸皇封王之例, 分遣諸王子於各道, 上 不答, 其後, 上諷諭 靖安君曰, 外間之議, 汝輩不可不知, 宜論諸兄戒愼之, 道傳等又嗾卞仲良上疏, 請罷諸王 子兵權, 至再三, 上不允, 卜者安植曰, 世子異母兄, 有天命者非.道傳聞之曰, 即當除之, 何患乎, 義安君和 知其謀, 密吿 靖安君, 至是宦者曹恂傳旨曰, 予病甚不欲接人, 惟世子外, 母得入見, 師幸恂皆其黨也, 道傳, 閭, 孝生, 判中樞李勲, 前恭賛李茂, 興城君張至和, 星山君李稷等, 托以省問 上疾, 日夜聚松覗闍妾家, 相與 密謀.令芳碩, 濟, 及親軍衛都鎭撫朴藏, 左副承旨盧石柱, 右副承知卞仲良, 在內, 稱 上病篤, 急召諸王子, 入則以內奴及甲士攻之, 道傳閭等外應, 初财古巴麥恥, 先是, 蹟安君密謂知安山那事李叔蕃曰, 姦殲在平時, 固無疑矣, 伺上違豫必生變, 予若召汝則宜速來, 至是, 閔無咎以埔安君命, 召之而至.時, 上病劇, 靖安君及:益安君芳毅, 懷安君芳幹, 淸原君沈惊, 上黨君李伯卿, 義安君和, 及李濟等, 皆會宿勤政殿門外西廊, 至是日哺. 時, 閔無疾詣靖安君邸, 入與夫人偶語良久, 夫人急召小斤曰, 汝速詣闕, 請公來, 小斤曰, 諸君皆會一廳, 奴將何辭以吿, 夫人曰, 汝以我胸腹卒痛奔吿則 公當速來矣, 小斤, 牽馬詣西廊, 具吿之, 義安君贈以請心蘇合 等藥曰, 宜速往治之, 靖安君即還邸, 俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎立密語良久, 夫人執君衣, 請勿詣闕, 君曰豈可畏死不詣, 且諸兄皆在禁中, 不可不使知之, 若有變則我當出來擧兵, 以觀國人之心也, 乃拂衣而出, 夫人追及戶外曰, 愼之愼之, 日己昏矣, 時命罷諸王子所領侍衛牌, 己十餘日矣, 唯芳蕃撼兵如舊, 靖安君初罷兵, 盡燒營中軍器至是, 夫人潜備兵仗, 爲應變計, 李茂素有中立之計, 密以閣等謀, 甞吿靖安, 至是, 隨無疾來謁, 少頃先去, 茂無疾之近姻也, 竹城君朴苞亦徃來其間, 暗伺彼之動靜, 於是, 靖安君命無咎, 使叔蕃備兵甲, 宿于本邸門前辛克禮家待變. 乃詣闕入西廊, 直宿諸君皆不留馬, 獨靖安君使小斤秣馬西廊後, 芳蕃將入內, 靖安君呼之, 芳蕃搔首逡巡不應而入, 至初夜, 有人自內出曰 上疾劇, 欲避病, 諸王子速入內, 從者命勿許入,和, 琮, 濟, 先出立庭, 靖安君與益安, 懷安, 上黨諸君, 暫立戶內, 密語, 舊制, 宮中諸門夜必張燈, 至是, 見宮門無燈, 益疑之, 和, 及濟, 琮, 先入內, 靖安君稱腹痛, 出西廊門外, 入厠坐思良久, 益安, 懷安等走出, 呼靖安君者再, 君曰, 諸兄是何高聲呼耶, 乃立以兩袖拍之曰, 勢不得己也, 卽馳馬出宮城西門, 益安, 懷(安), 上黨, 皆步走, 唯上黨能及靖安君馬, 益安懷安, 或仆蹭, 靖安君使馬天牧, 召芳蕃曰, 請出來從我, 厥終彼亦不全汝矣, 芳蕃臥內廊房, 見天牧, 起坐聞訖, 還臥, 芳蕃億從,皆無賴之徒, 唯事射御, 且妄欲謀移儲位久矣, 一日謂芳蕃曰 吾等己緣中, 乾使公得代芳碩位, 敎命將至矣, 請母出以待, 芳蕃信而不出外人哂之, 靖安知其不相容, 故召之不從, 靖安君到本邸洞口軍營前路, 駐馬呼叔蕃, 叔蕃率壯士二人, 甲而出, 安益公仓安)上羸懷安父子亦得騎馬, 有李居易, 趙英茂.辛克禮, 徐益, 文彬, 沈龜齡等, 皆歸心靖安者也"至是, 無咎, 無疾, 皆會, 騎兵纔十, 步卒纔九人, 乃出夫人所備鐵槍, 中折分與軍士, 諸君從者及备人奴僕十餘皆執杖, 獨小斤把翎, 君馳至栽所北癒呼叔蕃曰, 今日之事若之何. 叔蕃對曰, 事己至此不須懼也, 請出軍暁辭君命以山城二字, 行岌三軍府門前以待天命. 芳碩等, 聞變欲率兵出戰, 令軍士禮賓少卿奉元良, 登宫南門, 覘軍衆寡, 自光化門至南山, 鐵騎彌滿, 芳碩等惧不敢出, 時人以爲神助, 君又呼叔蕃曰, 如何則可, 叔蕃對曰, 到姦黨會所, 以兵圍而火之, 出者輒殺可矣, 夜二鼓, 將過松覗, 叔蕃奔馬吿曰, 此小洞即間妾家也, 靖安君駐馬, 先使步卒小斤等十餘人, 圍其家有鞍馬數匹, 其在門外奴僕皆睡, 道傳間等, 張燈會坐言笑, 小斤等窺戶未入, 忽有三矢相繼落屋瓦有聲, 小斤等還出洞口, 問矢之所從來, 叔蕃曰我矢也. 令小斤等還入圍之. 火其隣家三處, 道傳等皆逃匿, 孝生, 勲, 至和等皆見殺, 道傳逃入其隣前判事閔富家, 富吿曰, 有皤腹者入吾家, 君知其爲道傳, 乃令小斤等四人, 捕之, 道傳伏閨中, 小斤等叱之出外, 道傳持尺劎不能行步, 匍匐而出, 小斤等叱令棄劎, 道傳棄劎出門曰, 請勿殺, 願二言而死, 小斤等曳出至靖安君馬前, 道傳曰, 昔者公旣活我, 願今亦活之, 昔者指壬申歲也, 君曰, 汝爲朝鮮奉化伯顧不足耶, 何爲惡至是也, 令斬之, 初夫人欲自至君所立處, 同其禍敗, 徒步而出, 君麾下士崔廣大等力諫止之, 間奴金夫分以道傳笠劎來, 夫人乃還, 道傳有子四人, 游泳聞變急赴, 爲游兵所殺, 湛自刎於家, 初湛吿於父曰, 今日之事不可不吿於靖安君也, 道傳曰, 我旣背髙麗, 今又背:此附彼, 人雖不, 獨無愧於心乎, 李茂, 出門中流矢, 乃曰我李茂也, 步卒將殺之靖安君曰勿殺, 乃與之馬, 閭, 率伴人河景崔泛等逃竄, 稷乘屋, 詐爲. 奴僕, 作滅火狀, 仍得逃免. 闕內人, 望見松靦火焰張天, 奔吿于上, 宮中衛士. 鼓角而噪, 李天祐, 自其家率伴二人將, 赴闕馬天牧望之, 追及於安國坊洞口曰, 非天祐令公乎, 天祐不答, 天牧曰, 令公不答而去則矢可畏也, 天祐曰, 汝非馬司直乎, 何呼我耶, 天牧答曰, 靖安君與諸王子會于此矣, 天祐趨詣靖安君, 且曰, 今擧此事, 何不早使我知之, 靖安君遣朴苞閔無疾, 召左政丞趙浚, 浚猶豫, 使卜者筮其去就, 而不即赴, 又使叔蕃促之, 靖安君迎至中路, 浚已與右政丞金士衡來, 帶甲伴人多從之, 到嘉會坊洞口橋, 步卒以兵把截曰, 唯兩政丞入, 浚士衡等, 下馬, 趨而過橋, 靖安君曰, 卿等何不憂李氏社稷, 浚士衡等.驚懼跪于馬前, 君曰, 道傳聞等舍心如世那象斜孙亦跳, 方幣我是以爲弱者先手也, 浚等叩頭冃術阡堂世警, 就虾也, 君曰, 如此大事, 宜吿國家, 今日之事, 勢迫不暇吿耳, 公等宜速合坐, 石柱, 神良, 在闕內, 使人呼都承旨李文和, 右承旨金陸于家, 文和奔至, 問曰上體若何石柱曰, 上疾篇, 牛夜子時, 欲避病于西小凉亭, 於是, 諸承旨俱謂勤政殿門, 都鎭撫朴歲, 立於勤政殿門, 高聲呼曰, 軍士來杏, 文和問曰, 此時避御乎, 何吹角耶, 菠曰, 何嗣避御, 奉化伯, 宜城君會處, 有數多軍馬, 圍而火之, 故吹角耳, 先是, 靖安君謂叔蕃曰, 勢力則不可敵矣, 斬道傳闍等然後, 我四五兄弟, 駐馬于三車府門前, 以槻國人之心, 人心不從則己, 翕然從之則我輩得生, 至是, 靖安君還到三軍府門前駐馬, 夜己四鼓, 素所注篱者, 相權來集矣, 賛成柳曼殊率子原之 謁馬前, 靖安君曰, 何故來耶, 曼殊曰, 聞上將移御臣家’今不移御, 且聞有變, 故急來欲侍衛耳, 曰甲而來乎, 曼殊曰否, 即與之甲, 令立馬後, 天祐吿曰, 曼殊乃道傳間之黨, 不可不殺, 埔安君曰, 不可, 懷安及天祐强之曰, 如此倉卒之際, 衆議不可沮也, 靖安君顧謂叔蕃曰, 勢難得己, 命數其罪, 曼殊即下馬, 執靖安君馬轡曰, 我當白之矣白之矣, 靖安君, 令從者解之, 殊猶, 堅執不解, 小斤以小刀剌頷下曼殊仰倒, 乃斬之, 靖安君謂原之曰, 汝無罪可歸家矣, 懷安, 追斬于融賓門前, 浚士衡等, 入坐都評議司, 靖安 君意荆, 方碩等若搴術士出宫門交戰, 則我軍少勢將却矣, 若稍却則合坐諸相, 當在彼軍之後而或從彼矣, 使人詳於都堂曰, 我兄弟在路上而諸相入坐都堂, 不可, 宜即移坐于雲從街上, 遂令禮曹, 率會百官, 親軍衛都鎭撫趙溫, 亦直宿闕內, 靖安君使人召溫及朴蕨, 湿聞命即以麾丁甲士牌頭等出謁馬前, 蕨不應良次, 不得己佩劎而出, 增宣君溫賞以待, 聽見筆勢弱, 乃吿曰, 凡諸處分乞待天明, 其志, 以謂天明則, 兵弱之形著而衆心不附矣, 靖诙君使赴都堂, 懷安請于君使人斬之, 靖安君命温盡出宿衛甲士, 溫即遣牌頭等入闕, 盡以宿衛甲士出, 於是, 勤政股以南, 甲士攏出, 脫甲棄兵, 命各自歸家, 初, 李茂, 見兵勢弱, 詐稱恍惚, 使人扶持, 白於靖安君曰, 中箭處痛甚. 請就都堂兒房, 休息, 君曰可, 小頃, 茂聞朴歲見誅, 即還出, 翌日鷄鳴, 上召石柱入內, 黎明不召文和, 文和詣西凉亭, 世子與芳蕃, 濟, 和, 良祐, 淙叩樞相張思吉, 張湛, 鄭臣義等. 皆己入內, 自諸君樞相大小內官丁至內奴, 皆被甲帶劎, 唯曹恂及金陸石柱仲良不甲, 石柱傳 旨文和曰, 製敎書, 文和曰請辭, 石柱曰, 倣韓山君所製誅三元帥敎書之意, 製之可也, 文和曰, 看知之乎, 石柱曰, 破賊之功一時之或有, 無君之心萬世之不宥, 是其詞也, 文和曰, 今之罪魁離歟, 石柱曰, 罪魁則更禀于上, 先可起草, 督之急, 文和執筆曰, 君亦解屬文以親禀之意製之, 我當書之, 石柱製曰, 某某等, 潜圖不軌, 欲害開國元勳某某等, 以漏洩被捉, 皆令就戮, 其刼從鷺與, 皆宥不問, 草成, 石桂賛草入啓, 上曰, 姑待兩政丞來, 擬議頒之, 已而, 都堂率百官, 聞于上曰, 道傳間孝生等, 結黨陰謀, 欲害我親勳, 以亂我國家, 臣等, 事迫不及以聞, 已得誅除, 願上勿驚, 李濟方在側, 復于土曰, 諸王子起兵, 共誅間等, 禍將及身, 請以衛士出攻, 上曰, 勿憂一禍豈及汝和亦止之曰, 自中事也. 不必相戰, 濟拨劎睥睨者數矣, 和安然不動, 時永安, 爲上禱病致齋于昭格殿, 聞變, 潜率一奴, 繩城而出, 步至豐壤,隱於金仁貴家, 靖安君使人尋之, 迎到宮城南門外, 日腾吳矣, 時人皆欲請於上, 以靖安君爲世子, 增安君固讓, 請以永安君爲世子, 永安君曰, 當初建義開國至於今日之事, 皆是靖安之功, 我不可爲世子, 靖安君讓益固曰, 欲定國本嘗在嫡長, 永安君曰, 然則我當有以處之. 於是, 靖安君令都堂率百官上疏曰, 立嫡以長萬世之經, 殿下捨長立幼, 道傳等挾世子欲害諸王子, 禍在不測, 幸賴天地宗社之靈, 亂臣伏誅, 願殿下立嫡長, 永安君爲世子, 疏上, 文和讀訖, 世子亦在側, 上良久曰, 皆吾子也, 何不可之有, 顧謂芳磧曰, 於汝便矣, 上旣允下, 在內諸相問何事, 文和答曰, 易世子也, 石柱奉敎草, 使文和署名, 文和不受, 次請和, 亦不受 次請坐 中諸相, 皆不受, 文和曰, 君之所製書, 何不自増乎, 石柱曰, 諾, 乃署名袖之, 石柱, 石柱入內, 承 命出曰, 教書改寫速下, 文和曰何以改之, 石柱曰, 開國功臣道傳南誾等, 潜圖不軌, 謀害王子宗室, 今己漏洩, 功不掩罪, 己皆就戳, 其刼從黨與, 罔治, 使仲良書以進, 上令侍女扶起, 押訖還臥, 病劇, 欲吐未吐曰, 如有物在咽喉間不下, 靖安君令軍器直長金謊, 開武庫, 出甲槍, 授火桶軍百餘人, 用勢稍振, 甲士申龍鳳, 入闕傳 靖安君言曰, 與安君撫安君各歸私第, 義安君以下何不出來, 睹君相目不言, 更督之, 和以下皆出, 惊, 由宮城水門逃出, 獨鄭臣義遲留, 促之乃出, 都堂請出芳硝, 上曰, 旣己判付, 出去何害, 芳, 碩泣辭, 賢嬪牽衣而哭, 芳磧拂衣而出, 初議置遠方, 出宮城西門, 李居易, 李伯卿, 趙璞等, 議于都堂, 使人殺于道, 都堂又請出芳蕃, 上謂芳蕃曰, 世子則己矣, 汝不過置遠方耳, 芳蕃將出宮, 城南門, 靖安君下馬入門內, 携手語曰.簡等旣剪除我輩, 則汝亦終不免, 故我招之, 汝何不從耶, 今雖出外, 未幾必曜矣, 好去好去, 將置通津, 過楊花渡, 宿渡丞館, 芳幹與李伯卿等, 又議於都堂,,使人殺之, 靖安君聞芳碩芳蕃之死, 密語叔蕃曰, 柳曼殊予尙欲保全, 况骨肉乎, 居易父子不吿於我, 議於都堂, 戕害我母氣, 今人心未定, 故我隱忍不敢示怒也, 汝母出僦言, 軍士執仲良石柱及南贄等以出, 仲良仰視靖安君曰, 我注意於公, 今己數年矣, 君曰, 彼口亦肉也, 贄, 聞之弟, 時爲右廂節制使, 並囚于巡 軍而追斬于路, 李濟出, 靖安君胴濟曰, 可歸本家, 上遂策, 永安宼爲世子, 敎曰, 立嫡以長萬世之經, 宗子維城 寡人之望, 惟爾父臣甞開國, 捨長立幼, 乃以芳碩爲世于, 於孙科点暫盐幺知, 置穿聾弋 小林制费曳容, 賢舟團瓦死虾趴硏八詠, 折陌會町 朴世林那, 如當就赤僧林部, 部蠻駅込, 日者, 道傳闔孝生至和等, 潜圖 不軌, 搖亂根本, 幸賴天地 宗社之佑, 罪人伏誅, 王室再安, 芳碩禍胎, 不可留置國都, 放諸東裔, 予旣悔前日之裡, 又因百僚之請, 席建爾爲王世子, 於戲, 克明其德, 無忝爾所生, 徃盡乃心, 鎭撫我社稷, 乃命文和, 金瞼, 出謁,世子, 世子召文和曰, 內無可侍衛者, 爾速還入內, 文和即還入, 曹恂宣毋子命曰, 除侍女及內奴外, 餘皆出之, 文和亦出, 世子曰, 爾何出來, 文和具吿其由, 世子曰非謂汝也, 宜速還入侍, 又谷上將軍李敷, 入內待衛 ... 南时选出城水門, 瞟於城外圃幕, 沄景等左右扶持, 暫不離焉, 間欲詣巡軍, 法等止之, 闔曰, 道傳爲人鼻故見誅我無憎之者, 自脂巡軍門外, 주석3▶[a 3]見斬……靖安君與諸王子, 張幕於監巡廳前, 會宿三日, 其後, 入褚三軍府, 至世子受內彈後, 各還私第.

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己巳, 奉化伯鄭道傳, 宜城君南誾, 及富城君沈孝生等, 謀害諸王子, 不克, 伏誅, 初 上以 靖安君開國之功, 諸子無與爲比, 特 賜世傳東北面加別赤五百餘戶, 其後以諸王子及功臣, 爲各道節制使, 分管侍衛兵馬, 靖安君全羅道, 撫安君芳蕃東北面, 於是, 靖安君, 以加別赤, 讓芳蕃, 芳蕃受而不辭, 上知之, 亦不責還也, 道傳, 間等, 謀欲擅權, 貧立幼孽, 謂孝生孤寒易制, 譽其女有婦德, 精爲世子芳碩嬪, 與世子同母兄芳蕃, 姊夫興安君▶P3李濟等, 同謀多樹黨與, 將欲去諸王子, 暗嗾宦者金師幸密啓, 請依中朝諸皇封王之例, 分遣諸王子於各道, 上 不答, 其後, 上諷諭 靖安君曰, 外間之議, 汝輩不可不知, 宜論諸兄戒愼之, 道傳等又嗾卞仲良上疏, 請罷諸王 子兵權, 至再三, 上不允, 卜者安植曰, 世子異母兄, 有天命者非.道傳聞之曰, 即當除之, 何患乎, 義安君和 知其謀, 密吿 靖安君, 至是宦者曹恂傳旨曰, 予病甚不欲接人, 惟世子外, 母得入見, 師幸恂皆其黨也, 道傳, 閭, 孝生, 判中樞李勲, 前恭賛李茂, 興城君張至和, 星山君李稷等, 托以省問 上疾, 日夜聚松覗闍妾家, 相與 密謀.令芳碩, 濟, 及親軍衛都鎭撫朴藏, 左副承旨盧石柱, 右副承知卞仲良, 在內, 稱 上病篤, 急召諸王子, 入則以內奴及甲士攻之, 道傳閭等外應, 初财古巴麥恥, 先是, 蹟安君密謂知安山那事李叔蕃曰, 姦殲在平時, 固無疑矣, 伺上違豫必生變, 予若召汝則宜速來, 至是, 閔無咎以埔安君命, 召之而至.時, 上病劇, 靖安君及:益安君芳毅, 懷安君芳幹, 淸原君沈惊, 上黨君李伯卿, 義安君和, 及李濟等, 皆會宿勤政殿門外西廊, 至是日哺. 時, 閔無疾詣靖安君邸, 入與夫人偶語良久, 夫人急召小斤曰, 汝速詣闕, 請公來, 小斤曰, 諸君皆會一廳, 奴將何辭以吿, 夫人曰, 汝以我胸腹卒痛奔吿則 公當速來矣, 小斤, 牽馬詣西廊, 具吿之, 義安君贈以請心蘇合 等藥曰, 宜速往治之, 靖安君即還邸, 俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎立密語良久, 夫人執君衣, 請勿詣闕, 君曰豈可畏死不詣, 且諸兄皆在禁中, 不可不使知之, 若有變則我當出來擧兵, 以觀國人之心也, 乃拂衣而出, 夫人追及戶外曰, 愼之愼之, 日己昏矣, 時命罷諸王子所領侍衛牌, 己十餘日矣, 唯芳蕃撼兵如舊, 靖安君初罷兵, 盡燒營中軍器至是, 夫人潜備兵仗, 爲應變計, 李茂素有中立之計, 密以閣等謀, 甞吿靖安, 至是, 隨無疾來謁, 少頃先去, 茂無疾之近姻也, 竹城君朴苞亦徃來其間, 暗伺彼之動靜, 於是, 靖安君命無咎, 使叔蕃備兵甲, 宿于▶P4本邸門前辛克禮家待變. 乃詣闕入西廊, 直宿諸君皆不留馬, 獨靖安君使小斤秣馬西廊後, 芳蕃將入內, 靖安君呼之, 芳蕃搔首逡巡不應而入, 至初夜, 有人自內出曰 上疾劇, 欲避病, 諸王子速入內, 從者命勿許入,和, 琮, 濟, 先出立庭, 靖安君與益安, 懷安, 上黨諸君, 暫立戶內, 密語, 舊制, 宮中諸門夜必張燈, 至是, 見宮門無燈, 益疑之, 和, 及濟, 琮, 先入內, 靖安君稱腹痛, 出西廊門外, 入厠坐思良久, 益安, 懷安等走出, 呼靖安君者再, 君曰, 諸兄是何高聲呼耶, 乃立以兩袖拍之曰, 勢不得己也, 卽馳馬出宮城西門, 益安, 懷(安), 上黨, 皆步走, 唯上黨能及靖安君馬, 益安懷安, 或仆蹭, 靖安君使馬天牧, 召芳蕃曰, 請出來從我, 厥終彼亦不全汝矣, 芳蕃臥內廊房, 見天牧, 起坐聞訖, 還臥, 芳蕃億從,皆無賴之徒, 唯事射御, 且妄欲謀移儲位久矣, 一日謂芳蕃曰 吾等己緣中, 乾使公得代芳碩位, 敎命將至矣, 請母出以待, 芳蕃信而不出外人哂之, 靖安知其不相容, 故召之不從, 靖安君到本邸洞口軍營前路, 駐馬呼叔蕃, 叔蕃率壯士二人, 甲而出, 安益公仓安)上羸懷安父子亦得騎馬, 有李居易, 趙英茂.辛克禮, 徐益, 文彬, 沈龜齡等, 皆歸心靖安者也"至是, 無咎, 無疾, 皆會, 騎兵纔十, 步卒纔九人, 乃出夫人所備鐵槍, 中折分與軍士, 諸君從者及备人奴僕十餘皆執杖, 獨小斤把翎, 君馳至栽所北癒呼叔蕃曰, 今日之事若之何. 叔蕃對曰, 事己至此不須懼也, 請出軍暁辭君命以山城二字, 行岌三軍府門前以待天命. 芳碩等, 聞變欲率兵出戰, 令軍士禮賓少卿奉元良, 登宫南門, 覘軍衆寡, 自光化門至南山, 鐵騎彌滿, 芳碩等惧不敢出, 時人以爲神助, 君又呼叔蕃曰, 如何則可, 叔蕃對曰, 到姦黨會所, 以兵圍而火之, 出者輒殺可矣, 夜二鼓, 將過松覗, 叔蕃奔馬吿曰, 此小洞即間妾家也, 靖安君駐馬, 先使步卒小斤等十餘人, 圍其家有鞍馬數匹, 其在門外奴僕皆睡, 道傳間等, 張燈會坐言笑, 小斤等窺戶未入, 忽有三矢相繼落屋瓦有聲, 小斤等▶P5還出洞口, 問矢之所從來, 叔蕃曰我矢也. 令小斤等還入圍之. 火其隣家三處, 道傳等皆逃匿, 孝生, 勲, 至和等皆見殺, 道傳逃入其隣前判事閔富家, 富吿曰, 有皤腹者入吾家, 君知其爲道傳, 乃令小斤等四人, 捕之, 道傳伏閨中, 小斤等叱之出外, 道傳持尺劎不能行步, 匍匐而出, 小斤等叱令棄劎, 道傳棄劎出門曰, 請勿殺, 願二言而死, 小斤等曳出至靖安君馬前, 道傳曰, 昔者公旣活我, 願今亦活之, 昔者指壬申歲也, 君曰, 汝爲朝鮮奉化伯顧不足耶, 何爲惡至是也, 令斬之, 初夫人欲自至君所立處, 同其禍敗, 徒步而出, 君麾下士崔廣大等力諫止之, 間奴金夫分以道傳笠劎來, 夫人乃還, 道傳有子四人, 游泳聞變急赴, 爲游兵所殺, 湛自刎於家, 初湛吿於父曰, 今日之事不可不吿於靖安君也, 道傳曰, 我旣背髙麗, 今又背:此附彼, 人雖不, 獨無愧於心乎, 李茂, 出門中流矢, 乃曰我李茂也, 步卒將殺之靖安君曰勿殺, 乃與之馬, 閭, 率伴人河景崔泛等逃竄, 稷乘屋, 詐爲. 奴僕, 作滅火狀, 仍得逃免. 闕內人, 望見松靦火焰張天, 奔吿于上, 宮中衛士. 鼓角而噪, 李天祐, 自其家率伴二人將, 赴闕馬天牧望之, 追及於安國坊洞口曰, 非天祐令公乎, 天祐不答, 天牧曰, 令公不答而去則矢可畏也, 天祐曰, 汝非馬司直乎, 何呼我耶, 天牧答曰, 靖安君與諸王子會于此矣, 天祐趨詣靖安君, 且曰, 今擧此事, 何不早使我知之, 靖安君遣朴苞閔無疾, 召左政丞趙浚, 浚猶豫, 使卜者筮其去就, 而不即赴, 又使叔蕃促之, 靖安君迎至中路, 浚已與右政丞金士衡來, 帶甲伴人多從之, 到嘉會坊洞口橋, 步卒以兵把截曰, 唯兩政丞入, 浚士衡等, 下馬, 趨而過橋, 靖安君曰, 卿等何不憂李氏社稷, 浚士衡等.驚懼跪于馬前, 君曰, 道傳聞等舍心如世那象斜孙亦跳, 方幣我是以爲弱者先手也, 浚等叩頭冃術阡堂世警, 就虾也, 君曰, 如此大事, 宜吿國家, 今日之事, 勢迫不暇吿耳, 公等宜速合坐, 石柱, 神良, 在闕內, 使人呼都承旨李文和, 右承旨金陸于家, 文和奔至, 問曰上體若何▶P6石柱曰, 上疾篇, 牛夜子時, 欲避病于西小凉亭, 於是, 諸承旨俱謂勤政殿門, 都鎭撫朴歲, 立於勤政殿門, 高聲呼曰, 軍士來杏, 文和問曰, 此時避御乎, 何吹角耶, 菠曰, 何嗣避御, 奉化伯, 宜城君會處, 有數多軍馬, 圍而火之, 故吹角耳, 先是, 靖安君謂叔蕃曰, 勢力則不可敵矣, 斬道傳闍等然後, 我四五兄弟, 駐馬于三車府門前, 以槻國人之心, 人心不從則己, 翕然從之則我輩得生, 至是, 靖安君還到三軍府門前駐馬, 夜己四鼓, 素所注篱者, 相權來集矣, 賛成柳曼殊率子原之 謁馬前, 靖安君曰, 何故來耶, 曼殊曰, 聞上將移御臣家’今不移御, 且聞有變, 故急來欲侍衛耳, 曰甲而來乎, 曼殊曰否, 即與之甲, 令立馬後, 天祐吿曰, 曼殊乃道傳間之黨, 不可不殺, 埔安君曰, 不可, 懷安及天祐强之曰, 如此倉卒之際, 衆議不可沮也, 靖安君顧謂叔蕃曰, 勢難得己, 命數其罪, 曼殊即下馬, 執靖安君馬轡曰, 我當白之矣白之矣, 靖安君, 令從者解之, 殊猶, 堅執不解, 小斤以小刀剌頷下曼殊仰倒, 乃斬之, 靖安君謂原之曰, 汝無罪可歸家矣, 懷安, 追斬于融賓門前, 浚士衡等, 入坐都評議司, 靖安 君意荆, 方碩等若搴術士出宫門交戰, 則我軍少勢將却矣, 若稍却則合坐諸相, 當在彼軍之後而或從彼矣, 使人詳於都堂曰, 我兄弟在路上而諸相入坐都堂, 不可, 宜即移坐于雲從街上, 遂令禮曹, 率會百官, 親軍衛都鎭撫趙溫, 亦直宿闕內, 靖安君使人召溫及朴蕨, 湿聞命即以麾丁甲士牌頭等出謁馬前, 蕨不應良次, 不得己佩劎而出, 增宣君溫賞以待, 聽見筆勢弱, 乃吿曰, 凡諸處分乞待天明, 其志, 以謂天明則, 兵弱之形著而衆心不附矣, 靖诙君使赴都堂, 懷安請于君使人斬之, 靖安君命温盡出宿衛甲士, 溫即遣牌頭等入闕, 盡以宿衛甲士出, 於是, 勤政股以南, 甲士攏出, 脫甲棄兵, 命各自歸家, 初, 李茂, 見兵勢弱, 詐稱恍惚, 使人扶持, 白於靖安君曰, 中箭處痛甚. 請就都堂兒房, 休息, 君曰可, 小頃, 茂聞朴歲見誅, 即還出, 翌日鷄鳴, 上召石柱入內, 黎明不召文和, 文▶P7和詣西凉亭, 世子與芳蕃, 濟, 和, 良祐, 淙叩樞相張思吉, 張湛, 鄭臣義等. 皆己入內, 自諸君樞相大小內官丁至內奴, 皆被甲帶劎, 唯曹恂及金陸石柱仲良不甲, 石柱傳 旨文和曰, 製敎書, 文和曰請辭, 石柱曰, 倣韓山君所製誅三元帥敎書之意, 製之可也, 文和曰, 看知之乎, 石柱曰, 破賊之功一時之或有, 無君之心萬世之不宥, 是其詞也, 文和曰, 今之罪魁離歟, 石柱曰, 罪魁則更禀于上, 先可起草, 督之急, 文和執筆曰, 君亦解屬文以親禀之意製之, 我當書之, 石柱製曰, 某某等, 潜圖不軌, 欲害開國元勳某某等, 以漏洩被捉, 皆令就戮, 其刼從鷺與, 皆宥不問, 草成, 石桂賛草入啓, 上曰, 姑待兩政丞來, 擬議頒之, 已而, 都堂率百官, 聞于上曰, 道傳間孝生等, 結黨陰謀, 欲害我親勳, 以亂我國家, 臣等, 事迫不及以聞, 已得誅除, 願上勿驚, 李濟方在側, 復于土曰, 諸王子起兵, 共誅間等, 禍將及身, 請以衛士出攻, 上曰, 勿憂一禍豈及汝和亦止之曰, 自中事也. 不必相戰, 濟拨劎睥睨者數矣, 和安然不動, 時永安, 爲上禱病致齋于昭格殿, 聞變, 潜率一奴, 繩城而出, 步至豐壤,隱於金仁貴家, 靖安君使人尋之, 迎到宮城南門外, 日腾吳矣, 時人皆欲請於上, 以靖安君爲世子, 增安君固讓, 請以永安君爲世子, 永安君曰, 當初建義開國至於今日之事, 皆是靖安之功, 我不可爲世子, 靖安君讓益固曰, 欲定國本嘗在嫡長, 永安君曰, 然則我當有以處之. 於是, 靖安君令都堂率百官上疏曰, 立嫡以長萬世之經, 殿下捨長立幼, 道傳等挾世子欲害諸王子, 禍在不測, 幸賴天地宗社之靈, 亂臣伏誅, 願殿下立嫡長, 永安君爲世子, 疏上, 文和讀訖, 世子亦在側, 上良久曰, 皆吾子也, 何不可之有, 顧謂芳磧曰, 於汝便矣, 上旣允下, 在內諸相問何事, 文和答曰, 易世子也, 石柱奉敎草, 使文和署名, 文和不受, 次請和, 亦不受 次請坐 中諸相, 皆不受, 文和曰, 君之所製書, 何不自増乎, 石柱曰, 諾, 乃署名袖之, 石柱, 石柱入內, 承 命出曰, ▶P8教書改寫速下, 文和曰何以改之, 石柱曰, 開國功臣道傳南誾等, 潜圖不軌, 謀害王子宗室, 今己漏洩, 功不掩罪, 己皆就戳, 其刼從黨與, 罔治, 使仲良書以進, 上令侍女扶起, 押訖還臥, 病劇, 欲吐未吐曰, 如有物在咽喉間不下, 靖安君令軍器直長金謊, 開武庫, 出甲槍, 授火桶軍百餘人, 用勢稍振, 甲士申龍鳳, 入闕傳 靖安君言曰, 與安君撫安君各歸私第, 義安君以下何不出來, 睹君相目不言, 更督之, 和以下皆出, 惊, 由宮城水門逃出, 獨鄭臣義遲留, 促之乃出, 都堂請出芳硝, 上曰, 旣己判付, 出去何害, 芳, 碩泣辭, 賢嬪牽衣而哭, 芳磧拂衣而出, 初議置遠方, 出宮城西門, 李居易, 李伯卿, 趙璞等, 議于都堂, 使人殺于道, 都堂又請出芳蕃, 上謂芳蕃曰, 世子則己矣, 汝不過置遠方耳, 芳蕃將出宮, 城南門, 靖安君下馬入門內, 携手語曰.簡等旣剪除我輩, 則汝亦終不免, 故我招之, 汝何不從耶, 今雖出外, 未幾必曜矣, 好去好去, 將置通津, 過楊花渡, 宿渡丞館, 芳幹與李伯卿等, 又議於都堂,,使人殺之, 靖安君聞芳碩芳蕃之死, 密語叔蕃曰, 柳曼殊予尙欲保全, 况骨肉乎, 居易父子不吿於我, 議於都堂, 戕害我母氣, 今人心未定, 故我隱忍不敢示怒也, 汝母出僦言, 軍士執仲良石柱及南贄等以出, 仲良仰視靖安君曰, 我注意於公, 今己數年矣, 君曰, 彼口亦肉也, 贄, 聞之弟, 時爲右廂節制使, 並囚于巡 軍而追斬于路, 李濟出, 靖安君胴濟曰, 可歸本家, 上遂策, 永安宼爲世子, 敎曰, 立嫡以長萬世之經, 宗子維城 寡人之望, 惟爾父臣甞開國, 捨長立幼, 乃以芳碩爲世于, 於孙科点暫盐幺知, 置穿聾弋 小林制费曳容, 賢舟團瓦死虾趴硏八詠, 折陌會町 朴世林那, 如當就赤僧林部, 部蠻駅込, 日者, 道傳闔孝生至和等, 潜圖 不軌, 搖亂根本, 幸賴天地 宗社之佑, 罪人伏誅, 王室再安, 芳碩禍胎, 不可留置國都, 放諸東裔, 予旣悔前日之裡, 又因百僚之請, 席建爾爲王世子, 於戲, 克明其德, 無忝爾所生, 徃盡乃心, 鎭撫我社稷, 乃命文和, 金▶P9-1瞼, 出謁,世子, 世子召文和曰, 內無可侍衛者, 爾速還入內, 文和即還入, 曹恂宣毋子命曰, 除侍女及內奴外, 餘皆出之, 文和亦出, 世子曰, 爾何出來, 文和具吿其由, 世子曰非謂汝也, 宜速還入侍, 又谷上將軍李敷, 入內待衛 ... 南时选出城水門, 瞟於城外圃幕, 沄景等左右扶持, 暫不離焉, 間欲詣巡軍, 法等止之, 闔曰, 道傳爲人鼻故見誅我無憎之者, 自脂巡軍門外,원문주3▶ 見斬……靖安君與諸王子, 張幕於監巡廳前, 會宿三日, 其後, 入褚三軍府, 至世子受內彈後, 各還私第.[3]

이상에 적배(摘配)한 실록의 인문(引文)은 삼봉 정도전이 이씨(성계)를 화가위국(化家爲國)하기 위하여, 심혈을 경진하고 일신의 복멸(覆滅)을 몇 번이나 경험하면서도 불요불굴(不撓不屈)한 막대의 공에 비하여 너무도 이상하고 돌연한 비참한 최후를 설명하기에 가장 필요한 기록이며, 500여 년을 지난 금일에 이르도록 망연모호한 그 진상을 추찰하기에 유일 최대의 자료라 하여도 불가함이 없을 듯하므로, 약간 용장(冗長)한 점이 있음을 불구하고 전문을 재록(載錄)한 것이다.
쪽수▶P9-2 以上에 摘配한 實銀의 引文은 三峯 鄭道傳이 李氏(成桂)를 化家爲國하기 爲하야, 心血을 傾盡하고 一身의 覆滅을 몇 번이나 經驗하면서도 不撓不屈한 莫大의 功에 比하야 너무도 異常하고 突然한 悲慘한 最後를 說明하기에 가장 必要한 記錄이며, 五百餘年을 지난 今日에 이르도록 茫然模糊한 그 眞相을 推察하기에 唯一 最大의 資料라하여도 不可함이 없을 듯하므로, 若干 冗長한 點이 있음을 不拘하고 全文을 載錄한 것이다.
이 기록을 일독하고 우리가 생각할 수 있는바 정도전 남은의 소위 죄상이란 무엇인가. 가장 중요한 죄상은 (1) 방석(芳碩)을 세자로 추대하였다는 것이며, (2) 또 종친을 배척하였다는 것이다. 이것을 좀 더 구체적으로 말하면,주석4▶ 「食立幼孽, 欲爲後嗣, 以奪長幼之序, 以亂嫡庶之分」[a 4] 이라는 것과, 주석5▶「道傳等, 挟世子飲害諸王子, 禍在不測」[a 5] 이란 것이니, 이것을 더욱 자세히 말하면 태조의 신의왕후(神懿王后) 한씨(태조 즉위 전년 몰, 후년 봉작)의 출인 5인의 왕자를 배척하고 신덕왕후(神德王后) 강씨의 소출인 제8자 방석(芳碩)을 세자로 영립(迎立)한 것 까지도, 도전의 소치같이 선언하는 것이며、이 세자를 보찬(保讚)하기 위하여 이복형들을 다못 배척할 뿐이 아니라 「전제(剪除)」하려는 비상수단의 실현이 경각의 간에 있었다고 한다. 이 외에도 여러가지 사소한 문제가 후일에 첨가되나, 죄상의 주목은 이 양점에 다하는 듯 하므로, 우선 이 점을 탐사하여 볼 필요가 있다.
쪽수▶P9-3 이 記錄을 一督하고 우리가 생각할수 있는바 鄭道傳 南誾의 所謂 罪狀이란 무엇인가。가장 重要한 罪狀은 (一) 芳碩을 世子로 推戴하였다는 것이며, (二) 또 宗親율 排斥하였다는 것이다. 이것을 좀 더 具體的으로 말하면, 원문주4▶「食立幼孽, 欲爲後嗣, 以奪長幼之序, 以亂嫡庶之分」[4] 이라는 것과, 원문주5▶「道傳等, 挟世子飲害諸王子, 禍在不測」[5]이란 것이니, 이것을 더욱 些糊히 말하면 太祖의 神懿王后 韓氏(太祖 即位前年 歿, 後年 封爵)의 出인 五人의 王子를 排斥하고 神德王后 康氏외 所出인 第八子 芳碩을 世子로 迎立한 것 까지도, 道傳의 所致같이 宣言하는 것이며、이 世子를 保讚하기 爲하야 異腹兄들을 다못 排斥할 뿐이 아니라 「剪除」하려는 非常手段의 實現이 頃刻의 間에 있었다▶P10-1고 한다. 이 外에도 여러가지 些少한 問題가 後日에 添加되나, 罪狀의 主目은 이 兩點에 다하는듯 하므로, 爲先 이 點을 探査하여 볼 必要가 있다.
방석을 세자로 책립(册立)함에 대하여는 태조실록에 주석6▶「已巳, 立幼孽芳碩, 爲王世子, 初, 功臣裴克廉, 趙浚, 鄭道傳等, 請建世子, 欲以年以功爲請, 王重康氏意在芳蕃, 芳蕃狂率無狀, 功臣等難之, 私相謂曰, 若必欲立康氏出, 季子差可, 及是, 上問誰可爲世子者, 未有以立長立功切言者, 克廉曰, 季子爲可, 上遂決意立之」[a 6] 라고 있으며, 이 사실은, 태조가 7월 17일에 즉위한 후 1개월밖에 지나지 않은 8월 20일에 결정된 것이라, 이것이 7, 8년을 경과한 후에 비로소 돌변을 일으킬 직접 원인이 되리라고 보기는 좀 이상한 점이 있다 하겠다. 더욱 그 사실의 내용을 점검하면 방석을 건립한 것은 태조가 계비(繼妃) 강씨의 의중을 맞았다는 것이 진상일 것이며 (소위 현부(賢否)는 이곳에는 잠시 불문하더라도), 방석을 進言(진언)한 죄를 말하려면 裴克廉(배극렴)이 最重(최중)할 것이거늘, 세자 건립의 연유로 배를 문책한 사실은 물론.주석7▶ 후일에라도 배를 운운함이 전무하니 이상하다 않을 수 없다 물론 배는 태조 원년 11월에 졸하였으므로[a 7] 후일의 논난을 면하였다 볼수있으나, 배, 정과 같이 왕의 문의를 받은 趙浚(조준)은, 이 무인의 난에 생명을 보존하였을 뿐 아니라 소위 定社功臣(정사공신)의 영예를 받았으니, 방석 건립의 책임만으로 도전을 滅誅(멸주)하였다고 볼 수는 전연 불가능한 것을 알 것이다. 그뿐 아니라 조준이 방석 건립에 관여함이 중대한 것은, 주석8▶태종실록의 조준졸 항에 그 전기를 약기한 일에도 기재한 바가 있으며,[a 8]定宗(정종) 2년 1월 방간지난(芳幹之亂)에 조준이 두문불출한 죄를 사법부가 해(該)하는 글 중에도 주석9▶「姑以顯著五事縷陳如左, 當國初廢嫡立庶之際, 浚方爲上相, 力陳大義, 以回 天意, 以正天偷, 則戊寅之嬷, 何日而生乎, 慮不出此, 阿意曲從, 與道傳南誾, 遂立庶孽, 勢將損國……此其一 也」[a 9]라고 있으니, 이 세자 건립의 죄상으로 말하면, 적어도 도전과 조준은 동죄라고 볼 것이거늘, 후세의 소론(所論)이 동죄벌이(罪同罰異)의 불공평한 평가를 할 이유가 없는 것을 가지(可知)할 것이다.
쪽수▶P10-2芳碩을 世子로 册立함에 對하여는 太祖實錄에 원문주6▶「已巳, 立幼孽芳碩, 爲王世子, 初, 功臣裴克廉, 趙浚, 鄭道傳等, 請建世子, 欲以年以功爲請, 王重康氏意在芳蕃, 芳蕃狂率無狀, 功臣等難之, 私相謂曰, 若必欲立康氏出, 季子差可, 及是, 上問誰可爲世子者, 未有以立長立功切言者, 克廉曰, 季子爲可, 上遂決意立之」[6]라고 있으며, 이 事實은, 太祖가 七月 十七日에 即位한 後 一箇月밖에 지나지 않은 八月 二十日에 決定된 것이라, 이것이 七八年을 經過한 後에 비로소 突變을 일으킬 直接 原因이 되리라고 보기는 좀 異常한 點이 있다 하겠다. 더욱 그 事實의 內容을 點檢하면 芳碩을 建立한 것은 太祖가 繼妃 康氏의 意中을 맞았다는 것이 眞相일 것이며 (所謂 賢否는 이곳에는 暫時 不問하더라도), 劳碩을 進言한 罪를 말하려면 裴克廉이 最重할 것이거늘, 世子 建立의 緣由로 裴를 問責한 事實은 勿論. 後日에라도 裴를 云云함이 全無하니 異常하다 않을 수 없다 원문주7▶勿論 裴는 太祖 元年 十一月에 卒하였으므로 [7] 後日의 論難을 免하였다 볼수있으나, 裴, 鄭과 같이 王의 間議틀 받은 趙浚은, 이 戊寅의 亂에 生命을 保存하였을 뿐아니라 所謂 定社功臣의 榮譽를 받았으니, 芳碩 建立의 責任만으로 道傳을 滅洙하였다고 볼 수는 全然 不可能한 것을 알 것이다. 그뿐 아니라 趙浚이 芳碩 建立에 關與함이 重大한 것은, 원문주8▶太宗實錄의 趙浚卒 項에 그 傳記를 畧記한 事에도 記載한 바가 있으며, [8] 定宗 二年 一月 芳幹之亂에 趙浚이 杜門不出한 罪를 司法府가 該하는 文中에도 원문주9▶「姑以顯著五事縷陳如左, 當國初廢嫡立庶之際, 浚方爲上相, 力陳大義, 以回 天意, 以正天偷, 則戊寅之嬷, 何日而生乎, 慮不出此, 阿意曲從, 與道傳南誾, 遂立庶孽, 勢將損國……此其一 也」[9] 라고 있으니, 이 世子 建立의 罪狀으로▶P11-1맡하먼, 적어도 道傳과 趙浚은 同罪라고 볼것이어늘, 後世의 所論이 罪同罰異의 不公平한 評價를 할 理由가 없는 것을 可知할 것이다.
그뿐 아니라 좀 더 깊이 생각하면 이 도전의 최중한 죄상이라고 후세에 선전하는 것이, 당시에는 결코 그렇지도 않았던것을 추상할 수도 있을 것 같다. 그것은 위에 인용한 태조실록 인문(引文) 중에 있는 바 희안공(希安公) 방속(芳速)의 쿠-데타-가 성공한 후 태조가 병석에서 영안군(永安君) 방과를 세자로 수립하기를 허락하고 내린 교서 중에 있는 「立嫡以長萬世之經, 宗子維城寡人之望, 惟诫父臣甞開國, 捨長立幼, 乃以芳碩爲世子, 不獨予昵愛不明之過, 道傳闔等亦不得辭其責矣, 卧岭卧新加林您黔玲為智, 當其時若以楚國愛少之誡, 據經廷靜, 予不敢不從, 如道傳等, 不惟不靜, 猶恐其不立」이라는 말이 어떻게 도전의 「葬」가 소극적이며 미소한가를 표시한다. 이 교서는 당시의 상태로 보아 설령 태조의 승락을 얻은 교서라 하더라도 정안군 방원 일파의 의사가 그대로 발표되었다 볼 수 있을 것이나, 방원 일파로도 도전의 죄상이 적극적으로 방석 옹립에 있다고 할 수는 없고, 단지 극히 소극적으로 태조의 소위를 정정하지 않았음에 있다 하니, 그것이 문죄의 이유로서는 여하히 미약무력한가를 알수있으며, 따라서 당시의 이 점을 문책한 의미가 후세의 그것과 판이함을 추측할 수 있다.
쪽수▶P11-2그뿐 아니라 좀 더 깊이 생각하면 이 道傳의 最重한 罪狀이라고 後世에 喧傳하는 것이, 當時에는 決코 그렇지도 않았던것을 推想할 수도 있을 것 같다. 그것은 우에 引用한 太祖實錄 引文 中에 있는바 希安公 芳速의 쿠-데타-가 成功한 後 太祖가 病席에서 永安君 芳果를 世子로 樹立하기를 許諾하고 내린 敎書 中에 있는 「立嫡以長萬世之經, 宗子維城寡人之望, 惟诫父臣甞開國, 捨長立幼, 乃以芳碩爲世子, 不獨予昵愛不明之過, 道傳闔等亦不得辭其責矣, 卧岭卧新加林您黔玲為智, 當其時若以楚國愛少之誡, 據經廷靜, 予不敢不從, 如道傳等, 不惟不靜, 猶恐其不立」이라는 말이 어떻게 道傳의 「葬」가 消極的이며 微少한가를 表示한다. 이 敎書는 當時의 狀態로 보아 設令 太祖의 承諾을 얻은 敎書라 하더라도 靖安君 芳遠 一派의 意思가 그대로 發表되었다 볼 수 있을 것이나, 芳遠 一派로도 道傳의 罪狀이 積極的으로 芳碩 擁立에 있다고 할 수는 없고, 單只 極히 消極的으로 太祖의 所爲를 廷靜하지 않았음에 있다 하니, 그것이 問罪의 理由로서는 如何히 微弱無力한가를 알수있으며, 따라서 當時의 이 點을 問責한 意味가 後世의 그것과 判異함을 推測할 수 있다.
이러한 추측은 태종 9년 8월에 왕이 세자에게 선위하려고 할 때 하륜에게 그 내의(內意)를 말한 중에 주석10▶「我 太祖, 亦於乙宴年間, 傳位劳碩, 退居後宮, 則吾等終無敢動矣, 安有戊寅之變乎」[a 10]라고 한 것을 보면, 방석 책립에 대하여 불평을 가졌던 것은 사실이나, 그 문제는 부득이 단념하였던 것 같은 심사와, 무인년에 특별한 이유가 있지 않았으면 이 이유와 불평만으로 변란을 일으키지 않았으리라는 감상을 규찰할 수 있다.
쪽수▶P11-3이러한推測은 太宗 九年 八月에 王이 世子에게 禪位하려고 할 때 河崙에게 그 內意를 말한中에 원문주10▶「我 太祖, 亦於乙宴年間, 傳位劳碩, 退居後宮, 則吾等終無敢動矣, 安有戊寅之變乎」[10]라고 한 것을 보면, 芳碩 冊立에 對하야 不平을 가졌던 것은 事實이나, 그 問題는 不得己 斷念하였던 것 갈은 心思와, 戊寅年에 特別한 理由가 있지 않았으면 이 理由와 不平만으로 變亂을 일으키지 않았으리라는 感想을 窺察할 수 있다.
그러면 무인년 변란 당시의 「특별한 사정」이란 무엇을 말함인가.
쪽수▶P12-1 그러면 戊寅年 變亂 當時의 「特別한 事情」이란 무엇을 말함인가.
이것이 위에 거조한 중의 제2에 당하는 소위 「謀害宗親」의 음모일 것이나, 이 점에 대한 결론을 먼저 들면 그것은 진위 불명한 풍설 또는 실상이 있다고 인정할 수 없는 억측에 불과하다고 생각되며, 정안군(靖安君) 방원의 연래의 불평이 이 풍설의 영자(影子)에 경악한 것이며, 태조의 위중한 병세가 이 억겁을 일층 더 선란하게 한 것이라고 보는 것이 가장 타당한 관측일 것 같다.
쪽수▶P12-2 이것이 우에 擧條한 中의 第二에 當하는 所謂 「謀害宗親」의 陰謀일 것이나, 이 點에 對한 結論을 먼저 들면 그것은 眞僞 不明한 風說 또는 實相이 있다고 認定할 수 없는 臆測에 不過하다고 생각되며, 靖安君 芳遠의 年來의 不平이 이 風說의 影子에 驚愕한 것이며, 太祖의 危重한 病勢가 이 憶刼을 一層 더 煽亂하게 한 것이라고 보는 것이 가장 妥當한 觀測일 것 같다.
소위 도전 음모 (즉 모해종친(謀害宗親))의 풍설 혹 중상을 방원에게 전도한 길을 추적하여 보면 대략 3종이 있는 것 같으니. 그 제1은 의안군(義安君) 화(和)요 제2는 이무와 민무질 무구 형제요 제3은 이우리 거이 부자이다. 이 외에도 박포와 기타의 인물이 있으나 이들은 이하에 기술하는 바와 같이 이 3자 중의 동계의 소식이므로 별시하지 않는다. 이들 각종 각양의 밀고를 일일히 그 내용을 지실(知悉)할 수 없으나, 그 중에는 서로 상이한 듯한 점도 있은즉, 그 내용을 한번 탐사하여 볼 필요가 있을까 한다.
쪽수▶P12-3所謂 道傳 陰謀 (即 謀害宗親)의 風說 或 中傷을 芳遠에게 傳導한 길을 追跡하여 보면 大畧 三種이 있는 것 같으니. 그 第一은 義安君 和요 第二는 李茂와 閔無疾 無咎 兄弟요 第三은 李憂李 居易 父子이다. 이 外에도 朴苞와 其他의 人物이 있으나 此等은 以下에 記述하는 바와 같이 이 三者 中의 仝系의 消息이므로 別示하지 않는다. 此等 各種 各様의 密吿를 一一히 그 內容을 知悉할 수 없으나, 그 中에는 서로 相異한 듯한 點도 있은즉, 그 內容을 한번 探査하여 볼 必要가 있을까 한다.
의안군 화의 밀고는, 상기한 바에 의하여서는 그 내용을 명백히 단언할 수 없고, 단지 「知其謀」라 하나 「卜者安植曰, 世子異母兄有天命者非. 道傳聞之曰, 即當除之, 何患乎, 義安君和, 知其謀, 密告 靖安君」의 기록은 해석에 의하여는 이 복자(卜者) 안식(安植)에게 대한 도전의 폭언을 화가 밀고한 것 같이 보인다. 혹은 그 밀고의 내용이 이하에 기록할 민무질 이무의 밀고 내용과 같은 것이었을는지 모르나 그 점은 다음에 미루고, 이 도전 장담의 풍설만을 문제로 하면 그것이 심방밀어(深房密語)일만침 그 진위를 난측(難測)하며, 그 밀어를 대화자 안식이가 누설하였다면 용혹무괴(容或無怪)하였으나 그 소자출(所自出)이 전연 불명할뿐 아니라 자못 화가 지기모(知其謀)하였다고 기재한 바로서 진상을 운운할 수 없다. 그뿐 아니라 설혹 그 장담이 진상이라 하나 이미 방석을 세자로 책립한 이상, 태조 몰 후에는 당연히 국주가 될것이며, 이 세자에게 대하여 이모형(異母兄)이 소견 「有天命」하다고 하여 그 실욱(實頊)을 도모한다면 정이 국군을 위하여 「即當除之」하는 것이 충렬의 사(士)이라고 할지언정 모역(謀逆)라 할수는 만무하니, 도전의 차종장언(此種壯言)의 풍설을 방원 형제가 개인적으로 불쾌불안하게 생각함은 당연하다 할지라도 이것을 잠모부궤(潜謀不軌)라고 할 수는 없을 것이다. 더군다나 이 문의를 유천명(有天命)하다고 하여 여하간 즉당제지(即當除之)하자는 뜻으로 보지 않고, 그 소위 천명을 실리(實理)시키려하면 (보위를 규(窺)하는 야심으로 준동하면) 즉 당제지(當除之)하리니 하환지유(何患之有)리오 하였다 하면 당연한 사실일 뿐 아니라 정도전으로서는 그만한 책임과 의지가 있었으리라고 추측하여도 부당하지는 않을 것이다. 그러나 이 밀고는 그 내용의 진위를 첫째 단정하기 어려우므로 중시할 문제는 되지 못할듯하다.
쪽수▶P12-4義安君 和의 密吿는, 上記한 바에 依하여서는 그 內容을 明白히 斷言할 수 없고, 단지 「知其謀」라 하나 「卜者安植曰, 世子異母兄有天命者非. 道傳聞之曰, 即當除之, 何患乎, 義安君和, 知其謀, 密吿 靖安君」의 記錄은 解釋에 依하여는 이 卜者安植에게 對한 道傳의 暴言을 和가密吿한 것 같이 보인다. 或은 그 密吿의 內容이 以下에 紀錄할 閨無疾 李茂의 密吿 內容과 같은 것이었을는지 모르나 그 點은 다음에 미루고, 이 道傳 壯談의 風說만을 問題로 하면 그것이 深房密語일만침 그 眞僞를 難測하며, 그 密語를 對話者 安植이가 漏洩하였다면 容或無怪하였으나 그 所自出이 全然不明할뿐 아니라 다못 和가 知其謀하였다고 記載한 바로서 眞相을 云云할 수 없다. 그▶P13-1뿐 아니라 設或 그 壯談이 眞相이라 하나 이미 芳碩을 世子로 册立한 以上, 太祖 歿後에는 當然히 國主가 될것이며, 이 世子에게 對하야 異母兄이 所譴 「有天命」하다고 하여 그 實頊을 圖謀한다면 鄭이 國君을 爲하야 「即當除之」하는 것이 忠烈의 士이라고 할지언정 謀逆라 할수는 萬無하니, 道傳의 此種壯言의 風說을 芳遠 兄弟가 個人的으로 不快不安하게 생각함은 當然하다 할지라도 이것을 潜謀不軌라고 할 수는 없을 것이다. 더군다나 이 文意를 有天命하다고 하야 如何間 即當除之하자는 뜻으로 보지않고, 그 所謂 天命을 實理시키려하면 (寶位를 窺하는 野心으로 蠢動하면) 即 當除之하리니 何患之有리오 하였다 하면 當然한 事實일뿐아니라 鄭道傳으로서는 그만한 責任과 意志가 있었으리라고 推測하여도 不當하지는 않을 것이다. 그러나 이 密吿는 그 內容의 眞僞틀 쳣제 斷定하기 어려우므로 重視할 問題는 되지 못할듯하다.
제2의 이무, 민무질 일파의 밀고 내용은 태종 9년에 이무의 죄를 議(의)할 때의 기록 중에 있는 주석11▶「上謂群臣曰, 李茂今繫獄中, 卿等豈能悉知其故, 予欲盡召臣僚而吿之, 勢未可也, 卿等明聽予言, 歲在戊寅, 父王疾篤彌留, 予與昆季, 侍疾于景福宮時, 予只聞李茂之名, 未之相親, 茂因無疾, 交納於我, 日吿予臼, 南誾鄭道傳伺上疾篤, 謀不利於正嫡, 公其預圖, 間五六日, 復來謂予曰, 冬外警徽颦冷聲普時哉不可失也, 予曰, 君請先徃會處, 稽留其計, 至日暮, 義安大君入闕內, 呼予者再, 時日己昏矣, 大君暨諸昆季, 待我至甚忙, 及至中官尹貴自內而出, 問靖安君來歟, 予應曰諾, 貴風召諸君入內, 興安君跌予靴曰, 速入, 予聞茂之言, 固自有疑, 及觀事變有異, 托以如厠遂走出, 諸昆季亦自內走至吿變, 遂與至道傳會處」[a 11]의 기록을 보면, 초두에 인용한 태조 7년 8월 26일의 기사 중에 있는 「至是日晡時, 閔無疾詣 靖安君邸, 入與 夫人偶語良久……靖安君即還邸, 俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎坐密語良久」한 것이 이무의 소고(所吿)와 동일한 내용이었던 것을 추측할 수 있으며, 더욱 「李茂, 素有中立之計, 密以間等謀甞罟由竭安, 至是, 隨無疾來謁, 少頃先去, 茂, 無疾近姻也, 竹城君朴苞, 亦徃來其間, 暗伺彼之動靜」의 기록을 참조하여 보면, 이 밀고의 내용은 전문에 인용한 바와 같이 이무의 소자출(所自出)로, 이무와 박포가 거중심사(居中探査)하여 밀고한 것을 가지(可知)할 것이다. 그리고 그 내용은 정도전, 남은, 심효생, 장지화 등이 「托以省問 上疾, 日夜聚松靦闔妾家, 相與密謀, 令芳碩, 濟及親軍衛都鎭撫朴懿, 左副承旨盧石柱, 右副承旨卞仲良在內, 稱上病篤, 急召諸王子, 入內則以內奴及甲士攻之, 道傳間等外應, 約以己巳擧事」라고 볼 수 밖에 없다.
쪽수▶P13-2第二의 李茂, 閔無疾 一派의 密吿 內容은 太宗 九年에 李茂의 罪를 議할 時의 記錄 中에 있는 원문주11▶「上謂群臣曰, 李茂今繫獄中, 卿等豈能悉知其故, 予欲盡召臣僚而吿之, 勢未可也, 卿等明聽予言, 歲在戊寅, 父王疾篤彌留, 予與昆季, 侍疾于景福宮時, 予只聞李茂之名, 未之相親, 茂因無疾, 交納於我, 日吿予臼, 南誾鄭道傳伺上疾篤, 謀不利於正嫡, 公其預圖, 間五六日, 復來謂予曰, 冬外警徽颦冷聲普時哉不可失也, 予曰, 君請先徃會處, 稽留其計, 至日暮, 義安大君入闕內, 呼予者再, 時日己昏矣, 大君暨諸昆季, 待我至甚忙, 及至中官尹貴自內而出, 問靖安君來歟, 予應曰諾, 貴風召諸君入內, 興安君跌予靴曰, 速入, 予聞茂之言, 固自有疑, 及觀事變有異, 托以如厠遂走出, 諸昆季亦自內走至吿變, 遂與至道傳會處」[11]의 記錄을 보면, 初頭에 引用한 太祖 七年 八月 二十六日의 記事 中에 있는 「至是日晡時, 閔無疾詣 靖安君邸, 入與 夫人偶語良久……靖安君即還邸, 俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎坐密▶P14-1語良久」한 것이 李茂의 所吿와 同一한 內容이었던 것을 推測할수 있으며, 더욱 「李茂, 素有中立之計, 密以間等謀甞罟由竭安, 至是, 隨無疾來謁, 少頃先去, 茂, 無疾近姻也, 竹城君朴苞, 亦徃來其間, 暗伺彼之動靜」의 記錄을 恭照하여보면, 이 密吿의 內容은 前文에 引用한 바와 같이 李茂의 所自出로, 李茂와 朴苞가 居中探査하야 密吿한 것을 可知할 것이다. 그리고 그 內容은 鄭道傳, 南誾, 沈孝生, 張至和 等이 「托以省問 上疾, 日夜聚松靦闔妾家, 相與密謀, 令芳碩, 濟及親軍衛都鎭撫朴懿, 左副承旨盧石柱, 右副承旨卞仲良在內, 稱上病篤, 急召諸王子, 入內則以內奴及甲士攻之, 道傳間等外應, 約以己巳擧事」라고 볼 수밖에 없다.
그러면 이 이무의 밀고한 내용이 과연 여하한 정도의 진실성을 가지고 있었나? 이무의 제2차 밀고 시의 말이 「今夕道傳等欲擧事」라 하며 또 「約以己巳擧事」라 한 것을 보면, 정안군의 쿠데타 단행 당일이 소위 도전 거사의 당석(當夕)이거늘, 도전 일파의 행동과 당시의 사태가 이러한 준비와 용의를 추측할 수 있는 일점증좌(一點證左)가 없으니, 이것을 여하히 해석하여야 가할까. 첫째, 야이고(夜二鼓)에 궁내에서 제 왕자를 소입(召入)한 즉 후의 시간이라면, 정남 일파에게 상기한 바와 같은 계획이 있었다 하면 당연히 무슨 긴장한 태도와 준비가 있어야 할 것이거늘, 정안군이 남은 첩가를 습격하였을 때 도전, 은 등은 회좌언소(會座言笑)하고 평연히 있으며 문 외에는 안마(鞍馬) 수 필과 노복개수(奴僕皆睡)하는 상태가 가의(可疑)하다고 않을 수 없다. 더군다나 당시의 정안군의 군세가 전부 합하여 「騎兵纔十, 步卒纔九人, 乃出 夫人所備鐵槍, 中折分與軍士, 諸君從者及各人奴僕十餘皆執杖, 獨小斤把劎」의 빈약한 세력으로 만약 상기한 것 같은 용의가 도전의 편에 있었다 하면, 당시 병권의 대세를 잡고 있는 정도전과 남은을 인식(麟息) 간에 복멸(覆滅)시키기는 새로이 도리어 반랑(蟠螂)의 龍車(용차)에 향하는 비유가 될 것이 아닌가. 이 점은 상기문 중에도 정안군 일파 외 危懼憶彻(위구억철)한 태도가 그 실상을 전하는 것이니, 「靖安君謂叔蕃曰, 세력則不可敵矣, 斬道傳閭等, 然後我四五兄弟, 駐馬于三軍府門前, 以觀國人之心, 人心不從則己, 翕然從之則我等得生」이라는 비장한 결심이 그 평시의 실력 차이를 보이는 것이다. 만약 도전, 은 등이 이 기사일에 거사할라 하였으면 더군다나 외응할라 하였다하면, 그 평시의 실력과 당야의 너무도 무비한 것이 이상하지 않을까. 또한 편으로 궁내에서도 「諸王子, 入則以內奴甲士攻之」하리라 하나 그러한 준비와 형적은 전연히 볼 수 없으며, 진상은 그런 준비가 없더래도 그럴듯하게 억측할 수나 견강부회할 수만 있더라도 그렇다고 기재할 만한 당시의 情狀(정상)임에도 불구하고 전연 상상만한 기록도 없으니, 그 진위는 추상하기 어렵지 않다 할 것이다.
쪽수▶P14-2그러면 이 李茂의 密吿한 內容이 果然 如何한 程度의 眞實性을 가지고 있었나? 李茂의 第二次 密吿 時의 말이 「今夕道傳等欲擧事」라 하며 또 「約以己巳擧事」라 한 것을 보면, 靖安君의 쿠데타 斷行 當日이 所謂 道傳 擧事의 當夕이거늘, 道傳 一派의 行動과 當時의 事態가 이러한 準備와 用意를 推測할 수 있는 一點證左가 없으니, 이것을 如何히 解释하여야 可할까. 첫째, 夜二鼓에 宮內에서 諸王子를 召入한 即後의 時間이라면, 鄭南 一派에게 上記한 바와 같은 計劃이 있었다 하면 當然히 무슨 緊張한 態度와 準備가 있어야 할것이거늘, 靖安君이 南誾 妾家를 襲擊하였을 때 道傳, 誾 等은 會座言笑하고 平然히 있으며 門外에는 鞍馬 數匹과 奴僕皆睡하는 狀態가 可疑하다고 않을 수 없다. 더군다나 當時의 靖安君의 軍勢가 全部 合하야 「騎兵纔十, 步卒纔九人, 乃出 夫人所備鐵槍, 中折分與軍士, 諸君從者及各人奴僕十餘皆執杖, 獨小斤把劎」의 貧弱한 勢力으로 萬若 上記한 것 같은 用意가 道傳의 便에 있었다 하면, 當時 兵權의 大勢를 잡고 있는 鄭道傳과 南誾을 麟息間에 覆滅시키기는 새로이 도리어 蟠螂의 龍車에 向하는 比諭가 될 것이 아닌가. 이 點은 上記文 中에도 靖安君 一派외 危懼憶彻한 態度가 그 實相올 傳하는 것이▶P15-1니, 「靖安君謂叔蕃曰, 勢力則不可敵矣, 斬道傳閭等, 然後我四五兄弟, 駐馬于三軍府門前, 以觀國人之心, 人心不從則己, 翕然從之則我等得生」이라는 悲壯한 决心이 그 平時의 實力 差異를 보이는 것이다. 萬若 道傳, 簡等이 이 已巳日에 擧事할라 하였으면 더군다나 外應할라 하였다하면, 그 平時의 實力과 當夜의 너무도 無備한 것이 異常하지 안을가. 또한 便으로 宮內에서도 「諸王子, 入則以內奴甲士攻之」하리라 하나 그러한 準備와 形跡은 全然히 볼 수 없으며, 眞相은 그런 準備가 없드래도 그럴듯하게 臆測할 수나 牽强附會할 수만 있더라도 그렇다고 記載할 만한 當時의 情狀임에도 不拘하고 全然 想像만한 記錄도 없으니, 그 眞僞는 推想하기 어렵지 않다 할 것이다.
또 정적을 모해할 음모가 구체화되었고, 더욱 기사일 당석에 임박하였다고 해서는 조준과 金士衡(김사형) 등의 좌우 양상이 전연 이러한 형세도 상상할 수도 없다는 듯하는 태도가 이상하니, 「浚士衡等下馬, 趨而過橋, 靖安君曰, 卿等何不憂李氏社稷, 浚士衡等, 驚懼跪于馬前, 君曰, 道傳間等貪立幼孽, 欲勢除我同母兄弟, 我是以爲弱者先手也, 浚等叩頭曰, 彼之所爲吾等未甞知也」라는 기록이 그것이며, 또 정안군이 조준을 초청함에 대하여 정안의 초조한 마음에도 불구하고 조준이 오랫동안 거취를 유예 불결한 것도 준이 도전, 은 등의 음모설을 신용하지 못한 때문이 아니었던가 한다. 당시의 조준과 도전 남은과의 사이에는 昔日(석일)과 다른 간극이있었으므로 (이것은 이 밀에 상술) 만약 조금이라도 可疑(가의)할 점이 있었더라면 조준이 이다지 유예하지도 않을 것이며, 복자에게 筮(서)하거나 우상 김사술에게 상의하거나 할 필요도 없을 것이 아닌가 생각된다. 이러한 대사가 (종자들을 전제하려는) 정안군 일파 자세히는 이무 이외에는 아무도 豫察(예찰)한 형적이 전무한 것이 가의하니 조준, 김사형은 물론하고 소위 궁내에서 예로를 단행할 李濟(이제)와 卞仲良(변중량) 등의 태도도 이 글 초두에 인용한 바로서 보아서는 이러한 대사를 결행할 용의는 물론, 그러한 긴박한 상태를 예측하지도 못한 듯한 것이 이상하다.
쪽수▶P15-2또 正嫡을 謀害할 陰謀가 具體化되었고, 더욱 己巳日 當夕에 臨迫하였다고 해서는 趙浚과 金士衡 等의 左右兩相이 全然 이러한 形勢도 想像할 수도 없다는 듯 하는 態度가 異常하니, 「浚士衡等下馬, 趨而過橋, 靖安君曰, 卿等何不憂李氏社稷, 浚士衡等, 驚懼跪于馬前, 君曰, 道傳間等貪立幼孽, 欲勢除我同母兄弟, 我是以爲弱者先手也, 浚等叩頭曰, 彼之所爲吾等未甞知也」라는 記錄이 그것이며, 또 靖安君이 趙浚을 招請함에 對하야 靖安의 焦燥한 마음에도 不拘하고 趙浚이 오랫동안 去就틀 猶豫 不決한 것도 浚이 道傳, 誾 等의 陰謀說을 信用하지 못한 때문이 아니었던가 한다. 當時의 趙浚과 道傳 南誾과의 사이에는 昔日과 다른 間隙이있었으므로 (이것은 이 밀에 詳述) 萬若 조금이라도 可疑할 點이 있었더라면 趙浚이 이다지 猶豫하지도 않을 것이며, 卜者에게 筮하거나 右相 金士術에게 相議하거나 할 必要도 없을 것이 아닌가 생각된다. 이러한 大事가 (宗子들을 剪除하려는) 靖安君 一派 些細히는 李茂 以外에는 아무도 豫察한 形跡이 全無한것이 可疑하니 趙浚, 金士衡은 勿論하고 所謂 宮內에서 예로를 斷行할 李濟와 卞仲良 等의 態度도 此文 初頭에 引用한 바로서 보아서는 이러한 大事를 决行할 用意는 勿論,▶P16-1그러한 緊迫한 狀態를 豫測하지도 못한 듯 한 것이 異常하다.
또 한 가지 더 실례를 들어 소위 此種(차종) 모역의 실체 可疑(가의)함을 證明하여 보자. 초두 引文(인문) 중 남은의 항에 「南誾, 逃出城水門, 隱於城外圃幕, 法景等左右扶持, 暫不離焉, 閭欲詣巡軍, 法等止之, 誾曰, 道傳爲人所憎故見誅, 我無憎之者, 自詣巡軍門外, 見斬」이라는 기사가 있으니, 이것이 왕자들을 劾除(핵제)하려고 음모한 자의 태도며 음모 실행 當夜(당야)에 습격을 받은 자의 언행일까. 이 기사를 平心(평심)으로 해석하면 남은은 정안군의 돌연한 습격이 何故(하고)인지 전연 무지하며 그것은 다못 평시 私怨(사원)을 가진 자가 도전을 습격함에 불과하다고 깊이 믿었던 것을 표시하는 것이 아닌가. 평소로 도전과 상기한 바와 같은 음모가 있었다 하면 더욱 그것이 거사 당일이라 하면 이러한 평연한 일 언행을 取一(취일)할 수 없을 것이 아닌가. 그 무죄함을 자신하고 자진하여 巡軍門(순군부) 외에 간 행동만을 보더라도 만사가 轄然自明(할연자명)하다고 할 것이다. 死者無口(사자무구)하니 이 외에 참살올 당한 인물들을 일일히 탐사할 수 없으나 이 남은의 태연한 최후의 행동이 후일의 소위 무인지변의 원인이라고 千言萬記(천언만기)하는 것보단 확연한 진상을 우리의 뇌 중에 銘刻(명각)하는 것 같다. (남은의 태도로 이 변란의 성질을 검사증명할 방책은 이 외에도 허다하나 생략한다).
쪽수▶P16-2또 한 가지 더 實例를 들어 所謂 此種 謀逆의 實體可疑함을 證明하여 보자. 初頭 引交 中 南誾의 項에 「南誾, 逃出城水門, 隱於城外圃幕, 法景等左右扶持, 暫不離焉, 閭欲詣巡軍, 法等止之, 誾曰, 道傳爲人所憎故見誅, 我無憎之者, 自詣巡軍門外, 見斬」이라는 記事가 있으니, 이것이 王子들을 劾除하려고 陰謀한 자의 態度이며 陰謀 實行 當夜에 襲擊을 받은 자의 言行일가. 이 記事를 平心으로 解釋하면 南誾은 靖安君의 突然한 襲擊이 何故인지 全然 無知하며 그것은 다못 平時 私怨을 가진 자가 道傳을 襲擊함에 不過하다고 깊이 믿었던 것을 表示하는 것이 아닌가. 平素로 道傳과 上記한 바와 같은 陰謀가 있었다 하면 더욱 그것이 擧事 當日이라 하면 이러한 平然한 一言行을 取一할 수 없을 것이 아닌가. 그 無罪함을 自信하고 自進하야 巡軍門 外에 간 行動만을 보더라도 萬事가 轄然自明하다고 할 것이다. 死者無口하니 이 外에 斬殺올 當한 人物들을 一一히 探査할 수 없으나 이 南誾의 泰然한 最後의 行動이 後日의 所謂 戊寅之變의 原因이라고 千言萬記하는 것 보단 確然한 眞相을 우리의 腦中에 銘刻하는 것 같다. (南誾의 態度로 이 變亂의 性質을 檢査證明할 方策은 이 外에도 許多하나 省畧한다).
이 때의 소위 陰圖不軌(음도불궤)라는 밀고에 대한 진상은 후일에 이르러 태종 9년 10월에 왕이 주석12▶「予聞度之言, 固身有疑」라 하고[a 12] 대단히 냉정한 태도와 이성의 판단있는 형적을 보이는 점이 있다. 물론 「及觀事變有異」라고 당시의 자기 행동을 시인하려는 노력은 변함이 없으나, 최초(태조 7년 8월 26일)에 민무질의 밀고를 들은 직후의 흥분한 태도 즉 「靖安君即還邸, 俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎立密讀良久, 夫人執君衣, 請勿謂闕君曰, 豈可畏死不詣……若有變則我當出來擧八, 以觀國人之心也, 乃佛衣而出」한 상태와는 판이함이 있다. 이것을 10년이란 시간이 경과한 때문에 당시의 흥분이 沈消(침소)하였다고 보는 것이 당연하나, 또 한 층 더 깊이 일시의 흥분이 소침하고 보니, 그 이무의 밀고라는 것이 아무 실상 없었던 것과 따라서 이 밀고만으로 輕輕(경경)히 대사를 거행하였다고 보이기틀 미안히 생각한 일종 발명에 가까운 심경을 抱持(포지)하고 있던 것을 추상할 수 있다고 하지 못할까?
쪽수▶P16-3이 때의 所謂 陰圖不軌라는 密吿에 對한 眞相은 後日에 이르러 太宗 九年十月에 王이 원문주12▶「予聞度之言, 固身有疑」라 하고 [12] 대단히 冷靜한 態度와 理性의 判斷있는 形迹을 보이는 點이 있다. 勿論 「及觀事變有異」라고 當時의 自已 行動을 是認하려는 努力은 變함이 없으나, 最初(太祖 七年 八月 二十六日)에 閔無疾의 密吿를 됼은 直後의 興奮한 態度 即 「靖安君即還邸, 俄而無疾復來, 與君及夫人, 鼎立密讀良久, 夫人執君衣, 請勿謂闕君曰, 豈可畏死不詣……若有變則我當出來擧八, 以觀國人之心也, 乃佛衣而出」한 狀態와는 判異함이 있다. 이것을 十▶P17-1年이란 時間이 經過한 때문에 當時의 興奮이 沈消하였다고 보는 것이 當然하나, 또 한層 더 깊이 一時의 興奮이 消沈하고 보니, 그 李茂의 密吿라는 것이 아무 實相 없었던 것과 따라서이 密吿만으로 輕輕히 大事를 擧行하였다고 보이기틀 未安히 생각한 一種 發明에 가까운 心境을 抱持하고 있던 것을 推想할 수 있다고 하지 못할까?
이것은 소위 「事變有異」라는 것이 아무 실체를 명확히 할 수 없는 그 기록 상태로 보아서도 추측할 수 있다. 그것은 「至初夜, 有人, 自內出曰, 上病劇, 欲避病, 諸王子速入內, 從者命勿許入」이라는 것이 최대 혐의며, 이 직전에 「芳蕃將入內, 靖安君呼之, 芳蕃搔首遂巡, 不應而入」이란 사실이 더욱 정안의 의심을 돋우고, 왕자 入內(입내)를 청하였을 때 궁내 無燈(무등)한 것을 보고 정안의 의심에는 暗鬼(암귀)가 생겨서 이무 민무질의 밀고에 있는 「入內則以內奴甲士攻之」라는 례로의 실현을 믿은 것이다. 물론 정안도 이것만으로서는 아무리 하여도 너무 자신하기 막연하였던지 복통이라 하여 入厠坐思良久(입측좌사량구)한 것이 당시의 흥분과 襲惻(습측)과 이성의 相刻(상각)을 이기지 못하여 혼란한 두뇌로 초조하던 情相(정상)을 볼 수 있다. 이때 입내하였던 益安(익안)과 懷安(회안)이 走出呼嘲安君者再(주출호조정안자재)함을 만나 憶慟(억통)의 정에 격동을 받아 순간에 대결의를 맺고 頹欄(퇴란)을 기도에 돌리려는 건곤일척의 반항을 결의한 것이다. 소위 弱者先手(약자선수)라는 결단이 여기서 비로소 생긴 것이라고 볼 것이다. 익안 회안의 走出呼靖安(주출호정안)하였다는 것을 중대 의미있는 듯이 보는 이가 있을지 모르나, 이것은 제왕자 입내 중에 정참만 입내하지 않음이 良久(양구)함에 의심하여 불러나온 것이라 해석하여 아무 무리가 없으며, 더군다나 제왕자가 입내의 명을 받아 西廊(서랑)에서 下庭(하정)하였을 때 「靖安君與益安, 懷安, 上黨諸君, 暫立戶內, 密語舊制, 宮中諸門夜必張燈」이라 하고 이날에 마침 「見宮門無燈, 益疑之」한 사실을 참조하면, 익안, 회안에게도 此夕(차석)의 정안군의 이상한 태도와 밀어가 심중에 무슨 暗影(암영)을 던졌을 것이 당연히 추측되며. 그 당자 정안이 밀어하고 의지한 직후에 良久(양구)히 입내하지 않는 태도가, 양인에게 일극의 공포와 危懼(위구)의 정을 일으킬 것이 당연하다. 走出呼靖安(주출호정안) 하는 것을 특히 궁내에 이상한 준비있는 것을 목격한 결과라고만 할 필요가 없으며, 더욱 익안 회안이 평시로 부터 同母兄弟(동모형제)로, 계비 강씨를 專寵(전총)하는 태조 아래에 있어 가정 내부의 苦勞(고로)와 불평이 공통하였으리라고 추상되는 상태로 보면, 정안의 평시 태도 (방석 芳蕃(방번)의 寵位(총위)에 대한 불평) 가 즉 同母兄(동모형) 익안 회안에게도 동일한 심사라 볼 것이며, 또 정안의 접수한 밀고가 그 전부는 아니라도 그 경향과 풍문만이라도 양인에게까지 전도될 가능이 있었다면, 정안군이 상술한 바와 갈이 흥분하였던 당석의 익안 회안 양인의 주출호명을 과대히 중대히 생각하고 의미를 부회할 필요가 전무할 것이다. 무엇보다도 만약 궁내에 정안 등이 상상한 바 같은 례로의 준비가 있었다 하면, 정안 일파에 유리할 자료면 차라리 침소봉대라고 하여도 가할만한 기술의 태도인 잔존 문적에, 일점 구체적 실례는 물론 이어니와 독자로 추측이라도 시킬만한 것이 없으니, 그 음모계획의 실재를 의심하지 않을 수없다. 이런것을, 태종 9년 10월에 이르러서는 저간의 소식을, 왕은 「予聞茂之言, 固自有疑, 及觀事變有異, 托以如厠, 遂走出, 諸昆季, 亦自內走至吿變」이라고 하여, 「吿變」이란 문자를 범연히 사용하게 되며, 또 이 문자에 의하여 무슨 음모의 실상이 궁내에 있었던 것을 추측시키려 한다. 이것을 다못 揑造(열조)라 하여 일소에 付(부)하기 보다는 문자의 援用(원용)이 공중에 허사를 구성하여가는 일례를 볼 수 있다고 명심할 것이다. 이 기사 중에는 「托以如厠, 遂走出」이라 하여, 전에 「入厠坐思」한 것과 상대된 점이 있으나, 이것은 전기가 정확할 것만 부기하고, 그 이유는 생략에 종한다.
쪽수▶P19-2 이것은 所謂 「事變有異」라는 것이 아무 實體를 明確히 할 수 없는 그 記錄 狀態로 보아서도 推測할 수 있다. 그것은 「至初夜, 有人, 自內出曰, 上病劇, 欲避病, 諸王子速入內, 從者命勿許入」이라는 것이 最大 嫌疑며, 이 直前에 「芳蕃將入內, 靖安君呼之, 芳蕃搔首遂巡, 不應而入」이란 事實이 더욱 靖安의 疑心을 돋우고, 王子入內를 請하였을 때 宮內 無燈한 것을 보고 靖安의 疑心에는 暗鬼가 생겨서 李茂 閔無疾의 密吿에 있는 「入內則以內奴甲士攻之」라는 례로의 實現을 믿은 것이다. 勿論 靖安도 이것만으로서는 아무리 하여도 너무 自信하기 漠然하였던지 腹痛이라 하야 入厠坐思良久한 것이 當時의 興奮과 襲惻과 理性의 相刻을 이기지 못하야 混亂한 頭腦로 焦燥하던 情相을 볼 수 있다. 이때 入內하였던 益安과 懷安이 走出呼嘲安君者再함을 만나 憶慟의 情에 激動을 받아 瞬間에 大決意를 맺고 頹欄을 旣倒에 돌리려는 乾坤一擲의 反抗을 決意한 것이다. 所謂 弱者先手라는 決斷이 여기서 비로소 생긴 것이라고 볼 것이다. 益安 懷安의 走出呼靖安하였다는 것을 重大意味 있는 듯이 보는 이가 있을지 모르나, 이것은 諸王子 入內 中에 靖站만 入內하지 않음이 良久함에 疑心하야 불러나온 것이라 解釋하야 아무 無理가 없으며, 더 군다나 諸王子가 入內의 命을 받아 西廊에서 下庭하였을 때 「靖安君與益安, 懷安, 上黨諸君, 暫立戶內, 密語舊制, 宮中諸門夜必張燈」이라 하고 이날에 마침 「見宮門無燈, 益疑之」한 事實을恭照하면, 益安, 懷安에게도 此夕의 靖後君의 異常한 態度와 密語가 心中에 무슨 暗影을 던졌을 것이 當然히 推測되며. 그 當者 靖安이 密語하고 疑之▶P18-1한 直後에 良久히 入內하지 않는 態度가, 兩人에게 一極의 恐怖와 危懼의 情을 일으킬 것이 當然하다. 走出呼靖安 하는 것을 特히 宮內에 異常한 準備있는 것을 目擊한 結果라고만 할 必要가 없으며, 더욱 益安 懷安이 平時로 부터 同母兄弟로, 繼妃 康氏를 專寵하는 太祖아래에 있어 家庭 內部의 苦勞와 不平이 共通하였으리라고 推想되는 狀態로 보면, 靖安의 平時 態度 (方碩 芳蕃의 寵位에 對한 不平) 가 即 同母兄 益安懷安에게도 同一한 心事라 볼 것이며, 또 靖安의 接受한 密吿가 그 全部는 아니라도 그 傾向과 風聞만이라도 兩人에게까지 傳導될 可能이 있었다면, 靖安君이 上述한 바와 갈이 興奮하였던 當夕의 益安 懷安 兩人의 走出呼名을 過大히 重大히 생각하고 意味를 附會할 必要가 全無할 것이다. 무엇보다도 萬若 宮內에 靖安 等이 想像한 바 같은 례로의 準備가 있었다 하면, 靖安 一派에 有利할 資料면 차라리 針小棒大라고 하여도 可할만한 記述의 態度인 殘存 文籍에, 一點 具體的 實例는 勿論 이어니와 讀者로 推測이라도 시킬만한 것이 없으니, 그 陰謀計劃의 實在를 疑心하지 않을 수없다. 이런것을, 太宗 九年 十月에 이르러서는 這間의 消息을, 王은 「予聞茂之言, 固自有疑, 及觀事變有異, 托以如厠, 遂走出, 諸昆季, 亦自內走至吿變」이라고 하야, 「吿變」이란 文字를 泛然히 使用하게 되며, 또 이 文字에 依하여 무슨 陰謀의 實相이 宮內에 있었던 것을 推測시키려 한다. 이것을 다못 揑造라 하야 一笑에 付하기 보다는 文字의 援用이 空中에 虚事를 搆成하여가는 一例를 볼 수 있다고 銘心할것이다. 이 記事 中에는 「托以如厠, 遂走出」이라 하야, 前에 「入厠坐思」한 것과 相對된 點이 있으나, 이것은 前記가 正確할 것만 付記하고, 그 理由는 省畧에 從한다.
이상의 논술에 의하여, 필자는 남은 등이 「謀害王子」하려하였다는 구체적 증좌를 발견하지 못하며,더욱 「己巳夕擧事」 운운의 이무 민무질 등의 밀고가 실체없는 원죄이었던 것을 믿는다. 그러면 다음에 제3의 李愛(이애, 李居易(이거이) 아들)의 밀고란 것은 여하한 것인가.
쪽수▶P18-2以上의 論述에 依하야, 筆者는 南誾等이 「謀害王子」하려하였다는 具體的 證左를 發見하지 못하며,더욱▶P19-1「己巳夕擧事」 云云의 李茂 閔無疾等의 密吿가 實體없는 寃罪이었던 것을 믿는다. 그러면 다음에 第三의 李愛(李居易 子)의 密吿란 것은 如何한 것인가.
주석13▶태종 11년 11월의 기록 중에 「己巳, 賜敎書于上黨君李愛……歲在戊寅, 南誾等將逐我母兄弟於海島, 愛以間之戚屬故, 知其謀, 潜語予曰, 禍將發矣, 兄將若何, 予吿之以先發之, 故自是歸心于我, 共定大計」[a 13]라는 것이 그 내용이니, 애의 밀고한 바는 정안군의 동모형제를 海島(해도)에 逐(축)하려 한다는 음모요, 剪除(전제)라든지 모해라던지 심지어 기사 夕(석)에 內奴 (내노) 甲士(갑사)로써 攻之(공지)한다는 등의 급격 수단은 아니었다. 이 애의 밀고가 이무의 밀고한 것과 다른 별개의 음모인지 동일 음모의 내용 相違(상위)인지는 未確(미확)하나, 사리를 추측하건대 鄭南(정남)이 정안군 동모형제틀 배척하려고, 혹은 流逐(유축) 혹은 剪除(전제)를 계획하였다 하기보단, 정남의 음모에 대한 풍설 혹은 그 내용에 대한 외간의 억측과 해석이 이같이 수종에 나누어 있었다고 볼 것이다. 이런 관점에서 보면, 이 이애의 밀고 내용은 그 가능성이 전기 이무 등의 관측보다는 다대할뿐 아니라, 형편에 따라서는 이만한 비상수단을 도전과 남은이 계획할 가능성이 있으리라고도, 볼 수 있을지 모르겠다. 그것은 태조가 계비 강씨를 전총하고 그 소출인 방석을 세자를 책립하고, 강씨의 소산인 방석 방번을 총애 우대하는데 대한, 정안군을 선두로 한 익안 회안 (永安君(영안군)의 잠시 불문) 등 한씨 소생의 이복형들의 가정적 불평과, 정도전 남은 양인의 태조에 대한 誠忠(성충)이, 세자로 책립된 방석을 보호함에 傾倒(경도)하여, 세자를 嫉視(질시)하고 그 지위를 위태하게하는, 운동과 존재에 대하여는, 그를 除排(제배)하기에 수단을 不惜(불석)할 만한 태도를 추측할 수 있으며, 이 양방의 이해가 상충 돌격함도 불가피할 사태이라 할지 모르는 때문이다, 그러나 이애가 정안군의 同母妹(동모매) 慶愼翁主(경신옹주)를 취한 인물인 점으로 보아 그의 이해관계가 어느 편에 중할지 可知(가지)하겠으며, 따라서 그 정보의 확실성에는 다소간 의문이 있을 것을 추측할수있다. 이렇게 이 이애의 밀吿정도의 실상에도 가의한 점이 있다면, 이무의 밀고한 것 같은 급격한 직접 행동, 따라서 다대한 준비를 필요로할 수단이 있었다고 믿을 수는 없으며, 또 당시의 각방의 사태로 보아도 도전(방석)파로서는 그다지 긴장할 필요가 없었다는 것이 진상 일듯하다. 그 뿐 아니라 당시의 사태를 추상하드래도 방원 일파에 세자, 방석에게 대한 구체적 반항 운동이 없는 이상 이러한 비상수단을 취할 필요가 없을 것이니, 문제는 현실로 권력의 중심을 잡고있는 도전(및 세자) 일파가 아니요, 상시로 불평과 억겁에 초조하는 방원 일파의 태도에 있었다 하겠다. 그러나 지금 현실의 사태를 안중에 두지 않고, 양파의 근본적 이해 관계를 고찰하면, 정안군 방원은 태조의 8자 중에도 가장 기력과 견식이 풍부한 정치가로, 태조의 「化家爲國」 운동에도 불소한 盡瘁(진췌)를 하였다 하며, 도전은 여말국초에 있어 가장 정열과 실행력이 많은 정치가이었을뿐 아니라, 태조 즉위 후에는 태조의 신임과 실력이 정계의 최대 존재였고, 또 이우에 당시에는 군사의 주권을 장악하였었다. 남은도 亦(역) 태조 즉위에 제1위라고 칭할만한 대공을 세웠을 뿐 아니라, 당대의 군사의 대세를 잡고, 그 정견이 도전과 肝膽相照(간담상조)한 사이였었다. 沈孝生(심효생)은 其女(기녀)를 세자 방석의 비로 冊(책)하였으니, 그 개인적 관계로 보아도 도전과 합할 이유가 있을 것이다. 이러한 양개의 세력이 정면으로 충돌하였다면, 당시의 실력 정도로 보아 물론 세자 방석파, 즉 도전 남은파가 領袖(영수) 一觸(일촉)의 승리를 可保(가보)할 것이며, 만약 태조 몰후의 방석 繼位(계위)에 정안 등이 불복 항거한다면, 流逐(유축)은 물론 극형이라도 피하지 못하였을지 모르겠다. 그러므로, 태조의 병독한 당시에 그 몰후의 지위에 불안한 靖安君立(정안군립)의 耳朶(이타)에는, 각종의 流說(유설)과 풍문이 들어왔을 것이며, 도전 은 등을 중심으로 한 방석파(현상유지파)의 威振天下(위진천하)하는 실력에 비하여너무도 빈약한 정안파의 세력이 더욱 더욱 삭감하여가는 정세가, 심중에 초조와 憶惑(억혹)을 도와서, 실상없는 확실하지 않은 밀고를 잡고, 결사의 용기로 影子(영자)와 간쟁한 것이 아닌가. 그러므로, 이 정안의 무인 거사는 참으로 위기일발이라고 할 것이오, 만약 敵方(적방)에 少許(소허)의 준비가 있어도 결코 성공하지 못할 모험일뿐 아니라, 만약 一敗地(일패지)에 떨어젔던들, 이 공연한 백지의 거사가 만세의 조소를 받았을 것이다. 그러나 「勝爲官軍敗爲敵」이라는 日諺(일언)과 같이, 도전 은을 斬誅(참주)만 하면 三軍府(삼군부) 문전에 가서 次心(차심)의 所歸(소귀)에 자기의 성패를 일임하겠다는 정안의 비장한 결의에서 나온 천운의 승리가 역사를 이상하게도 변혁시킨 것이, 우리의 감회를 크게도 일으킨다. 삼봉의 모반설이 400여 년의 정설이나, 이제 그 진상을 정정할 필요가 있지 않을까.
쪽수▶P19-2太宗 十一年 十一月의 記錄 中에 원문주13▶「己巳, 賜敎書于上黨君李愛……歲在戊寅, 南誾等將逐我母兄弟於海島, 愛以間之戚屬故, 知其謀, 潜語予曰, 禍將發矣, 兄將若何, 予吿之以先發之, 故自是歸心于我, 共定大計」 [13]라는 것이 그 內容이니, 愛의 密吿한 바는 靖安君의 同母兄弟를 海島에 逐하려 한다는 陰謀요, 剪除라든지 謀害라던지 甚至於 己巳 夕에 內奴 甲士로써 攻之한다는 等의 急激手段은 아니었다. 이 愛의 密吿가 李茂의 密吿한 것과 다른 別箇의 陰謀인지 同一 陰謀의 內容 相違인지는 未確하나, 事理를 推測하건대 鄭南이 靖安君 同母兄弟틀 排斥하려고, 成은 流逐 或은 剪除를 計劃하였다 하기보단, 鄭南의 陰謀에 對한 風說 或은 그 內容에 對한 外間의 臆測과 解釋이 이 같이 數種에 나누어 있었다고 볼 것이다. 이런 觀點에서 보면, 이 李藻의 密吿 內容은 그 可能性이 前記李 茂等의 觀測보다는 多大할뿐 아니라, 形便에 따라서는 이만한 非常手段을 道傳과 南誾이 計劃할 可能性이 있으리라고도, 볼 수 있을지 모르겠다. 그것은 太祖가 繼妃康氏를 專寵하고 그 所出인 芳碩을 世子를 刑立하고, 康氏의 所產인 芳碩 芳蕃을 寵愛優待하는대 對한, 靖安君을 先頭로 한 益安 懷安 (永安君의 暫時 不問) 等 韓氏 所生의 異腹兄들의 家庭的 不平과, 鄭道傳 南誾 兩人의 太祖에 對한 誠忠이, 世子로 策立된 芳碩을 保護함에 傾倒하야, 世子를 嫉視하고 그 地位를 危殆하게하는, 運動과 存在에 對하여는, 그를 除排하기에 手段을 不惜할만한 態度를 推測할 수 있으며, 이 兩方의 利害가 相衝 突擊함도 不可避할 事態이라 할지 모르는 때문이다, 그러나 李 慶가 靖安君의 同母妹 慶愼翁主를 娶한 人物인 點으로 보아 그의 利害關係가 어느 便에 重할지 可知하겠으며,▶P20따라서 그 情報의 確實性에는 多少間 疑問이 있을것을 推測할수있다. 이렇게 이 李囊의密吿程度의實相에도 可 擁하 点이 있다면, 李茂의 密吿한것 갈은急激한 直接行動, 따라서 多大한準備를 必要로할 手段이 있었다고믿 雀수는 없으며, 또 當時의各方의 事態로 보아도 道傳(芳碩)派로서는 그다지 緊張할 必要가없었다는것이 眞相 일듯하다. 그是안이라 當時의事態星 推想하드래도 芳遠 一 派에 世子, 芳碩)에게對한 具體的 反抗運動이 없는 以上 이러한 非常手段을 取할 必要가없욜것이니, 問題는 現實로 權力의 中心을 잡고 있는 道傳(及世子)- 涙가 아 니요, 常時로 不平과憶刼에 焦燥햐는芳遠 - 派의 態度에 있었다 하겟다. 그러나 只今 現實의 事態를 眼中에두지 않고, 兩派의 根本的 利害關係是 考察하면, 靖安君 芳遠은 太祖의八子中에도 가장 氣力과 見識이豊富한 政治 家로, 太祖의「化家爲國」運戲에도 不少한 盡瘁是 하였다 하며, 道傳은 麗末國初에 있어가장 情熱과 實行力이 많 은 政治家이었을뿐 아니라, 太祖 即位後에는 太祖의 信任과 實力이 政界의最大存在였고, 또 이우에 當時에는 軍事의 主權을 掌握하笠엇다. 南聞도 亦 太祖 卽位에 第 一 位라고稱할만한 大功을 세웟을뿐 아니라, 當代의 軍 事의 大勢를 잡고, 그政見이 道傳과 肝膽相照한 사이었엇다. 沈孝生은 其女를 世子 芳碩의妃로 冊하였으니, 끄個人的 關係로 보아도 道傳과 合할 理由가있을것이다. 이러한 兩個의 勢力이 正面으로 衝突하엿다면, 當時의實力 程度로 보아 勿論 世子 芳碩派, 卽 道傳 南聞派가 領袖 一 觸외勝利률 可保할것이며, 萬若 太祖歿後의 芳 碩 繼位에 靖安等이 不服抗拒한다면, 流逐은 勿論 極刑이라도 避하지못하였을지모르겠다. 그러므로, 太祖의 病篤 한 當時에그 歿後의 地位에 不安한 靖安君立의 耳朶에는, 各種의 流說과 風聞이 들어왔을 것이며, 道傳 間等을中心으로 한 芳碩派(現狀維持派)의 威振天下하는 實力에 比하야너무도 貧弱한 靖安派의 勢力이 더욱더욱 削減▶P21-1하여가는 情勢가, 心中에 焦燥와 憶惑을 도아서, 實相없는 確實하지 않은 密吿틀 잡고, 決死의 勇氣로 影子와 間爭한 것이 아닌가. 그러므로, 이 靖安의 戊寅 擧事는 참으로 危機一髮이라고 할 것이오, 萬若 敵方에 少許의 準備가 있어도 決코 成功하지 못할 冒險일뿐 아니라, 萬若 一敗地에 떨어젔던들, 이 空然한 白紙의 擧事가 萬世의 嘲笑를 받였을 것이다. 그러나「勝爲官軍敗爲敵」이라는 日諺과 같이, 道傳間을 斬誅만하면 三軍府 門前에가서 次心의 所歸에 自己의 成敗를 一任하겠다는 靖安의 悲壯한 決意에서 나온 天運의 勝利가 歷史를 異常하게도 變革서킨 것어, 우리의 感懷를 크게도 일으킨다. 三峯의 謀叛說이 四百餘年의 定說이나, 이제 그 眞相을 訂正할 必要가 있지 않을가.
이상의 약론으로써 무인지변의 진상을 일면으로 검토하였으나, 그만으로 두어서는 너무도 피상적 관찰만에 그칠 염려가 있기에, 다음에 정도전 일파와 정안군 방원과의 충돌한 근본적 이해에 대하여, 좀 더 추구하여 둘 필요가 있다. 곧 말하면. 주석14▶전단 末句(말구)에 약설한 왕실 내부의 가정적 불만이 물론 대부분의 근본 원인이나,[a 14] 이것을 또 다른 반면으로 좀 더 직접적 구체적인 이해관계로 보아서 양자가 여하히 상용하지 못하게 되었느냐 하는 것을 일고할 필요가 있다.
쪽수▶P21-2以上의 畧論으로써 戊寅之變의 眞相을 一面으로 檢討하였으나, 그만으로 두어서는 너도무 皮相的 觀察만에 그칠 念應가 있기에, 다음에 鄭道傳 一派와 靖安君 芳遠과의 衝突한 根本的 利害에 對하야, 좀더 追求하여둘 必要가 있다. 곧 말하면.원문주14▶ 前段 末句에 畧說한 王室 內部의 家庭的 不滿이 勿論 大部分의 根本 原因이나,[14] 이것을 또다른 半面으로 좀더 直接的 具體的인 利害關係로 보아서 兩者가 如何히 相容하지 못하게 되었느냐 하는 것을 一考할 必 要가 있다.
이 문제를 생각할 때, 우리의 심중에 제일 먼저 일어나는 의문은, 본문 초두에 인용한 실록 중의 「道傳, 又嗾卞仲良上疏, 請罷諸王子兵權, 至再一一」이라는 문구와, 주석15▶태종 3년에 왕의 懷舊(회구)의 말 가운데 「父王卽位之初, 以勇兵皆委於我」[a 15] 라는 것을 비교하여, 정안이 도전에게 병권의 삭탈을 원함이 있지 않았는지, 적어도 이 점이 양자 불용한 이유가 되지 않았던가 하는 것이다. 그러나 이것은, 설령 그런 사실이 있다 하더라도, 이조의 신국가가 성립된 이상, 제반의 정치와 제도가 중앙집권적 형태를 띄어가는 것이 당연한 현상이므로, 특히 도전의 개인적 야심을 운운할 수는 물론 없을 뿐 아니라, 이 운동을 大觀(대관)하여보면, 방석과 방원 간의 사소한 관계는 물론, 세세한 정치적 세력 문제와는 관계없이, 별로히 독립한 문제로 이 후에도 계속되어 간 것이요, 그것이 국가(왕실)를 중심으로 이해를 고려할 문제인 즉, 도전(즉 방석파)이 왕실의 중심 이해를 대표할 때 그가 운동의 중축이며, 주석16▶도전 패몰 후에 방원이 정권의 중심일 때 그가 亦(역) 그 운동의 주동자 됨이 당연하다.[a 16] 그러므로 방원이 재야 시(?)에 도전의 세력 집중적 정치시설에 불만을 가졌다 하여도, 아무 이상한 점이 없지 않은가.
쪽수▶P21-3이 問題를 생각할 때, 우리의 心中에 第一 먼저 일어나는 疑問은, 本文 初頭에 引用한 實錄 中의 「道傳, 又嗾卞仲良上疏, 請罷諸王子兵權, 至再一一」이라는 文句와, 太宗 三年에 王의 懷舊의 말 가운데 원문주15▶ 「父王卽位之初, 以勇兵皆委於我」[15]라는 것을 比較하야, 靖安이 道傳에게 兵權의 削奪을 怨함이 있지 않았는지, 적어도 이 點이 兩者不容▶P22-1한 一理由가 되지 않았던가 하는 것이다. 그러나 이것은, 設令 그런 事實이 있다 하드라도, 李朝의 新國家가 成立된 以上, 諸般의 政治와 制度가 中央集權的 形態를 띄여가는 것이 當然한 現像이므로, 特히 道傳의 個人的 野心을 云云할 수는 勿論없을 뿐 아니라, 이 運動을 大觀하여보면, 芳碩과 芳遠間의 些少한 關係는 勿論, 細細한 政治的勢力 問題와는 關係없이, 別로히 獨立한 問題로 이 後에도 繼續되어간 것이요, 그것이 國家(王室)를 中心으로 利害를 顧慮할 問題인 즉, 道傳(卽 芳碩派)이 王室의 中心 利害를 代表할 때 그가 運動의 中軸이며, 원문주16▶道傳 敗歿 後에 芳遠이 政權의 中心일 때 그가 亦 그 運動의 主動者 됨이 當然하다. [16] 그러므로 芳遠이 在野 時(?)에 道傳의 勢力集中的 政治施設에 不滿을 가젔다 하여도, 아무 異常한 點이 없지 않은가.
소위 「私兵」 문제는, 이로만 하여도 별로 고려할 큰 문제이나, 위에 인용한 문구를 해석할 정도만 말하여 보기 위하여, 이조 초기에 도전과 방원의 병정에 대한 지위를 일고하고, 이 점으로써 이 사병 문제에 대한 양인의 태도를 탐사해보자.
쪽수▶P22-2所謂 「私兵」 問題는, 이로만 하여도 別로 考慮할 큰 問題이나, 우에 引用한 文句를 解釋할 程度만 말하여 보기 爲하야, 李朝 初期에 道傳과 芳遠의 兵政에 對한 地位를 一考하고, 이 點으로써 이 私兵 問題에 對한 兩人의 態度를 探査해 보자.
제일로 우리가 주목할 점은, 주석17▶ 태조 즉위 원년 8월에 왕자 제군을 봉할 때,[a 17] 芳果(방과) 외 芳蕃(방번)과 李濟(이제)를 義興親軍衛節制使(의흥친군위절제사)로 임명한 것이다. 이것은 태조 즉위가 7월 17일인 후 1개월 미만의 때인즉, 도전의 세력이 아직 직접 병정에 미칠 틈이 없을 뿐 아니라, 무인 출신의 태조가 그 병권 위임에 특별한 고려를 가졌을 것이 당연하니, 이 임명의 저의를 추측할 가치가 절대하다. 그것은 곧 필자의 추측으로는 방과는 한비 소산의 대표로 (방과는 제2자나 장자 芳雨(방우)는 性(성)이 嗜酒痛飮(기주통음)하여 發病(발병)하였을 뿐 아니라, 주석18▶시시로 常套(상투)를 벗어나는 언행이 있었으므로,[a 18] 이러한 직위는 불적임이요, 주석19▶부조 전래의 東北面(동북면) 高州(고주), 咸州(함주)의 전답을 賜(사)하였으나,[a 19] 관직을 除授(제수)하지 않았으며, 이것이 또 방석을 세자로 책립하게 된 한 원인이 되었다고 생각한다). 방번은 강씨 소산의 대표로, 각 일인씩 분권 위임한 것이며, 이제는 駙馬(부마)이므로 임명하였다고 볼 수 있으나, 제가 강씨 出(출)의 慶順公主(경순옹주)를 취한 것을 생각하면 韓康(한강) 양비의 세력 균평으로는 후자에 稍重(초중)할 것이나, 이것은 강씨가 당시 태조의 총애를 받던 때라 불가피할 사정이라 하겠다. 이런 실상을 염두에 두고 보면, 방원이 후일에 「父王卽位之初, 以勇兵皆委於我」라고 하는 것이, 얼마나 진실성 있는 追懐(추회)인지 의문이라 하겠다. 주석20▶태조 2년 3월에 왜구를 방어하기 위하여 節制使(절제사)를 分遣(분견)할 때[a 20] 義安伯(의안백) 和前門下評理(화전문하평리) 朴巖(박암) 崔雲海(최운해)를 楊廣道(양광도), 興安君(흥안군) 이제 判中樞院事(판중추부사) 남은 參贊門下府事(참찬문하부사) 李之蘭(이지란)을 경상도, 정안군 방원 前(전) 全州節制使(전주절제사) 陳乙瑞(진을서)를 전라도로, 各(각)히 분견하게 되여, 방원이 비로소 전라절제사가 된 것이다. 주석21▶금년 9월에 三軍摠制府(삼군총제부)를 義興三軍府(의흥삼군부)로 改(개)하고 重房(중방)을 파한 실패 개혁에는[a 21] 도전의 관계한 부분이 많음이 물론이어니와, 이 개혁의 결과, 永安君(영안군) 방과가 三軍府中軍節制使(삼군부중군절제사), 撫安君(무안군) 芳蕃(방번)이 左軍節制使(좌군절제사), 興安君(흥안군) 이제가 右軍節制使(우군절제사)로 임명되어, 그 지위의 분포가 여전하였다. 주석22▶동 11월에 判三司事(판삼사사) 정도전이 諸道節制使(제도절제사) 所領(소령) 군사의 武畧(무략)있는 자를 搾(착)하여 陣圖(진도)를 교습하였다 하니[a 22] 도전의 병정에 대한 식견과 抱費(포비)와 수완을 可知(가지)하겠으며 3년 정월에는 이미 判義興三軍府事(판의흥삼군부사)의 직으로 大牢(대뢰)에 뜻을 祭(제)하고, 주석23▶도전 이하 與祭將士(여제장사)가 다 철갑을 着(착)하였다는 것을 보면[a 23]그 군정에 대한 위풍과 세력의 확립함을 볼 수가 있다. 주석24▶동 2월에는 유명한 府衛革新(부위혁신)의 상서를 하였으니 「自古爲國者, 文以致治, 武以勘亂 文武兩幟, 如人兩臂, 不可偏廢, 故本朝旣有百司庶府号又有諸衛, 各領, 所以備文武之職也, 然, 府兵之制, 大抵 承前朝之舊, 前朝盛時, 唯府兵外無他軍號, 北有大遼, 東有女眞, 日本侵掠於外, 又有草賊, 往往竊發於中, 小則中郞將以下, 大則遣上將軍將軍禦之, 至於不得己而後發郡縣丘, 外攻內守, 傳至四百餘年, 當時府兵之盛可知, 無事則肆習兵法, 有事出軍則必爲五陣, 當時兵法之習, 亦可知也, 自忠烈王事元以來, 每因中朝宦寺婦女奉使者之請, 官靠汎濫, 皆以所托之人, 除衛職, 恃勢疇蹇, 莫肯宿衛, 由是, 府衛始毀, 始置忽只忠勇等愛馬, 姑備宿衛, 及僞朝法制大毀, 凡受府衛之職者, 徒食天錄, 不事其事, 遂至失國」[a 24]의 주의로 10위 개칭을 위시하여 將軍掌兵(장군장병)의 제한에 이른 8조의 개량 의견으로, 왕의 채용 嘉納(가납)한 바가 되었다. 그 본의는 여기 인용한 바로서도 추측할 수 있음과 같이, 중앙 부병의 실력 충실과 병법 진법의 평시 강습을 통론한 것이다. 이 상서 중에 인용한 部分 외에 주의할 점은, 그 제2조의 관직 명호 개칭 중에, 「又每一道節制使, 叙肾省宰, 副節制使, 中樞, 兵馬鈴轄使, 嘉善, ……中軍, 京畿左右道, 東北面, 左軍, 江陵, 交州, 慶尙, 全羅道, 右軍, 楊廣, 西海道, 西北面, 屬之」의 일구다. 이 각도 절제사를 종실(혹 省宰(성재))로 임명한다는 주지는 전년 3월 왜구 방어를 위하여 절제사 분견할 때에, 화, 제, 방원을 임명 한 취지를 이은 듯 하나, 결과로써는 전라도절제사 방원은 左軍(좌군)에 속하므로, 左軍府左軍節制使(좌군부좌군절제사)인 異母弟(이모제) 방번에게 易(역)하게 되는 것을 볼 수 있다. 이것은 방번이 방과와 함께 최고 병권을 파악함에 반하여, 방원의 최초부터 일층 낮은 지위가 초래한 부득기한 사정일 것이나, 방원의 불평을 추측할 수 있을 것 같으며, 방원 자신으로서는 開風(개풍)에 首功(수공)있다고 자임하던 태도로 보아, 그 심중을 생각할 수 있다. 더군다나 후일 무인지변에, 방원이 절대적으로 의지하였을 뿐 아니라, 전후를 통하여 股肱(고굉)의 충신이 된 李叔蕃(이숙번). 하륜 등이 다 방원의 전라도 관계로 知遇(지우)하게 된 정세를 照考(조고)하면, 저간에 처한 정안의 심사를 억측할 수 있다 하겠다. 도전은 이런 사소한 일부의 불평은 물론 안중에 없는 것 갈이, 여전히 병정 개혁의 시설을 계속하여, 주석25▶동년 3월 을사에는 각도 節制使率行軍官(절제사솔행군관)의 수를 정하고[a 25]동 무인에는 臨津(임진) 壽美浦(수미포)에서 왕의 幸行(행행)을 받아 五軍陣圖(오군진도)를 강하고 주석26▶동년 6월에 역대 부병시위(府兵侍衛)의 제(制)를 찬하고 府衛(부위)의 폐와 其時(기시) 府兵(부병) 연혁의 事宜(사의)를 논하여 圖(도)를 지어서 獻(헌)하였다.[a 26] 동년 7월에 의흥삼군부(義興三軍府)가 주석27▶「嚴府史成法, 汕謗沮毀者,使憲司啓聞論罪」를 청한 것을 보면,[a 27]이 엄격한 시설과 개혁에 불평을 가진 자가 불소하였던 것을 추측할 수 있다. 이러한 불평불안과 질시의 교착한 훈방저훼(訓謗沮毀)의 일례가 동년 11월의 변중량 등의 옥이니, 주석28▶기록에 의하면 「囚殿中卞仲良于巡軍獄, 命大司憲朴經巡軍萬戶李稷等鞫之, 初仲良與兵曹正郞李曰, 自古, 政權兵椭, 不可兼任一人 兵權宜在宗室.政權宜在宰輔, 令趙浚. 鄭道傳, 南誾等, 旣掌兵權, 又掌政權, 實爲不可, 伸良以此言於義安伯和, 和吿于上, 上召仲良, 問之, 仲良對以實, 且曰, 朴苞亦謂殿下, 失爲國之賜, 屢致星礎, 上怒曰, 此數人, 皆我股肱之臣, 終始一心者也, 如或可疑, 則誰可信者, 爲此言者, 必有以也, 卽命韓仲良及苞曲」라고 있어,[a 28] 조, 정, 남 등의 정권군권집중 방침을 비난한 것이나, 이것은 태조의 신임한 태도가 증명하는 바와 같이, 개인적 사욕이라고 하기 보단, 이씨 국가를 위한 공인적 시정인 것이 물론이다. 그러나 중앙집권의 여파를 받는 권신들이 이 정책에 불안을 가지는 것도 당연하며, 또 구체적 개개 사실을 보더라도, 정도전은 판삼군부사(判三軍府事)라는 정권의 중축에 있으면서, 判義興三軍府事(판의흥삼군부사)라는 병권의 대강을 잡고 있었으니, 이러한 중상이 일어날 근거는 있었다 할 것이다. 중량의 고사(吿辭) 중에 전자의 절제사를 종실과 성재(省宰)로 임명한다는 조건에 반하는 「兵權宜在宗室」이라는 말은, 종래의 용례사로 같은 사람이 兩執(양집)함을 불가타 하는 의미로서 무심히 사용한 것인지, 권신의 음모가 가외(可畏)라는 뜻이 있는지, 또는 義安君(의안군) 화에게 吿하는 형편상으로 다소의 諂諛(첨유)를 포함함인지(중량은 元桂(원계)의 女婿(여서)이므로 府(부)는 중량의 처삼촌이 되는 관계다) 그 진의를 難測(난측)하겠으며, 또 이것을 억측한들 지금 이곳에서는 큰 소득을 기대할 수 없으나. 우리가 문제로 할 것은, 이곳에는 중량은 「兵權宜在宗室」이라 하면서, 초두 인용한 기록에 의하면 「請罷諸王子兵權, 至再三」하였다는 것이 이상하며, 또 이 곳에는 도전 등을 이같이 의심 중상함에 대하여, 상기 引文(인문) 내에는 「道傳又嗾卞仲良上疏」라 하였으니, 이러한 모순을 여하히 해석하여야 할까. 여기 인용한 태조 3년 11월의 중량의 도전 등을 중상한 것을 當者(당자)가 왕에게까지 直對(직대)한 확실한 사실이니 움직일 수 없으나, 이 글 초두에 인용한 것을 지금 정안 일파의 상상의 소산이라고 할 밖에 확실한 證跡(증적)을 볼 수 없다. 중량을 도전 일파라 함은 그가 기사 夕(석)의 돌변에 際(제)하여, 궁내에서 정안파의 행동에 불부(不付)하던 정도를 취한 것이 최대 원인이라 할듯하며, 중량을 상기 일례만으로서 도전과 불호한 관계에 있었다고 단정할 수는 없으나, 적어도 정안 일파의 인정한 바와 같이 도전의 복심이라고 볼 수도 없다. 그뿐 아니라 이러한 도전 탄핵의 상고를 하는 중량이면 이 점에 있어 오히려 정안의 이해를 도운다고 할 수 있거늘 정안 일파는 중량은 도전의 복심같이 운운하는 것이 이상하다. 그러므로 중량의 병정개혁에 대한 의견은 변중량 當者(당자)를 중심으로 생각할 것이요, 다른 사람의 지주(指嗾)을 특히 호의(狐疑)할 것이 아니며, 중량을 중심으로 볼 때, 최초에는 권신 장병(掌兵)에 불안을 감(感)하고, 다음에 형세를 보아 또 제왕자의 사병을 위험하다고 상고하였다 생각하는 것이 제일 자연하며, 또 이 해석에 별로이 이상과 모순이 없을 것이 아닌가. 물론 중량이 제왕자의 병권을 파하자는 것이 도전 일파의 찬동을 얻을 수 있는 점은 추상할 수가 있을 것이며, 그렇더도 또 별로이 문제될 것이 없다. 이 중량의 옥이 일어날 때, 곧 말하면 도전의 병정개혁이 次第(차제)로 실현하여 가고, 따라서 중방(衆謗)이 일어날 형세가 보이는 이 때에, 정안군 방원은 주문사(奏聞使)로 명정(明廷)에 가서 아직 돌아오지 않은 중이었었다. (3년 6월 을해 출발. 동 12월 을묘 귀경, 즉 중량의 옥 후 15일에 귀경).
쪽수▶P22-3원문주17▶第一로 우리가 注目할 點은, 太祖 卽位 元年 八月에 王子 諸君을 封힐 때,[17] 芳果외 芳蕃과 李濟를 義興親軍衛節制使로 任命한 것이다. 이것은 太祖 卽位가 七月 十七日인 後 一箇月 未滿의 때인즉, 道傳의 勢力이 아직 直接 兵政에 미칠 틈이 없을뿐 아니라, 武人 出身의 太祖가 그 兵權 委任에 特別한 考慮를 가졌을 것이 當然하니, 이 任命의 底意틀 推測할 價値가 絶大하다. 그것은 곧 筆者의 推測으로는 芳果는 韓妃 所產의 代表로 (芳果는 第二子나 長子 芳雨는 性이 嗜酒痛飮하야 發病하였을 뿐 아니라, 원문주18▶時時로 常套를 벗어나는 言行이 있었으므로,[18] 이러한 職位는 不適任이요, 父祖 傳來의 東北面 高州, 咸州의 田畓을 賜하였으나,원문주19▶[19] 官職을 除授하지 않았으며, 이것▶P23이 또 芳碩을 世子로 冊立하게 된 一原因이 되였다고 생각한다),芳蕃은 康氏 所產의 代表로, 各一人식 分權委任한 것이며, 李濟는 駙馬이므로 任命하였다고 볼 수 있으나, 濟가 康氏出의 慶順公主를 娶한 것을 생각하면 韓康兩妃의 勢力 均平으로는 後者에 稍重할 것이나, 이것은 康氏가 當時 太祖의 寵愛를 받던 때라 不可避할 事情이라 하겠다. 이런 實相을 念頭에 두고 보면, 芳遠이 後日에 「父王卽位之初, 以勇兵皆委於我」라고 하는 것이, 얼마나 眞實性 있는 追懐인지 疑問이라 하겠다. 원문주20▶太祖 二年 三月에 倭宼를 防禦하기 爲하야 節制使를 分遣할 때 [20] 義安伯 和前門下評理 朴巖 崔雲海를 楊廣道, 興安君 李濟 判中樞院事 南誾 恭賛門下府事 李之蘭을 慶尙道, 靖安君芳遠 前全州節制使 陳乙瑞를 全羅道로, 各히 分遣하게 되여, 芳遠이 비로소 全羅節制使가 된 것이다. 원문주21▶今年 九月에 三軍摠制府를 義興三軍府로 改하고 重房을 罷한 失敗 改革에는[21]道傳의 關係한 部分이 많음이 勿論이어니와, 이 改革의 結果, 永安君 芳果가 三軍府中軍節制使, 撫安君 芳蕃이 左軍節制使, 興安君 李濟가 右軍節制使로 任命되어, 그 地位의 分布가 如前하였다. 원문주22▶同 十一月에 判三司事 鄭道傳이 諸道節制使 所領 軍士의 武畧있는 者를 搾하야 陣圖를 敎習하였다 하니[22] 道傳의 兵政에 對한 識見과 抱費와 手腕을 可知하겠으며 三年 正月에는 이미 判義興三軍府事의 職으로 大牢에 識을 祭하고, 원문주23▶道傳 以下 與祭將士가 다 鐵甲을 着하였다는 것을 보면[23] 그 軍政에 對한 威風과 勢力의 確立함을 볼 수가 있다. 同 二月에는 有名한 府衛革新의 上書를 하였으니 원문주24▶「自古爲國者, 文以致治, 武以勘亂 文武兩幟, 如人兩臂, 不可偏廢, 故本朝旣有百司庶府号又有諸衛, 各領, 所以備文武之職也, 然, 府兵之制, 大抵 承前朝之舊, 前朝盛時, 唯府兵外無他軍號, 北有大遼, 東有女眞, 日本侵掠於外, 又有草賊, 往往竊發於中, 小則中郞將以下, 大則遣上將軍將軍禦之, 至於不得己而後發郡縣丘, 外攻內守, 傳至四百餘年, 當時府兵之盛可知, 無事則▶P24肆習兵法, 有事出軍則必爲五陣, 當時兵法之習, 亦可知也, 自忠烈王事元以來, 每因中朝宦寺婦女奉使者之請, 官靠汎濫, 皆以所托之人, 除衛職, 恃勢疇蹇, 莫肯宿衛, 由是, 府衛始毀, 始置忽只忠勇等愛馬, 姑備宿衛, 及僞朝法制大毀, 凡受府衛之職者, 徒食天錄, 不事其事, 遂至失國」[24]의 主意로 十衛 改稱을 爲始하야 將軍掌兵의 制限에 이른 八條의 改良 意見으로, 王의 採用嘉納한 바가 되었다. 그 本意는 여기 引用한 바로서도 推測할 수 있음과 같이, 中 央府兵의 實力 充實과 兵法 陣法의 平時 講習을 痛論한 것이다. 이 上書 中에 引用한 部分 外에 注意할 點은, 그 第二條의 官職名號 改稱 中에, 「又每一道節制使, 叙肾省宰, 副節制使, 中樞, 兵馬鈴轄使, 嘉善, ……中軍, 京畿左右道, 東北面, 左軍, 江陵, 交州, 慶尙, 全羅道, 右軍, 楊廣, 西海道, 西北面, 屬之」의 一句다. 이 各道 節制使를 宗室(或 省宰)로 任命한다는 主旨는 前年 三月 倭宼 防禦를 爲하야 節制使 分遣할 時에, 和濟, 芳遠을 任命 한 趣曾를 이은 듯 하나, 結果로써는 全羅道節制使 芳遠은 左軍에 屬하므로, 左軍府左軍節制使인 異母弟 芳蕃에게 易하게 되는 것을 볼 수 있다. 이것은 芳蕃이 芳果와 함께 最高 兵權을 把握함에 反하야, 芳遠의 最初부터 一屜 낮은 地位가 招來한 不得己한 事情일 것이나, 芳遠의 不平을 推測할 수 있을 것 같으며, 芳遠 自身으로서는 開風에 首功있다고 自任하던 態度로 보아, 그 心中을 생각할 수 있다. 더군다나 後日 戊寅之變에, 芳遠이 絕對的으로 依支하였을 뿐 아니라, 前後를 通하야 股肱의 忠臣이 된 李叔蕃. 河崙等이 다 芳遠의 全羅道 關係로 知遇하게 된 情勢를 照考하면, 這間에 處한 靖安의 心事를 臆測할 수 있다 하겟다. 道傳은 이런 些少한 一部의 不平은 勿論 眼中에 없는 것 갈이, 如前히 兵政 改革의 施設을 繼續하야, 원문주25▶同年 三月 乙巳에는 各道 節制使率行軍官의 數를 定하고[25] 원문주26▶仝 庚成에는 臨津 壽美浦에서 王의 幸行을 받아 五軍陣圖틀 講하고 同年 六月에 歷代 府兵侍衛의 制를 撰하고▶P25府衛의 弊와 其時 府兵沿革의 事宜를 論하야 圖를 지어서 獻하였다.[26] 원문주27▶同年 七月에 義興三軍府가 「嚴府史成法, 汕謗沮毀者,使憲司啓聞論罪」를 請한 것을 보면,[27] 이 嚴格한 施設과 改革에 不平을 가진 者가 不少하였던 것을 推測할 수있다. 이러한 不平不安과 嫉視의 交錯한 訓謗沮毀의 一例가 同年 十一月의 卞仲良 等의 獄이니, 원문주28▶記錄에 依하면 「囚殿中卞仲良于巡軍獄, 命大司憲朴經巡軍萬戶李稷等鞫之, 初仲良與兵曹正郞李曰, 自古, 政權兵椭, 不可兼任一人 兵權宜在宗室.政權宜在宰輔, 令趙浚. 鄭道傳, 南誾等, 旣掌兵權, 又掌政權, 實爲不可, 伸良以此言於義安伯和, 和吿于上, 上召仲良, 問之, 仲良對以實, 且曰, 朴苞亦謂殿下, 失爲國之賜, 屢致星礎, 上怒曰, 此數人, 皆我股肱之臣, 終始一心者也, 如或可疑, 則誰可信者, 爲此言者, 必有以也, 卽命韓仲良及苞曲」라고 있어,[28] 趙, 鄭, 南 等의 政權軍權集中 方針을 非難한 것이나, 이것은 太祖의 信任한 態度가 證明하는 바와 같이, 個人的 私欲이라고 하기 보담, 李氏國家를 爲한 公人的 施政인 것이 勿論이다. 그러나 中央集權의 餘波를 받는 權臣들이 이 政策에 不安을 가지는 것도 當然하며, 또 具體的 箇箇 事實을 보드라도, 鄭道傅은 判三軍府事라는 政權의 中軸에 있으면서, 判義興三軍府事라는 兵權의 大綱을 잡고 있었으니, 이러한 中傷이 일어날 根據는 있었다 할 것이다. 仲良의 吿辭 中에 前者의 節制使를 宗室과 省宰로 任命한다는 條件에 反하는 「兵權宜在宗室」이라는 말은, 從來의 用例辭로 같은 사람이 兩執함을 不可타 하는 意味로서 無心히 使用한 것인지, 權臣의 陰謀가 可畏라는 뜻이 있는지, 또는 義安君 和에게 吿하는 形便上으로 多少의 諂諛를 包含함인지(仲良은 元桂의 女婿이므로 府는 仲良의 妻三寸이 되는 簡係다) 그 眞意를 難測하겠으며, 또 이것을臆測한들 只今 이곳에서는 큰 所得을 期待할 수 없으나. 우리가 問題로 할 것은, 이곳에는 仲良은 「兵權宜在宗室」이라 하면서, 初頭 引用한 記錄에 依하면 「請罷諸王▶P26-1子兵權, 至再三」하였다는 것이 異常하며, 또 이 곳에는 道傳 等을 이같이 疑心 中傷함에 對하야, 上記 引文 內에는 道傳又嗾卞仲良上疏」라 하였으니, 이러한 矛盾을 如何히 解釋하여야 할가. 여기 引用한 太祖 三年 十一月의 仲良의 道傳 等을 中傷한 것을 當者가 王에게까지 直對한 確實한 事實이니 움즉일수 없으나, 此文 初頭에 引用한 것을 지금 靖安 一派의 想像의 所產이라고 할 밖에 確實한 證跡을 볼 수 없다. 仲良을 道傳 一派라 함은 그가 已巳 夕의 突變에 際하야, 宮內에서 靖安派의 行動에 不付하던 程度를 取한 것이 最大 原因이라 할듯하며, 仲良을 上記 一例만으로서 道傳과 不好한 關係에 있었다고 斷定할 수는 없으나, 적어도 靖安 一派의 認定한 바와 같이 道傳의 腹心이라고 볼 수도 없다. 그뿐 아니라 이러한 道傳 彈劾의 上吿를 하는 仲良이면 이 點에 있서 오히려 靖安의 利害를 도운다고 할 수 있거늘 靖安 一派는 仲良은 道傳의 腹心같이 云云하는 것이 異常하다. 그러므로 仲良의 兵政改革에 對한 意見은 卞仲良 當者를 中心으로 생각할 것이요, 다른 사람의 指嗾을 特히 狐疑할 것이 아니며, 仲良을 中心으로 볼 때, 最初에는 權臣掌兵에 不安을 感하고, 다음에 形勢를 보아 또 諸王子의 私兵을 危險하다고 上吿하였다 생각하는 것이 第一 自然하며, 또 이 解釋에 別로이 異常과 矛盾이 없을 것이 아닌가. 勿論 仲良이 諸王子의 兵權을 罷하자는 것이 道傳 一派의 賛同을 얻을 수 있는 點은 推想할 수가 있을 것이며, 그렇드라도 또 別로이 問題될 것이 없다. 이 仲良의 獄이 일어날 때, 곧 말하면 道傳의 兵政改革이 次第로 實現하여 가고, 따라서衆謗이 이러날 形勢가 보이는 이 때에, 靖安君 芳遠은 奏聞使로 明廷에 가서 아직 도라오지 않은 中이었었다. (三年 六月 乙亥出發. 同 十二月 乙卯 歸京, 即 仲良의 獄後 十五日에 歸京).
이후에도 도전의 병정 시설은 계속되나, 그것은 본문에 지금 직접 관계 없음으로 그만두고, 본문 초두에 인용한 기록 중에, 이 병정 개혁에 관련있는 듯한 정안파의 불평(?)을 대략 고사(考査)하여 보자.
쪽수▶P26-2이 後에도 道傳의 兵政施設은 繼績되나, 그것은 本文에 只今 直接關係 없음으로 그만두고, 本文 初頭에 引用한 記錄▶P27-1中에, 이 兵政改革에 關聯있는 듯한 靖安派의 不平(?)을 大畧 考査하여 보자.
정안파가 도전 일파의 죄상으로 「將欲去諸王子, 暗嗾宦者金師幸, 密啓, 請依中朝諸皇封王之例, 分遣諸王子於各道」를 말하는 진상은 단정하기 어렵고, 더욱 김사행을 암주(暗嗾)하였다는 것은 당시라도 적확히 알지 못할 것을 지금 운운할 수는 없으니 문제 외로 두고, 그 분견각도(分遣各道)의 의미가, 글자대로 「一封王」을 가르친 것이면 이 역 지금 논의할 바가 아닐 것이다(실현치도 않고 문제될 가능성이 없으므로). 다만 그것이 만약 각도 절제사 임명 또는 그 분견과 무슨 연상이 있고, 그것을 불평으로 하는 저의가 있다면, 이 점은 위에 말한 바와 같이 병정을 개혁할 때, 각도 절제사는 중요한 직분이므로 종실, 혹은 성재로 충용한다는 규정이 될 때 이미 작정된 것이며, 주석29▶이 규정을 제작한 深意(심의)가 왕자 배척에 있다면 모르거니와,[a 29] 이 규정 자체를 논의하지 않고 각도 분견만 불평으로 한다면, 그 비난과 불평이 문제에 적중하지 않는 것이라 할 수밖에 없다. 더군다나 정안군이 전라도절제사가 되었을 때는, 방번도 동북면절제사로 피임(被任)되었다 하니, 그 지위의 불평 외에 절제사 임명에는 불평이 있을 도리가 없으며, 또 각도 절제사라고 하나, 실상은 직명뿐이요, 의연히 京城(경성)에 留在(유재)한 상태이었던 것을 보면 이것으로 불평 운운할 도리는 없을 듯하다. 文意(문의)로 보아서 방번을 동북면에 위임한대 무슨 불평이 있는 듯도 하나, 이것은 별문제이고, 김사행의 分遣封王云云(분견책왕운운)은 경기를 떠나기 싫은 主意(주의)로 나온 말인 듯하므로, 아마 절제사 문제와는 직접 관계가 없을 듯하다. 다음에 「時, 罷諸王子者所領侍衛牌, 已十餘日矣」운운은, 이 引文(인문)의 정도로서는 이 조처에 대하여 불평이 있었다고 斷案(단안)하기에는 충분하지 못하나, 심중 불안하던 차이라면, 이러한 처치가 불안과 狐疑(호의)의 마음을 도울 재료가 될 것은 추측할 수 있다. 그러나 소위 「侍衛牌」의 폐단은 이전부터 이후에 이르기까지 위정자의 公評(공평)이며, 이것을 파하자 함도 이론으로는 衆論(중론) 일치라 하여도 무관하며, 이런 문제는 이때보단, 오히려 도전 敗及(패급) 후에 위시하여 태종 시에 이르러 더욱 커지고 개혁도 보게 되었으니, 결국 다른 불평이 이것을 돕게 되었다할지언정, 이것이 불평의 근원이라고 할 수는 없을 듯하다. 그것은 「唯芳蕃, 總兵如舊」라는 어투를 보아도 일단을 추찰할 수 있다. 그러나 이러한 실력 삭제의 시설이 방원의 신경을 더욱 激敏(격민)시킨 사정은 추찰하여 둘 필요가 있을 듯하다.
쪽수▶P27-2靖安涙가 道傳 一派의 罪狀으로 「將欲去諸王子, 暗嗾宦者金師幸, 密啓, 請依中朝諸皇封王之例, 分遣諸王子於各道」를 말하는 眞相은 斷定하기 어렵고, 더욱 金師幸을 暗嗾하였다는 것은 當時라도 適確히 알지 못할 것을 지금 云云할 수는 없으니 問題 外로 두고, 그 分遣各道의 意味가, 글자대로 「一封王」을 가르친 것이면 이 역 지금 論議할 바가 안닐 것이다(實現치도 않고 問題될 可能性이 없으므로). 다만 그것이 萬若 各道 節制使 任命 또는 그 分遣과 무슨 聯想이 있고, 그것을 不平으로 하는 底意가 잇다면, 이 点은 우에 말한 바와 같이 兵政을 改革할 때, 各道 節制使는 重要한 職分이므로 宗室, 或은 省宰로 充用한다는 規定이 될 때 이미 作定된것이며, 원문주29▶이 規定을 制作한 深意가 王子排斥에 있다면 모르거니와,[29] 이 規定 自體를 論議하지 않고 各道 分遣만 不平으로 한다면, 그 非難과 不平이 問題에 的中하지 않는 것이라 할 수밖에 없다. 더군다나 靖安君이 全羅道節制使가 되었을 때는, 芳蕃도 東北面節制使로 被任되었다 하니, 그 地位의 不平 外에 節制使 任命에는 不平이 있을 道理가 없으며, 또 各道 節制使라고 하나, 實相은 職名뿐이요, 依然히 京城에 留在한 狀態이었던 것을 보면 이것으로 不平 云云할 道理는 없을듯하다. 文意로 보아서 芳蕃을 東北面에 委任한대 무슨 不平이 있는 듯도 하나, 이것은 別問題이고, 金師幸의 分遣封王云云은 京畿를 떠나기 싫은 主意로 나온 말인듯하므로, 아마 節制使問題와는 直接 關係가 없을듯하다. 다음에 「時, 罷諸王子者所領侍衛牌, 已十餘日矣」云云은, 이 引文의 程度로서는 이 措處에 對하야 不平이있었다고 斷案하기에는 充分하지 못하나, 心中不安하던 次이라면, 이러한 處置가 不安과 狐疑의 마음을 도울 材料가 될 것은 推測할수 있다. 그러나 所謂 「侍衛牌」의 廢端은 이전부터 이후에 이르기까지 爲政者의 公評이며, 이것▶P28-1을 罷하자 함도 理論으로는 衆論 一致라 하여도 無關하며, 이런 問題는 이때보담, 오히려 道傳 敗及 後에 爲始하야 太宗 時에 이르러 더욱 커지고 改革도 보게 되었으니, 結局 다른 不平이 이것을 돕게 되었다할지언정, 이것이 不平의 根源이라고 할 수는 없을 듯하다. 그것은 「唯芳蕃, 總兵如舊」라는 語套틀 보아도 一端을 推察할 수 있다. 그러나 이러한 實力 削除의 施設이 芳遠의 神經을 더욱 激敏시킨 事情은 推察하여둘 必要가 있을 듯하다.
그러나 우리의 관심은 이러한 지엽 末節(말절)보다도 병정의 근본인 「私兵」 혁파에 대하여 도전이 여하한 태도를 취하였던가하는 문제다. 우리의 상식으로 말하면. 도전과 그 일파가 왕실(태조 및 세자)의 권력집중 정책을 주안으로 하고, 이 세력에 대립할 염려있는 주위의 세력을 삭제할라면, 무엇보다도 가장 유효한 방법은, 당시 권력과 부력의 근원인 사병을 혁파함에 있다하는 것이 당연하나, 前揭(전게) 「嗾卞仲良」운운의 기록 외에는, 이 점에 확실한 證迹(증적)이 될 시설을 볼 수가 없다. 태조 3년 2월의 府衛革新(부위혁신)의 상서도 府兵(부병)의 충실율 운운함에 그치고, 각도에는 절제사를 두고 종실 성재가 수임하게 하니, 이것은 역시 사병의 존속인 것이 확실하다. 그뿐 아니라, 주석30▶동년 5월에 도전이 新成(신성) 조선국의 爲政(위정) 제작의 근본을 기술하여 태조의 관람 嘆美(탄미)를 받은[a 30] 「朝鮮經國典(조선경국전)」 중에도, 주석31▶「每道置節制使, 其州郡之兵, 番上宿衛, 亦內外相制之義」[a 31]라고 하였으니, 도전의 사병에 대한 의견과 시설이 역시 그 존치를 시인한 것이 확실하다. 그러나 시간의 경과와 사태의 진전은 도전 및 그 일파로 하여금 이러한 현실과의 安協(안협)을 어느 때까지라도 용서하지 않게 되었던지, 태조 6년 12월에 동북면 都宣撫巡察使(도선무순찰사)로 갔던 도전이 동 7년 3월에 귀경하였을 때, 주석32▶왕의 賜宴(사연)에 際(제)하여 「(王)又謂宣城君南聞曰, 忠言逆耳, 利於行, 卿等宜言之無諱, 因問都承旨李文和, 逆耳之言, 必自臺諫來, 予性頗急, 或未優容, 惟爾在左右, 敢言勿懼, 聞進曰, 上在潜邸, 不曾握兵, 何有今日, 如臣者亦無能保矣, 當開國之初, 令諸功臣掌兵可也, 今 即位己久, 宜革諸節制使, 合爲官軍, 庶爲萬全, 上曰孰謂南冊爲無實此言, 誠始終之戒也」[a 32]의 문답이음을 보면 남은의 이 의견은 물론 도전의 소회와 같은 것이 당연하니, 도전 일파의 병정에 대한 태도가 급격화하여온 것을 추측할 수 있다, 도전 등이 최초로부터 이러한 의견을 심저에 가지고 일시 과도기적 妥協(안협) 시설을 하였는지 또는 주위의 형세의 사태가 점점그 필요를, 雅感(아감)하게 되었던 지 아마 쌍방의 견해가 다 정당하다고 할 것이다, 그렇다면, 前記(전기) 仲良(중량)이 權臣兵政兩執不可論(권신병정양집불가론)으로 왕자 사병혁파의 低見(저견)에 진전하는 배후에도, 역시 공의 변화를 볼 수 있지 않을지, 그러나 이 당시의 사태는 왕의 답한 태도에도 볼 수 있음과 같이, 이 종 개혁을 필요로 하였던 것은 명백하나, 그 개혁의 실현은 물론, 의견을 공표하기도 危難(위난)한 형세에 있었는 듯하다. 남은의 言中(언중)에 절제사를 單除(단제)하라는 것이 전일의 笈協的(급협적) 시정에 내심 불만함을 표시하였으니. 그런 것을 念如(염여)에 두고 보면 「嗾卞仲良」운운의 상상이 날 원인도 없다 할 수 없으며. 또 이런 의견에는 정안 반대 도전 찬의의 이해 상반이 당연하다. 그러므로 도전파의 이러한 신념과 태도에 대하여, 방원 일파가 英大(영대)한 불안을 포장하였던 것이 당연하다. 이것은 당시 방원이 방번에 비하여는 불평이 있으나, 그래도 절제사라는 병권을 가지고 의지할 약간의 실력을 소지하였던 것을 염두에 두면, 容易(용이)히 추측할 수 있다. 그러므로 도전 등의 병정개혁에 대한 시설과 포부가 더 자세히 말하면, 점점 급격해 가는 중앙집권정책의 태도가, 소위 기사일 돌변의 深柬(심간)한 원인이라고 銘念(명념)할 것이다, 이것이 양파의 근본적 이해 관계가 相容(상용)하지 않는 점이요, 이 외에 여러 가지 이유와 소위 「罪狀」은 이 근본에서 나온 지엽에, 긴밀하지 못한 이유를 부회한 것이 아닌가. 방원은 「吾同母兄弟」를 배척한다고 극력 절규하나, 방과(定宗, 정종)의 방원 起變(기변)에 대한 태도가 극력 소극적이었던 것을 다못 그 「仁愛純實之性」에만 歸(귀)할 것이 아닌 것 같다. 주석33▶정종 2년 6월에 방원이 세자로서 「大學衍義」를 읽을 때 左輔德徐愈(좌보덕서유)와 握兵(악병)의 폐를 논하는 말 중에 「戊寅, 南鄭之亂, 吾兄弟若不握丘八, 豈能應機制變也」[a 33]라는 회상은 이것을 溯上(소상)하면 남은이 태조에게 「上在潜邸不曾握兵, 何有今日, 如臣者亦無保矣」와 같은 것이며, 방원의 自誇(자과)하는 此種(차종) 「應機」 활동이, 곧 정 남 등이 개혁하고자하던 사병의 폐일 것이니, 도전이 당시에 제 왕자 파병을 계획하였더라도 후일에 不忠不道(불충불도)의 음모같이 말할 것이 되지 못할 것이다. 도전 등이 「諸王子 罷兵」을 실현할 기운이 농후하였다 하더라도, 방원의 처지로 본 사소한 개인적 이해 관념에서 나온 불평불안의 念(념)이 있다 할지언정, 이것은 국가의 대체로 보면 당연하고 忠義賢明(충의현명)한 시정일 것을, 후일 방원의 왕위 획득한 결과만으로, 이 태도를 백세의 역신의 음모라고 傳喧(전훤)하는 것이 불합리한 것이며, 더욱 태조 성계를 시조로 한 이씨 일가의 국가 대체로 보아도, 功罪(공죄)는 정당 공평히 평가하여야 할 것이 아닌가. 더욱 사병혁파의 여론은 정종 즉위후 芳毅(방의) 芳幹(방간)의 난 후에 더욱 분규하여지며, 도전 當政(당정) 시의 신중한 태도에 비하여 확연히 공공히 주장하게 되고, 태종 시에 이것을 단행하게 되어, 종실과 권신의 群怨(군원)이 일어나게 되었으니, 방원의 전후 모순하는 태도가 너무도 이상하다 하기 보다도, 역사의 회전하는 상태가, 후세 우리의 흥미를 일으킨다. 그뿐 아니라 더욱 이상한 점은 도전 몰후에, 그의 사병 혁파에 대한 태도가 철저하지 못한 것이 무인변란의 근본 원인이라 하여 도전을 비난하는 의론이, 이상한 의미로 일반으로 행하게 되니, 주석34▶정종 2년 權近(권근)과 金若釆(김약변)의 罷私兵上疏(파사병상소) 중에 있는 「惟我太上王開國之初, 特置義興三軍府, 專掌兵權, 規模宏遠, 而時議者, 以爲革命之初, 人心未定, 常備不虞之變, 宜令勳親, 各典私丘八, 以應倉卒, 由是, 私兵未能盡除, 而典兵者反謀煽亂禍在不測」[a 34]이 그 일례다. 이 文意(문의)는 당시의 사병 존치의 주장자를 비난함에 있으나, 당사자가 宏遠(굉원)한 삼군부 特置(특치)의 이상을 단행하지 못한 것이 후일의 禍源(화원)이 되었다 하는 것이요, 이런 논조는 정종 태종 시에 사병 혁파 주장자의 공통한 襟語(금어)이며, 태종 (방원) 자신이 병권 不可散在(불가산재)의 이유로 항시 구술하는 이유다. 도전이 만약 이것을 단행하였던들, 방원의 소위 「定社」 운동이 성공할 근거가 전무하니, 2 점으로는 이러한 「不徹屋」한 시설이 도로 혀 當幸(당행)이 되었다 할 것이 아닌가. 昔日(석일)에 도전이 주장할 때는 「陰謀」가 되며, 후일에 방원이 주장함에는 國家之大統(국가지대통)이 되니 그 변화가 너무도 심하지 않다 할 수 없다. 국가의 본위로 보면 도전과 방원의 주장이 다 동일히 진리일 것을, 방원의 개인적 이해의 견지로 斷案(단안)하는 평가가 이 공평을 왜곡하게 되니, 이것이 종래의 「國家」의 성질이며, 역사가 또 이 「國家」에 役使(역사)하는 노예였던 운명을 표시하는 好例(호례)라 하겠다.
쪽수▶P28-2그러나 우리의 關心은 이러한 枝葉 末節보담도 兵政의 根本인 「私兵」 革罷에 對하야 道傳이 如何한 熊度를 取하였던가하는 問題다. 우리의 常識으로 말하면. 道傳과 그 一派가 王室(太祖 及 世子)의 權力集中 政策을 主眼으로 하고, 이 勢力에 對立할 念慮있는 周圍의 勢力을 削除할라면, 무엇보담도 가장 有效한 方法은, 當時 權力과 富力의 根源인 私兵을 革罷함에 있다하는 것이 當然하나, 前揭 「嗾卞仲良」云云의 記錄 外에는, 이 點에 確實한 證迹이 될 施設을 볼 수가 없다. 太祖 三年 二月의 府衛革新의 上書도 府兵의 充實율 云云함에 그치고, 各道에는 節制使를 두고 宗室省宰가 受任하게 하니, 이것은 亦是私兵의 存續인것이 確實하다. 그뿐 아니라, 원문주30▶同年 五月에 道傳이 新成朝鮮國의 爲政制作의 根本을 記述하야 太祖의 觀覽嘆美를 받은 [30]「朝鮮經國典」 中에도, 원문주31▶「每道置節制使, 其州郡之兵, 番上宿衛, 亦內外相制之義」[31]라고 하였으니, 道傳의 私兵에 對한 意見과 施設이 亦是 그 存置를 是認한 것이 確實하다. 그러나 時間의 經過와 事態의 進展은 道傳及 其 一派로 하여금 이러한 現實과의 安協을 어느 때까지라도 容恕하지 않게 되였든지, 太祖 六年 十二月에 東北面 都宣撫巡察使로 갓던 道傳이 同 七年 三月에 歸京하였을 때, 王의 賜宴예 際하야 원문주32▶「(王)又謂宣城君南聞曰, 忠言逆耳, 利於行, 卿等宜言之無諱, 因問都承旨李文和, 逆耳之言, 必自臺諫來, 予性頗急, 或未優容, 惟爾在左右, 敢言勿懼, 聞進曰, 上在潜邸, 不曾握兵, 何有▶P29今日, 如臣者亦無能保矣, 當開國之初, 令諸功臣掌兵可也, 今 即位己久, 宜革諸節制使, 合爲官軍, 庶爲萬全, 上曰孰謂南冊爲無實此言, 誠始終之戒也」[32]의 問答이음을 보면 南誾의 이 意見은 勿論 道傳의 所懷와 같은 것이 當然하니, 道傳 一派의 兵政에 對한 態度가 急激化하여온 것을 推測할 수 있다, 道傳等이 最初로부터 이러한 意見을 心底에 가지고 一時過渡期的 妥協施設을 하였는지 또는 周圍의 形勢의 事態가 漸々 그 必要를, 雅感하게 되였든 지 아마 雙方의 見解가 다 正當하다고 할 것이다, 그렇다면, 前記 仲良이 權臣兵政兩執不可論으로 王子私兵革罷의 低見에 進展하는 背後에도, 亦時功의 變化를 볼 수 있지 않을지, 그러나 이 當時의 事態는 王의 答한 態度에도 볼 수 있음과 같이, 이 種 改革을 必要로 하였든 것은 明白하나, 그 改革의 實現은 勿論, 意見을 公表하기도 危難한 形勢에 있었는 듯하다. 南誾의 言中에 節制使를 單除하라는 것이 前日의 笈協的施政에 內心不滿함을 表示하였으니.그런것을 念如에 두고 보면 「嗾卞仲良」云云의 想像이 날 原因도 없다 할 수 없으며. 또 이런 意見에는 靖安 反對 道傳 贊意의 利害相反이 當然하다. 그러므로 道傳派의 이러한 信念과 態度에 對하야, 芳速 一派가 英大한 不安을 抱藏하였던 것이 當然하다. 이것은 當時 芳遠이 芳蕃에 比하야는 不平이 있으나, 그래도 節制使라는 兵權을 가지고 依支할 若干의 實力을 所持하였던 것을 念頭에두면, 容易히 推測할 수 있다. 그러므로 道傳 等의 兵政改革에 對한 施設과 抱負가 더 些細히 말하면, 漸漸 急激해가는 中央集權政策의 熊度가, 所謂 己巳日 突變의 深柬한 原因이라고 銘念할 것이다, 이것이 兩派의 根本的 利害關係가 相容하지 않는 點이요, 이 外에 여러가지 理由와 所謂 「罪狀」은 이 根本에서 나온 枝葉에, 緊密하지 못한 理由를 附會한 것이 아닌가. 芳遠은 「吾同母兄弟」를 排斥한다고 極力 絕叫하나, 芳果(定宗)의 芳遠 起變에 對한 態度가 極力 消極的이었던 것을 다못 그 「仁愛純實之性」▶P30에만 歸할 것이 아닌 것 같다. 원문주33▶定宗 二年 六月에 芳遠이 世子로서 「大學衍義」를 읽을 때 左輔德徐愈와 握兵의 弊를 論하는 말 中에 「戊寅, 南鄭之亂, 吾兄弟若不握丘八, 豈能應機制變也」[33]라는 回想은 이것을 溯上하면 南誾이 太祖에게 「上在潜邸不曾握兵, 何有今日, 如臣者亦無保矣」와 같은 것이며, 芳遠의 自誇하는 此種 「應機」 活動이, 곧 鄭 南 等이 改革하고저하던 私兵의 廢일 것이니, 道傳이 當時에 諸王子 罷兵을 計劃하였드라도 後日에 不忠不道의 陰謀같이 맡할 것이 되지 못할 것이다. 道傳 等이 「諸王子 罷兵」을 實現할 機運이 濃厚하였다 하드라도, 芳遠의 處地로 본 些少한 個人的 利害觀念에서 나온 不平不安의 念이 있다 할지언정, 이것은 國家의 大體로 보면 當然하고 忠義賢明한 施政일 것을, 後日 芳遠의 王位獲得한 結果만으로, 이 態度를 百世의 逆臣의 陰謀라고 傳喧하는 것이 不合理한 것이며, 더욱 太祖 成桂를 始祖로 한 李氏 一家의 國家大體로 보아도, 功罪는 正當 公平히 評價하여야 할 것이 아닌가. 더욱 私兵革罷의 輿論은 定宗 即位後 芳毅 芳幹의 亂後에 더욱 紛糾하여지며, 道傳 當政時의 愼重한 態度에 比하야 確然히 公共히 主張하게 되고, 太宗 時에 이것을 斷行하게 되어, 宗室과 權臣의 群怨이 이러나게 되었으니, 芳遠의 前後 矛盾하는 態度가 너무도 異常하다 하기 보담도, 歷史의 迴轉하는 狀態가, 後世 우리의 興味를 이르킨다. 그뿐 아니라 더욱 異常한 點은 道傳 歿後에, 그의 私兵 革罷에 對한 態度가 徹底하지 못한 것이 戊寅變亂의 根本 原因이라 하야 道傳을 批難하는 議論이, 異常한 意味로 一般으로 行하게 되니,원문주34▶ 定宗 二年 權近과 金若釆의 罷私兵上疏中에 있는 「惟我太上王開國之初, 特置義興三軍府, 專掌兵權, 規模宏遠, 而時議者, 以爲革命之初, 人心未定, 常備不虞之變, 宜令勳親, 各典私丘八, 以應倉卒, 由是, 私兵未能盡除, 而典兵者反謀煽亂禍在不測」[34] 이 그 一例다. 이 文意는 當時의 私兵 存置의 主張者를 批難함에 있으나, 當事者가 宏遠한 三軍府 特▶P31-1置의 理想을 斷行하지 못한 것이 後日의 禍源이 되었다 하는 것이요, 이런 論調는 定宗 太宗時에 私兵 革罷主張者의 共通한 襟語이며, 太宗 (芳遠)自身이 兵權 不可散在의 理由로 恒時 口述하는 理由다. 道傳이 萬若 이것을 斷行하였든들, 芳遠의 所謂 「定社」 運動이 成功할 根據가 全無하니, 二點으로는 이러한 「不徹屋」한 施設이 도로 혀 當幸이 되였다 할 것이 아닌가. 昔日에 道傳이 主張할 때는 「陰謀」가 되며, 後日에 芳遠이 主張함에는 國家之 大統이 되니 그 變化가 너무도 甚하지 않다 할 수 없다. 國家의 本位로 보면 道傳과 芳遠의 主張이 다 同一히 眞理일 것을, 芳遠의 個人的 利害의 見地로 斷案하는 評價가 이 公平을 歪曲하게 되니, 이것이 從來의 「國家」의 性質이며, 歷史가 또 이 「國家」에 役使하는 奴隸였던 運命을 表示하는 好例라 하겠다.
이상의 고증에 의하여, 종래에 도전의 역죄의 과목이라는 것이 대개 아무 근거의 실상을 발견하지 못하고, 또 설령 도전 敗及(패급)이 불가피할 운명이라 할지라도, 그 공과를 논평할 견지를 개정할 필요가 있을 것을 可見(가견)하겠다 그러나 도전에게는 이 외에도 「罪瑕」라고 후일에 첨가받는 조목이 있으니, 明廷(명정)에 득죄하였다는 것이 그것이다, 물론 이것은 무인지난에 직접 관계는 없으나, 도전에게 대한 후세의 評難(평난)을 탐사하기에 필요하므로 觸筆(촉필)하여 볼까한다. 태종 11년 8월에 孫與宗(손여종), 黃居正(황거정)이 李種學(이종학) 등을 남살하였다는 죄로 純理(순리)를 받을 때, 주석35▶태종의 말 가운데 「上召南在曰, 開國之事, 卿無不知, 種學等事, 何故不知, 壬申以前之事, 予皆知之, 其後人有忌我者, 故出使東北面矣 卿何以不知, 冒歟……上曰, 開國之功, 南簡居多, 至有涕泣而力白之者, 若道傳則其於開國也, 曾源一言, 其後辨嫡庶之時, 又無一言以及之, 至其得罪于, 高皇帝、則固避不赴, 挟私欺貞, 恣其凶暴, 以沒其身之咎, 濫殺崇仁等, 以滅其口」[a 35]의 술회가 있어, 이것이 소위 도전 「罪狀」의 전부며 또 실정이라고 할 것이다, 이 文意(문의)에도 표현된 바와 같이 최대 「罪狀」이라면 태종과 親好(친호)하지 못하였던 점이며, 곧 양인(이라 하기보다도 더 방원편으로 보아)의 개인적 감정 불화라고 하여도 좋을 만한 相容(상용)하지 못하였던 관계가 최대 근원이었다고 볼 수밖에 없다. 「人有忌我者」 운운은 즉 도전을 가르침이 명백하고, 개국에 別功(별공)이 없이 大功(대공)있는 것 같이 한다는 것들이다 이러한 심정에서 나옴 말이라고 봍 것이다. 그리고 이곳에 嫡庶(적서)를 辨(판)할 때 無一言以及之(무일언이급지)라고 한 것은, 이 亦(역) 상술한 바와 같이 도전의 소위 「立庶」 시에 아무 적극적의 죄상 없음을 자인한 것이다. 이런 것들은 위에 이미 말한 바이어니와, 새로이 「得罪于高皇帝, 則固避不赴」라는 사실에 대하여 간단히 언급할 필요가 있을듯하다.
쪽수▶P31-2以上의 考證에 依하야, 從來에 道傳의 逆罪의 科目이라는 것이 大槪 아무 根據의 實相을 發見하지 못하고, 또 設令 道傳 敗及이 不可避할 運命이라 할지라도, 그 功過를 論評할 見地를 改訂할 必要가 있을 것을 可見하겟다 그러나 道傳에게는 이 外에도 「罪瑕」라고 後日에 添加받는 條目이 있으니, 明廷에 得罪하였다는 것이 그것이다, 勿論 이것은 戊寅之難에 直接關係는 없으나, 道傳에게 對한 後世의 評難을 探査하기에 必要하므로 觸筆하여 볼가한다. 太宗十一年 八月에 孫與宗, 黃居正이 李種學 等을 濫殺하였다는 罪로 純理를 받을 때, 원문주35▶ 太宗의 말가운대 「上召南在曰, 開國之事, 卿無不知, 種學等事, 何故不知, 壬申以前之事, 予皆知之, 其後人有忌我者, 故出使東北面矣 卿何以不知, 冒歟……上曰, 開國之功, 南簡居多, 至有涕泣而力白之者, 若道傳則其於開國也, 曾源一言, 其後辨嫡庶之時, 又無一言以及之, 至其得罪于, 高皇帝、則固避不赴, 挟私欺貞, 恣其凶暴, 以沒其身之咎, 濫殺崇仁等, 以▶P32滅其口」[35] 의 述懷가 있어, 이것이 所謂 道傳 「罪狀」의 全部며 또 實情이라고 할 것이다, 이 文意에도 表現된 바와 같이 最大 「罪狀」이라면 太宗과 親好하지 못하였던 點이며, 곧 兩人(이라 하기보담도 더 芳遠便으로 보아)의 個人的 感情 不和라고 하여도 좋을만한 相容하지 못하였던 關係가 最大 根源이었다고 볼 수밖에 없다. 「人有忌我者」 云云은 即 道傳을 가르침이 明白하고, 開國에 別功이 없이 大功있는 것 같이 한다는 것들이다 이러한 心情에서 나옴 말이라고 봍 것이다. 그리고 이곳에 嫡庶를 辨할 때 無一言以及之라고 한 것은, 이 亦 上述한 바와 같이 道傳의 所謂 「立庶」 時에 아무 積極的의 罪狀 없음을 自認한 것이다. 이런것들은 우에 이미 말한 바이어니와, 새로이 「得罪于高皇帝, 則固避不赴」라는 事實에 對하야 簡單히 言及할 必要가 있을듯하다.
주석36▶문제의 기원은 태조 5년에 明廷(명정)에 보낸 賀正使(하정사) 柳玽(유구) (明史(명사)에는 询(순))의 가지고 간 表箋(표전)에 있으니,[a 36] 동 2월에 유구에게 수행한 打角夫(타각부) 金乙珍(김을진) 押物(압물) 高仁伯(고인백) 등이, 명정 禮部(예부)의 咨文(자문)을 暨來(기내)하였다. 주석37▶그 文中(문중)에는 「洪武二十九年正朝表箋文內, 輕薄戯侮, 又生一釁, 是欲構兵不靖, 若以言辭侮慢, 興師問罪, 尙未可也, ……今所以不即興師者, 爲此令李諱, 知釁端之所以, 將撰文者至使者方歸缺」[a 37]이라고 있어, 유구는 억류하고, 그 箋文(전문) 記草(기초)의 책임자 逮送(체송)을 구한 것이다. 여기 대하여 정부는 동 계묘에 대장군 郭海隆(곽해륭)을 보내서 표전의 文辭(문사)를 陳謝(진사)하게 하고, 표문 찬자 成均大司成(성균대사성) 鄭擢(정탁)은 풍질로 難起(난기)하므로, 주석38▶賀東宮箋文(하동궁전문)의 찬자 中樞院學士(중추원학사) (찬문 시에는 判典校事(판전교사)) 金若恒(김약항)을 管送(관송)하였다.[a 38] 명의 태도는 더욱 강경하여 가서, 주석39▶동 3월 병술에 計禀使(계품사) 鄭摠(정총) 일행의 隨人(수인)이 귀국하였을 때의 명정 예부 자문 중에는 인신과 誥命(고명)을 청한 文中(문중)에 紂(주)를 인용한 점이 실례라 하여, 撰寫(찬사) 교정한 자의 執送(집송)을 명하고 사자의 억류를 통고하게 되었다.[a 39] 또 동 4월 을미에 명에 被留(피류)하는 하정사 유구 일행의 朴光春(박광춘)이 귀국하여 전한 예부 자문에는, 주석40▶京師(경사)에 拘留(구류)한 進表使者(진표사자)의 家小(가소)를 送來(송래)하여 각관 제 아문에 隸屬(예속)하지 않으면 사자를 金密衛(금밀위, 금 雲南省(운남성) 永昌(영창))에 流(유)하겠다고 하였다.[a 40] 주석41▶6월 정유에 명사 牛牛(우우), 王艘(왕소) 등이 가지고 온 예부 자문에는 撰表人(찬표인) 정도전, 정탁, 하정사 유구 등의 家小(가소) 管送(관송)을 명하여 왓다.[a 41] 찬표자라고 도전의 이름이 이때 비로소 나게 된 것이나, 도전의 이 전문 집필에 대한 책임은 후에 명정에 변명한 정부의 奏文(주문)에 의한즉, 찬표는 물론, 改抹(개말)교정한 일도 없다 하니, 이 명정의 혐의는 도전에게는 寃罪(원죄)라 하는 것이 타당할 듯하다. 그러면 명정에서 어째서 도전을 지명하게 되었나 하면, 필자의 억측으로는, 주석42▶명사에 「帝以表文語慢, 詰責之, 拘言表文乃門下評理鄭道傳所撰, 遂命逮道傳」[a 42]이라고 있는 바와 같이 유구의 입에서 나온 말을 신용한 것이 아닌가 한다. 주석43▶유구가 고의로 이런 誣吿(무고)를 하였던지 또는 당시 조선 정부 내부에 있어 문물제도의 撰進(찬진)에 도전의 관여가 막대함을 보고 이 표문도 도전의 손에서 나온 것이라 무심히 고한 것인지[a 43] 확신할 수 없다. 주석44▶그러나 후일 (태조 6년 7월 병진) 楊添植(양첨식)의 옥사의 내용을 보면, 「楊添植, 與明使楊帖木兒牛牛宇, 屛人密語, 勸使臣率鄭道傳, 以歸」[a 44]라고 하여, 도전의 관송 실현을 희망하는 분자가 조선 내부에 있었던 것을 보면, 구가 만약 도전 반대파와 무슨 관계가 있었다면, 혹 고의에서 나온 무고라고 할지 모르겠다. 그러나 지금은 구에 관한 정도로서는 그런 혐의를 둘 수 없다. 동년 7월 계해에 參賛門下府事(참찬문하부사) 남은이 撰箋者(찬전자)와 유구 등의 家小(가소) 發遣(발견)을 중지하기를 청한 것을 보면, 당시의 조정 내 공기가 부득기 家小逮送(가소체송)을 계획하였던 것을 추측할 수 있다. 남은의 이 반대 운동을 단지 도전 체송을 요구함에 대한 반대라고만 보기 보다는, 명정의 무리 불도한 囈迫(예박)에 대한 奮激(분격)의 반항이라고 하는 것이 당연하며, 이 후로 도전, 남은, 심효생 등 무력주의자들의 대명 적극 반항 행동이 일어나게 된 것을 보아도 이 간의 소식을 추측할 수 있다. 이것을 도전 개인의 생명보존운동이라고 보기에는 너무 불합리한 점이 많으며, 또 너무도 협애한 견해라 할 것이다.
쪽수▶P32-2원문주36▶問題의 起源은 太祖 五年에 明廷에 보낸 賀正使 柳瑜 (明史에는 询)의 가지고 간 表箋에 있으니,[36] 同 二月에 柳琬에게 隨行한 打角夫 金乙珍 押物 高仁伯 等이, 明廷 禮部의 咨文을 暨來하였다. 원문주37▶그 文中에는 「洪武二十九年正朝表箋文內, 輕薄戯侮, 又生一釁, 是欲構兵不靖, 若以言辭侮慢, 興師問罪, 尙未可也, ……今所以不即興師者, 爲此令李諱, 知釁端之所以, 將撰文者至使者方歸缺」[37]이라고 있어, 柳殉는 抑留하고, 그 箋文 記草의 責任者 逮送올 求한 것이다.원문주38▶ 여긔 對하야 政府는 同 癸卯에 大將軍 郭海隆을 보내서 表箋의 文辭를 陳謝하게 하고, 表文 撰者成均大司成 鄭擢은 風疾로 難起하므로, 賀東宮箋文의 撰者 中樞院學士 (撰文時에는 判典校事) 金若恒을 管送하였다.[38] 明의 態度는 더욱 强硬하여 가서, 同 三月 丙戍에 計禀使 鄭撼 一行의 隨人이 歸國하였을 때의 明廷 禮部 咨文 中에는 印信과 誥命을 請한 文中에 紂를 引用한 點이 失禮라 하야, 원문주39▶撰寫 校正한 者의 執送을 命하고 使者의 抑留를 通告하게 되었다.[39] 또 同 四月 乙未에 明에 被宙하는 賀正使 柳狗 一行의 朴光春이 歸國하야 傳한 禮部 咨文▶P33에는, 원문주40▶京師에 拘留한 進表使者의 家小를 送來하야 各官 諸衙門에 隸屬하지 않으면 使者를 金密衛 (今 雲南有 永昌)에 流하겟다고 하였다.[40] 六月 丁酉에 明使 牛牛,원문주41▶ 王艘 等이 가지고 온 禮部 咨文에는 撰表人 鄭道傳, 鄭擢, 賀正使 柳瑜 等의 家小管送을 命하여 왓다.[41] 撰表者라고 道傳의 이름이 이때 비로소 나게 된 것이나, 道傳의 이 箋文 執筆에 對한 責任은 後에 明廷에 辯明한 政府의 奏文에 依한즉, 撰表는 勿論, 改抹校正한 일도 없다 하니, 이 明廷의 嫌疑는 道傳에게는 寃罪라 하는 것이 妥當할 듯하다. 그러면 明廷에서 엇재서 道傳을 指名하게 되었나 하면, 筆者의 臆測으로는, 원문주42▶明史에 「帝以表文語慢, 詰責之, 拘言表文乃門下評理鄭道傳所撰, 遂命逮道傳」[42]이라고 있는 바와 같이 柳国의 입에서 나온 말을 信用한 것이 아닌가 한다. 원문주43▶柳匍가 故意로 이런 誣吿를 하였든지 또는 當時 朝鮮 政府 內部에 있서 文物制度의 撰進에 道傳의 關與가 莫大함을 보고 이 表文도 道傳의 손에서 나온 것이라 無心히 吿한 것인지[43] 確信할 수 없다. 원문주44▶그러나 後日 (太祖 六年 七月 丙辰) 楊添植의 獄事의 內容을 보면, 「楊添植, 與明使楊帖木兒牛牛宇, 屛人密語, 勸使臣率鄭道傳, 以歸」[44]라고 하야, 道傳의 管送 後現을 希望하는 分子가 朝鮮 內部에 있었든 것을 보면, 術가 萬若 道傳 反對派와 무슨 關係가 있었다면, 或 故意에서 나온 誣吿라고 할지 모르겠다. 그러나 지금은 殉에 關한 程度로서는 그런 嫌疑를 둘 수 없다. 同年 七月 癸亥에 參賛門下府事 南誾이 撰箋者와 柳琬等의 家小發遣을 中止하기를 請한 것을 보면, 當時의 朝廷 內 空氣가 不得己 家小逮送을 計劃하였던 것을 推測할 수 있다. 南誾의 이 反對連動을 單只 道傳 逮送을 要求함에 對한 反對라고만 보기 보담은, 明廷의 無理 不道한 囈迫에 對한 奮激의反抗이라고 하는 것이 當然하며, 이 後로 道傳, 南誾, 沈孝生 等 武力主義者들의 對明積極反抗 行勵이 일어나게 된 것을 보아도 此間의 消息을 推測할 수 있다. 이것을 道傳 個人의 生命保存運動이라고 보기에▶P34-1는 너무 不合理한 點이 많으며, 또 너무도 狹隘한 見解라 할 것이다.
전자 6월 정유에 온 明使(명사) 우우 일행 중의 宋学羅(송자라)가 7월 갑술에 歸明(귀명)할 때, 주석45▶判司譯院事(판사역원사) 李乙修(이을수)를 管押使(관압사)로하여 撰表箋人藝文春秋舘學士(찬표전인예문춘추관학사) 권근, 右承旨(우승지) 정탁, 啓禀校正者(계품교정자)인 敬興府舍人(경흥부사인) 盧仁度(노인도)를 관송하였다.[a 45] 도전이 만약 찬문하였다면, 도전만이 이 일행에 빠질 이유가 만무하며, 또 조정의 물의와 공론이 이것을 就過(취과)할 리가 없을 것이거늘, 이런 證迹(증적)이 하나도 없을 뿐 아니라, 주석46▶도리어 태종실록 중의 하륜전에 「丙子, 高皇帝, 以箋文不謹, 徵我主文者鄭道傳, 入朝, 太祖密訪廷臣, 廷臣遣否, 皆顧望以爲不必遣, 崙獨言遣之便」이라고 있어,[a 46] 당시의 朝議(조의)의 所歸(소귀)를 可知(가지)할 것이다. 이 형세를 반드시 조신들이 정도전의 成勢(성세)에 겁나서 그렇다고 하는 것은 후세 방원 일파의 곡해라 할 것이다. 주석47▶더욱 이때 이 일행과 동행한 啓禀使(계품사) 하륜(한성부사)이 携去(휴거)한 奏文(전문) 중에 「前者進正旦衆, 箋文內輕薄戲侮着, 將撰文者發來, 止送撰箋者, 至其撰表人鄭道傳鄭擢, 至今不見送到, 今再差牛牛等, 其鄭道傳旣於鄭擢所撰表文,不曾改抹校正,事無干連, 又緣本人患敲脹脚氣病證不能起送, 所據柳爾等各項使臣, ……未蒙放還……今, 撰文人鄭擢, 金若恒等, 旣己欽依赴京, 更候明降, 伏望聚慈寬宥, 以慰國人之望」[a 47]이라고 한 것을 참작하면, 전문의 직접 책임자는 정탁과 金若恒(김약항)이라는 것이 가장 명백하다. 그리고 이 奏文(주문) 중에 전자의 사신 등의 家小管送(가소관송)을 면하기를 청한 것을 보면 前揭(전게) 하륜전 중의 당시 조신의 태도와 합하여, 남은 일파의 강경론이 다소간 세력을 얻었던 것을 알겠다, 그러나 명정의 觸怒(촉로)를 憶㤼(억겁)하는 정부는 동 11월 甲戍(갑술)에 정탁, 권근, 김약행, 노인도 등의 가소를 관송하게 되었다.
쪽수▶P34-2원문주45▶前者 六月 丁酉에 온 明使牛牛 一行 中의 宋学羅가 七月 甲戍에 歸明할 때, 判司譯院事 李乙修를 管押使로하야 撰表箋人藝文春秋舘學士 權近, 右承旨 鄭擢, 啓禀校正者인 敬興府舍人 盧仁度를 管送하였다.[45] 道傳이 萬若 撰文하엿다면, 道傳만이 이 一行에 빠질 理由가 萬無하며, 또 朝廷의 物議와 公論이 이것을 就過할 理가 없을 것이어늘, 이런 證迹이 하나도 없을 뿐 안이라, 원문주46▶도로혀 太宗實錄 中의 河崙傳에 「丙子, 高皇帝, 以箋文不謹, 徵我主文者鄭道傳, 入朝, 太祖密訪廷臣, 廷臣遣否, 皆顧望以爲不必遣, 崙獨言遣之便」이라고 있어,[46]當時의 朝議의 所歸를 可知할 것이다. 이 形勢를 반드시 朝臣들이 鄭道傳의 成勢에 㤼나서 그렇다고 하는 것은 後世 芳遠 一派의 曲解라 할 것이다. 원문주47▶더욱 이때 이 一行과 同行한 啓禀使 河崙(漢城府使)이 携去한 奏文 中에 「前者進正旦衆, 箋文內輕薄戲侮着, 將撰文者發來, 止送撰箋者, 至其撰表人鄭道傳鄭擢, 至今不見送到, 今再差牛牛等, 其鄭道傳旣於鄭擢所撰表文,不曾改抹校正,事無干連, 又緣本人患敲脹脚氣病證不能起送, 所據柳爾等各項使臣, ……未蒙放還……今, 撰文人鄭擢, 金若恒等, 旣己欽依赴京, 更候明降, 伏望聚慈寬宥, 以慰國人之望」[47]이라고 한 것을 參酌하면, 箋文의 直接責任者는 鄭擢과 金若恒이라는 것이 가장 明白하다. 그리고 이 奏文 中에 前者의 使臣 等의 家小管送을 免하기를 請한 것을 보면 前揭 河崙傳 中의 當時 朝臣의 態度와 合하야, 南誾 一派의 强硬論이 多少間 勢力을 얻었던 것을 알겟다, 그러나 明廷의 觸怒笹 憶慨하는 政府는 同 十一月 甲戍에 鄭拋, 權近, 金若恒, 盧仁度 等의 家小틀 管送하게 되었다.
그 직후 동월 무오에는 하륜과 정탁이 명에서 귀국하고, 주석48▶그 때에 가지고 온 예부 자문 중에는 다시 戲侮(희모)를 作(작)하기를 염려하여 표전 찬자를 留置(유치)하고 微職(미직)을 주겠다 하며,[a 48] 동 경신에는 謝恩進表使(사은진표사) 權仲和(권중화), 進箋使(진전사) 具成老(구성로) 및 被留(피류)의 사신 유구와 鄭臣義(정신의)도 귀국하여, 이 문제에 일단락을 지운 것 같이 보였다. 이러한 명정의 태도 완화는 하륜과 권근의 명정에 대한 敷奏(부주) 詳明(상명)이 성공하였다 한다, 표전 찬자라고 도전과 並呼(병호)하던 정탁(기실은 탁만이 책임자) 이 被許歸國(피허귀국)한 것을 보면, 이 때에 이 문제는 일차 해결하였다고 보아도 좋을 것 같다, 물론 표전 찬자를 유치한다는 말은 있으나 이것은 김약항을 가르친 것이며, 정총은 피류하였으나 표전 찬자라고 볼 수 없는 것이 자명하다.
쪽수▶P34-3원문주48▶ 그 直後 同月 戊午에는 河崙과 鄭擢이 明에서 歸國하고, 그 時에 가지고온 禮部 咨文 中에는 다시 戲侮를 作하기를 念慮하야 表箋 撰者룔 留置하고 微職을 주겟다 하며,[48]同 庚申에는 謝恩進表使 權仲和, 進箋使 具成老 及 被▶P35-1留의 使臣柳瑜와 鄭臣義도 歸國하야, 이 問題에 一段落을 지운 것 같이 보였다. 이러한 明廷의 態度 緩和는 河崙과 權近의 明廷에 對한 敷奏 詳明이 成功하였다 한다, 表箋 撰者라고 道傳과 並呼하던 鄭擢(其實은 擢만이 責任者) 이 被許歸國한 것을 보면, 이때에 이 問題는 一次 解決하였다고 보아도 좋을 것 같다, 勿論 表箋 撰者를 留置한다는 말은 있으나 이것은 金若恒을 가르친 것이며, 鄭摠은 被留하였으나 表箋撰者라고 볼 수 없는 것이 自明하다.
그러나 이상한 것은 이 직후 명사 우우와 偕行(해행)한 양첨식과 (동월 갑술 발), 사은사로 造明(조명)한 偰長壽(설장수) 辛有賢(신유현, 동 정축 발) 등이, 익 6년 4월에 귀국하였을 때 도전의 문제는 부활되어서 明帝(명제)가 도전을 질책함이 심하였다, 주석49▶곧 그 때 자문 중에 「開阈承家, 小人仞用, 朝鮮新造 所用之人, 見在表鬼 此非三韓生靈之福, 乃三韓之禍首也, ……今朝鮮國王李瘴所用文人鄭道傳者, 於王之助何爲也, 王若一小悟, 人心禍源环, 令就, 据, 盧仁废, 金若恒若在朝鲜, 必鄭道傳之羽翼, 即因各人己招禍及其身矣, 王其審之, 若不精審,國棉又將登假手於人」[a 49]라고 있어 관송하라는 말은 없으나 도전을 小人(소인)이라 하며 禍首(화수)라 하니. 이것은 明帝(명제)가 도전의 최초 入朝(입조)하지 않음을 怒(노)한 것인지, 또는 명정에 가서 도전을 중상한 인물이 있었던 때문인지, 인용한 文意(문의)와 권근의 귀국을 허한 것을 보면, 표전 문제는 해결되었다 할 것이며. 더욱 만약 도전이 전문에 관계있는 것을 여전히 명정에서 믿었더라면 관송을 默許(묵허)할 도리가 만무하겠다. 이것은 당시 명정의 고압적 태도와 세세한 문제를 일일히 문책하는 방침으로 보아서도. 추측할 수 있다. 이러한 의문을 가지고 보면, 주석50▶상기 사은사가 귀국한 3일 후의 임인에 憲司(헌사)가 楊天植(양천식)을 切(절)하고, 또 설장수와 권근을 劾(핵)한 것이 유의하게 보인다.[a 50] 기록에는 당시의 소문을 볼 수 없으니 내용을 知悉(지실)하지 못하겠으나 권근에게 관한 점은 「瓶辱皆不得還, 獨近賞金遣之, 果如臣料, 請鞫之」라 하되, 이 상금 문제는 태조실록에 왕이 하사한 것이라 하니 이곳에는, 별로 이 문제로 할 것 없다고 불문하기로 하고 타 양인에게 대하여는 「天植, 長壽, 亦道傳 所忌也, 翻以入上國有所言也」라 한 것을 보면, 상기 의문이 명정에 도전을 중상한 혐의가 이 양인에게 있었다는 것을 可知(가지)하겠다. 실록 중의 기사로는 도전파가 이 양인을 무고하였다는 주지나, 사실을 탐사하면 이 양인의 태도에도 의심할 점이 있다 하기 보다도, 憲司(헌사)의 탄핵이 도리어 적당하다고 보이는 점이 많을 것 같다. 양천식이란 여하한 인물인지 자세한 閱歷(열력)을 지금 명백히 할 수 없으나, 처음에 5년 6월 정유에 도전, 탁, 유구 등의 家小管送(가소관송)을 명한 명사 우우는 通事(통사) 양첨식 (천식과 동인이라고 믿는다, 고증은 략)의 從人(종인) 金長(김장)이 인도하여 왔다하며, 주석51▶이때 첨식이 「與明使楊帖木兒牛牛等, 屛人密語, 勸使臣, 率鄭道傳以歸, 且賂曹恂以匹帛奴婢, 謀免其罪」[a 51]의 죄가 있었다 하여, 후일 태조 6년 7월에 「籍沒家產, 徙諸海上, 終身不齒」하게 된 것을 보면, 주석52▶5년 11월에 명사 우우 등이 귀국할 때 戶曹典書(호조전서)로 동행한 첨식이가[a 52] 일차 해결된 것 같은 문제를 다시 어렵게 하여서 가지고 온 것을 보아 명정에 가서 도전을 중상하였다 하는 혐의가 당연히 일어날 것이다. 또 설장수에 관하여는 확증을 얻을 수 없으나 4월 이해에 前記(전기) 도전에 관한 예부 자문을 봉한 후, 주석53▶명제의 宣諭(선유)를 전하여 「二月 初二日 帝御右順門, 引見長壽等, 李某沒分暁, 鄭道傳用他做甚麽」[a 53] 운운하였다 하니, 장수가 명정에 도전을 중상하였다는 證迹(증적)을 볼 수는 없으나 명제와 도전에게 관한 말을 교환한 것은 사실이며, 귀국 후에 그것을 왕에게 전한것도 사실이다. 그뿐 아니라 그 내용이 정에게 불리하였던 것도 亦(역) 주위의 상태로 보아 추측할 수가 있다. 이 양인이 何故(하고)로 도전을 명정에 중상하였는가 하는 점에 대하여는 탐사할 수단이 없으니, 장수는 명제의 의중을 忖度(촌탁)하여 그것을 맞기에 노력할 뿐이었다고 호의로 볼 수도 있으나, 양천식의 전자의 적극적 태도는 이만으로 간과할 수 없으니, 천식이 혹 도전 반대파의 이용함이 되었든지 또는 자신이 무슨 含怨(함원)할 이유가 있었든지 이 양자에 벗어나지 않을 것이다. 좌우간 이러한 문제보단 중심인 도전의 명정에 대한 獲罪(획죄)라 함은 결국 그 무리한 관송을 좇지 않은 것이며, 이것은 자기 일신만에 대한 것이 아니다. 다른 직접 책임자의 관송에도 불찬성하였으며, 더욱 그 가소의 관송에는 절대로 반대한 것이다. 이것은 명정의 이유없는 압박에 대한 반항이니, 방원 일파가 이것을 如何(여하)히 「罪」라고 하더라도, 이 점에 있어서는 도전 일파로 보면, 굴욕을 감수하면서 「無罪」를 期望(기망)하지 않겠다 할 것이다. 곧 도전 등은 이러한 명정의 고압적 태도에는 일시 굴복하더라도 저지함이 없이 去去益甚(거거익심)할 것을 믿고, 명정에 대한 실력 항쟁을 결의한 것이다, 병정 개혁에 瘁心(췌심)하던 도전 등의 병력 충실 운동이 이 전후로부터 더욱 일시에 활기를 呈(정)하게 된 것은 이런 강고한 결의가 心底(심저)에 잠재한 까닭이라고 한다,
쪽수▶P35-2그러나 異常한 것은 이 直後 明使 牛牛와 偕行한 楊添植과 (同月 甲戍發), 謝恩使로 造明한 偿長壽 辛有賢(同 丁丑 發) 等이, 翌 六年 四月에 歸國하였을 때 道傳의 問題는 復活되어서 明帝가 道傳을 叱責함이 甚하였다, 원문주49▶곧 其時 咨文 中에 「開阈承家, 小人仞用, 朝鮮新造 所用之人, 見在表鬼 此非三韓生靈之福, 乃三韓之禍首也, ……今朝鮮國王李瘴所用文人鄭道傳者, 於王之助何爲也, 王若一小悟, 人心禍源环, 令就, 据, 盧仁废, 金若恒若在朝鲜, 必鄭道傳之羽翼, 即因各人己招禍及其身矣, 王其審之, 若不精審,國棉又將登假手於人」[49]라고 있어管送하라는 말은 없으나 道傳을 小人이라 하며 禍首라 하니. 이것은 明帝가 道傳의 最初 入朝하지 않음을 怒한 것인지, 또는 明廷에 가서 道傳을 中傷한 人物이 있었던 때문인지, 引用한 文意와 權近의 師國을 許한 것을 보면, 草箋 問題는 解洗되었다 할것이며. 더욱 萬若 道傳이 箋文에 關係있는 것을 如前히 明廷에서 믿었드라면 管送을 默許할 道理가 萬無하겠다. 이것은 常特 明廷의 高壓的 態度와 細細한 問題를 一一이 問責하는 方針으로 보아서도. 推測할 수 있다. 이러한 疑間을 가지고 보면, 上記 謝恩使가 歸國한 三日後의 壬寅에 憲司가 楊天植을 切하고, 또 偰長壽와 權近을 劾한 것이 有意하게 보인다.원문주50▶[50] 記錄에는 當時의 疏文을 볼 수 없으니 内容을 知悉하지 못하겟으나 權近에게 關한 点은 「瓶辱皆不得還, 獨近賞金遣之, 果如臣料, 請鞫之」라 하되, 이 賞金問題는 太祖實錄에 王이 下▶P36賜한 것이라 하니 이곳에는, 別로 이 問題로 할 것 없다고 不問하기로 하고 他 兩人에게 對하여는 「天植, 長壽, 亦道傳 所忌也, 翻以入上國有所言也」라 한 것을 보면, 上記 疑問이 明廷에 道傳을 中傷한 嫌疑가 이 兩人에게 있었다는 것을 可知하겠다. 實錄 中의 記事로는 道傳派가 이 兩人을 誣吿하였다는 主旨나, 事實을 探査하면 이 兩人의 態度에도 疑心할 點이 있다 하기 보담도, 憲司의 彈劾이 도리어 適當하다고 보이는 點이 많을 것 같다. 揚天植이란 如何한 人物인지 些細한 閱歷을 지금 明白히 할 수 없으나, 처음에 五年 六月 丁酉에 道傳, 擢, 柳瑜 等의 家小管送을 命한 明使 牛牛는 通事 楊添植 (天植과 同人이라고 믿는다, 考證은 畧)의 從人 金長이 引導하야 왓다하며, 원문주51▶이때 添靠이 「與明使楊帖木兒牛牛等, 屛人密語, 勸使臣, 率鄭道傳以歸, 且賂曹恂以匹帛奴婢, 謀免其罪」[51] 의 罪가 있었다 하야, 後日 太祖 六年 七月에 「籍沒家產, 徙諸海上, 終身不齒」하게 된 것을 보면, 원문주52▶五年 十一月에 明使 牛牛 等이 歸國할 때 戶曹典書로 同行한 添植이가[52] 一次 解決된 것 같은 問題를 다시 어렵게 하여서 가지고 온 것을 보아 明廷에 가서 道傳을 中傷하였다 하는 嫌疑가 當然히 일어날 것이다. 또 偰長壽에 關하야는 確證을 얻을 수 없으나 四月 已亥에 前記 道傳에 關한 禮部 咨文을 奉한 後, 원문주53▶明帝의 宣諭를 傳하야 「二月 初二日 帝御右順門, 引見長壽等, 李某沒分暁, 鄭道傳用他做甚麽」[53] 云云하였다하니, 長壽가 明廷에 道傳을 中傷하였다는 證迹을 볼 수는 없으나 明帝와 道傳에게 關한 말을 交換한것은 事實이며, 歸國 後에 그것을 王에게 傳한것도 事實이다. 그뿐 아니라 그 內容이 鄭에게 不利하였던 것도 亦 周圍의 狀態로 보아 推測할 수가 있다. 이 兩人이 何故로 道傳을 明廷에 中傷하였는가 하는 黠에 對하여는 探査할 手段이 없으니, 長壽는 明帝의 意中을 忖度하야 그것을 맞기에 努力할 뿐이엿다고 好意로 볼 수도 있으나, 楊天植의 前者의 積極的 態度는 이만으로 看過할 수 없으니, 天植이 或 道傳 反對派의▶P37-1利用함이 되었든지 또는 自身이 무슨 含怨할 理由가 있었든지 이 兩者에 벗어나지 않을 것이다. 左右間 이러한 問題 보담 中心인 道傳의 明廷에 對한 獲罪라 함은 結局 그 無理한 管送을 좇지 않은 것이며, 이것은 自己 一身만에 對한 것이 아니다. 다른 直接 責任者의 管送에도 不賛成하였으며, 더욱 그 家小의 管送에는 絕對로 反對한 것이다. 이것은 明廷의 理由없는 壓迫에 對한 反抗이니, 芳遠 一派가 이것을 如何히 「罪」라고 하드라도, 이 點에 있어서는 道傳 一派로 보면, 屈辱을 甘受하면서 「無罪」를 期望하지 않겠다 할 것이다. 곧 道傳 等은 이러한 明廷의 高壓的 態度에는 一時 屈服하드라도 底止함이 없이 去去益甚할 것을 믿고, 明廷에 對한 實力抗爭을 決意한 것이다, 兵政 改革에 瘁心하던 道傳 等의 兵力 充實 遞動이 이 前後로부터 더욱 一時에 活氣를 呈하게 된 것은 이런 强固한 決意가 心底에 潜在한 까닭이라고 한다,
주석54▶태조 6년 6월 갑오에 判義興府使(판의흥부사) 정도전이 五陳圖(오진도)와 蒐狩圖(수수도)를 찬진하였으므로, 왕이 명하여 訓導官(훈도관)을 두어서 敎導(교도)하게 하고, 각 절제사, 군관, 西班各品(서반각품), 成衆愛馬(성중애마)에게 진도를 강습시키고 通曉(통효)한 자를 각도에 分遣敎之(분견교지) 하였다는 기록 중에 「時, 鄭道傳, 南誾, 沈孝生等, 謀興兵出境, 獻議於 上, 抵左政承趙浚之第諭之, 浚方疾病, 乃以與進闕 極言不可曰, 本國自古不失事大之禮, 且以新造之邦, 輕擧無名之丘八, 甚爲不可, 雖以利害壽之, 天朝堂堂, 無釁可圖 臣恐擧事不集, 而變生不虞也, 上聞之悅, 闍憤然曰, 政丞於出納斗升之事, 則可矣, 不可與圖大事也, 由是, 関等與浚有隙」[a 54]이라고 있는 것을 보면, 도전 등이 출병 討遼(토요)할 구체적 복안까지 가졌던 것이 명백하며, 이 문제를 중심으로 하여 무력적 적극침략주의의 정 일파와 문치적 소극적 평화주의의 조준이, 내부에서 암암 간에 상쟁하였던 것을 可知(가지)하겠다. 다못 태조가 조준의 自重主義(자중주의)에 찬성하는 태도가, 정 남 일파의 격렬한 운동을 일시 눌렀을 뿐이다.
쪽수▶P37-2太祖 六年 六月 甲午에 判義興府使 鄭道傳이 五陳圖와 蒐狩圖를 撰進하였으므로, 王이 命하야 訓導官을 두어서 敎導하게 하고, 원문주54▶各節制使, 軍官, 西班各品, 成衆愛馬에게 陳圖를 講習시키고 通曉한 者률 各道에 分遣敎之 하였다는 記錄 中에 「時, 鄭道傳, 南誾, 沈孝生等, 謀興兵出境, 獻議於 上, 抵左政承趙浚之第諭之, 浚方疾病, 乃以與進闕 極言不可曰, 本國自古不失事大之禮, 且以新造之邦, 輕擧無名之丘八, 甚爲不可, 雖以利害壽之, 天朝堂堂, 無釁可圖 臣恐擧事不集, 而變生不虞也, 上聞之悅, 闍憤然曰, 政丞於出納斗升之事, 則可矣, 不可與圖大事也, 由是, 関等與浚有隙」 [54] 이라고 있는 것을 보면, 道傳 等이 出兵 討遼할 具體的 腹案까지 가졌던 것이 明白하며, 이 問題를 中心으로 하야 武力的 積極侵畧主義의 鄭 一派와 文治的 消極的 平和主義의 趙浚이, 內部에서 暗暗 間에 相爭하였던 것을 可知하겠다. 다못 太祖가 趙浚의 自重主義에 賛成하는 態度가, 鄭 南 一派의 激烈한 逃動을 一時 눌렀을 뿐이다.
이후에도 정, 남 등은 이 대망을 버리지 않고, 군량의 충실과 병력의 조련에는 특별한 주의를 가하였다. 주석55▶그러나 동 6년 12월 도전이 東北面宣撫察使(동북면선무찰사)로 임명되어 離京(이경)하였으므로,[a 55] 주석56▶그 귀경한 익 7년 3월까지의 사이에는[a 56] 이 운동의 형세를 알 수 없으나, 그 귀경 賜宴席(사연석) 상에서, 주석57▶남은이 절제사를 관군에 합하자는 「私兵」 혁파의 상언을 통론한 것을 보면,[a 57] 이 운동이 亦(역) 대명 준비의 하나임을 추측할 수 있다, 그러나 명정의 此種(차종) 廳迫(청박)은 이 전후로도 조금 감하지 않고 난제가 빈발하여, 이들 강경파를 더욱 선동하고 있었다. 곧 도전의 東西面(동서면) 출발 전의 11월 계해에는 賀聖節使(하성절사) 鄭允輔(정윤보)가 명으로 귀국하여, 주석58▶명에 억류된 정탁, 김약항, 노인도 등의 피살을 보고하였으며,[a 58] 12월 병신에는 千秋使(천추사) 柳灝(유호) 打角夫(타각부) 崔浩(최호)가 명으로 귀국하여, 주석59▶명 禮部尙書(예부상서) 鄭沂(정기)의 書(서)를 전하여 啓本(계본)의 用(용)자가 譏訓(기훈)에 涉(섭)하므로 그 사신을 拘(구)하고 撰寫人(찬사인)을 관송하라고 하였으며,[a 59] 주석60▶이에 대하여 정부는 도전 출발 후 동월 병오에 通事(통사) 郭海龍(곽해룡)을 보내서 陳謝(진사)하게 하고, 또 寫啓本人(계사본인) 禮曹典書(예조전서) 曹庶(조서)를 관송하였다.[a 60] 다음 7년 2월에는 하정사 趙胖(조반) 등이 登州(등주)까지 갔다가 齊王(제왕, 명 태조 제7자)의 阻止(조지)를 받아 無爲歸國(무위귀국)하고, 도전 귀경한 후 5월 경신에는, 上記(상기)의 被留人(피류인) 曹庶(조서)의 從人(종인) 崔祿(최록)이 귀국하여, 명 禮部侍郞(예부시랑) 張炳(장병)의 書(서)와 서 및 곽해룡의 招狀(초장)을 가지고 와서, 주석61▶千秋節(천추절)의 계본에 譏侮(기모)의 자가 있음을 책하고, 서와 같이 撰文(찬문)한 전 禮曹正郞(예조정랑) 尹珪(윤규) 成均司成(성균사성) 孔俯(공부) 禮曹正郞(예조정랑) 尹須(윤수)의 관송을 요구하여 왔다.[a 61] 동 임술에 왕은 백관 기로를 모아 공부 등 3인의 送明(송명) 여부를 議(의)하였으나 决(결)치 않고, 西原君(서원군) 韓尙敬(한상경) 등 십수인이 그 불가를 논하였으나, 대다수는 관송의 부득기함을 말할 뿐이요 왕은 左政丞(좌정승) 조준과 의논하였으나 猶豫不決(유예부결)하였다. 이에 대하여 윤5월 무인에 右散騎常侍(우산기상시) 변중량 등이 상소하여 이들 3인의 發遣(발견) 불가를 통론하고, 「留此三人, 具狀辯明其寃, 队科小對匕警被留鄭萼金若恒, 宋希靖, 吳珍, 楊遇, 盧仁度, 吳世謙, 權乙松, 柳瀬, 鄭安止, 曹庶, 郭海龍等家, 時加存問, 優養其父母妻子, 以示仁愛」할 것을 청하였다. 주석62▶왕이 이 상소를 都評議使司(도평의사사)에게 擬議(의의)시킨 결과는, 다 發遣(발견) 觀變(관변)하자 함에 있었다 한다.[a 62] 이것을 보아도 아는 바와 같이 당시 왕과 조신이 상하 일치하여 명정의 태도에 憤激困却(분격곤각)을 하였으나, 대부분의 의견은 소극적 굴복이 결국 득책이라 하는 것이며, 급격파는 적극적 항쟁을 주장한 것이다. 변중량 등은 自强之勢(자강지세)를 보이면, 명정이라도 조금 염려하여 이 같은 모욕을 하지는 않을 것이라 하는 것이나, 정, 남, 심 등은 자진하여 공격하자는 것이었으니, 더 일층 적극적이라고 하겠다. 그러므로, 이러한 기분이 반영되어 군병 강습은 맹렬의 도를 가하여가서, 윤5월 계묘와 그 익일에 진도를 楊州(양주) 목장에 習(습)하고, 6월 무진에 宦者(환자) 朴英文(박영문)을 전라, 경상도에 보내서 진도강습의 能否(능부)를 점검하고, 7월 기해에 巡軍千戶(순군천호) 金千益(김천익)을 전라, 경상도 名鎭(명진)에 보내서 僉節制使(첨절제사)의 진도에 통하지 못한 자를 답하고, 8월 정미에는 憲司(헌사)가 三軍節制使(삼군절제사), 上大將軍(상대장군) 등 292인을 진도 不習(불습)의 죄로 劾(핵)하고, 동 경술에는 諸道陳圖敎訓者(제도진도교훈자)를 杖(장)하고, 진도에 통한 자 5인을 뽑아 각도에 분견하고, 동 임자에는 절제사 이하 大小員將(대소원장), 진도를 강습하지 않는 자를 책벌 하는 등, 긴장한 훈련이 연속하는 중에, 동 정사에 왕이 不豫(불예)하게 되고, 그 기사에 문제의 돌변이 나게 되었다.
쪽수▶P38원문주55▶이 後에도 鄭南 等은 이 大望을 버리지 않고, 軍糧의 充實과 兵力의 調鍊에는 特別한 注意를 加하였다. 그러나 同 六年 十二月에 道傳이 東北面宣撫察使로 任命되어 離京하였으므로,[55] 원문주56▶그 歸京한 翌 七年 三月까지의 사이에는[56]이 運動의 形勢를 알 수 없으나, 그 歸京 賜宴席上에서, 원문주57▶南誾이 節制使를 官軍에 合하자는 「私兵」 革罷의 上言을 痛論한 것을 보면,[57] 이 運動이 亦 對明準備의 하나임을 推測할 수 있다, 그러나 明廷의 此 種 廳迫은 이 前後로도 조금 減하지 않고 難題가 頻發하야, 此等 强硬派를 더욱 煽動하고 있었다. 원문주58▶곧 道傳의 東西面 出發 前의 十一月 癸亥에는 賀聖節使 鄭允輔가 明으로 歸國하야, 明에 抑留된 鄭擒, 金若恒, 盧仁度 等의 被殺을 報吿하였으며,[58] 十二月 丙申에는 千秋使 柳顒의 打角夫 崔浩가 明으로 歸國하야, 원문주59▶明 禮部尙書 鄭沂의 書를 傳하야 啓本의 用字가 譏訓에 涉하므로 그 使臣을 拘하고 撰寫人을 管送하라고 하였으며,[59] 이에 對하야 政府는 道傳 出發後 同月 丙午에 通事 郭海龍을 보내서 陳謝하게 하고, 원문주60▶또 寫啓本人 禮曹典書 曹庶를 管送하였다.[60] 翌 七年 二月에는 賀正使 趙胖 等이 登州까지 갔다가 齊王 (明 太祖 第七子)의 阻止를 받아 無爲歸國하고, 道傳 歸京한 後 五月 庚申에는, 上耕의 被留人 曹庶의 從人 崔祿이 歸國하야, 明 禮部侍郞 張炳의 書와 庶及 郭海龍의 招狀을 가지고 와서, 千秋節의 啓本에 譏侮의 字가 있음을 責하고,원문주61▶ 庶와 같이 撰文한 前 禮曹正郞 尹珪 成均司成 孔俯 禮曹正郞 尹須의 管送을 要求하여 왔다.[61]同 壬戍에 王은 百官 耆老를모아 孔俯 等 三人의 送明 與否를 議하였으나 决치 않고, 西原君 韓尙 敬等 十數人이 그 不可를 論하였으나, 大多數는 管送의 不得己함을 말할 뿐이요 王은 左政丞 趙浚과 議論하였으나 猶豫不決하였다. 이에 對하야 閏五月 戊寅에 右散騎常侍 卞仲良 等이 上疏하야 此等 三人의 發遣不可를 痛論하고, 「留此三人, 具狀辯明其寃, 队科小對匕警被留鄭萼金若恒, 宋希靖, 吳珍, 楊遇, 盧仁度, 吳世謙, 權乙松, 柳▶P39-1瀬, 鄭安止, 曹庶, 郭海龍等家, 時加存問, 優養其父母妻子, 以示仁愛」할 것을 請하였다. 王이 이 上疏를 都評議使司에게 擬議시킨 結果는, 원문주62▶다 發遣觀變하자 함에 있었다 한다.[62]이것을 보아도 아는 바와 같이 當時 王과 朝臣이 上下 一致하야 明廷의 態度에 憤激困却을 하였으나, 大部分의 意見은 消極的 屈服이 結局 得策이라 하는 것이며, 急激派는 積極的 抗爭을 主張한 것이다. 卞仲良 等은 自强之勢를 보이면, 明廷이라도 조금 念慮하야 이 같은 侮辱을 하지는 않을 것이라 하는 것이나, 鄭, 南, 沈 等은 自進하야 攻擊하자는 것이었으니, 더 一層 積極的이라고 하겠다. 그러므로, 이러한 氣分이 反映되어 軍兵講習은 猛烈의 度를 加하여가서, 閏五月 癸卯와 그 翌日에 陣圖를 楊州 牧場에 習하고, 六月 戊辰에 宦者 朴英文을 全羅, 慶尙道에 보내서 陳圖講習의 能否를 點檢하고, 七月 己亥에 巡軍千戶 金千益을 全羅, 慶尙道 名鎭에 보내서 僉節制使의 陳圖에 通하지 못한 者를 答하고, 八月 丁未에는 憲司가 三軍節制使, 上大將軍等 二百九十二人을 陳圖不習의 罪로 劾하고, 同 庚戍에는 諸道陳圖敎訓者틀 杖하고, 陳圖에 通한 者 五人을 뽑아 各道에 分遣하고, 同 壬子에는 節制使 以下 大小員將, 陳圖를 講習하지 않는 者를 責罰 하는 等, 緊張한 訓鍊이 連續하는 中에, 同 丁巳에 王이 不豫하게 되고, 그 己巳에 問題의 突變이 나게 되었다.
이러한 형세를 추찰하여 보면, 此種(차종) 진도 강습이 전혀 대명 준비인 것을 可知(가지)하겠으며, 주석63▶더욱 「以攻遼故, 使習陳圖 [a 63] ……如此其急」이란 말이 亦(역) 그 진상일듯하다. 주석64▶그러나 이 攻遼(공요) 계획을 「道傳稱疾不赴, 恐將有問罪之擧獻謀於 上以爲軍士不可不知兵法, 上陳圖」[a 64]라든지 주석65▶「(道傳)托疾不行, 乃陰謀, 以爲擧國而絕, 則己可免禍, 遂建言, 訓鍊將士, 軍國急務, 增置陳圖」[a 65]라는 등의 관측은 정확하지 못한 견해라 하겠다. 도전의 箋文(전문)에 대한 책임은 이미 해소하였으며 그 후 설장수 귀국 시에 도전을 질책한 말은 있으나 관송하라든지 벌하라는 말을 볼 수는 없으니, 이 때에 와서 도전이 그 前科(전과)의 문죄받을 것을 염려하여 준비할 필요가 없을 것이며, 더욱 이런 군국 대사를 개인의 생명보전을 위하여 계획하였다 볼 수도 없고, 또 도전의 이러한 사적 이해에 남은, 심효생 등을 위시하여 변계량, 한상경 등까지 혹은 출병을 주장하고 혹은 自强之態(자강지태)를 보이자 할 리가 없다. 이들 강경파의 주장은 역시 국가 백년의 계를 深心(심심)하였던 것이 확실하니, 이것을 도전 1인의 私心(사심) 소출로 운운하는 후세의 短見(단견)과 곡해가 可嘆(가탄)할 만하다. 이러한 결점은 조준에게도 있으니, 주석66▶무인난 직후 趙浚乞辭(조준걸사)의 箋文(전문) 중에 「自道傳得罪於天子, 與南簡結好, 謀攻遼東, 規免一己之禍」[a 66]라는 것이 그 예다. 물론 준은 도전, 남은 등의 공요에 극력 반대한 當者(당자)인즉 조가 도전 등의 계획을 악의로 말함은, 당연할 뿐 아니라, 이 전문이 또 도전 敗歿(패몰)의 직후이므로 그 文辭(문사)가 강하게 된 것도 추측할 수 있으나, 도전 등의 계획이 결코 그 죄를 면하려는 등 소극적의 태도가 아니었던 것은, 주석67▶「……遂建諄, 訓鍊將士, 軍國急務, 增置陳圖 訓導官大小中外官帶武職者, 下至軍卒, 幷令隸習, 考察嚴峻, 深結南誾, 使簡上書曰, 士卒己鍊, 糧餉己備, 可以乘時復東明之舊壤 太上殊不以爲然, 間屢言之, 太上問道傳, 道傳歷論往古外展得王中原者, 深以閭言爲可信」[a 67]의 장대한 포부가 이것을 설명한다. 조준과 도전이 여말로부터 의기 相投(상투)하여 이성계의 兩手(양수)가 되고, 이때까지 운명을 같이하여 왔다가, 말경에 相容(상용)하지 못하게 된 것은 실로 이 공요 운동에 조가 극력 반대한 때문이니, 도전 등의 결심의 강고함을 알 수가 있다. 주석68▶그 간의 소식은 「道傳, 間等詣趙浚第曰 攻遼之擧, 今己定矣, 公勿復有言, 浚答曰 予居 開國元勳之列, 豈有負殿下, 殿下即位之後, 因遷國都創始, 民困土木之役, 未見仁愛之施, 怨咨斯極, 糕餉不給, 安有率其怨民, 而能濟事者哉, 謂道傳曰, 萬一予與閣下, 率諸道之民, 以征其疾視也久矣, 豈肯用命乎, 吾恐身亡國敗, 不及遼而止矣, 病勢方熾, 未能興造, 願諸公, 以臣言復于上, 疾愈, 臣當親啓, 厥後, 浚力諫, 上從之」[a 68]에 볼 수 있으니, 준의 심려와 赤誠(적성)도 알 수가 있으며 또 그 논쟁의 근거도 可知(가지)하다, 이러한 준의 경제적 자중론은 당시 무단파 등의 흥분한 耳朶(이타)에 들어오지 않았으며, 그것이 너무도 비굴적이라 하여 「闇憤然曰, 政丞於出納斗자之事 則可矣, 不可與圖大事也」라고 罵詈(매리)까지 하게 되었다. 주석69▶준이 이 사이의 友恃相曲(우시상곡)를 「臣與道傳南闍, 同功一體, 初無纖毫之隔, 自道傳得罪於天子, 與南誾結好, 謀攻遼東, 規免一己之禍, 臣當是時, 病臥於家, 太上遣二人枉咨於臣力疾作氣, 上謁天門, 奮發愚衷, 得回天意, 邪謀遂阻, 由是, 二人與臣猜隙, 勢不相容, 路人所知」[a 69]라고 후일에 술회하였다. 그리고 이 문제로서 준과 정, 남 등이 서로 지지 않고, 태조를 중심으로 하여 암암의 간에 논쟁함이 月餘(월여)에 지난 것이 亦(역) 태종실록 중의 조준전에 의하여 알 수 있으며, 이 조의 반대와 태조의 趙(조)설 찬성에도 불구하고 정, 남 등은 의연히 공요를 단념하지 않고, 극력 진도를 訓習(훈습)하였던 것은 上揭(상게)한 바와 같은 상태이었으며, 그 別錬(별동)의 엄격함과, 진도에 未通(미통)하거나 강습 태만으로 受罰(수벌)하는 군관이 속출하였음도 상기한 바와 같다, 이 같은 정, 남 등 무단파의 엄격한 태도가 당시 일반의 群怨(군원)을 받게 된 점이 불소하니, 그들의 지위가 亦(역) 후세의 우리 눈으로 보아 자못 危常(위상)한 처지에 있었다고 하겠다 더욱 此種(차종) 강경파가 정도전, 남은, 심효생 등 방석계의 실력파이며, 방석 추대에는 도전과 「同罪」이면서 그 최후의 突禍(돌화)를 면한 조준이 출병 반대 국력 충실의 主必者(주필자)였던 점에 무슨 의미가 있지 않는가, 도전 등의 이러한 大志(대지)로서 나온 초급한 집권 정책이 주단의 군원을 받게 되었다는 점은, 아무리 하여도 인정하지 않을 수 없으니, 이 공요 문제가 亦(역) 무인난의 한 楔子(설자)가 된다고 할 수도 있겠다. 그러나 종래의 所觀(소관)과 같이 이 문제를 단순히 「得罪 高皇帝」라 하여, 그것이 무슨 도전 纖除(섬제)의 구실이나 되는 듯하는 淺薄牛陋(천박우루)한 속설은, 일점의 가치가 없다 할 것이다. (미완)
쪽수▶P39-2이러한 形勢를 推察하여 보면, 此種 陳圖講習이 全혀 對明準備인것을 可知하或으며, 원문주63▶ 더욱「以攻遼故, 使習陳圖 [63]……如此其急」이란 말이 亦 그 眞相일듯하다. 원문주64▶ 그러나 이 攻遼 計劃을 「道傳稱疾不赴, 恐將有問罪之擧獻謀於 上以爲軍士不可不知兵法, 上陳圖」[64]라든지 원문주65▶ 「(道傳)托疾不行, 乃陰謀, 以爲擧國而絕, 則己可免禍, 遂建言, 訓鍊將士, 軍國急務, 增置陳圖」[65]라는 等의 觀測은 正確하지 못한 見解라 하겠다. 道傳의 箋文에 對한 責任은 이미 解消하였으며 그 後 偰長壽 歸國 時에 道傳을 叱責한 말은 있으나 管送하라든지 罰하라는 말을 볼 수는 없으니, 이때에 와서 道傳▶P40이 그 前科의 問罪받을 것을 念慮하야 準備할 必要가 없을 것이며, 더욱 이런 軍國大事를 個人의 生命保全을 爲하야 計劃하였다 볼 수도 없고, 또 道傳의 이러한 私的利害에 南誾, 沈孝生 等을 爲始하야 卞季良, 韓尙敬 等까지 或은 出兵을 主張하고 或은 自强之態를 보이자 할 리가 없다. 此等 强硬派의 主張은 亦是國家 百年의 計를 深心하였던 것이 確實하니, 이것을 道傳 一人의 私心 所出로 云云하는 後世의 短見과 曲解가 可嘆할 만하다. 이러한 缺點은 趙浚에게도 있으니, 원문주66▶ 戊寅難 直後 趙浚乞辭의 箋文 中에 「自道傳得罪於天子, 與南簡結好, 謀攻遼東, 規免一己之禍」[66]라는 것이 그 例다. 勿論 浚은 道傳, 南誾 等의 攻遼에 極力反對한 當者인즉 趙가 道傳 等의 計劃을 惡意로 말함은, 當然할 뿐 아니라, 이 箋文이 또 道傳 敗歿의 直後이므로 그 文辭가 强하게 된 것도 推測할수있으나, 道傳 等의 計劃이 決코 그 罪를 免하려는等 消極的의 態度가 아니었던 것은, 원문주67▶「……遂建諄, 訓鍊將士, 軍國急務, 增置陳圖 訓導官大小中外官帶武職者, 下至軍卒, 幷令隸習, 考察嚴峻, 深結南誾, 使簡上書曰, 士卒己鍊, 糧餉己備, 可以乘時復東明之舊壤 太上殊不以爲然, 間屢言之, 太上問道傳, 道傳歷論往古外展得王中原者, 深以閭言爲可信」[67]의 壯大한 抱負가 이것을 說明한다. 趙浚과 道傳이 麗末로부터 意氣 相投하야 李成桂의 兩手가 되고, 이때까지 運命을 같이하여 왔다가, 末頃에 相容하지 못하게 된 것은 實로 이 攻遼運動에 趙가 極力 反對한 때문이니, 道傳 等의 決心의 强固함을 알 수가 있다. 원문주68▶그 間의 消息은 「道傳, 間等詣趙浚第曰 攻遼之擧, 今己定矣, 公勿復有言, 浚答曰 予居 開國元勳之列, 豈有負殿下, 殿下即位之後, 因遷國都創始, 民困土木之役, 未見仁愛之施, 怨咨斯極, 糕餉不給, 安有率其怨民, 而能濟事者哉, 謂道傳曰, 萬一予與閣下, 率諸道之民, 以征其疾視也久矣, 豈肯用命乎, 吾恐身亡國敗, 不及遼而止矣, 病勢方熾, 未能興造, 願諸公, 以臣言復于上, 疾愈, 臣當親啓, 厥後, 浚力諫, 上從之」[68]에 볼 수▶P41있으니, 浚의 深慮와 赤誠도 알 수가 있으며 또 그 論爭의 根據도 可知하다, 이러한 浚의 經濟的 自重論은 當時 武斷派 等의 興奮한 耳朶에 들어오지 않았으며, 그것이 너무도 卑屈的이라 하야 「闇憤然曰, 政丞於出納斗자之事 則可矣, 不可與圖大事也」라고 罵詈까지 하게 되었다. 원문주69▶浚이 이 사이의 友恃相曲를 「臣與道傳南闍, 同功一體, 初無纖毫之隔, 自道傳得罪於天子, 與南誾結好, 謀攻遼東, 規免一己之禍, 臣當是時, 病臥於家, 太上遣二人枉咨於臣力疾作氣, 上謁天門, 奮發愚衷, 得回天意, 邪謀遂阻, 由是, 二人與臣猜隙, 勢不相容, 路人所知」[69]라고 後日에 述懷하였다. 그리고 이 問題로서 浚과 鄭, 南等이 서로 지지 않고, 太祖를 中心으로 하야 暗暗의 間에 論爭함이 月餘에 지난 것이 亦 太宗實錄 中의 趙浚傳에 依하야 알 수 있으며, 이 起의 反對와 太祖의 趙說 賛成에도 不拘坏고 鄭, 南 等은 依然히 攻遼를 斷念하지 않고, 極力 陳网를 訓習하였던 것은 上揭한 바와 같은 狀態이었으며, 그 別錬의 嚴格함과, 陳圖에 未通하거나 講習怠慢으로 受罰하는 軍官이 續出하였음도 上記한 바와 같다, 이 같은 鄭, 南等 武斷派의 嚴格한 態度가 當時 一般의 群怨을 받게 된 點이 不少하니, 그들의 地位가 亦後世의 우리 눈으로 보아 자못 危常한 虑地에 있었다고 하겠다 더욱 此種 强硬派가 鄭道傅, 南誾, 沈孝生 等 芳碩系의 實力파이며, 芳碩 推戴에는 道傅과 「同罪」이면서 그 最後의 突禍를 免한 趙浚이 出兵反對 國力充實의 主必者였던 點에 무슨 意味가 있지 않는가, 道傳等의 이러한 大志로서 나온 焦急한 集權政策이 周團의 群怨을 받게되었다는 點은, 아무리 하여도 認定하지 않을 수 없으니, 이 攻遼間题가 亦 戊寅難의 一 楔子가 된다고 할 수도 있겠다. 그러나 從來의 所觀과 같이 이 問題를 單純히 「得罪 高皇帝」라 하야, 그것이 무슨 道傳 纖除의 口實이나 되는 듯하는 淺薄牛陋한 俗說은, 一點의 價値가 없다 할 것이다. (未完)











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주석


  1. 三峯集 十四卷 太祖 六年 (洪武 丁丑 西紀一三九七)에 始刊, 成宗 十八年(成化 丁未 西紀 一四八七) 重刊
  2. 三笔集 卷五十四 附錄 事實.
  3. 太祖 七年 八月 己巳, 太祖實錄 卷十四, 十六-二十六張. 三峯集에 「恭昭之難, 公不得其終」이 九月이라 함은 얻더한 根據로 나온 記錄인지 모르겟으나 八月說이 더 確實하다고 생각한다. (三峯集 卷十四 附錄 事實)
  4. 太祖 七年 九月 丁亥 定宗 吿即位于大廟頒敎旨中, 卷十五 二十四張.
  5. 仝上, 靖安君 合都堂率百官 上疏中 語句, 仝上 二十四張.
  6. 太祖 元年 八月 己巳 太祖實錄 卷, 五十二張.
  7. 太祖 二年 一月 癸卯, 仝上 卷二.
  8. 太宗 五年 六月 辛卯 趙浚卒條, 太宗實錄 卷九 二十七張
  9. 定宗 二年 二月 己亥, 定宗實錄 卷三 十-十一張.
  10. 太宗 九年 八月 己酉, 太宗實錄 卷十八 十張.
  11. 太宗九年 十月 己亥朔, 太宗實錄 卷十八 二七-二八張.
  12. 仝上 二八張.
  13. 太宗 十一年 十一月 己巳, 太宗實錄 卷二十二 三十八張.
  14. 本誌 第一卷 「庶孽差待의 淵源에 關한 一問題」 參照
  15. 太宗 三年 六月 辛亥, 太宗實錄 卷五 二十五丁.
  16. 이것은 定宗 太宗 時의 私兵改罷 運動을 보면 自明한 事實이다, 이 問題는 이곳에 詳述키 너무도 큰 問題나 조곰 說明할 機會가 있을듯하다.
  17. 太祖 元年 八月 丙辰, 太宗實錄 卷一
  18. 太祖 二年 十二月 甲申 撫安若芳爾卒條恭希, 太實錄卷四.
  19. 太祖 元年 八月, 李王職所藏文書 田咨賜給狀.
  20. 仝 二年 三月 癸亥, 仝上 卷三.
  21. 仝 二年 九月 丙辰, 仝上 卷四.
  22. 仝 二年 十一月 庚成, 仝上.
  23. 仝 三年 正月 壬戍 戊辰, 仝上 卷五.
  24. 仝 二月 己亥, 仝上 十二張. 이것을 迫衲한 것이 뒤에 太祖 四年 六月(戊辰)에 撰進한 「絕濟文鑑一에 收輯되여 남어있다 三峯集 卷之六 經濟文鑑下 衛兵 本朝將兵條.
  25. 仝 三年 正月 壬戍 戊辰, 仝上 卷五.
  26. 仝上 壬辰, 仝上 卷六.
  27. 仝上 七月 戊午, 仝上.
  28. 仝上 十一月 庚子, 仝上 十六張.
  29. 이러한 臆測과 邪推를 할 必要와 根據가 없으며, 그것이 決코 王子排斥의 手段이 되지 않을 것이 自明하다.
  30. 仝上 五月 戊辰, 太祖實錄 卷五.
  31. 朝鮮遞國典上, 三峯集 卷七 軍官條.
  32. 太宗 七年 三月 丁卯, 太祖實錄 卷十三 九張.
  33. 定宗 二年 六月 癸丑, 定宗實錄 卷四 十九-二十張.
  34. 仝上 四月 辛꾜, 仝上 十五丁.
  35. 太宗 十一年 八月 辛印, 太宗實錄 卷二十二 十四-十五張.
  36. 太祖 四年 十月 庚子出發, 太祖實錄 卷八.
  37. 仝 五年 二月 丁酉, 仝上 卷九 三張.
  38. 仝上 癸丑, 仝上 卷九. 郭海龍 金若恒 兩人을 管送키 爲하야 此前 辛丑日에 各히 大將軍 中樞院 學士로 任命하였다.
  39. 仝 三月 丙戍, 仝上 卷九.
  40. 仝 四月 乙未, 仝上.
  41. 仝 六月 丁酉, 仝上.
  42. 明史 卷三二二 列傅 外國 一 朝鮮 六張.
  43. 더욱 出發前 三日 丁酉에는 道傅이 新建宮殿의 諸殿을 命名하였다.
  44. 太祖 六年 七月 丙辰, 太祖實錄 卷十 二五張.
  45. 仝 五年 七月 甲戍, 仝 卷十 一張.
  46. 太宗十六年 十一月 癸巳 靑山府院君 河崙卒條, 太宗實錄 卷三十二 二十六張.
  47. 太祖五年十月甲戍, 太祖實錄卷十 二張.
  48. 仝 十一月 戊午, 庚申, 仝上 卷十.
  49. 仝 六年 四月 己亥, 仝上 卷十一 九-十一張.
  50. 仝 六年 四月 壬寅, 仝上 卷十一 十一 二張.
  51. 仝 七月 丙辰, 仝上 卷十二 五張.
  52. 仝 五年 十一月 乙亥, 仝上 卷十一.
  53. 仝 六年 四月 已亥, 仝上 卷十一 十-十一張.
  54. 仝 六月 甲午, 仝上 卷十一 十六張.
  55. 仝 十二月 庚子, 仝上 卷十二.
  56. 仝 丁卯, 仝上 卷十三.
  57. 仝 七年 三月 丁卯, 仝上 卷十三 九張.
  58. 仝 六年 十一月 癸亥, 戊寅, 仝上 卷十二.
  59. 仝 十二月 丙申, 仝上 卷十二.
  60. 仝上 丙午, 仝上.
  61. 仝 七年 五月 庚申, 仝上 卷十四
  62. 仝 六月 丁未에 一行을 押送, 仝上 卷十四.
  63. 仝 七年 閏五月 壬子, 仝上 卷十四 十八張.
  64. 仝上 癸卯 甲辰, 仝上.
  65. 太宗 五年 六月 辛卯 趙浚卒條, 太宗實錄 卷九 二十五張
  66. 定宗 元年 八月 庚子 定宗實錄 卷二 四五張.
  67. 註六十五와 同.
  68. 太祖 七年 閏五月 壬子, 太祖實錄 卷十四 十八張.
  69. 註六十六과 同.






현대문주


  1. 삼봉집 14권 태조 6년 (홍무 정축 서기 1397)에 시간, 성종 18년(성화 정미 서기 1487) 중간
  2. 삼봉집 권54 부록 사실.
  3. 태조 7년 8월 기사, 태조실록 권14, 16-26장. 삼봉집에 「恭昭之難, 公不得其終」이 9월이라 함은 어떠한 근거로 나온 기록인지 모르겠으나 8월 설이 더 확실하다고 생각한다. (삼봉집 권14 부록 사실)
  4. 태조 7년 9월 정해 정종 고즉위우태묘반교지(吿即位于大廟頒敎旨) 중, 권15 24장.
  5. 동상, 정안군 합도평솔백관(合都堂率百官) 상소 중 어구, 동상 24장.
  6. 태조 원년 8월 기사 태조실록 권, 52장.
  7. 태조 2년 1월 계묘, 동상 권2.
  8. 태종 5년 6월 신묘 조준졸조(趙浚卒條), 태종실록 권9 27장
  9. 정종 2년 2월 기해, 정종실록 권3 10-11장.
  10. 태종 9년 8월 기유, 태종실록 권18 10장.
  11. 태종 9년 10월 기해삭, 태종실록 권18 27-28장.
  12. 동상 28장.
  13. 태종 11년 11월 기사, 태종실록 권22 38장.
  14. 본지 제1권 「서얼차대(庶孽差待)의 연원에 관한 일 문제」 참조
  15. 태종 3년 6월 신해, 태종실록 권5 25정.
  16. 이것은 정종 태종 시의 사병 개파 운동을 보면 자명한 사실이다, 이 문제는 이곳에 상술키 너무도 큰 문제나 조금 설명할 기회가 있을 듯하다.
  17. 태조 원년 8월 병진, 태종실록 권1
  18. 태조 2년 12월 갑신 무안약방이졸조공희, 태조실록 권4.
  19. 태조 원년 8월, 이왕직 소장문서 전답사급장(田畓賜給狀).
  20. 동 2년 3월 계해, 동상 권3.
  21. 동 2년 9월 병진, 동상 권4.
  22. 동 2년 11월 경술, 동상.
  23. 동 3년 정월 임술 무진, 동상 권5.
  24. 동 2월 기해, 동상 12장. 이것을 迫衲(박납)한 것이 뒤에 태조 4년 6월(무진)에 찬진한 「경제문감(絕濟文鑑)」에 수집되어 남아있다 삼봉집 권지6 경제문감 하 위병 본조 장병조.
  25. 태조 3년 3월 을사 태조실록 권5.
  26. 동상 임진, 동상 권6,
  27. 동상 7월 무오, 동상.
  28. 동상 11월 경자, 동상 16장.
  29. 이러한 억측과 사추를 할 필요와 근거가 없으며, 그것이 결코 왕자 배척의 수단이 되지 않을 것이 자명하다.
  30. 동상 5월 무진, 태조실록 권5.
  31. 조선경국전 상, 삼봉집 권7 군관조.
  32. 태종 7년 3월 정묘, 태조실록 권13 9장.
  33. 정종 2년 6월 계축, 정종실록 권4 19-20장.
  34. 동상 4월 신해, 동상 15정.
  35. 태종 11년 8월 신묘, 태종실록 권22 14-15장.
  36. 태조 4년 10월 경자 출발, 태조실록 권8.
  37. 동 5년 2월 정유, 동상 권9 3장.
  38. 동상 계축, 동상 권9. 곽해룡 김약항 양인을 관송키 위하여 이 전 신축일에 각히 대장군 중추원 학사로 임명하였다.
  39. 동 3월 병술, 동상 권9.
  40. 동 4월 을미, 동상.
  41. 동 6월 정유, 동상.
  42. 명사 권322 열전 외국 1 조선 6장.
  43. 더욱 출발 전 3일 정유에는 도전이 新建(신건) 궁전의 諸殿(제전)을 명명하였다.
  44. 태조 6년 7월 병진, 태조실록 권10 25장.
  45. 동 5년 7월 갑수, 동 권10 1장.
  46. 태종 16년 11월 계사 靑山府院君(청산부원군) 하륜졸조, 태종실록 권32 26장.
  47. 태조 5년 10월 갑술, 태조실록 권10 2장.
  48. 동 11월 무오, 경신, 동상 권10.
  49. 동 6년 4월 기해, 동상 권11 9-11장.
  50. 동 6년 4월 壬寅, 동상 권11 11 2장.
  51. 동 7월 병진, 동상 권12 5장.
  52. 동 5년 11월 을해, 동상 권11.
  53. 동 6년 4월 기해, 동상 권11 10-11장.
  54. 동 6월 갑오, 동상 권11 16장.
  55. 동 12월 경자, 동상 권12.
  56. 동 정묘, 동상 권13.
  57. 동 7년 3월 정묘, 동상 권13 9장.
  58. 동 6년 11월 계해, 무인, 동상 권12.
  59. 동 12월 병신, 동상 권12.
  60. 동상 병오, 동상.
  61. 동 7년 5월 경신, 동상 권14.
  62. 동 6월 정미에 일행을 압송, 동상 권14.
  63. 동 7년 윤5월 임자, 동상 권14 18장.
  64. 동상 계묘 갑진, 동상.
  65. 태종 5년 6월 신묘 조준졸조, 태종실록 권9 25장
  66. 정종 원년 8월 경자 정종실록 권2 45장.
  67. 주65와 동.
  68. 태조 7년 윤5월 임자, 태조실록 권14 18장.
  69. 주66과 동.