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원문

제요

《延平答問》一卷、《附錄》一卷,宋朱子撰。程子之學,一傳為楊時,再傳為羅從彥,又再傳為李侗。侗字願中,延平其所居也。侗於朱子為父執。紹興二十三年,朱子二十四歲,將赴同安主簿任,往見侗於延平,始從受學。紹興三十年冬,同安任滿,再見侗,僅留月餘。又閱四載而侗沒。計前後相從,不過數月。故書劄往來,問答為多。後朱子輯而錄之。又載其與劉平甫二條,以成是書。朱子門人又取朱子平昔論延平語,及祭文、行狀別為一卷,題曰《附錄》,明非朱子原本所有也。後侗裔孫葆初,別掇拾侗之諸文,增入一卷,改題曰《延平文集》,且總題為朱子所編,殊失其舊。今仍錄原本,而葆初竄亂之本別存目於集部焉。

연평답문

1157년(丁丑, 주자 28세)

1. #함양 #야기

丁丑六月二十六日書云: "承諭涵養用力處, 足見近來好學之篤也, 甚慰甚慰. 但常存此心, 勿為他事所勝, 即欲慮非僻之念自不作矣. 孟子有夜氣之説, 更熟味之, 當見涵養用力處也. 於涵養處著力, 正是學者之要. 若不如此存養, 終不為己物也. 更望勉之."

1158년(戊寅, 주자 29세)

2.

戊寅七月十七日書云: "某村居, 一切只如舊, 有不可不應接處, 又難廢墮, 但靳靳度日爾. 朝夕無事, 齒髪皆已邁, 筋力漸不如昔, 所得於師友者往來,於心求所以脫然處,竟未得力. 頗以是懼爾."

3. #춘추

"『春秋』且將諸家熟看, 以胡文定解為凖. 玩味乆必自有會心處, 卒看不得也. 伊川先生云: '『春秋』大義數十, 炳如日星, 所易見也. 唯徴辭奧旨, 時措從宜者所難知爾.'[1] 更須詳考其事. 又玩味所書, 抑揚予奪之處看如何. 積道理多, 庶漸見之. 大率難得學者無相啟發處, 終憒憒不灑落爾."

4. #논어

問: "子曰: '父在觀其志, 父沒觀其行, 三年無改於父之道, 可謂孝矣.'[2] 東坡謂: '可改者不待三年.'[3] 熹以為使父之道有不幸不可不即改者, 亦當隠忍遷就於義理之中, 使事體漸正, 而人不見其改之之跡, 則雖不待三年而謂之無改可也. 此可見孝子之心, 與'幾諫'[4]事亦相類."

先生曰: "三年無改, 前輩論之詳矣. 類皆執文泥跡, 有所遷就, 失之. 須是認聖人所說, 於言外求意乃通. 所謂道者, 是猶可以通行者也. 三年之中, 日月易過, 若稍稍有不愜意處, 即率意改之, 則孝子之心何在? 如説『春秋』者, 不忍遽變左氏有官命未改之類, 有孝子之心者, 自有所不忍耳. 非斯須不忘、極體孝道者能如是耶? 東坡之語有所激而然, 是亦有意也. 事只有箇可與不可而已. 若大段有害處, 自應即改何疑? 恐不必言隠忍遷就, 使人不見其改之之跡. 此意雖未有害, 第恐處心如此, 即駸駸然[5]所失處卻多. 吾輩欲求寡過且謹守格法[6]為不差也. 幾諫事意恐不相類, 更思之."

5. #논어

問: "孟武伯問孝子曰: '父母唯其疾之憂.'[7] 舊説'孝子不妄為非, 唯疾病然後使父母憂.'[8] 熹恐夫子告孟孫之意不然, 蓋言父母之心慈愛其子, 無所不至. 疾病人所不免, 猶恐其有之以為憂, 則餘可知也. 為人子者知此, 而以父母之心為心, 則所以奉承遺體而求免於虧辱者, 豈一端而已哉? 此曾子所以戰戰兢兢、啟手足而後知免焉者也.[9] '不逺遊, 遊必有方'[10]、'不登高, 不臨深'[11]皆是此意."

先生曰: "'父母唯其疾之憂', 當如上所說為得之, 舊説不直截. 聖人之告人, 使知所以自求者, 惟深切庶可用力也."

6. #논어

問: "子游問孝子曰: '今之孝者,是謂能養. 至於犬馬, 皆能有養. 不敬何以別乎?'[12] 熹謂犬馬不能自食, 待人而食者也. 故蓄犬馬者必有以養之, 但不敬爾. 然則養其親而敬, 有所不至, 不幾於以犬馬視其親乎? 敬者, 尊敬而不敢忽忘之謂, 非特恭謹而已也. 人雖至愚, 孰忍以犬馬視其親者? 然不知幾微之間, 尊敬之心一有不至, 則是所以視其親者, 實無以異於犬馬而不自知也. 聖人之言警乎人子, 未有若是之切者. 然諸家之説, 多不出此. 熹謂當以『春秋』所書歸生、[13]許止[14]之事觀之, 則所謂犬馬之養, 誠不為過. 不然, 設譬引喻, 不應如是之疎; 而子游之賢, 亦不待如此告戒之也."

先生曰: "此一段, 恐當時之人習矣而不察, 只以能養為孝. 雖孔門學者, 亦恐未免如此. 故夫子警切以告之, 使之反諸心也. 苟推測至此, 孝敬之心一不存焉, 即陷於犬馬之養矣. 孟子又有養口體養志之説, 似亦説破學者之未察處, 皆所以警乎人子者也. 若謂以『春秋』所書之事觀之, 則所謂犬馬之養, 誠不為過, 恐不須如此說. 歸生、許止, 各是發明一例也."

7.#논어

問: "子曰: '吾與囘言終日, 不違如愚. 退而省其私, 亦足以發, 囘也不愚.'[15] 熹竊謂亦足以發, 是顏子聞言悟理, 心契神受之時, 夫子察焉, 而於心有感發也. 子夏禮後之問, 夫子以為起予,[16] 亦是類也. 但子夏所發在言語之間, 而顏子所發乃其所自得處, 有以黙相契合, 不待言而喻也. 然非聖人有所未知, 必待顏子而後發, 如言'非助我者'.[17] 豈聖人待門弟子答問之助耶?"

先生曰: "'亦足以發', 前説似近之, 恐與'起予'不類, 深玩之可見. '非助我者, 豈聖人待門弟子答問之助', 固是如此. 然亦須知顏子黙曉聖人之言, 便知親切道體處, 非枝葉之助也. 他人則不能見如此精微矣. 妄意如此氣象, 未知如何."

8.#논어

問: "子張學干祿, 夫子告以多聞多見闕疑殆, 而謹言行其餘.[18] 蓋不博無以致約, 故聞見以多為貴. 然不闕其所未信未安, 則言行之間意不誠矣, 故以闕之為善. 疑殆既闕而於言行有不謹焉, 則非所謂無敢慢者, 故以謹之為至. 有節於內若此, 尤悔何自而入乎? 然此皆庸言庸行之所必然, 非期以干祿也, 而祿固已在其中矣. 孟子曰: '經徳不囘, 非以干祿也'[19],與夫子之意一也. 伊川先生亦曰: '子張以仕為急, 故夫子告之以此, 使定其心而不為利祿動',[20] 恐亦是此意. 未知是否?"

先生曰: "古人干祿之意, 非後世之干祿也. 蓋胸中有所藴, 亦欲發洩而見諸事爾, 此為己之學也. 然求之有道, 苟未見所以求之之道, 一萌意焉, 則外馳矣. 故夫子以多聞見而闕疑殆告之, 又使之慎其餘, 則反求諸已也切矣. 故『孟子』有'經徳不囘, 非以干祿'之語. 苟能深體得此,則馳外之心不作矣. 伊川所謂'才有縫罅, 便走了'[21]之意."

9. #논어 #쇄연

戊寅冬至前二日書云: "承示問, 皆聖賢之至言, 某何足以知之? 而吾元晦好學之篤如此, 又安敢黙黙也? 輒以昔所聞者, 各箋釋於所問目之下, 聊以塞命爾. 他日若獲欵曲, 須面質論難, 又看合否如何? 大率須見灑然處, 然後為得. 雖說得行, 未敢以為然也."

10. #논어

問: "向以'亦足以發'之義求教,[22] 因引'起予'為證, 蒙批諭云'亦足以發'與'起予'不類. 熹反覆思之, 於此二者但見有淺深之異, 而未見全不相似處, 乞賜詳喻."

先生曰: "顏子氣象與子夏不同, 先玩味二人氣象於胷中, 然後體會夫子之言'亦足以發'與'起予者商也'之語氣象如何. 顏子深潛純粹, 於聖人體段已具, 故聞夫子之言, 即黙識心融, 觸處洞然自有條理. 故終日言但見其不違如愚而已, 退省其私, 則於語黙日用動容之間, 皆足以發明夫子之道, 坦然由之而無疑也. 子夏因問詩, 如不得'繪事後素'之言, 即'禮後'之意未必到, 似有因問此一事, 而夫子印可之意. 此所以不類也, 不知是如此否? 偶追憶前日所問處意不來, 又未知向日因如何疑而及此也, 更俟他日熟論."

11. #춘추 #쇄연

問: "『春秋』威公二年'滕子來朝'.[23] 按: 滕本稱侯, 伊川謂'服屬於楚, 故貶稱子'.[24] 熹按: 楚是時未與中國通, 滕又逺楚, 終春秋之世未嘗事楚, 但為宋役爾. 不知伊川別有何據? 又陳、蔡諸國後來屬楚者, 亦未嘗貶爵也. 胡文定以為'為朝威而貶之,以討亂賊之黨',[25] 此義似勝. 然滕自此不復稱侯, 至定公之喪, 來會葬, 猶稱子,[26] 夫豈以祖世有罪而並貶其子孫乎? 然則胡氏之説亦有可疑者. 不知當以何説為正? 胡氏又謂'凡朝威者皆貶, 獨紀侯以咨謀齊難而來, 志不在於朝威, 故再朝皆無貶焉.'[27] 熹竊以為果如此, 則是義理之正, 可以危急而棄之也. 不知『春秋』之法果如此否?"[二年"紀侯來朝", 『左氏』作'杞'字, 後有入杞會鄧事. 『傳』皆有説可據. 伊川、胡氏依公、榖作紀字.]

先生曰: "'滕子來朝', 考之『春秋』, 夫子凡所書諸侯來朝, 皆不與其朝也. 胡文定謂'春秋之時, 諸侯之朝, 皆無有合於先王之時世朝之禮者, 故書皆譏之也. 滕本稱侯, 威二年來朝, 稱子者以討亂賊之黨貶.' 於諸家之説義為精. 先儒又以為'時王所黜者'. 胡氏以為'果如此則『春秋』不作矣.' 恐先儒之説非. 來喻以謂'自此終春秋之世不復稱侯, 豈以祖世有罪而並貶其子孫乎?' 若如此言, 大段害理. 『春秋』與人改過遷善, 又善善長、惡惡短, 不應如此, 是可疑也. 某竊以謂從胡之説於理道為長. 觀夫子所書討亂之法甚嚴, 滕不以威之不義而朝之, 只在於合黨締交, 此夷狄也. 既已貶矣, 後世子孫碌碌無聞, 無以自見於時, 又壤地褊小, 本一子男之國. 宋之盟, 『左傳』有'宋人請滕', 欲以為私屬, 則不自強而碌碌於時者乆矣. 自一貶之後, 夫子再書, 各沿一義而發, 遽又以侯稱之, 無乃紛紛然淆亂, 『春秋』之旨不明而失其指乎? 蓋聖人之心, 必有其善, 然後進之. 若無所因, 是私意也, 豈聖人之心哉? 若如此看, 似於後世之疑不礙, 道理為通, 又不知如何? 『春秋』所以難看者, 蓋以常人之心推測聖人, 未到聖人灑然處, 豈能無失耶? 請俟他日反復面難, 庶幾或得其旨. 伊川之説, 考之諸處, 未見『春秋』之前服屬於楚事跡, 更俟尋攷. 又來喻以謂'紀侯來咨謀齊難, 志不在於朝威, 故再朝無貶, 則是義理之正可以危急而棄之.' 若果如此, 尤害義理. 『春秋』有誅意之説, 紀侯志不在於朝威, 則非滕子之類也. 列國有急難, 以義而動, 又何貶耶? '紀侯來朝', 左氏作杞字, 後有入杞之事, 傳皆有說. 胡氏因公、榖作紀字. 『春秋』似此類者多, 如齊子糾, 『左傳』只雲納糾. 伊川乃以二傳為證, 又嘗有看『春秋』之法云: '以傳考經之事跡, 以經別傳之真偽.'[28] 參考義理之長, 求聖人所書之意, 庶或得之."

12. #논어

問'禮之用, 和為貴'[29]一章之義.

先生曰: "孟子曰: '仁之實, 事親, 是也; 義之實, 從兄, 是也; 禮之實, 節文斯二者, 是也.'[30] 禮之道, 雖以和為貴, 然必須體其源流之所自來而節文之, 則不失矣. 若'小大由之'而無隆殺之辨, '知和而和', 於節文不明, 是皆不可行, 則禮之體用失矣. 世之君子, 有用禮之嚴至拘礙者, 和而失其節者, 皆非知禮者也. 故有子以是語門人, 使知其節爾."

13. #논어

問: "'因不失其親, 亦可宗也',[31] 橫渠先生曰: '君子寧孤立無與, 不失親於可賤之人.'[32] 熹據此, 則'因'也、'親'也、'宗'也, 皆依倚附託之名, 但言之漸重爾. 所因或失其所親,謂可賤之人不可親也. 則亦不可宗.人之可親者, 必可宗; 其不可親者, 必不可宗也. 故君子非'孤立無與'之患, 而不失其親為難. 其將欲有所因也, 必擇其可親者而因之. 使彼誠賢, 則我不失其所親, 而彼亦可宗矣. 立文與上二句相似, 皆'言必慮其所終, 行必稽其所敝'[33]之意. 不審尊意以為如何?"

先生曰: "伊川先生曰[34]: '信本不及義, 恭本不及禮. 然信近於義, 恭近於禮也. 信近於義, 以言可復也; 恭近於禮, 以逺恥辱也. 因恭信而不失親近於禮義, 故亦可宗也. 猶言禮義者不可得見, 得見恭信者可矣.[35] 詳味此語, 則失親於可賤之人, 自無有矣. 蓋以禮義為主故也."

14. #논어

問: "'<詩>三百, 一言以蔽之, 曰思無邪.'[36] 蘇東坡曰: '夫子之於<詩>, 取其會於吾心者, 斷章而言之. 頌魯侯者, 未必有意於是也.' 子由曰: '思無邪, 則思馬而馬應; 思馬而馬應, 則思之所及無不應也. 故曰: 『思無邪, 思馬斯徂.』[37] 此頌魯侯之意也.'[38] 兩説未知孰是?"

先生曰: "詩人興刺, 雖亦曲折達心之精微, 然必止乎禮義. 夫子刪而取之者以此爾. 若不止於禮義, 即邪也. 故三百篇, 一言足以蔽之, 只是'思無邪'而已. 所以能興起感動人之善心, 蓋以此也. 頌魯侯者, 偶於形容盛徳如此, 故曰: '思無邪'. 於馬言之者, 又有'秉心塞淵', 然後'騋牝三千'之意.[39]"

15. #논어

問: "'吾十有五而志於學'[40]一章,橫渠先生曰: '常人之學, 日益而莫自知也; 仲尼行著習察, 異於他人, 故自十五至於七十, 化而知裁. 其進徳之盛者與!'[41] 伊川先生曰: '孔子生而知之, 自十五至七十, 進徳直有許多節次者, 聖人未必然, 亦只是為學者立一下法. 盈科而後進, 不可差次, 須是成章乃達.[42]'[43] 兩説未知孰是?"

先生曰: "此一段, 二先生之説各發明一義, 意思深長. 橫渠云'化而知裁', 伊川云'盈科而後進, 不成章不達', 皆是有力處, 更當深體之可爾. 某竊以謂聖人之道中庸, 立言常以中人為説. 必十年乃一進者, 若使困而知學, 積十年之乆, 日孳孳而不倦, 是亦可以變化氣質而必一進也. 若以鹵莽滅裂之學, 而不用心焉, 雖十年亦只是如此, 則是自暴自棄之人爾. 言十年之漸次, 所以警乎學者, 雖中才, 於夫子之道皆可積習勉力而至焉, 聖人非不可及也. 不知更有此意否?"

16. #논어

問: "'禘自既灌而往者, 吾不欲觀之矣.'[44] 伊川曰: '灌以降神, 祭之始也. 既灌而往者, 自始及終, 皆不足觀. 言魯祭之非禮也.'[45] 謝氏引<禮記>曰: '吾欲觀夏道, 是故之杞而不足證也; 我欲觀殷道, 是故之宋而不足證也.'[46] '我觀周道, 幽、厲傷之, 吾舍魯何適矣? 魯之郊禘, 非禮也, 周公其衰矣.'[47] 以此為證, 而合此章於上文'杞、宋不足證'之説, 曰: '考之杞、宋, 則文獻不足; 考之當今, 則魯之郊禘又不足觀, 蓋傷之也.'[48] 呂博士引荀子'大昏之未發, 祭之未納尸, 喪之未小斂, 一也.'[49]解此,[50] 與趙氏<春秋纂例>之説, 不審何者為是?"

先生曰: "<記>曰: '魯之郊禘, 非禮也, 周公其衰矣.'[51] 以其難言, 故<春秋>皆因郊禘事中之失而書, 譏魯自在其中. 今曰: '禘自既灌而往者, 吾不欲觀之矣', 則是顛倒失禮, 如昭穆失序之類, 於灌而求神以至於終, 皆不足觀,蓋歎之也. 對或人之問, 又曰: '不知',[52] 則夫子之深意可知矣. 既曰: '不知', 又曰: '知其說者之於天下也, 其如示諸斯乎! 指其掌', 則非不知也, 只是難言爾. 原幽明之故, 知鬼神之情狀,[53] 則燭理深矣, 於天下也何有?"

17. #논어

問: "'或問禘之説'[54]一章, 伊川以此章屬之上文, 曰: '不知者, 蓋為魯諱. 知夫子不欲觀之説, 則天下萬物各正其名, 其治如指諸掌也.'[55] 或以為'此魯君所當問而不問, 或人不當問而問之, 故夫子以為不知, 所以微諷之也.' 餘如伊川説云. 龜山引<禮記>'禘嘗之義大矣, 治國之本也, 不可不知也. 明其義者, 君也; 能其事者, 臣也. 不明其義, 君人不全; 不能其事, 為臣不全.'[56] 非或人可得而知也. 其為義大, 豈度數云乎哉? 蓋有至賾存焉. 知此則於天下乎何有? 此數説, 不審孰是?"

先生曰: "詳味'禘自既灌'以下至'指其掌', 看夫子所指意處如何, 卻將前後數説皆包在其中, 似意思稍盡, 又未知然否?"

18. #논어

問: "'祭如在, 祭神如神在.'[57] 熹疑此二句乃弟子記孔子事. 又記孔子之言於下以發明之, 曰: '吾不與祭, 如不祭'也."

先生曰: "某嘗聞羅先生曰: '祭如在, 及見之者; 祭神如神在, 不及見之者.' 以至誠之意與鬼神交, 庶幾享之. 若誠心不至, 於禮有失焉, 則神不享矣, 雖祭也何為?"

19. #논어

問: "'居上不寛, 為禮不敬, 臨喪不哀, 吾何以觀之哉?'[58] 熹謂此非謂不足觀, 蓋'不誠無物'[59], 無物則無以觀之也."

先生曰: "居上寛、為禮敬、臨喪哀,皆其本也. 有其本而末應. 若無其本, 粲然文采, 何足觀?"

20. #논어 #충서 #일이관지

問: "'子曰: 『參乎! 吾道一以貫之.』 曾子曰: 『唯.』 子出, 門人問曰: 『何謂也?』 曾子曰: 『夫子之道, 忠恕而已矣.』'[60] 熹謂曾子之學主於誠身, 其於聖人之日用, 觀省而服習之, 蓋已熟矣. 惟未能即此以見夫道之全體, 則不免疑其有二也. 然用力之乆, 而亦將有以自得, 故夫子以'一以貫之'之語告之, 蓋當其可也.曾子惟此少許未達, 故夫子直以此告之. 曾子於是黙會其旨, 故門人有問而以'忠恕'告之. 蓋以夫子之道不離乎日用之間, 自其盡己而言則謂之忠; 自其及物而言則謂之恕, 莫非大道之全體. 雖變化萬殊於事為之末, 而所以貫之者, 未嘗不一也. 然則夫子所以告曾子, 曾子所以告其門人, 豈有異旨哉? 而或者以為'忠恕未足以盡一貫之道, 曾子姑以違道不逺者告其門人, 使知入道之端', 恐未曾盡曾子之意也. 如子思之言'忠恕違道不逺',[61] 乃是示人以入道之端, 如孟子之言'行仁義'[62]; 曾子之稱夫子, 乃所謂'由仁義行'者也."

先生曰: "伊川先生有言曰: '『維天之命, 於穆不已』,[63] 忠也; 『乾道變化, 各正性命』,[64] 恕也.'[65] 體會於一人之身, 不過只是盡已及物之心而已. 曾子於日用處, 夫子自有以見之, 恐其未必覺此亦是一貫之理, 故卒然問曰: '參乎! 吾道一以貫之.' 曾子於是領會而有得焉, 輒應之曰: '唯', 忘其所以言也. 東坡所謂'口耳俱喪'者,[66] 亦佳. 至於答門人之問, 只是發其心耳, 豈有二耶? 若以謂'聖人一以貫之之道, 其精微非門人之問所可告, 姑以忠恕答之', 恐聖賢之心不如是之支也. 如孟子稱'堯舜之道, 孝弟而已',[67] 人皆足以知之, 但合內外之道, 使之體用一源, 顯微無間,[68] 精粗不二, 袞同盡是此理, 則非聖人不能是也. <中庸>曰: '忠恕違道不逺',[69] 特起此以示人相近處, 然不能貫之, 則忠恕自是一忠恕爾."

21.

十一月十三日書云: "吾人大率坐此窘窶, 百事驅遣不行, 唯於稍易處處之為庶幾爾. 某村居兀坐, 一無所為, 亦以窘迫, 遇事窒塞處多. 毎以古人貧甚極難堪處自體, 即啜菽飲水, 亦自有餘矣. 夫復何言?"

22. #맹자 #야기 #구방심 #경 #쇄락 #융석

"來喻以為'人心之既放, 如木之既伐. 心雖既放, 然夜氣所息, 而平旦之氣生焉, 則其好惡猶與人相近; 木雖既伐, 然雨露所滋, 而萌櫱生焉, 則猶有木之性也.' 恐不用如此說. 大凡人禮義之心何嘗無? 唯持守之, 即在爾. 若於旦晝間不至梏亡, 則夜氣存矣; 夜氣存, 則平旦之氣未與物接之時, 湛然虛明, 氣象自可見. 此孟子發此夜氣之説, 於學者極有力. 若欲涵養, 須於此持守可爾, 恐不須説'心既放, 木既伐', 恐又似隔截爾. 如何如何?"

"又見喻云: '伊川所謂『未有致知而不在敬』者,[70] 考<大學>之序則不然.' 如夫子言非禮勿視聴言動,[71] 伊川以為'制之於外以養其中'數處,[72] 蓋皆各言其入道之序如此. 要之敬自在其中也, 不必牽合貫穿為一説."

"又所謂'但敬而不明於理, 則敬特出於勉強, 而無灑落自得之功, 意不誠矣.' 灑落自得氣象, 其地位甚高. 恐前數説, 方[73]是言學者下工處, 不如此則失之矣. 由此持守之乆, 漸漸融釋, 使之不見有制之於外持敬之心, 理與心為一, 庶幾灑落爾."

"某自聞師友之訓, 賴天之靈, 時常只在心目間, 雖資質不美, 世累妨奪處多, 此心未嘗敢忘也. 於聖賢之言, 亦時有會心處, 亦間有識其所以然者. 但覺見反為理道所縳, 殊無進步處. 今已老矣, 日益恐懼. 吾元晦乃不鄙孤陋寡聞, 逺有質問所疑, 何愧如之?"

1159년(己夘, 주자 30세)

23.

己夘六月二十二日書云: "聞不輟留意於經書中, 縦未深自得, 亦可以驅遣俗累, 氣象自安閒也."

24. #쇄연 #융석

己卯長至後三日書云: "今學者之病, 所患在於未有灑然氷解凍釋處. 縦有力持守, 不過只是苟免顯然尤悔而已. 似此恐皆不足道也."

1160년(庚辰, 주자 31세)

25. #쇄락 #야기 #미발기상 #정좌

庚辰五月八日書云: "某晚景別無他, 唯求道之心甚切. 雖間能窺測一二, 竟未有灑落處. 以此兀坐, 殊憒憒不快. 昔時朋友絶無人矣, 無可告語, 安得不至是耶? 可嘆可懼.

示諭夜氣説甚詳, 亦只是如此, 切不可更生枝節尋求, 即恐有差. 大率吾輩立志已定, 若看文字, 心慮一澄然之時, 略綽[74]一見與心會處, 便是正理. 若更生疑, 即恐滯礙. <伊川語録>中有記明道嘗在一倉中坐, 見廊柱多, 因黙數之, 疑以為未定, 屢數愈差, 遂至令一人敲柱數之, 乃與初黙數之數合,[75] 正謂此也. 夜氣之説所以於學者有力者, 須是兼旦晝存養之功不至梏亡, 即夜氣清, 若旦晝間不能存養, 即夜氣何有! 疑此便是'日月至焉'[76]氣象也.

曩時某從羅先生學問, 終日相對靜坐, 只説文字, 未嘗及一雜語. 先生極好靜坐, 某時未有知, 退入室中亦只靜坐而已. 先生令靜中看喜怒哀樂未發之謂中未發時作何氣象, 此意不唯於進學有力, 兼亦是養心之要. 元晦偶有心恙, 不可思索, 更於此一句內求之, 靜坐看如何, 往往不能無補也.

此中相去稍逺, 思欲一見, 未之得. 恐元晦以親旁無人傔侍, 亦難一來, 奈何? 切望隨宜攝養, 勿貽親念為至禱[77]也."

26. #쇄락 #광풍제월

"承惠示濂溪遺文與潁濱語、孟, 極荷愛厚, 不敢忘不敢忘. 邇[78]書向亦曾見一二, 但不曾得見全本, 今乃得一觀, 殊慰卑抱也. 二蘇語、孟説, 儘有可商論處, 俟他日見面論之.

嘗愛黃魯直作<濂溪詩序>云: '舂陵周茂叔, 人品甚高, 胸中灑落, 如光風霽月.' 此句形容有道者氣象絶佳. '胸中灑落', 即作為盡灑落矣. 學者至此雖甚逺, 亦不可不常存此體段在胸中, 庶幾遇事廓然, 於道理方少進. 願更存養如此."

27.

"羅先生山居詩, 某記不全, 今只據追思得者録去.

<顏樂齋>詩云: '山染嵐光帶日黃, 蕭然茅屋枕池塘. 自知寡與真堪笑,此一句似非. 賴有顏瓢一味長.'

<池畔亭曰濯纓>詩云: '擬把冠纓掛牆壁, 等閒窺影自相酬.'

<邀月臺>詩云: '矮作牆垣小作臺, 時邀明月寫襟懷. 夜深獨有長庚伴, 不許庸人取次來.'

又有<獨寐榻>、<白雲亭>詩, 皆忘記. 白雲亭坐處, 望見先生母氏墳, 故名. 某向日見先生將出此詩, <邀月臺>詩後兩句不甚愜人意, 嘗妄意云: '先生可改下兩句, 不甚渾然.' 先生別云: '也知鄰鬬非吾事, 且把行藏付酒杯.' 蓋作此數絶時, 正靖康間也."

28. #쇄락 #심여기합

"聞召命不至, 復有指揮. 今來亦執前説辭之, 甚佳. 蓋守之已定, 自應如此. 縱煎迫擾擾, 何與我事? 若於義可行, 便脫然一往, 亦可也.

某嘗以謂遇事若能無毫髪固滯, 便是灑落. 即此心廓然大公, 無彼己之偏倚, 庶幾於理道一貫. 若見事不徹, 中心未免微有偏倚, 即涉固滯, 皆不可也. 未審元晦以為如何? 為此説者, 非理道明, 心與氣合, 未易可以言此. 不然, 只是説也."

29. #쇄락 #융석

庚辰七月書云: "某自少時從羅先生學問, 彼時全不涉世故, 未有所入, 聞先生之言, 便能用心靜處尋求. 至今淟汩憂患, 磨滅甚矣. 四五十年間, 每遇情意不可堪處, 即猛省提掇, 以故初心未嘗忘廢, 非不用力, 而迄於今更無進步處. 常切靜坐思之, 疑於持守及日用儘有未合處, 或更有闗鍵未能融釋也. 向來嘗與夏丈言語間稍無間, 因得一次舉此意質之. 渠乃以釋氏之語來相淘, 終有纎奸打訛處, 全不是吾儒氣味, 旨意大段各別, 當俟他日相見劇論可知.

大率今人與古人學殊不同, 如孔門弟子, 羣居終日相切摩, 又有夫子為之依歸, 日用相觀感而化者甚多. 恐於融釋而脫落處, 非言說可及也. 不然, 子貢何以謂'夫子之言性與天道, 不可得而聞'[79]耶? 元晦更潛心於此, 勿以老邁為戒, 而怠於此道.

乃望承欲秋涼來, 又不知偏侍下別無人, 可以釋然一來否? 只為往來月十日事, 疑亦可矣. 但亦須處得老人情意帖帖無礙, 乃佳爾."

30. #분수

"所云見<語録>中有'仁者渾然與物同體'[80]一句, 即認得<西銘>意旨. 所見路脈甚正, 宜以是推廣求之. 然要見'一視同仁'[81]氣象, 卻不難. 須是理會分殊, 雖毫髪不可失, 方是儒者氣象."

31. #맹자 #조장 #쇄락

"又云: '因看『必有事焉而勿正, 心勿忘, 勿助長』數句, 偶見全在日用間'非著意、非不著意'[82]處, 才有毫髪私意, 便沒交涉.' 此意亦好, 但未知用處卻如何, 須喫緊理會這裏始得. 某曩時傳得呂與叔<中庸解>甚詳, 當時陳幾叟與羅先生門皆以此文字説得浸灌浹洽, 比之龜山<解>卻似枯燥. 晚學未敢論此. 今此本為相知借去, 亡之已乆, 但尚記得一段云: '謂之有物, 則不得於言; 謂之無物, 則必有事焉. 不得於言者, 視之不見, 聴之不聞,[83] 無聲形接乎耳目而可以道也; 必有事焉者, 莫見乎隠, 莫顯乎微,[84] 體物而不可遺者也.[85]'[86] 學者見乎此, 則庶乎能擇乎中庸[87]而執之隠微之間. 不可求之於耳目, 不可道之於言語. 然有所謂'昭昭而不可欺'、[88]感之而能應者, 正惟虛心以求之, 則庶乎見之. 又據孟子説'必有事焉', 至於'助長'、'不耘'之意,[89] 皆似是言道體處. 來諭乃體認出來, 學者正要如此, 但未知用時如何. 脗合渾然, 體用無間乃是. 不然, '非著意、非不著意', 溟溟涬涬[90], 疑未然也. 某嘗謂進步不得者[91], 彷彿多是如此類窒礙, 更望思索. 他日熟論, 須見到'心廣體胖',[92] 遇事一一灑落處, 方是道理. 不爾, 只是説也."

32. #야기

"又云'便是日月至焉氣象'[93]一段. 某之意, 只謂能存養者, 積乆亦可至此. 若比之'不違',[94] 氣象又迥然別也. 今之學者雖能存養, 知有此理, 然旦晝之間一有懈焉, 遇事應接舉處, 不覺打發機械, 即離間而差矣. 唯存養熟, 理道明, 習氣漸爾消鑠, 道理油然而生, 然後可進, 亦不易也. 來諭以謂'能存養者, 無時不在, 不止日月至焉', 若如此時, 卻似輕看了也. 如何?"

33. #심여기합

"承諭'心與氣合'[95]及所注小字意. 若逐一理會心與氣, 即不可.

某鄙意止是形容到此解會融釋, 不如此, 不見所謂氣、所謂心渾然一體流浹也. 到此田地, 若更分別那箇是心, 那箇是氣, 即勞攘爾. 不知可以如此否? 不然, 即成語病無疑. 若更非是, 無惜勁論, 吾儕正要如此."

34.

"錄示明道二絶句, 便是吟風弄月[96], 有'吾與點也'[97] 之氣味. 某尚疑此詩, 若是初見周茂叔歸時之句即可, 此後所發之語, 恐又不然也."

35.

"二蘇<語>、<孟>説, 儘有好處. 蓋渠聰明過人, 天地間理道不過只是如此, 有時見到, 皆渠聰明之發也. 但見到處卻有病, 學者若要窮理, 亦不可不論. 某所謂'儘有商議'[98]者謂此爾. 如來諭云: '説養氣處, 皆顛倒了.' 渠本無淵源, 自應如此也. 然得惠此本, 所警多矣."

36.

"某兀坐於此, 朝夕無一事. 若可以一來, 甚佳. 致千萬意如此. 然又不敢必覬, 恐侍旁乏人, 老人或不樂, 即未可. 更須於此審處之. 某尋常處事, 每值情意迫切處, 即以輕重本末處之, 似少悔吝. 願於出處間更體此意."

1161년(辛巳, 주자 32세)

37.

辛巳二月二十四日書云: "示下所疑極荷不外, 已有鄙見之說繼其後矣. 但素來拙訥, 發脫道理不甚明亮, 得以意詳之可也."

38. #논어

問: "性相近也, 習相逺也."[99] 二程先生謂: '此言氣質之性, 非性之本.'[100] 尹和靖云: '性一也, 何以言相近? 葢由'習相逺'而為言.'[101] 熹按: 和靖之意, 云'性一也', 則正是言'性之本'、萬物之一源處. 所以云'近', 但對'逺'而言, 非實有異品而相近也. 竊謂此説意稍渾全, 不知是否?"

先生曰: "尹和靖之説雖渾全, 然卻似沒話可説, 學者無着力處. 恐須如二先生謂'此言氣質之性', 使人思索體認氣質之説道理如何為有力爾. 蓋氣質之性不究本源, 又由習而相逺, 政要玩此曲折也."

39. #논어

問: "'公山弗擾'[102]'佛肸'[103]二章, 程先生謂: '欲往者, 聖人以天下無不可改過之人, 故欲往; 然終不往者, 知其必不能改也.'[104] 又云: '欲往者, 示人以跡, 子路不喻.'[105]九夷、[106]浮海[107]之類. 熹疑召而欲往, 乃聖人虛明應物之心, 答其善意, 自然而發; 終不往者, 以其為惡已甚, 義不可復往也. 此乃聖人體用不偏, 道並行而不相悖處. 不知是否? 又兩條告子路不同者, 即其所疑而喻之爾. 子路於公山氏, 疑聖人之不必往, 故夫子言可往之理.此語意中微似'竿木隨身'[108]之意, 不知然否? 於佛肸, 恐其浼夫子也, 故夫子告以不能浼己之意. 不知是否? 又謂'示人以跡'者, 熹未喻其旨."

先生曰: "元晦前說深測聖人之心. 一箇體段甚好, 但更有少礙. 若使聖人之心不度義, 如此易動, 即非. 就此更下語. 又兩條告子路不同, 即其疑而踰之. 以下亦佳. '竿木隨身'之說, 氣象不好, 聖人定不如是. 元晦更熟玩孔子所答之語, 求一指歸處方是. 聖人廓然明達, 無所不可, 非道大徳宏者, 不能爾也. 子路未至此, 於所疑處即有礙. 龜山謂之'包羞',[109] 誠有味也. '示人以跡', 恐只是心跡. 據此, 事跡皆可為, 然又未必爾者, 蓋有憂樂行違確然之不同, 無定體也."

40. #논어

問: "'予欲無言',[110] 明道、龜山皆云'此語為門人而發.'[111] 熹恐此句從聖人前後際斷, 使言語不著處不知不覺地流出來, 非為門人發也. 子貢聞之而未喻, 故有疑問. 到後來自云: '夫子之文章可得而聞也; 夫子之言性與天道不可得而聞也',[112] 方是契此旨趣. 顏、曾則不待疑問; 若子貢以下, 又不知所疑也."

先生曰: "此一段說甚佳. 但云'前後際斷, 使言語不著處不知不覺地流出來', 恐不消如此説. 只玩夫子云'天何言哉? 四時行焉, 百物生焉, 天何言哉?'數語, 便見氣味深長, 則'予欲無言', 可知旨歸矣."

41. #논어 #인

問: "'殷有三仁焉',[113] 和靖先生曰: '無所擇於利害而為所當為, 惟仁者能之.'[114] 熹未見微子當去, 箕子當囚, 比干當死, 端的不可易處. 不知使三人者易地而處, 又何如? 東坡云: '箕子常欲立微子, 帝乙不從而立紂, 故箕子告微子曰: 『我舊云刻子, 王子不出, 我乃顛隮.』言我舊所言者害子, 子若不去, 并我得禍. 是以二子或去或囚. 蓋居可疑之地, 雖諫不見聴, 故不復諫. 比干則無所嫌, 故諫而死.' 胡明仲非之曰: '如此是避嫌疑、度利害也. 以此論仁, 不亦逺乎?' 熹按: 此破東坡之説甚善, 但明仲自解乃云: '微子, 殷王元子, 以存宗祀為重, 而非背國也; 比干, 三孤, 以義弼君, 以存人臣之義, 而非要名也; 箕子, 天畀九疇, 以存皇極之法, 為天而非貪生也.' 熹恐此説亦未盡善. 如箕子一節, 尤無意思. 不知三人者端的當為處, 當何如以求之?"

先生曰: "三人各以力量竭力而為之, 非有所擇. 此'求仁得仁'[115]者也. 微子義當去; 箕子囚奴, 偶不死爾; 比干即以死諫, 庶幾感悟. 存祀、九疇, 皆後來事, 初無此念也, 後來適然爾. 豈可相合看, 致仁人之心不瑩徹耶? 仁只是理, 初無彼此之辨. 當理而無私心, 即仁矣. 胡明仲破東坡之説可矣. 然所説三人後來事相牽, 何異介甫之説三仁? 恐如此政是病處, 昏了仁字, 不可不察."

42. #태극도설 #복괘

問: '太極動而生陽',[116] 先生嘗曰: '此只是理, 做已發看不得.' 熹疑既言'動而生陽', 即與復卦一陽生而'見天地之心'[117]何異? 竊恐'動而生陽', 即天地之喜怒哀樂發處, 於此即見天地之心; '二氣交感, 化生萬物',[118] 即人物之喜怒哀樂發處, 於此即見人物之心. 如此做兩節看, 不知得否?"

先生曰: "'太極動而生陽', 至理之源, 只是動靜闔闢. 至於終萬物、始萬物, 亦只是此理一貫也. 到得'二氣交感, 化生萬物'時, 又就人物上推, 亦只是此理. <中庸>以喜怒哀樂未發已發言之,[119] 又就人身上推尋,至於見得大本達道處, 又袞同只是此理. 此理就人身上推尋, 若不於未發已發處看, 即何緣知之? 蓋就天地之本源,與人物上推來, 不得不異. 此所以於'動而生陽', 難以為喜怒哀樂已發言之, 在天地只是理也. 今欲作兩節看, 切恐差了. 復卦'見天地之心', 先儒以為靜見天地之心, 伊川先生以為動乃見,[120] 此恐便是'動而生陽'之理. 然於復卦發出此一段示人, 又於初爻以顏子'不逺復'[121]為之, 此只要示人無間斷之意. 人與天理一也, 就此理上皆收攝來, '與天地合其徳, 與日月合其明, 與四時合其序, 與鬼神合其吉凶',[122] 皆其度內爾. 妄測度如此, 未知元晦以為如何? 有疑, 更容他日得見劇論. 語言既拙, 又無文采, 似發脫不出也. 元晦可意會消詳之, 看理道通否?"

43.

辛巳上元日書云: "昔嘗得之師友緒餘, 以謂學問有未愜適處, 只求諸心. 若'反身而誠',[123] 清通和樂之象見, 即是自得處. 更望勉力以此而已."

44.

辛巳五月二十六日書云: "某村居一切如舊, 無可言者. 窘束為人事所牽, 間有情意不快處, 一切消釋, 不復能恤. 葢'日昃之離',[124] 理應如此爾."

45. #쇄락 #융석

"承諭'近日學履甚適, 向所耽戀不灑落處, 今已漸融釋.' 此便是道理進之效, 甚善甚善. 思索有窒礙, 及於日用動靜之間有咈戾處, 便於此致思, 求其所以然者, 乆之自循理爾."

46. #논어

"'五十知天命'[125]一句, 三先生之説皆不敢輕看. 某尋常看此數句, 竊以謂人之生也, 自少壯至於老耄, 血氣盛衰消長自不同. 學者若循其理, 不為其所使, 則聖人之言自可以馴致[126]. 但聖賢所至處淺深之不同爾. 若五十矣, 尚昧於所為, 即大不可也. 橫渠之説似有此意, 試一思索看如何?"

47. #쇄락

辛己中元[127]後一日書云: "諭及所疑數處, 詳味之, 所見皆正當, 可喜. 但於灑落處, 恐未免滯礙. 今此便速, 不暇及之, 謹俟涼爽, 可以來訪, 就曲折處相難, 庶彼此或有少補焉爾."

48.

辛己十月十日書云: "看文字必覺有味, 靜而定否?"

49. #미발기상

"承録示<韋齋記>, 追往念舊, 令人淒然. 某中間所舉<中庸>始終之説, 元晦以謂'『肫肫其仁, 淵淵其淵, 浩浩其天』[128]即全體, 是未發底道理, 惟聖人盡性能然.' 若如此看, 即於全體何處不是此氣象? 第恐無甚氣味爾. 某竊以謂'肫肫其仁'以下三句, 乃是體認到此'達天徳'之效處. 就喜怒哀樂未發處存養, 至見此氣象, 儘有地位也. 某嘗見呂芸閣與伊川論中説. 呂以謂'循性而行, 無往而非禮義.'[129] 伊川以謂氣味殊少.[130] 呂復書云云, 政謂此爾. 大率論文字切在深潛縝宻, 然後蹊徑不差. 釋氏所謂'一超直入如來地',[131] 恐其失處正坐此, 不可不辨."

50.

"某衰晚, 碌碌只如舊. 所恨者, 中年以來即為師友捐棄, 獨學無助; 又涉世故, 沮困殆甚. 尚存初心, 有端緒之可求, 時時見於心目爾."

1162년(壬午, 주자 33세)

51.

壬午四月二十二日書云: "吾儕在今日, 只可於僻寂處草木衣食, 苟度此嵗月為可, 他一切置之度外, 惟求進此學問為庶幾爾. 若欲進此學, 須是盡放棄平日習氣, 更鞭飭所不及處, 使之脫然有自得處, 始是道理少進. 承諭'應接少暇即體究, 方知以前皆是低看了道理', 此乃知覺之効, 更在勉之. 有所疑, 便中無惜詳及, 庶幾彼此得以自警也."

52.

壬午五月十四日書云: "承諭'處事擾擾, 便似內外離絶, 不相該貫', 此病可於靜坐時收攝, 將來看是如何, 便如此就偏著處理會, 乆之知覺, 即漸漸可就道理矣. 更望勉之也."

53. #인

壬午六月十一日書云: "承諭仁一字條陳所推測處, 足見日來進學之力, 甚慰. 某嘗以謂仁字極難講説, 只看天理統體便是; 更心字亦難指説, 唯認取發用處是心. 二字須要體認得極分明, 方可下工夫. 仁字難説, <論語>一部, 只是説與門弟子求仁之方. 知所以用心, 庶幾私慾沈、天理見, 則知仁矣. 如顏子仲弓之問,[132] 聖人所以答之之語, 皆其要切用力處也. 孟子曰: '仁, 人心也',[133] 心體通有無、貫幽明, 無不包括, 與人指示於發用處求之也. 又曰: '仁者, 人也',[134] 人之一體, 便是天理, 無所不備具. 若合而言之, 人與仁之名亡, 則渾是道理也. 來諭以謂'仁是心之正理, 能發能用底一箇端緒, 如胎育包涵其中, 生氣無不純備, 而流動發生自然之機, 又無傾刻停息, 憤盈發洩, 觸處貫通, 體用相循, 初無間斷.' 此説推擴得甚好. 但又云: '人之所以為人而異乎禽獸者, 以是而已, 若犬之性、牛之性, 則不得而與焉.' 若如此説, 恐有礙. 蓋天地中所生物, 本源則一, 雖禽獸草木, 生理亦無頃刻停息間斷者. 但人得其秀而最靈, 五常中和之氣所聚, 禽獸得其偏而已. 此其所以異也. 若謂'流動發生自然之機, 與夫無傾刻停息間斷', 即禽獸之體亦自如此. 若以為'此理唯人獨得之', 即恐推測體認處未精, 於他處便有差也. 又云: '須體認到此純一不雜處, 方見渾然與物同體氣象'一段語, 卻無病. 又云: '從此推出分殊合宜處便是義. 以下數句, 莫不由此, 而仁一以貫之. 蓋五常百行, 無往而非仁也.' 此說大概是, 然細推之, 卻似不曾體認得. 伊川所謂'理一分殊',[135] 龜山云'知其理一, 所以為仁; 知其分殊, 所以為義'[136]之意, 蓋全在知字上用著力也. <謝上蔡語録>云: '不仁便是死漢不識痛癢了.'[137] 仁字只是有知覺了了之體段, 若於此不下工夫令透徹, 即何緣見得本源毫髪之分殊哉? 若於此不了了, 即體用不能兼舉矣. 此正是本源體用兼舉處. 人道之立, 正在於此. 仁之一字, 正如四徳之元; 而仁義二字, 正如立天道之隂陽、立地道之柔剛, 皆包攝在此二字爾. 大抵學者多為私慾所分, 故用力不精, 不見其効. 若欲於此進步, 須把斷諸路頭, 靜坐黙識, 使之泥滓漸漸消去方可. 不然, 亦只是説也. 更熟思之."

54. #논어

"'葉公問孔子於子路, 子路不對'[138]一章, 昔日得之於吾黨中人, 謂'葉公亦當時號賢者, 夫子名徳經天緯地, 人孰不識之, 葉公尚自見問於其徒, 所見如此, 宜子路之不對也.' 若如此看, 仲尼之徒渾是客氣, 非所以觀子路也. 蓋弟子形容聖人盛徳, 有所難言爾. 如'女奚不曰'下面三句, 元晦以謂'『發憤忘食』者, 言其求道之切. 聖人自道理中流出, 即言求道之切', 恐非所以言聖人. 此三句只好渾然作一氣象看, 則見聖人渾是道理, 不見有身世之礙, 故'不知老之將至爾.' 元晦更以此意推廣之看, 如何? 大抵夫子一極際氣象, 終是難形容也. 尹和靖以謂'皆不居其聖之意',[139] 此亦甚大. 但'不居其聖'一節事, 乃是門人推尊其實如此. 故孔子不居, 因事而見爾. 若常以'不居其聖'橫在肚裡, 則非所以言聖人矣. 如何如何?"

55.

"以今日事勢觀之, 處此時, 唯'儉徳避難',[140] 更加韜晦為得所, 他皆不敢以姑息自恕之事奉聞也. 元晦更切勉之. 上蔡先生語, 近看甚有力. 渠一處云: '凡事必有根'; 又云: '必須有用處尋討要用處, 病根將來斬斷便沒事.'[141] 此語可時時經心也."

56.

壬午七月二十一日書云:某在建安竟不樂彼,蓋初與家人約二老,只欲在此。繼而家人為兒輩所迫,不能謹守,遂往,某獨處家中,亦自不便,故不獲已,往來彼此不甚快。自念所寓而安方是道理,今乃如此,正好就此下工夫,看病痛在甚處以驗之。他皆不足道也。某幸得早從羅先生遊,自少時粗聞端緒,中年一無佽助,為世事淟汩者甚矣。所幸比年來得吾元晦相與講學於頺墯中,復此激發,恐庶幾於晚境也。何慰之如。

57.

封事熟讀數過,立意甚佳。今日所以不振,立志不定、事功不成者,正坐此以和議為名爾。書中論之甚善,見前。此赦文中有和議處一條,又有事迫許便宜從事之語,蓋皆持兩端使人心疑也,要之斷然不可和。自整頓紀綱,以大義斷之,以示天下向背,立為國是可爾。此處更可引此,又許便宜從事,更下數語以曉之,如何?某不能文不能下筆也。封事中有少疑處,已用貼紙貼出矣,更詳之。明道語雲,治道在於修己責任求賢,封事中此意皆有之矣,甚善甚善。吾儕雖在山野,憂世之心但無所伸爾,亦可早發去為佳。

58.

辛巳八月七日書云:某歸家凡百,只如舊,但兒輩所見凡下,家中全不整頓,至有疎漏欲頺敝處,氣象殊不佳。既歸來,不免令人略略修治,亦須苟完可爾。家人猶豫未歸,諸事終不便,亦欲於冷落境界上打疊,庶幾漸近道理,他不敢恤。但一味窘束,亦有沮敗人佳處,無可奈何也。

59.

謝上蔡語極好玩味,蓋渠皆是於日用上下工夫,又言語只平説,尤見氣味深長。今已抄得一本矣,謹以奉內,恐亦好看也。

60. #인 #맹자

問:熹昨妄謂'仁之一字, 乃人之所以為人而異乎禽獸者',先生不以為然,熹因以先生之言思之,而得其説,敢復求正於左右。熹竊謂天地生物本乎一源,人與禽獸草木之生莫不具有此理,其一體之中即無絲毫欠剰,其一氣之運亦無頃刻停息。所謂仁也[先生批云:有有血氣者,有無血氣者,更體究此處],但氣有清濁,故稟有偏正,惟人得其正,故能知其本。具此理而存之,而見其為仁。物得其偏,故雖具此理,而不自知,而無以見其為仁。然則仁之為仁,人與物不得不同;知人之為人而存之,人與物不得不異。故伊川夫子既言理一分殊,而龜山又有知其理一知其分殊之説,而先生以為全在知字上用著力,恐亦是此意也[先生勾斷批云:以上大概得之。他日更用熟講體認]。不知果是如此否?又詳伊川之語推測之,竊謂理一而分殊此一句,言理之本然如此,全在性分之內、本體未發時看[先生抹出批云:須是兼本體已發未發時看、合內外為可],合而言之,則莫非此理。然其中無一物之不該,便自有許多差別。雖散殊錯糅不可名狀,而纎微之間同異畢顯,所謂理一而分殊也。知其理一所以為仁,知其分殊所以為義此二句,乃是於發用處該攝本體而言,因此端緒而下工夫以推尋之處也。蓋理一而分殊一句,正如孟子所云必有事焉之處,而下文兩句即其所以有事乎,此之謂也[先生抹出批云:恐不須引孟子説以證之,孟子之説若以微言,恐下工夫處落空,如釋氏然。孟子之説亦無隠顯精微之間,今録謝上蔡一説於後玩味之,即無時不是此理也。此説極有力]。大抵仁字正是天理流動之機,以其包容和粹涵育融漾不可名貌,故特謂之仁,其中自然文理宻察各有定體處便是義。只此二字包括人道已盡,義固不能出乎仁之外,仁亦不離乎義之內也。然則理一而分殊者,乃是本然之仁義[先生勾斷批云:推測到此一段甚宻為得之,加以涵養,何患不見道也。甚慰甚慰]。前此乃以從此推出分殊合宜處為義,失之逺矣,又不知如此上則推測又還是不,更乞指教。

先生曰:謝上蔡雲: '吾常習忘以養生,明道曰施之養則可,於道則有害。習忘可以養生者,以其不留情也。學道則異於是,必有事焉勿正,何謂乎,且出入起居寧無事者?正心待之則先事而迎,忘則涉乎去,念助則近於留情,故聖人心如鑑,所以異於釋氏心也。[142]上蔡録明道此語,於學者甚有力,蓋尋常於靜處體認下工夫,即於閙處使不著,蓋不曾如此用功也。自非謝先生確實於日用處便下工夫[又言吾每就上作工夫學],即恐明道此語亦未必引得出來。此語録所以極好玩索,近方看見如此意思顯然。元晦於此更思看如何,唯於日用處便下工夫,或就事上便下工夫,庶幾漸可合為己物。不然只是説也。某輒妄意如此,如何如何。

61.

問:熹又問孟子養氣一章,向者雖蒙曲折面誨,而愚意竟未見一總會處。近日求之頗見大體,只是要得心氣合而已,故説持其志無暴其氣,必有事焉而勿正心勿忘勿助長也,皆是緊切處,只是要得這裏所存主處分明,則一身之氣自然一時奔湊翕聚,向這裡來存之不已,及其充積盛滿,晬面盎背便是塞乎天地氣象,非求之外也。如此則心氣合一,不見其間,心之所向全氣隨之,雖加齊之卿相得行道焉,亦沛然行其所無事而已。何動心之有。易曰直方大不習無不利,而文言曰敬義立而徳不孤,則不疑其所行也。正是此理。不審先生以為如何?先生曰:養氣大概是要得心與氣合,不然心是心氣是氣,不見所謂集義處,終不能合一也。元晦雲睟面盎背便是塞乎天地氣象,與下雲亦沛然行其所無事二處為得之,見得此理甚好。然心氣合一之象更用體察,令分曉路陌,方是某尋常覺得於畔援歆羨之時,未必皆是正理,亦心與氣合到此,若彷彿有此氣象。一差則所失多矣。豈所謂浩然之氣耶?某竊謂孟子所謂養氣者自有一端緒,須從知言處養來乃不差。於知言處下工夫,儘用熟也。謝上蔡多謂於田地上面下工夫,此知言之説。乃田地也,先於此體認,令精審認取,心與氣合之時,不倚不偏,氣象是如何,方可看易中所謂直方大不習無不利然後不疑其所行皆沛然矣。元晦更於此致思,看如何。某率然如此,極不揆。是與非更俟他日面會商量可也。

62.

問:熹近看中庸鬼神一章,竊謂此章正是發明顯微無間只是一理處,且如鬼神有甚形跡,然人卻自然有畏敬之心,以承祭祀便如真有一物在其上下左右。此理亦有甚形跡,然人卻自然秉彛之性,才存主著這裏便自見得許多道理,參前倚衡,雖欲頃刻離而遁之而不可得,只為至誠貫徹實有是理,無端無方無二無雜,方其未感寂然不動,及其既感,無所不通。濂溪翁所謂靜無而動有至正而明達者,於此亦可以見之。不審先生以為如何?先生曰:此段看得甚好,更引濂溪翁所謂靜無而動有作一貫曉會尤佳。中庸發明微顯之理,於承祭祀時為言者,若謂於此時鬼神之理昭然易見,令學者有入頭處爾。但更有一説,若看此理,須於四方八面盡皆收入體究來,令有會心處,方是謝上蔡雲鬼神、橫渠説得來別這箇便是天地間妙用,須是將來做箇題目入思慮始得。講説不濟事。又雲鬼神自家要有便有要無便無,更於此數者一併體認,不可滯在一隅也。某偶見如此,如何如何。

63.

壬午八月九日書云:此箇氣味為上下相咻無不如此者,這箇風俗如何得變。某於此有感焉。當今之時,苟有修飭之士,須大段涵養韜晦始得。若一旦齟齬有所去就,雖去流俗逺矣,然以全體論之,得失未免相半也。使衰世之公子皆信厚,須如文王方得。若未也,恐不若且誦龜山與胡文定梅花詩,直是氣味深長也。如何[龜山詩:欲驅殘臘變春風,只有寒梅作選鋒,莫把疎英輕鬭雪,好藏清艶月明中。右渚宮觀梅寄康侯]

64.

韜晦一事,嘗驗之極難,自非大段涵養深潛,定不能如此,遇事輒發矣,亦不可輕看也。如何如何[書後注此數語]

65.

十月朔日書云:承諭近日看仁一字,頗有見處。但乍喧乍靜乍明乍暗,子細點檢,儘有勞攘處。詳此足見潛心體認用力之效。蓋須自見得病痛窒礙處,然後可進,因此而修治之,推測自可見。甚慰甚慰。孟子曰夫仁亦在夫熟之而已。乍明乍暗乍喧乍靜,皆未熟之病也。更望勉之。至祝至祝。

1163년(癸未, 주자 34세)

66.

癸未五月二十三日書云:近日涵養,必見應事脫然處,否須就事兼體用下工夫,乆乆純熟,漸可見渾然氣象矣。勉之勉之。

67.

六月十四日書云:承諭,令表弟之去,反而思之,中心不能無愧悔之恨。自非有志於求仁,何以覺此?《語録》有雲罪已責躬不可無,然亦不可常留在心中為悔。來諭雲悔吝己顯然,如何便銷隕得胸中,若如此,即於道理極有礙。有此氣象,即道理進步不得矣。政不可不就此理會也。某竊以謂有失處罪已責躬固不可無,然過此以往,又將奈何?常留在胸中,卻是積下一團私意也。到此境界,須推求其所以愧悔不去為何而來。若來諭所謂,似是於平日事親事長處不曾存得恭順謹畏之心,即隨處發見之時,即於此處就本源處推究涵養之,令漸明,即此等固滯私意當漸化矣。又昔聞之羅先生雲,橫渠教人,令且留意神化二字,所存者神,便能所過者化。私吝盡無,即渾是道理,即所過自然化矣。更望以此二説,於靜黙時及日用處下工夫看如何。吾輩今日所以差池、道理不進者,只為多有坐此境界中爾。禪學者則不然,渠亦有此病,卻只要絶念不採,以是為息滅,殊非吾儒就事上各有條理也。元晦試更以是思之如何,或體究得不以為然,便中示報為望。[後見先生又云:前日所答只是據今日病處説,語録中意卻未盡。他所以如此説,只是提破隨人分量看得如何,若地位高低人微有如此處,只如此提破,即渙然冰釋,無復凝滯矣]

68.

某人之去傳者,以為緣衆士人於通衢罵辱之,責以講和誤國之罪,時事遂激而一變。或以為逐此人誠快輿論,然罵辱之者亦無行遣,恐使人失上下之分。某竊以為不然。今日之事,只為不曾於原本處理會,末流雖是,亦何益。不共戴天,正今日第一義。舉此不知其他,即弘上下之道而氣正矣。遐方所以盛者,只為三綱五常之道衰也。

69.

七月十三日書云:在此粗安。第終不樂於此,若以謂隨所寓而安之,即於此臲卼便不是。此微處皆學者之大病。大凡只於微處充擴之,方見礙者大爾。

70.

七月二十八日書云:今日三綱不振,義利不分,緣三綱不振故人心邪辟不堪用,是致上下之氣間隔,而中國之道衰逺方盛,皆由此來也;義利不分,自王安石用事,陷溺人心,至今不自知覺。如前日有旨有陞擢差遣之類,緣有此利誘,故人只趨利而不顧義,而主勢孤。此二事皆今日之急者,欲人主於此畱意,二者苟不爾。則是雖有粟,吾得而食諸也。

유평보에게 보내는 편지(與劉平甫書)

71.

與劉平甫書云:學問之道不在於多言,但黙坐澄心,體認天理,若見雖一毫私慾之發,亦自退聴矣。乆乆用力於此,庶幾漸明,講學始有力也。

72.

又與劉平甫書云:大率有疑處,須靜坐體究人倫,必明天理,必察於日用處著力,可見端緒在,勉之爾。

후록(後錄)

1.

李延平初間也是豪邁底人,到後來也是磨琢之功,在鄉若不異於常人。鄉曲以上底人,只道他是箇善人,他也略不與人説,待問了方與説。

2.

羅仲素先生嚴毅清苦,殊可畏。

3.

李先生終日危坐,而神彩精明,畧無隤墮之氣。

4.

問延平先生言行,曰:他卻不曾著書,充養得極好。凡為學也,不過是恁地涵養將去,初無異義。只是先生晬面盎背,自然不可及。

5.

明道教人靜坐,李先生亦教人靜坐。看來須是靜坐始能收斂。

6.

羅仲素都是著實子細去理會

7.

延平先生氣象好

8.

熹初為學,全無見成規模,這邊也去理會尋討,那邊也去理會尋討。後來見李先生,較説得有下落,更縝密

9.

李先生説:人心中大段惡念卻易制伏,最是那不大段計利害乍往乍來底念慮,相續不斷,難為驅除。今看得來是如此。

10.

或問:近見廖子晦言,今年見先生問延平先生靜坐之説,先生頗不以為然。不知如何?曰:這事難説。靜坐理會道理自不妨,只是討要靜坐則不可。只是理會得道理明透,自然是靜。今人都是討靜坐以省事,則不可。嘗見李先生說,舊見羅先生説春秋,頗覺不甚好。不知到羅浮靜極後又理會得如何[是時羅已死]。某心常疑之,以今觀之,是如此。蓋心下熱閙,如何看得道理出?須是靜方看得出。所謂靜坐,只是打疊得心下無事,則道理始出。道理既出,心下愈明靜矣。

11.

行夫問:李先生謂常存此心,勿為事物所勝,先生答之云云。頃之復曰李先生涵養得自是別真,所謂不為事物所勝者,古人云終日無疾言遽色,他真箇是如此。尋常人去近處必徐行,出逺處行必稍急。先生出近處也如此,出逺處亦只如此。尋常人呌一人,呌之一二聲不至,則聲必厲。先生呌之不至,聲不加於前也。又如坐處壁間有字,某每常亦須起頭一看,若先生則不然,方其坐時固不看也,若是欲看,則必起就壁下視之。其不為事物所勝大率若此。嘗聞先生後生時極豪邁,一飲必數十盃,醉則好馳馬,一驟三二十里不迥。後來收得恁地醇粹,所以難及。

12.

問:先生所作李先生行狀,雲終日危坐以驗夫喜怒哀樂之前氣象為如何,而求所謂中者,與伊川之説若不相似。曰這處是舊日下得語太重,今以伊川之語格之,則其下工夫處亦是有些子偏。只是被先生靜得極了,便自見得是箇覺處,不似別人,今終日危坐,只是且収斂在此,勝如奔馳。若一向如此,又似坐禪入定。

13.

淳問:延平欲於未發之時觀其氣象,此與楊氏體驗於未發之前者異同如何?曰:這箇亦有些病,那體驗字是有箇思量了便是已發,若觀時恁著意看便也是已發。問:此體驗是着意觀只恁平常否?曰:此亦是以不觀觀之。

14.

或問:延平先生何故驗於喜怒哀樂未發之前而求所謂中?曰:只是要見氣象。陳後之曰:持守良乆亦可見未發氣象。曰:延平即是此意。若一向這裏,又差從釋氏去。

15.

李先生雲,看聖賢言語,但一踔看過,便見道理者,卻是真意思。纔著心去看,便蹉過了多。

16.

道喪千載,兩程勃興。有的其緒,龜山是承。龜山之南,道則與俱。有覺其徒,望門以趨。惟時豫章,傳得其宗。一簞一瓢,凜然高風。猗歟先生,果自得師。身世兩忘,惟道是資。精義造約,窮深極微。凍解氷釋,發於天機。乾端坤倪,鬼祕神彰。風霆之變,日月之光,爰暨山川,草木昆蟲,人倫之正,王道之中。一以貫之,其外無餘。縷析毫差,其分則殊。體用混圓,隠顯昭融。萬變並酬,浮雲太空。仁孝友弟,灑落誠明。清通和樂,展也大成。婆娑丘林,世莫我知,優哉游哉,卒嵗以嬉。迨其季年,徳盛道尊,有來摳衣,發其蔽昏。侯伯聞風,擁篲以迎,大本大經,是度是程。稅駕雲初,講議有端。疾病乗之,醫窮技殫。嗚呼先生,而止於斯。命之不融,誰實屍之?合散屈伸,消息滿虛。廓然太公,與化為徒。古今一息,曷計短長。物我一身,孰為窮通,嗟惟聖學,不絶如綫,先生得之,既厚以全。進未獲施,退未及傳,殉身以沒,孰雲非天!熹也小生,丱角趨拜,恭惟先君,實共源派。誾誾侃侃,斂衽推先,氷壺秋月,謂公則然。施及後人,敢渝斯志,從游十年,誘掖諄至。春山朝榮,秋堂夜空。即事即理,無幽不窮,相期日深,見勵彌切。蹇步方休,鞭繩已掣,安車暑行,過我衡門,返斾相遭,涼秋已分。熹於此時,適有命召,問所宜言,反覆教詔,最後有言:吾子勉之,凡茲衆理,子所自知。奉以周旋,幸不失墜。歸裝朝嚴,訃音夕至。失聲長號,淚落懸泉。何意斯言,而訣終天!病不舉扶,沒不飯含,奔走後人,死有餘憾。儀刑永隔,卒業無期,墜緒茫茫,孰知我悲。伏哭柩前,奉奠以贄。不亡者存,鑒此誠意[祭文]。

17.

先生諱侗,字願中,姓李氏。南劒州劒浦人,曾祖諱幹,屯田郎中致仕,贈金紫光祿大夫。妣清源郡太夫人朱氏;祖諱纁,朝散大夫贈中奉大夫,妣永嘉郡太君胡氏咸寧郡太君朱氏;父諱渙,朝奉郎贈右朝議大夫,妣大恭人饒氏。先生朝議公之季子也,生有異稟,幼而穎悟,少長孝友謹篤。朝議公大恭人特所鍾愛。既冠逰鄉校,有聲稱。已而聞郡人羅仲素先生得河雒之學於龜山楊文靖公之門,遂往學焉。羅公清介絶俗,雖里人鮮克知之,見先生從逰受業,或頗非笑。先生若不聞,從之累年,受春秋中庸語孟之説,從容潛玩,有會於心,盡得其所傳之奧。羅公少然可亟稱許焉,於是退而屏居山田,結茅水竹之間,謝絶世故。餘四十年。簞瓢屢空,怡然自適。中間郡將學官聞其名而招致之,或遣子弟從游受學,州郡士子有以矜式焉。晚以二子舉進士,試吏旁郡,更請迎養,先生不得已為一行,自建安如鉛山,訪外家兄弟於昭武,過其門弟子故人於武夷潭溪之上,徜徉而歸。會閩帥玉山汪公以書禮車乗來迎,蓋將相與講所疑焉,先生因往見之。至之日疾作,遂卒於府治之館舍。是年七十有一矣。隆興元年十月十有五日也。汪公為遣參議官王君伯序,觀察推官謝公倣護喪事躬視棺斂,禮意喪具無不周悉。居數日,諸子畢至,遂以喪歸。先生娶同郡吳氏,子男三人:友直,左修職郎,信州鉛山縣尉;信甫,左修職郎,建寧府建安縣主簿;友聞,未仕。女一人,早亡。孫男四人女八人,皆幼。初龜山先生倡道東南,士之游其門者甚衆,然語其潛思力行任重詣極如羅公,蓋一人而已。先生既從之學,講誦之餘,危坐終日,以驗夫喜怒哀樂未發前之氣象為如何,而求所謂中者。若是者蓋乆之,而知天下之大本真有在乎是也。蓋天下之理無不由是而出,既得其本,則凡出於此者,雖品節萬殊曲折萬變,莫不該攝洞貫,以次融釋,而各有條理,如川流脈絡之不可亂。大而天地之所以高厚,細而品彚之所以化育,以至於經訓之微言,日用之小物,折之於此,無一不得其衷焉。由是操存益固,涵養益熟,精明純一,觸處洞然。泛應曲酬,發必中節。故其事親誠孝,左右無違。仲兄性剛多忤,先生事之致誠盡敬,更得其歡心焉。閨門內外夷愉肅穆,若無人聲,而衆事自理。與族姻舊故恩意篤厚,乆而不忘。生事素薄,然處之有道,量入為出,賓祭謹飭,租賦必為。鄰里先親戚或貧不能婚嫁,為之經理,節衣食以賑助之。與鄉人處,食飲言笑,終日油油如也。年長者事之盡禮,少者賤者接之各盡其道,以故鄉人愛敬,暴悍化服。其接後學答問,窮晝夜不倦,隨人淺深誘之各不同,而要以反身自得,而可以入於聖賢之域。故其言曰:學問之道不在多言,但黙坐澄心,體認天理,若見雖一毫私慾之發,亦退聴矣,乆乆用力於此,庶幾漸明,講學始有力耳。又嘗曰:學者之病,在於未有灑然氷解凍釋處,縦有力持守,不過苟免,顯然悔尤而已。若此者恐未足道也。又嘗曰:今人之學與古人異,如孔門諸子羣居終日,交相切磨,又得夫子為之依歸,日用之間觀感而化者多矣。恐於融釋而脫落處,非言説所及也,不然子貢何以言夫子之言性與天道不可得而聞也耶?嘗以黃太史稱濂溪周夫子胸中灑落如光風霽月雲者為善形容,有道者氣象嘗諷誦之。而顧謂學者曰:存此於胸中,庶幾遇事廓然,而義理少進矣。其語中庸曰:聖門之傳是書,其所以開悟後學無遺策矣,然所謂喜怒哀樂未發之謂中者,又一篇之指要也。若徒記誦而已,則亦奚以為哉,必也體之於身,實見是理,若顏子之歎卓然見其為一物而不違乎心目之間也,然後擴充而往,無所不通,則庶乎其可以言中庸矣。其語春秋曰:春秋一事各是發明一例,如觀山水,徙步而形勢不同,不可拘以一法。然所以難言者,蓋以常人之心推測聖人,未到聖人灑然處,豈能無失耶?其於語孟他經,無不貫達,苟有疑問,答之必極其趣。然語之而不惰者或寡矣,蓋嘗曰:讀書者知其所言莫非吾事,而即吾身以求之,則凡聖賢所至而吾所未至者,皆可勉而進矣。若直以文字求之,恱其詞義以資誦說,其不為玩物喪志者幾希。以故未嘗為講解文書。然其辨析精微,毫釐畢察,嘗語問者曰:講學切在深潛縝宻,然後氣味深長,蹊徑不差,若槩以理一而不察乎分之殊,此學者所以流於疑似亂真之說而不自知也。其開端示人大要類此。先生姿稟勁特,氣節豪邁,而充養完粹,無復圭角。精純之氣達於靣目,色溫言厲,神定氣和,語黙動靜端詳閒泰,自然之中若有成法。平居恂恂於事若無甚可否,及其酬酢事變斷以義理,則有截然不可犯者。蚤嵗聞道,即棄場屋,超然逺引,若無意於當世。然憂時論事,感激動人,其語治道,必以明天理正人心、崇節義厲廉恥為先,本末備具,可舉而行,非特空言而已。異端之學無所入於其心,然一聞其説,則知其詖淫邪遁之所以然者,蓋辨之於錙銖眇忽之間,而儒釋之邪正分矣。熹先君子與先生為同門友,雅敬重焉,嘗與沙縣鄧迪天啟語及先生,鄧曰:願中如氷壺秋月,瑩徹無瑕,非吾曹所及。先君子深以為知言,亟稱道之。其後熹獲從先生逰,每一去而復來,則所聞必益超絶。蓋其上達不已,日新如此。嗚呼,若先生之道徳純備,學術通明,求之當世,殆絶倫比!然不求知於世而已。未嘗輕以語人,故上之人既莫之知,而學者亦莫之識,是以進不獲施之於時,退未及傳之於後,而先生方且玩其所安樂者於畎畆之中,悠然不知老之將至,蓋所謂依乎中庸,遯世不見知而不悔者,先生庶幾焉!比年以來,學者始益親,而方伯連帥之賢者又樂聞其道,而邀致之,其意豈徒然哉,不幸天喪斯文,而先生沒矣。龜山之所聞於程夫子而授之羅公者,至是而不得其傳矣!嗚呼痛哉,諸孤方謀窀穸之事,謂熹承學之乆,宜知先生之藴,使具其事以請銘於作者,將勒諸幽堂,以告後世知徳者有以考焉。熹愚不肖,蒙被教育,不為不乆;聴其言、觀其行而服膺焉,不為不詳。然未能有以得其逺者大者,故悉取凡聞見所及一二書之詞,若繁而不敢殺者,蓋有待於筆削雲耳。謹狀[行狀]

각주

  1. <정씨경설> 4-235 春秋大義數十. 其義雖大, 炳如日星, 乃易見也, 惟其微辭隱義, 時措從宜者爲難知也.
  2. <논어> <학이> 11. 子曰:「父在,觀其志;父沒,觀其行;三年無改於父之道,可謂孝矣。」
  3. 전거 미상
  4. <논어> <리인> 18. 子曰:「事父母幾諫。見志不從,又敬不違,勞而不怨。」
  5. <한어대사전> 4. 漸進貌。
  6. <한어대사전> 成法, 法度。
  7. <논어> <위정> 6. 孟武伯問孝。子曰:「父母唯其疾之憂。」
  8. <논어주소> 馬曰:「武伯,懿子之子仲孫彘。武,謚也。言孝子不妄為非,唯疾病然後使父母憂。」
  9. <논어> <태백> 3. 曾子有疾,召門弟子曰:「啟予足!啟予手!《詩》云『戰戰兢兢,如臨深淵,如履薄冰。』而今而後,吾知免夫!小子!」
  10. <논어> <리인> 19. 子曰:「父母在,不遠遊。遊必有方。」
  11. <예기> <곡례상> 為人子者,居不主奧,坐不中席,行不中道,立不中門。食饗不為概,祭祀不為尸。聽於無聲,視於無形。不登高,不臨深。不茍訾,不茍笑。
  12. <논어> <위정> 7. 子游問孝。子曰:「今之孝者,是謂能養。至於犬馬,皆能有養;不敬,何以別乎?」
  13. <춘추좌전> 선공4년 楚人獻黿於鄭靈公. 公子宋與子家將見, 子公之食指動. 以示子家曰: "他日我如此, 必嘗異味." 及入, 宰夫將解黿, 相視而笑. 公問之, 子家以告. 及食大夫黿, 召子公而弗與也. 子公怒, 染指於鼎, 嘗之而出. 公怒, 欲殺子公. 子公與子家謀先. 子家曰: "畜老猶憚殺之, 而況君乎?" 反譖子家, 子家懼而從之, 夏弒靈公. 書曰: "鄭公子歸生弒其君夷", 權不足也. 君子曰: "仁而不武, 無能達也. 凡弒君稱君, 君無道也; 稱臣, 臣之罪也."(초나라에서 정영공에게 자라를 바쳤다. 공자송(자공)이 공자가(귀생)와 영공을 뵈려고 했는데, 공자송의 검지가 움직였다. 공자송은 이를 공자가에게 내보이며 말했다: "전에 내 검지가 이러면 반드시 별미를 맛보았다네!" 두 사람이 궁에 들어가보니 재부가 자라를 해체하려고 하고 있었으므로 서로 바라보며 웃었다. 영공이 웃는 까닭을 물으니 공자가가 그 이유를 아뢰었다. 대부들에게 자라를 대접할 때 영공은 공자송을 부르기만 하고 주지는 않았다. 공자송이 분노해 손가락을 솥에 넣어 찍어먹어보고는 나가버렸다. 영공이 노해 공자송을 죽이려고 했다. 그러자 공자송은 공자가와 영공에게 선수를 치려고 했다. 공자가가 말했다: "늙은 가축도 죽이기 꺼려지는데, 하물며 임금은 어떻겠는가?" 공자송이 도리어 공자가를 영공에게 참소하자, 공자가는 두려워 공자송의 작전에 따라 여름에 영공을 시해했다. <춘추>에서 "정공자 귀생(공자가)이 제 임금 이(영공)를 시해했다"고 기록한 것은 공자가의 권력이 공자송의 난을 막기에 부족했기 때문이다. 군자는 다음과 같이 평했다: "인하더라도 무위가 없으면 인을 이룩할 수 없다." 범례에 따르면, 임금을 시해한 사건에 임금의 이름을 일컬은 것은 임금이 무도했기 때문이고, 신하의 이름을 일컬은 것은 신하의 죄 때문이다.
  14. <춘추좌전> 소공19년 夏, 許悼公瘧. 五月戊辰, 飲大子止之藥, 卒, 大子奔晉. 書曰: "弒其君." 君子曰: "盡心力以事君, 舍藥物可也."(여름에 허도공이 학질에 걸렸다. 5월 무진일에 태자 지가 올린 약을 먹고 죽자, 태자가 진나라로 달아났다. <춘추>에서 "제 임금을 시해했다"고 기록했다. 군자는 다음과 같이 평했다: "몸과 마음을 다해 임금을 섬겼다면, [잘 모르는] 약물은 건드리지 않는 것이 옳았을 것이다."
  15. <논어> <위정> 9. 子曰:「吾與回言終日,不違如愚。退而省其私,亦足以發。回也,不愚。」
  16. <논어> <팔일> 8. 子夏問曰:「『巧笑倩兮,美目盼兮,素以為絢兮。』何謂也?」子曰:「繪事後素。」曰:「禮後乎?」子曰:「起予者商也!始可與言詩已矣。」
  17. <논어> <선진> 3. 子曰:「回也非助我者也,於吾言無所不說。」
  18. <논어> <위정> 18. 子張學干祿。子曰:「多聞闕疑,慎言其餘,則寡尤;多見闕殆,慎行其餘,則寡悔。言寡尤,行寡悔,祿在其中矣。」
  19. <맹자> <진심하> 33. 孟子曰:「堯舜,性者也;湯武,反之也。動容周旋中禮者,盛德之至也;哭死而哀,非為生者也;經德不回,非以干祿也;言語必信,非以正行也。君子行法,以俟命而已矣。」
  20. 『이정외서』 6-31 尤罪自外至也, 悔理自內出也. 修天爵則人爵至祿在其中矣. 子張學干祿, 故告之以此, 使定其心而不爲利祿動.
  21. <이정유서> 07-15 只外面有些隙罅, 便走了.
  22. 7조목 참조.
  23. <춘추> <환공> 二年,春,王正月,戊申,宋督弒其君與夷,及其大夫孔父。 滕子來朝。
  24. 呂本中, <呂氏春秋集解> 伊川先生解: "滕本侯爵, 後服屬於楚, 故降稱子, 夷狄之也."
  25. 전거 미상
  26. <춘추> <정공> 15년. 秋,七月,壬申,姒氏卒。…… 九月,滕子來會葬。丁巳,葬我君定公,雨不克葬,戊午,日下吳,乃克葬,辛巳,葬定姒。
  27. 전거 미상
  28. <이정유서> 20-02 問:「左傳可信否?」 曰:「不可全信, 信其可信者耳. 某年二十[貳拾]時, 看春秋, 黃聲隅問某如何看? 答之曰:『有兩句法云: 以傳考經之事迹, 以經別傳之眞僞.』」 又問:「公·穀如何?」 曰:「又次於左氏.」 「左氏卽是丘明否?」 曰:「傳中無丘明字, 不可考.」
  29. <논어> <학이> 12. 有子曰:「禮之用,和為貴。先王之道斯為美,小大由之。有所不行,知和而和,不以禮節之,亦不可行也。」
  30. <맹자> <이루상> 27. 孟子曰:「仁之實,事親是也;義之實,從兄是也。智之實,知斯二者弗去是也;禮之實,節文斯二者是也;樂之實,樂斯二者,樂則生矣;生則惡可已也,惡可已,則不知足之蹈之、手之舞之。」
  31. <논어> <학이> 13. 有子曰:「信近於義,言可復也;恭近於禮,遠恥辱也;因不失其親,亦可宗也。」
  32. <정몽> <有德篇第十二> 君子寧言之不顧,不規規於非義之信;寧身被困辱,不徇人以非禮之恭;寧孤立無助,不失親於可賤之人;三者知和而能以禮節之也,與上有子之言文相屬而不相蒙者。凡論語、孟子發明前文,義各未盡者皆挈之。他皆放此。
  33. <예기> <치의> 子曰:「君子道人以言,而禁人以行。故言必慮其所終,而行必稽其所敝;則民謹於言而慎於行。
  34. <논맹정의>에는 "明道曰"로 되어있다.
  35. <이정유서> 08-31 「因不失其親」, 信本不及義, 恭本不及禮, 然信近於義者, 以言可復也, 恭近於禮者, 以遠恥辱也, 因恭信不失其所以, 一無以字. 親近於禮義, 故亦可宗也. 如言禮義不可得見, 得見恭信者斯可矣.
  36. <논어> <위정> 2. 子曰:「詩三百,一言以蔽之,曰『思無邪』。」
  37. <시경> <노송> <駉> 薄言駉者、有駰有騢、有驔有魚、以車祛祛。思無邪、思馬斯徂。
  38. 소철, <論語拾遺> 故曰: '思無邪, 思馬思徂.' 苟思馬而馬應, 則凡思之所及, 無不應也. 此所以為'感而遂通天下之故'也.
  39. <시경> <용풍> <定之方中> 匪直也人、秉心塞淵、騋牝三千。
  40. <논어> <위정> 4. 子曰:「吾十有五而志于學,三十而立,四十而不惑,五十而知天命,六十而耳順,七十而從心所欲,不踰矩。」
  41. <정몽> <三十篇第十一> 常人之學, 日益而不自知也; 仲尼學行習察, 異於他人. 故自十五至於七十, 化而知裁. 其徳進之盛者與!
  42. <맹자> <진심상> 24. 孟子曰:「孔子登東山而小魯,登太山而小天下。故觀於海者難為水,遊於聖人之門者難為言。觀水有術,必觀其瀾。日月有明,容光必照焉。流水之為物也,不盈科不行;君子之志於道也,不成章不達。」
  43. <이정유서> 15-89 孔子自十五至七十, 進德直有許多節次. 聖人未必然, 然亦是一作且. 爲學者立下一法, 盈科而後進, 須是成章乃達.
  44. <논어> <팔일> 10. 子曰:「禘自既灌而往者,吾不欲觀之矣。」
  45. <이정외서> 6-36 灌以降神禘之始也. 旣灌而往者自始以至終皆無足觀言魯祭之非禮也. 不知者蓋爲魯諱如自此事而正之其於天下如指掌之易 <伊川>
  46. <예기> <예운> 言偃復問曰:「夫子之極言禮也,可得而聞與?」孔子曰:「我欲觀夏道,是故之杞,而不足徵也;吾得夏時焉。我欲觀殷道,是故之宋,而不足徵也;吾得坤乾焉。坤乾之義,夏時之等,吾以是觀之。」
  47. <예기> <예운> 孔子曰:「於呼哀哉!我觀周道,幽、厲傷之,吾舍魯何適矣!魯之郊禘,非禮也,周公其衰矣!杞之郊也禹也,宋之郊也契也,是天子之事守也。故天子祭天地,諸侯祭社稷。」
  48. 趙順孫, <論語纂疏> 謝氏曰: "夫子嘗曰: '我欲觀夏道, 是故之杞而不足證也; 我欲觀商道, 是故之宋而不足證也.' 又曰: '我觀周道, 幽厲傷之, 吾舎魯何適矣? 魯之郊禘, 非禮也, 周公其衰矣. 考之杞宋, 已如彼; 考之當今, 又如此, 孔子所以深歎也."
  49. <순자> <예론> 大昏之未發齊也,太廟之未入尸也,始卒之未小斂也,一也。
  50. <논맹정의> 呂曰: "荀卿言: '喪之未小斂也, 大昏之未發齊也, 祭祀之未納尸也', 正與此意合. 禮既灌然後迎牲迎尸, 則未灌之前, 其誠意交於神明者至矣; 既灌而後特人事耳, 故有不必觀也."
  51. <예기> <예운> 孔子曰:「於呼哀哉!我觀周道,幽、厲傷之,吾舍魯何適矣!魯之郊禘,非禮也,周公其衰矣!杞之郊也禹也,宋之郊也契也,是天子之事守也。故天子祭天地,諸侯祭社稷。」
  52. <논어> <팔일> 11. 或問禘之說。子曰:「不知也。知其說者之於天下也,其如示諸斯乎!」指其掌。
  53. <주역> <계사상> 4. 易與天地準,故能彌綸天地之道。仰以觀於天文,俯以察於地理,是故知幽明之故。原始反終,故知死生之說。精氣為物,遊魂為變,是故知鬼神之情狀。
  54. <논어> <팔일> 11. 或問禘之說。子曰:「不知也。知其說者之於天下也,其如示諸斯乎!」指其掌。
  55. <이정외서> 6-36 灌以降神禘之始也. 旣灌而往者, 自始以至終, 皆無足觀, 言魯祭之非禮也. 不知者, 蓋爲魯諱. 如自此事而正之, 其於天下, 如指掌之易. <伊川>
  56. <예기> <제통> 故曰:禘、嘗之義大矣。治國之本也,不可不知也。明其義者君也,能其事者臣也。不明其義,君人不全;不能其事,為臣不全。
  57. <논어> <팔일> 12. 祭如在,祭神如神在。子曰:「吾不與祭,如不祭。」
  58. <논어> <팔일> 26. 子曰:「居上不寬,為禮不敬,臨喪不哀,吾何以觀之哉?」
  59. <중용장구> 25장. 誠者自成也,而道自道也。誠者物之終始,不誠無物。是故君子誠之為貴。
  60. <논어> <리인> 15. 子曰:「參乎!吾道一以貫之。」曾子曰:「唯。」子出。門人問曰:「何謂也?」曾子曰:「夫子之道,忠恕而已矣。」
  61. <중용장구> 13장. 忠恕違道不遠,施諸己而不愿,亦勿施於人。
  62. <맹자> <이루하> 19. 孟子曰:「人之所以異於禽於獸者幾希,庶民去之,君子存之。舜明於庶物,察於人倫,由仁義行,非行仁義也。」
  63. <시경> <주송> <維天之命> 維天之命、於穆不已。於乎不顯、文王之德之純。
  64. <주역> 건괘 <단전> 乾道變化,各正性命,保合大和,乃利貞。
  65. <이정외서> 7-2 伊川曰: "'維天之命, 於穆不已', 忠也; '乾道變化, 各正性命', 恕也."
  66. <동파전집> 권92 師弟子答問未嘗不唯, 而曾子之'唯'獨記於<論語>. 一'唯'之外, 口耳俱喪. 而門人方欲問其所謂, 此繫風捕影之流, 何足實告哉?
  67. <맹자> <고자하> 2. 堯舜之道,孝弟而已矣。
  68. <이천역전> <서> 至微者, 理也; 至著者, 象也. 體用一源, 顯微无間.
  69. <중용장구> 13장. 忠恕違道不遠,施諸己而不愿,亦勿施於人。
  70. <이정유서> 03-98 入道莫如敬, 未有能致知而不在敬者.
  71. <논어> <안연> 1. 顏淵問仁。子曰:「克己復禮為仁。一日克己復禮,天下歸仁焉。為仁由己,而由人乎哉?」
  72. <이정문집> 8-13 <四箴幷序> 顔淵問克已復禮之目, 夫子曰: "非禮勿視, 非禮勿聽, 非禮勿言, 非禮勿動. 四者, 身之用也. 由乎中而應乎外, 制於外, 所以養其中也. 顔淵事斯語, 所以進於聖人. 後之學聖人者宜服膺而勿失也. 因箴以自警.
  73. <한어대사전> 41. 副詞。 僅僅;僅只。▶ 《朱子語類》卷五一: “所謂事之宜, 方是指那事物當然之理, 未說到處置合宜處也。”
  74. <한어대사전> 大致, 大略。▶ 《朱子語類》卷一一三: “先生言: ‘前輩諸賢多只是略綽見得箇道理便休, 少有苦心理會者。 ’”
  75. <이정유서> 02上-214 伯淳昔在長安倉中閑坐, 後見長廊柱, 以意數之, 已尙不疑, 再數之不合, 不免令人一一聲言而數之, 乃與初數者無差, 則知越著心把捉越不定.
  76. <논어> <옹야> 5. 子曰:「回也,其心三月不違仁,其餘則日月至焉而已矣。」
  77. <한어대사전> 多用於書信結尾, 表示懇切的請求或希望。
  78. 상해고적 <주자전서> 제13책 342쪽 [15] '邇書‘光緒本作‘遺書’,正誼堂本作‘通書’。
  79. <논어> <공야장> 12. 子貢曰:「夫子之文章,可得而聞也;夫子之言性與天道,不可得而聞也。」
  80. <이정유서> 02上-28 學者須先識仁. 仁者, 渾然與物同體. 義,禮,智,信, 皆仁也.識得此理, 以誠敬存之而已, 不須防檢, 不須窮索.
  81. 한유, <原人> 天者,日月星辰之主也;地者,草木山川之主也;人者,夷狄禽獸之主也。主而暴之,不得其為主之道矣。是故聖人一視而同仁,篤近而舉遠。
  82. <상채어록> 권2 投壺非著意, 非不著意, 莫知其所以然而中, 此神之所為也. 但教毎事如此.
  83. <중용장구> 16장. 子曰:「鬼神之為德,其盛矣乎!視之而弗見,聽之而弗聞,體物而不可遺。
  84. <중용장구> 1장. 莫見乎隱,莫顯乎微。故君子慎其獨也。
  85. <중용장구> 16장. 子曰:「鬼神之為德,其盛矣乎!視之而弗見,聽之而弗聞,體物而不可遺。
  86. 衛湜, <禮記集說> 권124.(<중용> 수장 "道也者,不可須臾離也,可離非道也。是故君子戒慎乎其所不睹,恐懼乎其所不聞。莫見乎隱,莫顯乎微,故君子慎其獨也。"에 달린 주석) [藍田呂氏]又曰: "所謂中者, 性與天道也. 謂之有物, 則不得於言; 謂之無物, 則必有事焉. 不得於言者, 視之不見, 聽之不聞, 無聲形接乎耳目而可以道也; 必有事焉者, 莫見乎隱, 莫顯乎微, 體物而不可遺者也."
  87. <중용장구> 8장. 子曰:「回之為人也,擇乎中庸,得一善,則拳拳服膺而弗失之矣。」
  88. 衞湜, <禮記集說> 권128. 藍田吕氏曰: ... "鬼神者, 無形故視之不見; 無聲故聽之不聞. 然萬物之生, 莫不有氣, 氣也者, 神之盛也; 莫不有魄, 魄也者, 鬼之盛也. 故人亦鬼神之會爾. 此體物而不可遺者也. 鬼神者, 周流天地之間, 無所不在. 雖寂然不動而有感必通; 通雖無形無聲, 而有所謂昭昭不可欺者. 故如在其上, 如在其左右也. 弗見弗聞, 可謂㣲矣, 然體物而不可遺, 此之謂顯; 周流天地之間, 昭昭而不可欺, 可謂誠矣. 然因感而必通, 此之謂不可揜."
  89. <맹자> <공손추상> 2. 必有事焉而勿正,心勿忘,勿助長也。無若宋人然:宋人有閔其苗之不長而揠之者,芒芒然歸。謂其人曰:『今日病矣,予助苗長矣。』其子趨而往視之,苗則槁矣。天下之不助苗長者寡矣。以為無益而舍之者,不耘苗者也;助之長者,揠苗者也。非徒無益,而又害之。
  90. <한어대사전> [涬溟] 自然混沌之氣。▶ 《莊子‧在宥》: “大同乎涬溟, 解心釋神, 莫然無魂。” ▶ 成玄英 疏: “溟涬, 自然之氣也。 茫蕩身心大同, 自然合體也。”
  91. <연평답문> 29조목. 四五十年間, 每遇情意不可堪處, 即猛省提掇, 以故初心未嘗忘廢, 非不用力, 而迄於今更無進步處.
  92. <대학장구> 전6장. 富潤屋,德潤身,心廣體胖,故君子必誠其意。
  93. <연평답문> 25조목.
  94. <논어> <옹야> 5. 子曰:「回也,其心三月不違仁,其餘則日月至焉而已矣。」
  95. <연평답문> 28조목. 為此説者, 非理道明, 心與氣合, 未易可以言此.
  96. <이정유서> 03-10 詩可以興. 某自再見茂叔後, 吟風弄月以歸, 有「吾與點也」之意.
  97. <논어> <선진> 25. 「點!爾何如?」鼓瑟希,鏗爾,舍瑟而作。對曰:「異乎三子者之撰。」子曰:「何傷乎?亦各言其志也。」曰:「莫春者,春服既成。冠者五六人,童子六七人,浴乎沂,風乎舞雩,詠而歸。」夫子喟然歎曰;「吾與點也!」
  98. <연평답문> 26조목. 二蘇語、孟説, 儘有可商論處, 俟他日見面論之.
  99. <논어> <양화> 2. 子曰:「性相近也,習相遠也。」
  100. <이정유서> 18-103 「『性相近也, 習相遠也』, 性一也, 何以言相近?」 曰:「此只是言氣質之性, 如俗言性急性緩之類, 性安有緩急? 此言性者, 生之謂性也.」 ; 같은 책, 19-36 「性相近也」, 此言所禀之性, 不是言性之本. 孟子所言, 便正言性之本.
  101. <논맹정의> 권9上 尹曰: "性一也, 何以言相近? 葢由習則逺而為言."
  102. <논어> <양화> 5. 公山弗擾以費畔,召,子欲往。; 6. 子路不說,曰:「末之也已,何必公山氏之之也。」子曰:「夫召我者而豈徒哉?如有用我者,吾其為東周乎?」
  103. <논어> <양화> 8. 佛肸召,子欲往。子路曰:「昔者由也聞諸夫子曰:『親於其身為不善者,君子不入也。』佛肸以中牟畔,子之往也,如之何!」子曰:「然。有是言也。不曰堅乎,磨而不磷;不曰白乎,涅而不緇。吾豈匏瓜也哉?焉能繫而不食?」
  104. <이정유서> 22上-83 公山弗擾·佛肹召, 子欲往者, 聖人以天下無不可與有爲之人, 亦無不可改過之人, 故欲往. 然終不往者, 知其必不能改也.
  105. <이정유서> 08-26 佛肹召, 欲往而不往者何也? 聖人示之以迹, 子路不諭.
  106. <논어> <자한> 13. 子欲居九夷。或曰:「陋,如之何!」子曰:「君子居之,何陋之有?」
  107. <논어> <공야장> 6. 子曰:「道不行,乘桴浮于海。從我者其由與?」子路聞之喜。子曰:「由也好勇過我,無所取材。」
  108. <景德傳燈錄> 권6 <道一禪師> T51n2076_006 [0246a21] "鄧隱峰辭師, 師云: '什麼處去?' 對云: '石頭去.' 師云: '石頭路滑.' 對云: '竿木隨身, 逢場作戲.'"(등운봉이 마조선사에게 작별을 고했다. 선사가 물었다: "어디로 가는가?" 등운봉이 대답했다: "석두로 갑니다." 선사가 말했다: "석두로 가는 길은 미끄럽네." 등운봉이 대답했다: "장대를 가지고 다니다가 괜찮은 곳을 만나면 놀아보렵니다."
  109. <주역> 否괘 六三:包羞。
  110. <논어> <양화> 20. 子曰:「予欲無言。」 子貢曰:「子如不言,則小子何述焉?」 子曰:「天何言哉?四時行焉,百物生焉,天何言哉?」
  111. <이정유서> 01-01 至如孔子, 道如日星之明, 猶患門人未能盡曉, 故曰『予欲無言』. ; <논맹정의> 권17 楊曰: "子貢能言者也, 而天下之理有言之不能諭者, 故子曰: '子欲無言'以發之."
  112. <논어> <공야장> 12. 子貢曰:「夫子之文章,可得而聞也;夫子之言性與天道,不可得而聞也。」
  113. <논어> <미자> 1. 微子去之,箕子為之奴,比干諫而死。孔子曰:「殷有三仁焉。」
  114. <논맹정의> 권18. 尹曰: "無所擇於利害而為所當為, 惟仁者能之. 君子 之事不必同也, 其於利害無所擇, 則一也."
  115. <논어> <술이> 14. 冉有曰:「夫子為衛君乎?」子貢曰:「諾。吾將問之。」 入,曰:「伯夷、叔齊何人也?」曰:「古之賢人也。」曰:「怨乎?」曰:「求仁而得仁,又何怨。」出,曰:「夫子不為也。」
  116. <태극도설> 無極而太極. 太極動而生陽, 動極而靜, 靜而生陰. 靜極復動. 一動一靜, 互爲其根; 分陰分陽, 兩儀立焉.
  117. <주역> 복괘 <단전> 復亨;剛反,動而以順行,是以出入无疾,朋來无咎。反復其道,七日來復,天行也。利有攸往,剛長也。復其見天地之心乎?
  118. <태극도설> 二氣交感, 化生萬物. 萬物生生, 而變化無窮焉.
  119. <중용장구> 1장. 喜怒哀樂之未發,謂之中;發而皆中節,謂之和。中也者,天下之大本也;和也者,天下之達道也。
  120. <이정유서> 18-83. 自古儒者皆言靜見天地之心, 唯某言動而見天地之心.
  121. <주역> 복괘 初九:不遠復,无祗悔,元吉。; <계사하> 5. 子曰:「顏氏之子,其殆庶幾乎?有不善未嘗不知,知之未嘗復行也。易曰:『不遠復,无祇悔,元吉。』
  122. <주역> 건괘 <문언> 夫「大人」者、與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶,先天而天弗違,後天而奉天時。天且弗違,而況於人乎?況於鬼神乎?
  123. <맹자> <진심상> 4. 孟子曰:「萬物皆備於我矣。反身而誠,樂莫大焉。強恕而行,求仁莫近焉。」
  124. <주역> 離괘 九三:日昃之離,不鼓缶而歌,則大耋之嗟,凶。
  125. <논어> <위정> 4. 子曰:「吾十有五而志于學,三十而立,四十而不惑,五十而知天命,六十而耳順,七十而從心所欲,不踰矩。」
  126. <한어대사전> 亦作“馴至”。逐漸達到;逐漸招致。 <주역> 곤괘 초효 <상전> 履霜堅冰,陰始凝也。馴致其道,至堅冰也。
  127. <한어대사전> 1. 指農曆七月十五日。 舊時道觀於此日作齋醮, 僧寺作盂蘭盆會, 民俗亦有祭祀亡故親人等活動。
  128. <중용장구> 32장. 唯天下至誠,為能經綸天下之大經,立天下之大本,知天地之化育。夫焉有所倚?肫肫其仁!淵淵其淵!浩浩其天!苟不固聰明聖知達天德者,其孰能知之?
  129. <이정문집> 9-19 <與呂大臨論中書> 大臨云: 旣云率性之謂道, 則循性而行, 莫非道. 此非性中別有道也, 中卽性也.
  130. <이정문집> 9-19 <與呂大臨論中書> 來敎云: '所謂『循性而行, 無往而非義理』, 言雖無病, 而聖人氣味殊少.' 大臨反而思之, 方覺辭氣迫窘, 無沈浸醲厚之風.
  131. T51n2076 <景德傳燈錄> 第30卷 <永嘉真覺大師證道歌> 勢力盡箭還墜。招得來生不如意。爭似無為實相門。一超直入如來地。
  132. <논어> <안연> 1. 顏淵問仁。子曰:「克己復禮為仁。一日克己復禮,天下歸仁焉。為仁由己,而由人乎哉?」; 2. 仲弓問仁。子曰:「出門如見大賓,使民如承大祭。己所不欲,勿施於人。在邦無怨,在家無怨。」
  133. <맹자> <고자상> 11. 孟子曰:「仁,人心也;義,人路也。
  134. <맹자> <진심하> 16. 孟子曰:「仁也者,人也。合而言之,道也。」
  135. <이정문집> 9-20 <答楊時論西銘書> <西銘>明理一而分殊.
  136. <귀산집> 권20 <答胡康侯其一> 天下之物, 理一而分殊. 知其理一, 所以為仁; 知其分殊, 所以為義.
  137. <상채어록> 권1 問: "'求仁'如何下工夫?" 謝曰: "如顔子視聽言動上做亦得; 如曾子顏色、容貌、辭氣上做亦得. 出辭氣者, 猶佛所謂'從此心中流出'. 今人唱一喏, 不從心中出, 便是不識痛癢. 古人曰: '心不在焉, 視而不見, 聽而不聞, 食而不知其味.' 不見、不聞、不知味, 便是不仁. 死漢不識痛癢了. 又如仲弓'出門如見大賓, 使民如承大祭', 但存得如見大賔、如承大祭底心在, 便是識痛癢."
  138. <논어> <술이> 18. 葉公問孔子於子路,子路不對。子曰:「女奚不曰,其為人也,發憤忘食,樂以忘憂,不知老之將至云爾。」
  139. <논맹정의> 권7. 尹曰: "盡仁道即聖也. 唯聖人為能盡仁道. 夫子自謙而不敢當. 然行之而不厭, 誨人而不倦, 則知、仁備矣."
  140. <주역> 비괘 <상전> 天地不交,否;君子以儉德辟難,不可榮以祿。
  141. <상채어록> 권1. 游子問謝子曰: "公於外物, 一切放得下否?" 謝子謂胡子曰: "可謂切問矣." 胡子曰: "何以答之?" 謝子曰: "實向他道: '就上面做工夫來.'" 胡子曰: "如何做工夫?" 謝子曰: "凡事須有根. 屋柱無根, 折却便倒. 樹木有根, 雖翦枝條, 相次又發. 如人要富貴, 要他做甚? 必須有用處尋討要用處, 病根將來斬斷便没事."
  142. <이정외서> 12-35 謝子曰: "吾嘗習忘以養生." 明道曰: "施之養生則可; 於道則有害. 習忘可以養生者, 以其不留情也. 學道則異於是. '必有事焉而勿正', 何謂乎? 且出入起居寧無事者? 正心待之, 則先事而迎, 忘則涉乎去念; 助則近於留情. 故聖人心如鑑, 孟子所以異於釋氏此也." ; <상채어록> 권1. 謝子曰: "吾嘗習忘以養生." 明道曰: "施之養生則可;於道有害. 習忘可以養生者, 以其不留情也. 學道則異於是. 夫'必有事焉而勿正', 何謂乎? 且出入起居寧無事者? 正心以待之, 則先事而迎, 忘則涉乎去念; 助則近於留情. 故聖人之心如鑑, 孟子所以異於釋氏心也."