"연평답문"의 두 판 사이의 차이

DH 교육용 위키
이동: 둘러보기, 검색
(66.)
(56.)
257번째 줄: 257번째 줄:
  
 
====56.====
 
====56.====
壬午七月二十一日書云: "某在建安, 竟不樂彼. 蓋初與家人約, 二老只欲在此. 繼而家人為兒輩所迫, 不能謹守, 遂往. 某獨處家中, 亦自不便, 故不獲已往來, 彼此不甚快. 自念所寓而安, 方是道理, 今乃如此, 正好就此下工夫, 看病痛在甚處以驗之, 它皆不足道也. 某幸得早從羅先生遊, 自少時粗聞端緒, 中年一無佽助, 為世事淟汩者甚矣. 所幸比年來得吾元晦相與講學, 於頺墯中復此激發, 恐庶幾於晚境也. 何慰之如!"
+
壬午七月二十一日書云: "某在建安, 竟不樂彼. 蓋初與家人約, 二老只欲在此. 繼而家人為兒輩所迫, 不能謹守, 遂往. 某獨處家中, 亦自不便, 故不獲已<ref>不得已。</ref>往來, 彼此不甚快. 自念所寓而安, 方是道理, 今乃如此, 正好就此下工夫, 看病痛在甚處以驗之, 它皆不足道也. 某幸得早從羅先生遊, 自少時粗聞端緒, 中年一無佽助, 為世事淟汩者甚矣. 所幸比年來得吾元晦相與講學, 於頺墯中復此激發, 恐庶幾於晚境也. 何慰之如!"
  
 
====57.====
 
====57.====

2024년 3월 24일 (일) 15:08 판

목차

해제

의적단의 강독 작업 일환으로 개설한 페이지이다.
중국 위키소스 링크[1]
일본 KANRIPO 사고전서 링크[2]

원문

제요

《延平答問》一卷、《附錄》一卷, 宋朱子撰. 程子之學, 一傳為楊時, 再傳為羅從彥, 又再傳為李侗. 侗字願中, 延平其所居也. 侗於朱子為父執. 紹興二十三年, 朱子二十四歲, 將赴同安主簿任, 往見侗於延平, 始從受學. 紹興三十年冬, 同安任滿, 再見侗, 僅留月餘. 又閱四載而侗沒. 計前後相從, 不過數月. 故書劄往來, 問答為多. 後朱子輯而錄之. 又載其<與劉平甫>二條, 以成是書. 朱子門人又取朱子平昔論延平語, 及<祭文>、<行狀>別為一卷, 題曰《附錄》, 明非朱子原本所有也. 後侗裔孫葆初別掇拾侗之諸文, 增入一卷, 改題曰《延平文集》, 且總題為朱子所編, 殊失其舊. 今仍錄原本, 而葆初竄亂之本別存目於集部焉.

연평답문

1157년(丁丑, 주자 28세)

1. #함양 #야기

丁丑六月二十六日書云: "承諭涵養用力處, 足見近來好學之篤也, 甚慰甚慰. 但常存此心, 勿為他事所勝, 即欲慮非僻之念自不作矣. 孟子有夜氣之説, 更熟味之, 當見涵養用力處也. 於涵養處著力, 正是學者之要. 若不如此存養, 終不為己物也. 更望勉之."

1158년(戊寅, 주자 29세)

2.

戊寅七月十七日書云: "某村居, 一切只如舊, 有不可不應接處, 又難廢墮, 但靳靳度日爾. 朝夕無事, 齒髪皆已邁, 筋力漸不如昔, 所得於師友者往來,於心求所以脫然處,竟未得力. 頗以是懼爾."

3. #춘추

"『春秋』且將諸家熟看, 以胡文定解為凖. 玩味乆必自有會心處, 卒看不得也. 伊川先生云: '『春秋』大義數十, 炳如日星, 所易見也. 唯徴辭奧旨, 時措從宜者所難知爾.'[1] 更須詳考其事. 又玩味所書, 抑揚予奪之處看如何. 積道理多, 庶漸見之. 大率難得學者無相啟發處, 終憒憒不灑落爾."

4. #논어

問: "子曰: '父在觀其志, 父沒觀其行, 三年無改於父之道, 可謂孝矣.'[2] 東坡謂: '可改者不待三年.'[3] 熹以為使父之道有不幸不可不即改者, 亦當隠忍遷就於義理之中, 使事體漸正, 而人不見其改之之跡, 則雖不待三年而謂之無改可也. 此可見孝子之心, 與'幾諫'[4]事亦相類."

先生曰: "三年無改, 前輩論之詳矣. 類皆執文泥跡, 有所遷就, 失之. 須是認聖人所說, 於言外求意乃通. 所謂道者, 是猶可以通行者也. 三年之中, 日月易過, 若稍稍有不愜意處, 即率意改之, 則孝子之心何在? 如説『春秋』者, 不忍遽變左氏有官命未改之類, 有孝子之心者, 自有所不忍耳. 非斯須不忘、極體孝道者能如是耶? 東坡之語有所激而然, 是亦有意也. 事只有箇可與不可而已. 若大段有害處, 自應即改何疑? 恐不必言隠忍遷就, 使人不見其改之之跡. 此意雖未有害, 第恐處心如此, 即駸駸然[5]所失處卻多. 吾輩欲求寡過且謹守格法[6]為不差也. 幾諫事意恐不相類, 更思之."

5. #논어

問: "孟武伯問孝子曰: '父母唯其疾之憂.'[7] 舊説'孝子不妄為非, 唯疾病然後使父母憂.'[8] 熹恐夫子告孟孫之意不然, 蓋言父母之心慈愛其子, 無所不至. 疾病人所不免, 猶恐其有之以為憂, 則餘可知也. 為人子者知此, 而以父母之心為心, 則所以奉承遺體而求免於虧辱者, 豈一端而已哉? 此曾子所以戰戰兢兢、啟手足而後知免焉者也.[9] '不逺遊, 遊必有方'[10]、'不登高, 不臨深'[11]皆是此意."

先生曰: "'父母唯其疾之憂', 當如上所說為得之, 舊説不直截. 聖人之告人, 使知所以自求者, 惟深切庶可用力也."

6. #논어

問: "子游問孝子曰: '今之孝者,是謂能養. 至於犬馬, 皆能有養. 不敬何以別乎?'[12] 熹謂犬馬不能自食, 待人而食者也. 故蓄犬馬者必有以養之, 但不敬爾. 然則養其親而敬, 有所不至, 不幾於以犬馬視其親乎? 敬者, 尊敬而不敢忽忘之謂, 非特恭謹而已也. 人雖至愚, 孰忍以犬馬視其親者? 然不知幾微之間, 尊敬之心一有不至, 則是所以視其親者, 實無以異於犬馬而不自知也. 聖人之言警乎人子, 未有若是之切者. 然諸家之説, 多不出此. 熹謂當以『春秋』所書歸生、[13]許止[14]之事觀之, 則所謂犬馬之養, 誠不為過. 不然, 設譬引喻, 不應如是之疎; 而子游之賢, 亦不待如此告戒之也."

先生曰: "此一段, 恐當時之人習矣而不察, 只以能養為孝. 雖孔門學者, 亦恐未免如此. 故夫子警切以告之, 使之反諸心也. 苟推測至此, 孝敬之心一不存焉, 即陷於犬馬之養矣. 孟子又有養口體養志之説, 似亦説破學者之未察處, 皆所以警乎人子者也. 若謂以『春秋』所書之事觀之, 則所謂犬馬之養, 誠不為過, 恐不須如此說. 歸生、許止, 各是發明一例也."

7.#논어

問: "子曰: '吾與囘言終日, 不違如愚. 退而省其私, 亦足以發, 囘也不愚.'[15] 熹竊謂亦足以發, 是顏子聞言悟理, 心契神受之時, 夫子察焉, 而於心有感發也. 子夏禮後之問, 夫子以為起予,[16] 亦是類也. 但子夏所發在言語之間, 而顏子所發乃其所自得處, 有以黙相契合, 不待言而喻也. 然非聖人有所未知, 必待顏子而後發, 如言'非助我者'.[17] 豈聖人待門弟子答問之助耶?"

先生曰: "'亦足以發', 前説似近之, 恐與'起予'不類, 深玩之可見. '非助我者, 豈聖人待門弟子答問之助', 固是如此. 然亦須知顏子黙曉聖人之言, 便知親切道體處, 非枝葉之助也. 他人則不能見如此精微矣. 妄意如此氣象, 未知如何."

8.#논어

問: "子張學干祿, 夫子告以多聞多見闕疑殆, 而謹言行其餘.[18] 蓋不博無以致約, 故聞見以多為貴. 然不闕其所未信未安, 則言行之間意不誠矣, 故以闕之為善. 疑殆既闕而於言行有不謹焉, 則非所謂無敢慢者, 故以謹之為至. 有節於內若此, 尤悔何自而入乎? 然此皆庸言庸行之所必然, 非期以干祿也, 而祿固已在其中矣. 孟子曰: '經徳不囘, 非以干祿也'[19],與夫子之意一也. 伊川先生亦曰: '子張以仕為急, 故夫子告之以此, 使定其心而不為利祿動',[20] 恐亦是此意. 未知是否?"

先生曰: "古人干祿之意, 非後世之干祿也. 蓋胸中有所藴, 亦欲發洩而見諸事爾, 此為己之學也. 然求之有道, 苟未見所以求之之道, 一萌意焉, 則外馳矣. 故夫子以多聞見而闕疑殆告之, 又使之慎其餘, 則反求諸已也切矣. 故『孟子』有'經徳不囘, 非以干祿'之語. 苟能深體得此,則馳外之心不作矣. 伊川所謂'才有縫罅, 便走了'[21]之意."

9. #논어 #쇄연

戊寅冬至前二日書云: "承示問, 皆聖賢之至言, 某何足以知之? 而吾元晦好學之篤如此, 又安敢黙黙也? 輒以昔所聞者, 各箋釋於所問目之下, 聊以塞命爾. 他日若獲欵曲, 須面質論難, 又看合否如何? 大率須見灑然處, 然後為得. 雖說得行, 未敢以為然也."

10. #논어

問: "向以'亦足以發'之義求教,[22] 因引'起予'為證, 蒙批諭云'亦足以發'與'起予'不類. 熹反覆思之, 於此二者但見有淺深之異, 而未見全不相似處, 乞賜詳喻."

先生曰: "顏子氣象與子夏不同, 先玩味二人氣象於胷中, 然後體會夫子之言'亦足以發'與'起予者商也'之語氣象如何. 顏子深潛純粹, 於聖人體段已具, 故聞夫子之言, 即黙識心融, 觸處洞然自有條理. 故終日言但見其不違如愚而已, 退省其私, 則於語黙日用動容之間, 皆足以發明夫子之道, 坦然由之而無疑也. 子夏因問詩, 如不得'繪事後素'之言, 即'禮後'之意未必到, 似有因問此一事, 而夫子印可之意. 此所以不類也, 不知是如此否? 偶追憶前日所問處意不來, 又未知向日因如何疑而及此也, 更俟他日熟論."

11. #춘추 #쇄연

問: "『春秋』威公二年'滕子來朝'.[23] 按: 滕本稱侯, 伊川謂'服屬於楚, 故貶稱子'.[24] 熹按: 楚是時未與中國通, 滕又逺楚, 終春秋之世未嘗事楚, 但為宋役爾. 不知伊川別有何據? 又陳、蔡諸國後來屬楚者, 亦未嘗貶爵也. 胡文定以為'為朝威而貶之,以討亂賊之黨',[25] 此義似勝. 然滕自此不復稱侯, 至定公之喪, 來會葬, 猶稱子,[26] 夫豈以祖世有罪而並貶其子孫乎? 然則胡氏之説亦有可疑者. 不知當以何説為正? 胡氏又謂'凡朝威者皆貶, 獨紀侯以咨謀齊難而來, 志不在於朝威, 故再朝皆無貶焉.'[27] 熹竊以為果如此, 則是義理之正, 可以危急而棄之也. 不知『春秋』之法果如此否?"[二年"紀侯來朝", 『左氏』作'杞'字, 後有入杞會鄧事. 『傳』皆有説可據. 伊川、胡氏依公、榖作紀字.]

先生曰: "'滕子來朝', 考之『春秋』, 夫子凡所書諸侯來朝, 皆不與其朝也. 胡文定謂'春秋之時, 諸侯之朝, 皆無有合於先王之時世朝之禮者, 故書皆譏之也. 滕本稱侯, 威二年來朝, 稱子者以討亂賊之黨貶.' 於諸家之説義為精. 先儒又以為'時王所黜者'. 胡氏以為'果如此則『春秋』不作矣.' 恐先儒之説非. 來喻以謂'自此終春秋之世不復稱侯, 豈以祖世有罪而並貶其子孫乎?' 若如此言, 大段害理. 『春秋』與人改過遷善, 又善善長、惡惡短, 不應如此, 是可疑也. 某竊以謂從胡之説於理道為長. 觀夫子所書討亂之法甚嚴, 滕不以威之不義而朝之, 只在於合黨締交, 此夷狄也. 既已貶矣, 後世子孫碌碌無聞, 無以自見於時, 又壤地褊小, 本一子男之國. 宋之盟, 『左傳』有'宋人請滕', 欲以為私屬, 則不自強而碌碌於時者乆矣. 自一貶之後, 夫子再書, 各沿一義而發, 遽又以侯稱之, 無乃紛紛然淆亂, 『春秋』之旨不明而失其指乎? 蓋聖人之心, 必有其善, 然後進之. 若無所因, 是私意也, 豈聖人之心哉? 若如此看, 似於後世之疑不礙, 道理為通, 又不知如何? 『春秋』所以難看者, 蓋以常人之心推測聖人, 未到聖人灑然處, 豈能無失耶? 請俟他日反復面難, 庶幾或得其旨. 伊川之説, 考之諸處, 未見『春秋』之前服屬於楚事跡, 更俟尋攷. 又來喻以謂'紀侯來咨謀齊難, 志不在於朝威, 故再朝無貶, 則是義理之正可以危急而棄之.' 若果如此, 尤害義理. 『春秋』有誅意之説, 紀侯志不在於朝威, 則非滕子之類也. 列國有急難, 以義而動, 又何貶耶? '紀侯來朝', 左氏作杞字, 後有入杞之事, 傳皆有說. 胡氏因公、榖作紀字. 『春秋』似此類者多, 如齊子糾, 『左傳』只雲納糾. 伊川乃以二傳為證, 又嘗有看『春秋』之法云: '以傳考經之事跡, 以經別傳之真偽.'[28] 參考義理之長, 求聖人所書之意, 庶或得之."

12. #논어

問'禮之用, 和為貴'[29]一章之義.

先生曰: "孟子曰: '仁之實, 事親, 是也; 義之實, 從兄, 是也; 禮之實, 節文斯二者, 是也.'[30] 禮之道, 雖以和為貴, 然必須體其源流之所自來而節文之, 則不失矣. 若'小大由之'而無隆殺之辨, '知和而和', 於節文不明, 是皆不可行, 則禮之體用失矣. 世之君子, 有用禮之嚴至拘礙者, 和而失其節者, 皆非知禮者也. 故有子以是語門人, 使知其節爾."

13. #논어

問: "'因不失其親, 亦可宗也',[31] 橫渠先生曰: '君子寧孤立無與, 不失親於可賤之人.'[32] 熹據此, 則'因'也、'親'也、'宗'也, 皆依倚附託之名, 但言之漸重爾. 所因或失其所親,謂可賤之人不可親也. 則亦不可宗.人之可親者, 必可宗; 其不可親者, 必不可宗也. 故君子非'孤立無與'之患, 而不失其親為難. 其將欲有所因也, 必擇其可親者而因之. 使彼誠賢, 則我不失其所親, 而彼亦可宗矣. 立文與上二句相似, 皆'言必慮其所終, 行必稽其所敝'[33]之意. 不審尊意以為如何?"

先生曰: "伊川先生曰[34]: '信本不及義, 恭本不及禮. 然信近於義, 恭近於禮也. 信近於義, 以言可復也; 恭近於禮, 以逺恥辱也. 因恭信而不失親近於禮義, 故亦可宗也. 猶言禮義者不可得見, 得見恭信者可矣.[35] 詳味此語, 則失親於可賤之人, 自無有矣. 蓋以禮義為主故也."

14. #논어 #二蘇

問: "'<詩>三百, 一言以蔽之, 曰思無邪.'[36] 蘇東坡曰: '夫子之於<詩>, 取其會於吾心者, 斷章而言之. 頌魯侯者, 未必有意於是也.' 子由曰: '思無邪, 則思馬而馬應; 思馬而馬應, 則思之所及無不應也. 故曰: 『思無邪, 思馬斯徂.』[37] 此頌魯侯之意也.'[38] 兩説未知孰是?"

先生曰: "詩人興刺, 雖亦曲折達心之精微, 然必止乎禮義. 夫子刪而取之者以此爾. 若不止於禮義, 即邪也. 故三百篇, 一言足以蔽之, 只是'思無邪'而已. 所以能興起感動人之善心, 蓋以此也. 頌魯侯者, 偶於形容盛徳如此, 故曰: '思無邪'. 於馬言之者, 又有'秉心塞淵', 然後'騋牝三千'之意.[39]"

15. #논어

問: "'吾十有五而志於學'[40]一章,橫渠先生曰: '常人之學, 日益而莫自知也; 仲尼行著習察, 異於他人, 故自十五至於七十, 化而知裁. 其進徳之盛者與!'[41] 伊川先生曰: '孔子生而知之, 自十五至七十, 進徳直有許多節次者, 聖人未必然, 亦只是為學者立一下法. 盈科而後進, 不可差次, 須是成章乃達.[42]'[43] 兩説未知孰是?"

先生曰: "此一段, 二先生之説各發明一義, 意思深長. 橫渠云'化而知裁', 伊川云'盈科而後進, 不成章不達', 皆是有力處, 更當深體之可爾. 某竊以謂聖人之道中庸, 立言常以中人為説. 必十年乃一進者, 若使困而知學, 積十年之乆, 日孳孳而不倦, 是亦可以變化氣質而必一進也. 若以鹵莽滅裂之學, 而不用心焉, 雖十年亦只是如此, 則是自暴自棄之人爾. 言十年之漸次, 所以警乎學者, 雖中才, 於夫子之道皆可積習勉力而至焉, 聖人非不可及也. 不知更有此意否?"

16. #논어

問: "'禘自既灌而往者, 吾不欲觀之矣.'[44] 伊川曰: '灌以降神, 祭之始也. 既灌而往者, 自始及終, 皆不足觀. 言魯祭之非禮也.'[45] 謝氏引<禮記>曰: '吾欲觀夏道, 是故之杞而不足證也; 我欲觀殷道, 是故之宋而不足證也.'[46] '我觀周道, 幽、厲傷之, 吾舍魯何適矣? 魯之郊禘, 非禮也, 周公其衰矣.'[47] 以此為證, 而合此章於上文'杞、宋不足證'之説, 曰: '考之杞、宋, 則文獻不足; 考之當今, 則魯之郊禘又不足觀, 蓋傷之也.'[48] 呂博士引荀子'大昏之未發, 祭之未納尸, 喪之未小斂, 一也.'[49]解此,[50] 與趙氏<春秋纂例>之説, 不審何者為是?"

先生曰: "<記>曰: '魯之郊禘, 非禮也, 周公其衰矣.'[51] 以其難言, 故<春秋>皆因郊禘事中之失而書, 譏魯自在其中. 今曰: '禘自既灌而往者, 吾不欲觀之矣', 則是顛倒失禮, 如昭穆失序之類, 於灌而求神以至於終, 皆不足觀,蓋歎之也. 對或人之問, 又曰: '不知',[52] 則夫子之深意可知矣. 既曰: '不知', 又曰: '知其說者之於天下也, 其如示諸斯乎! 指其掌', 則非不知也, 只是難言爾. 原幽明之故, 知鬼神之情狀,[53] 則燭理深矣, 於天下也何有?"

17. #논어

問: "'或問禘之説'[54]一章, 伊川以此章屬之上文, 曰: '不知者, 蓋為魯諱. 知夫子不欲觀之説, 則天下萬物各正其名, 其治如指諸掌也.'[55] 或以為'此魯君所當問而不問, 或人不當問而問之, 故夫子以為不知, 所以微諷之也.' 餘如伊川説云. 龜山引<禮記>'禘嘗之義大矣, 治國之本也, 不可不知也. 明其義者, 君也; 能其事者, 臣也. 不明其義, 君人不全; 不能其事, 為臣不全.'[56] 非或人可得而知也. 其為義大, 豈度數云乎哉? 蓋有至賾存焉. 知此則於天下乎何有? 此數説, 不審孰是?"

先生曰: "詳味'禘自既灌'以下至'指其掌', 看夫子所指意處如何, 卻將前後數説皆包在其中, 似意思稍盡, 又未知然否?"

18. #논어

問: "'祭如在, 祭神如神在.'[57] 熹疑此二句乃弟子記孔子事. 又記孔子之言於下以發明之, 曰: '吾不與祭, 如不祭'也."

先生曰: "某嘗聞羅先生曰: '祭如在, 及見之者; 祭神如神在, 不及見之者.' 以至誠之意與鬼神交, 庶幾享之. 若誠心不至, 於禮有失焉, 則神不享矣, 雖祭也何為?"

19. #논어

問: "'居上不寛, 為禮不敬, 臨喪不哀, 吾何以觀之哉?'[58] 熹謂此非謂不足觀, 蓋'不誠無物'[59], 無物則無以觀之也."

先生曰: "居上寛、為禮敬、臨喪哀,皆其本也. 有其本而末應. 若無其本, 粲然文采, 何足觀?"

20. #논어 #충서 #일이관지

問: "'子曰: 『參乎! 吾道一以貫之.』 曾子曰: 『唯.』 子出, 門人問曰: 『何謂也?』 曾子曰: 『夫子之道, 忠恕而已矣.』'[60] 熹謂曾子之學主於誠身, 其於聖人之日用, 觀省而服習之, 蓋已熟矣. 惟未能即此以見夫道之全體, 則不免疑其有二也. 然用力之乆, 而亦將有以自得, 故夫子以'一以貫之'之語告之, 蓋當其可也.曾子惟此少許未達, 故夫子直以此告之. 曾子於是黙會其旨, 故門人有問而以'忠恕'告之. 蓋以夫子之道不離乎日用之間, 自其盡己而言則謂之忠; 自其及物而言則謂之恕, 莫非大道之全體. 雖變化萬殊於事為之末, 而所以貫之者, 未嘗不一也. 然則夫子所以告曾子, 曾子所以告其門人, 豈有異旨哉? 而或者以為'忠恕未足以盡一貫之道, 曾子姑以違道不逺者告其門人, 使知入道之端', 恐未曾盡曾子之意也. 如子思之言'忠恕違道不逺',[61] 乃是示人以入道之端, 如孟子之言'行仁義'[62]; 曾子之稱夫子, 乃所謂'由仁義行'者也."

先生曰: "伊川先生有言曰: '『維天之命, 於穆不已』,[63] 忠也; 『乾道變化, 各正性命』,[64] 恕也.'[65] 體會於一人之身, 不過只是盡已及物之心而已. 曾子於日用處, 夫子自有以見之, 恐其未必覺此亦是一貫之理, 故卒然問曰: '參乎! 吾道一以貫之.' 曾子於是領會而有得焉, 輒應之曰: '唯', 忘其所以言也. 東坡所謂'口耳俱喪'者,[66] 亦佳. 至於答門人之問, 只是發其心耳, 豈有二耶? 若以謂'聖人一以貫之之道, 其精微非門人之問所可告, 姑以忠恕答之', 恐聖賢之心不如是之支也. 如孟子稱'堯舜之道, 孝弟而已',[67] 人皆足以知之, 但合內外之道, 使之體用一源, 顯微無間,[68] 精粗不二, 袞同盡是此理, 則非聖人不能是也. <中庸>曰: '忠恕違道不逺',[69] 特起此以示人相近處, 然不能貫之, 則忠恕自是一忠恕爾."

21.

十一月十三日書云: "吾人大率坐此窘窶, 百事驅遣不行, 唯於稍易處處之為庶幾爾. 某村居兀坐, 一無所為, 亦以窘迫, 遇事窒塞處多. 毎以古人貧甚極難堪處自體, 即啜菽飲水, 亦自有餘矣. 夫復何言?"

22. #맹자 #야기 #구방심 #경 #쇄락 #융석

"來喻以為'人心之既放, 如木之既伐. 心雖既放, 然夜氣所息, 而平旦之氣生焉, 則其好惡猶與人相近; 木雖既伐, 然雨露所滋, 而萌櫱生焉, 則猶有木之性也.' 恐不用如此說. 大凡人禮義之心何嘗無? 唯持守之, 即在爾. 若於旦晝間不至梏亡, 則夜氣存矣; 夜氣存, 則平旦之氣未與物接之時, 湛然虛明, 氣象自可見. 此孟子發此夜氣之説, 於學者極有力. 若欲涵養, 須於此持守可爾, 恐不須説'心既放, 木既伐', 恐又似隔截爾. 如何如何?"

"又見喻云: '伊川所謂『未有致知而不在敬』者,[70] 考<大學>之序則不然.' 如夫子言非禮勿視聴言動,[71] 伊川以為'制之於外以養其中'數處,[72] 蓋皆各言其入道之序如此. 要之敬自在其中也, 不必牽合貫穿為一説."

"又所謂'但敬而不明於理, 則敬特出於勉強, 而無灑落自得之功, 意不誠矣.' 灑落自得氣象, 其地位甚高. 恐前數説, 方[73]是言學者下工處, 不如此則失之矣. 由此持守之乆, 漸漸融釋, 使之不見有制之於外持敬之心, 理與心為一, 庶幾灑落爾."

"某自聞師友之訓, 賴天之靈, 時常只在心目間, 雖資質不美, 世累妨奪處多, 此心未嘗敢忘也. 於聖賢之言, 亦時有會心處, 亦間有識其所以然者. 但覺見反為理道所縳, 殊無進步處. 今已老矣, 日益恐懼. 吾元晦乃不鄙孤陋寡聞, 逺有質問所疑, 何愧如之?"

1159년(己夘, 주자 30세)

23.

己夘六月二十二日書云: "聞不輟留意於經書中, 縦未深自得, 亦可以驅遣俗累, 氣象自安閒也."

24. #쇄연 #융석

己卯長至後三日書云: "今學者之病, 所患在於未有灑然氷解凍釋處. 縦有力持守, 不過只是苟免顯然尤悔而已. 似此恐皆不足道也."

1160년(庚辰, 주자 31세)

25. #쇄락 #야기 #미발기상 #정좌

庚辰五月八日書云: "某晚景別無他, 唯求道之心甚切. 雖間能窺測一二, 竟未有灑落處. 以此兀坐, 殊憒憒不快. 昔時朋友絶無人矣, 無可告語, 安得不至是耶? 可嘆可懼.

示諭夜氣説甚詳, 亦只是如此, 切不可更生枝節尋求, 即恐有差. 大率吾輩立志已定, 若看文字, 心慮一澄然之時, 略綽[74]一見與心會處, 便是正理. 若更生疑, 即恐滯礙. <伊川語録>中有記明道嘗在一倉中坐, 見廊柱多, 因黙數之, 疑以為未定, 屢數愈差, 遂至令一人敲柱數之, 乃與初黙數之數合,[75] 正謂此也. 夜氣之説所以於學者有力者,[76] 須是兼旦晝存養之功不至梏亡, 即夜氣清, 若旦晝間不能存養, 即夜氣何有! 疑此便是'日月至焉'[77]氣象也.

曩時某從羅先生學問, 終日相對靜坐, 只説文字, 未嘗及一雜語. 先生極好靜坐, 某時未有知, 退入室中亦只靜坐而已. 先生令靜中看喜怒哀樂未發之謂中未發時作何氣象, 此意不唯於進學有力, 兼亦是養心之要. 元晦偶有心恙, 不可思索, 更於此一句內求之, 靜坐看如何, 往往不能無補也.

此中相去稍逺, 思欲一見, 未之得. 恐元晦以親旁無人傔侍, 亦難一來, 奈何? 切望隨宜攝養, 勿貽親念為至禱[78]也."

26. #쇄락 #광풍제월 #二蘇

"承惠示濂溪遺文與潁濱語、孟, 極荷愛厚, 不敢忘不敢忘. 邇[79]書向亦曾見一二, 但不曾得見全本, 今乃得一觀, 殊慰卑抱也. 二蘇<語>、<孟>説, 儘有可商論處, 俟他日見面論之.

嘗愛黃魯直作<濂溪詩序>云: '舂陵周茂叔, 人品甚高, 胸中灑落, 如光風霽月.' 此句形容有道者氣象絶佳. '胸中灑落', 即作為盡灑落矣. 學者至此雖甚逺, 亦不可不常存此體段在胸中, 庶幾遇事廓然, 於道理方少進. 願更存養如此."

27.

"羅先生山居詩, 某記不全, 今只據追思得者録去.

<顏樂齋>詩云: '山染嵐光帶日黃, 蕭然茅屋枕池塘. 自知寡與真堪笑,此一句似非. 賴有顏瓢一味長.'

<池畔亭曰濯纓>詩云: '擬把冠纓掛牆壁, 等閒窺影自相酬.'

<邀月臺>詩云: '矮作牆垣小作臺, 時邀明月寫襟懷. 夜深獨有長庚伴, 不許庸人取次來.'

又有<獨寐榻>、<白雲亭>詩, 皆忘記. 白雲亭坐處, 望見先生母氏墳, 故名. 某向日見先生將出此詩, <邀月臺>詩後兩句不甚愜人意, 嘗妄意云: '先生可改下兩句, 不甚渾然.' 先生別云: '也知鄰鬬非吾事, 且把行藏付酒杯.' 蓋作此數絶時, 正靖康間也."

28. #쇄락 #심여기합

"聞召命不至, 復有指揮. 今來亦執前説辭之, 甚佳. 蓋守之已定, 自應如此. 縱煎迫擾擾, 何與我事? 若於義可行, 便脫然一往, 亦可也.

某嘗以謂遇事若能無毫髪固滯, 便是灑落. 即此心廓然大公, 無彼己之偏倚, 庶幾於理道一貫. 若見事不徹, 中心未免微有偏倚, 即涉固滯, 皆不可也. 未審元晦以為如何? 為此説者, 非理道明, 心與氣合, 未易可以言此. 不然, 只是説也."

29. #쇄락 #융석 #불교

庚辰七月書云: "某自少時從羅先生學問, 彼時全不涉世故, 未有所入, 聞先生之言, 便能用心靜處尋求. 至今淟汩憂患, 磨滅甚矣. 四五十年間, 每遇情意不可堪處, 即猛省提掇, 以故初心未嘗忘廢, 非不用力, 而迄於今更無進步處. 常切靜坐思之, 疑於持守及日用儘有未合處, 或更有闗鍵, 未能融釋也. 向來嘗與夏丈言語間稍無間, 因得一次舉此意質之. 渠乃以釋氏之語來相淘, 終有纎奸打訛[80]處, 全不是吾儒氣味, 旨意大段各別, 當俟他日相見劇論可知.

大率今人與古人學殊不同, 如孔門弟子, 羣居終日相切摩, 又有夫子為之依歸, 日用相觀感而化者甚多. 恐於融釋而脫落處, 非言說可及也. 不然, 子貢何以謂'夫子之言性與天道, 不可得而聞'[81]耶? 元晦更潛心於此, 勿以老邁為戒, 而怠於此道.

乃望承欲秋涼來, 又不知偏侍下別無人, 可以釋然一來否? 只為往來月十日事, 疑亦可矣. 但亦須處得老人情意帖帖[82]無礙, 乃佳爾."

30. #분수 #인

"所云見<語録>中有'仁者渾然與物同體'[83]一句, 即認得<西銘>意旨. 所見路脈甚正, 宜以是推廣求之. 然要見'一視同仁'[84]氣象, 卻不難. 須是理會分殊, 雖毫髪不可失, 方是儒者氣象."

31. #맹자 #조장 #쇄락 #체용

"又云: '因看『必有事焉而勿正, 心勿忘, 勿助長』數句, 偶見全在日用間'非著意、非不著意'[85]處, 才有毫髪私意, 便沒交涉.' 此意亦好, 但未知用處卻如何, 須喫緊理會這裏始得. 某曩時傳得呂與叔<中庸解>甚詳, 當時陳幾叟與羅先生門[86]皆以此文字説得浸灌浹洽, 比之龜山<解>卻似枯燥. 晚學未敢論此. 今此本為相知借去, 亡之已乆, 但尚記得一段云: '謂之有物, 則不得於言; 謂之無物, 則必有事焉. 不得於言者, 視之不見, 聴之不聞,[87] 無聲形接乎耳目而可以道也; 必有事焉者, 莫見乎隠, 莫顯乎微,[88] 體物而不可遺者也.[89] ... 學者見乎此, 則庶乎能擇乎中庸而執之,[90] 隠微之間, 不可求之於耳目, 不可道之於言語. 然有所謂昭昭而不可欺、感之而能應者, 正惟虛心以求之, 則庶乎見之.'[91] 又據孟子説'必有事焉', 至於'助長'、'不耘'之意,[92] 皆似是言道體處. 來諭乃體認出來, 學者正要如此, 但未知用時如何. 脗合渾然, 體用無間乃是. 不然, '非著意、非不著意', 溟溟涬涬[93], 疑未然也. 某嘗謂進步不得者[94], 彷彿多是如此類窒礙, 更望思索. 他日熟論, 須見到'心廣體胖',[95] 遇事一一灑落處, 方是道理. 不爾, 只是説也."

32. #야기 #점진

"又云'便是日月至焉氣象'[96]一段. 某之意, 只謂能存養者, 積乆亦可至此. 若比之'不違',[97] 氣象又迥然別也. 今之學者雖能存養, 知有此理, 然旦晝之間一有懈焉, 遇事應接舉處, 不覺打發機械, 即離間而差矣. 唯存養熟, 理道明, 習氣漸爾消鑠, 道理油然而生, 然後可進, 亦不易也. 來諭以謂'能存養者, 無時不在, 不止日月至焉', 若如此時, 卻似輕看了也. 如何?"

33. #심여기합

"承諭'心與氣合'[98]及所注小字意. 若逐一理會心與氣, 即不可.

某鄙意止是形容到此解會融釋, 不如此, 不見所謂氣、所謂心渾然一體流浹也. 到此田地, 若更分別那箇是心, 那箇是氣, 即勞攘爾. 不知可以如此否? 不然, 即成語病無疑. 若更非是, 無惜勁論, 吾儕正要如此."

34. #주돈이

"錄示明道二絶句, 便是吟風弄月[99], 有'吾與點也'[100] 之氣味. 某尚疑此詩, 若是初見周茂叔歸時之句即可, 此後所發之語, 恐又不然也."

35. #二蘇

"二蘇<語>、<孟>説, 儘有好處. 蓋渠聰明過人, 天地間理道不過只是如此, 有時見到, 皆渠聰明之發也. 但見到處卻有病, 學者若要窮理, 亦不可不論. 某所謂'儘有商議'[101]者謂此爾. 如來諭云: '説養氣處, 皆顛倒了.' 渠本無淵源, 自應如此也. 然得惠此本, 所警多矣."

36.

"某兀坐於此, 朝夕無一事. 若可以一來, 甚佳. 致千萬意如此. 然又不敢必覬, 恐侍旁乏人, 老人或不樂, 即未可. 更須於此審處之. 某尋常處事, 每值情意迫切處, 即以輕重本末處之, 似少悔吝. 願於出處間更體此意."

1161년(辛巳, 주자 32세)

37.

辛巳二月二十四日書云: "示下所疑極荷不外, 已有鄙見之說繼其後矣. 但素來拙訥, 發脫道理不甚明亮, 得以意詳之可也."

38. #논어 #점진

問: "性相近也, 習相逺也."[102] 二程先生謂: '此言氣質之性, 非性之本.'[103] 尹和靖云: '性一也, 何以言相近? 葢由'習相逺'而為言.'[104] 熹按: 和靖之意, 云'性一也', 則正是言'性之本'、萬物之一源處. 所以云'近', 但對'逺'而言, 非實有異品而相近也. 竊謂此説意稍渾全, 不知是否?"

先生曰: "尹和靖之説雖渾全, 然卻似沒話可説, 學者無着力處. 恐須如二先生謂'此言氣質之性', 使人思索體認氣質之説道理如何為有力爾. 蓋氣質之性不究本源, 又由習而相逺, 政要玩此曲折也."

39. #논어

問: "'公山弗擾'[105]'佛肸'[106]二章, 程先生謂: '欲往者, 聖人以天下無不可改過之人, 故欲往; 然終不往者, 知其必不能改也.'[107] 又云: '欲往者, 示人以跡, 子路不喻.'[108]九夷、[109]浮海[110]之類. 熹疑召而欲往, 乃聖人虛明應物之心, 答其善意, 自然而發; 終不往者, 以其為惡已甚, 義不可復往也. 此乃聖人體用不偏, 道並行而不相悖處. 不知是否? 又兩條告子路不同者, 即其所疑而喻之爾. 子路於公山氏, 疑聖人之不必往, 故夫子言可往之理.此語意中微似'竿木隨身'[111]之意, 不知然否? 於佛肸, 恐其浼夫子也, 故夫子告以不能浼己之意. 不知是否? 又謂'示人以跡'者, 熹未喻其旨."

先生曰: "元晦前說深測聖人之心. 一箇體段甚好, 但更有少礙. 若使聖人之心不度義, 如此易動, 即非. 就此更下語. 又兩條告子路不同, 即其疑而踰之. 以下亦佳. '竿木隨身'之說, 氣象不好, 聖人定不如是. 元晦更熟玩孔子所答之語, 求一指歸處方是. 聖人廓然明達, 無所不可, 非道大徳宏者, 不能爾也. 子路未至此, 於所疑處即有礙. 龜山謂之'包羞',[112] 誠有味也. '示人以跡', 恐只是心跡. 據此, 事跡皆可為, 然又未必爾者, 蓋有憂樂行違確然之不同, 無定體也."

40. #논어

問: "'予欲無言',[113] 明道、龜山皆云'此語為門人而發.'[114] 熹恐此句從聖人前後際斷, 使言語不著處不知不覺地流出來, 非為門人發也. 子貢聞之而未喻, 故有疑問. 到後來自云: '夫子之文章可得而聞也; 夫子之言性與天道不可得而聞也',[115] 方是契此旨趣. 顏、曾則不待疑問; 若子貢以下, 又不知所疑也."

先生曰: "此一段說甚佳. 但云'前後際斷, 使言語不著處不知不覺地流出來', 恐不消如此説. 只玩夫子云'天何言哉? 四時行焉, 百物生焉, 天何言哉?'數語, 便見氣味深長, 則'予欲無言', 可知旨歸矣."

41. #논어 #인

問: "'殷有三仁焉',[116] 和靖先生曰: '無所擇於利害而為所當為, 惟仁者能之.'[117] 熹未見微子當去, 箕子當囚, 比干當死, 端的不可易處. 不知使三人者易地而處, 又何如? 東坡云: '箕子常欲立微子, 帝乙不從而立紂, 故箕子告微子曰: 『我舊云刻子, 王子不出, 我乃顛隮.』言我舊所言者害子, 子若不去, 并我得禍. 是以二子或去或囚. 蓋居可疑之地, 雖諫不見聴, 故不復諫. 比干則無所嫌, 故諫而死.' 胡明仲非之曰: '如此是避嫌疑、度利害也. 以此論仁, 不亦逺乎?' 熹按: 此破東坡之説甚善, 但明仲自解乃云: '微子, 殷王元子, 以存宗祀為重, 而非背國也; 比干, 三孤, 以義弼君, 以存人臣之義, 而非要名也; 箕子, 天畀九疇, 以存皇極之法, 為天而非貪生也.' 熹恐此説亦未盡善. 如箕子一節, 尤無意思. 不知三人者端的當為處, 當何如以求之?"

先生曰: "三人各以力量竭力而為之, 非有所擇. 此'求仁得仁'[118]者也. 微子義當去; 箕子囚奴, 偶不死爾; 比干即以死諫, 庶幾感悟. 存祀、九疇, 皆後來事, 初無此念也, 後來適然爾. 豈可相合看, 致仁人之心不瑩徹耶? 仁只是理, 初無彼此之辨. 當理而無私心, 即仁矣. 胡明仲破東坡之説可矣. 然所説三人後來事相牽, 何異介甫之説三仁? 恐如此政是病處, 昏了仁字, 不可不察."

42. #태극도설 #복괘

問: "'太極動而生陽',[119] 先生嘗曰: '此只是理, 做已發看不得.' 熹疑既言'動而生陽', 即與復卦一陽生而'見天地之心'[120]何異? 竊恐'動而生陽', 即天地之喜怒哀樂發處, 於此即見天地之心; '二氣交感, 化生萬物',[121] 即人物之喜怒哀樂發處, 於此即見人物之心. 如此做兩節看, 不知得否?"

先生曰: "'太極動而生陽', 至理之源, 只是動靜闔闢. 至於終萬物、始萬物, 亦只是此理一貫也. 到得'二氣交感, 化生萬物'時, 又就人物上推, 亦只是此理. <中庸>以喜怒哀樂未發已發言之,[122] 又就人身上推尋,至於見得大本達道處, 又袞同只是此理. 此理就人身上推尋, 若不於未發已發處看, 即何緣知之? 蓋就天地之本源,與人物上推來, 不得不異. 此所以於'動而生陽', 難以為喜怒哀樂已發言之, 在天地只是理也. 今欲作兩節看, 切恐差了. 復卦'見天地之心', 先儒以為靜見天地之心, 伊川先生以為動乃見,[123] 此恐便是'動而生陽'之理. 然於復卦發出此一段示人, 又於初爻以顏子'不逺復'[124]為之, 此只要示人無間斷之意. 人與天理一也, 就此理上皆收攝來, '與天地合其徳, 與日月合其明, 與四時合其序, 與鬼神合其吉凶',[125] 皆其度內爾. 妄測度如此, 未知元晦以為如何? 有疑, 更容他日得見劇論. 語言既拙, 又無文采, 似發脫不出也. 元晦可意會消詳之, 看理道通否?"

43.

辛巳上元日書云: "昔嘗得之師友緒餘, 以謂學問有未愜適處, 只求諸心. 若'反身而誠',[126] 清通和樂之象見, 即是自得處. 更望勉力以此而已."

44.

辛巳五月二十六日書云: "某村居一切如舊, 無可言者. 窘束為人事所牽, 間有情意不快處, 一切消釋, 不復能恤. 葢'日昃之離',[127] 理應如此爾."

45. #쇄락 #융석

"承諭'近日學履甚適, 向所耽戀不灑落處, 今已漸融釋.' 此便是道理進之效, 甚善甚善. 思索有窒礙, 及於日用動靜之間有咈戾處, 便於此致思, 求其所以然者, 乆之自循理爾."

46. #논어

"'五十知天命'[128]一句, 三先生之説皆不敢輕看. 某尋常看此數句, 竊以謂人之生也, 自少壯至於老耄, 血氣盛衰消長自不同. 學者若循其理, 不為其所使, 則聖人之言自可以馴致[129]. 但聖賢所至處淺深之不同爾. 若五十矣, 尚昧於所為, 即大不可也. 橫渠之説似有此意, 試一思索看如何?"

47. #쇄락

辛巳中元[130]後一日書云: "諭及所疑數處, 詳味之, 所見皆正當, 可喜. 但於灑落處, 恐未免滯礙. 今此便速, 不暇及之, 謹俟涼爽, 可以來訪, 就曲折處相難, 庶彼此或有少補焉爾."

48.

辛巳十月十日書云: "看文字必覺有味, 靜而定否?"

49. #미발기상 #인 #불교

"承録示<韋齋記>, 追往念舊, 令人淒然. 某中間所舉<中庸>始終之説[131], 元晦以謂'『肫肫其仁, 淵淵其淵, 浩浩其天』[132]即全體, 是未發底道理, 惟聖人盡性能然.' 若如此看, 即於全體何處不是此氣象? 第恐無甚氣味爾. 某竊以謂'肫肫其仁'以下三句, 乃是體認到此'達天徳'之效處. 就喜怒哀樂未發處存養, 至見此氣象, 儘有地位也. 某嘗見呂芸閣與伊川論中説. 呂以謂'循性而行, 無往而非禮義.'[133] 伊川以謂氣味殊少.[134] 呂復書云云, 政謂此爾. 大率論文字切在深潛縝宻, 然後蹊徑不差. 釋氏所謂'一超直入如來地',[135] 恐其失處正坐此, 不可不辨."

50.

"某衰晚, 碌碌只如舊. 所恨者, 中年以來即為師友捐棄, 獨學無助; 又涉世故, 沮困殆甚. 尚存初心, 有端緒之可求, 時時見於心目爾."

1162년(壬午, 주자 33세)

51.

壬午四月二十二日書云: "吾儕在今日, 只可於僻寂處草木衣食, 苟度此嵗月為可, 他一切置之度外, 惟求進此學問為庶幾爾. 若欲進此學, 須是盡放棄平日習氣, 更鞭飭所不及處, 使之脫然有自得處, 始是道理少進. 承諭'應接少暇即體究, 方知以前皆是低看了道理', 此乃知覺之効, 更在勉之. 有所疑, 便中無惜詳及, 庶幾彼此得以自警也."

52.

壬午五月十四日書云: "承諭'處事擾擾, 便似內外離絶, 不相該貫', 此病可於靜坐時收攝, 將來看是如何, 便如此就偏著處理會, 乆之知覺, 即漸漸可就道理矣. 更望勉之也."

53. #인 #서명 #체용

壬午六月十一日書云: "承諭仁一字條陳所推測處, 足見日來進學之力, 甚慰. 某嘗以謂仁字極難講説, 只看天理統體便是; 更心字亦難指説, 唯認取發用處是心. 二字須要體認得極分明, 方可下工夫. 仁字難説, <論語>一部, 只是説與門弟子求仁之方. 知所以用心, 庶幾私慾沈、天理見, 則知仁矣. 如顏子、仲弓之問,[136] 聖人所以答之之語, 皆其要切用力處也. 孟子曰: '仁, 人心也',[137] 心體通有無、貫幽明, 無不包括, 與人指示於發用處求之也. 又曰: '仁者, 人也',[138] 人之一體, 便是天理, 無所不備具. 若合而言之, 人與仁之名亡, 則渾是道理也. 來諭以謂'仁是心之正理, 能發能用底一箇端緒, 如胎育包涵其中, 生氣無不純備, 而流動發生自然之機, 又無傾刻停息, 憤盈發洩, 觸處貫通, 體用相循, 初無間斷.' 此説推擴得甚好. 但又云: '人之所以為人而異乎禽獸者, 以是而已, 若犬之性、牛之性, 則不得而與焉.' 若如此説, 恐有礙. 蓋天地中所生物, 本源則一, 雖禽獸草木, 生理亦無頃刻停息間斷者. 但人得其秀而最靈, 五常中和之氣所聚, 禽獸得其偏而已. 此其所以異也. 若謂'流動發生自然之機, 與夫無傾刻停息間斷', 即禽獸之體亦自如此. 若以為'此理唯人獨得之', 即恐推測體認處未精, 於他處便有差也. 又云: '須體認到此純一不雜處, 方見渾然與物同體氣象'一段語, 卻無病. 又云: '從此推出分殊合宜處便是義. 以下數句, 莫不由此, 而仁一以貫之. 蓋五常百行, 無往而非仁也.' 此說大概是, 然細推之, 卻似不曾體認得. 伊川所謂'理一分殊',[139] 龜山云'知其理一, 所以為仁; 知其分殊, 所以為義'[140]之意, 蓋全在知字上用著力也. <謝上蔡語録>云: '不仁便是死漢, 不識痛癢了.'[141] 仁字只是有知覺了了之體段, 若於此不下工夫令透徹, 即何緣見得本源毫髪之分殊哉? 若於此不了了, 即體用不能兼舉矣. 此正是本源體用兼舉處. 人道之立, 正在於此. 仁之一字, 正如四徳之元; 而仁義二字, 正如立天道之隂陽、立地道之柔剛, 皆包攝在此二字爾. 大抵學者多為私慾所分, 故用力不精, 不見其効. 若欲於此進步, 須把斷諸路頭, 靜坐黙識, 使之泥滓漸漸消去方可. 不然, 亦只是説也. 更熟思之."

54. #논어

"'葉公問孔子於子路, 子路不對'[142]一章, 昔日得之於吾黨中人, 謂'葉公亦當時號賢者, 夫子名徳經天緯地, 人孰不識之, 葉公尚自見問於其徒, 所見如此, 宜子路之不對也.' 若如此看, 仲尼之徒渾是客氣, 非所以觀子路也. 蓋弟子形容聖人盛徳, 有所難言爾. 如'女奚不曰'下面三句, 元晦以謂'『發憤忘食』者, 言其求道之切. 聖人自道理中流出, 即言求道之切', 恐非所以言聖人. 此三句只好渾然作一氣象看, 則見聖人渾是道理, 不見有身世之礙, 故'不知老之將至爾.' 元晦更以此意推廣之看, 如何? 大抵夫子一極際氣象, 終是難形容也. 尹和靖以謂'皆不居其聖'之意,[143] 此亦甚大. 但'不居其聖'一節事, 乃是門人推尊其實如此. 故孔子不居, 因事而見爾. 若常以'不居其聖'橫在肚裡, 則非所以言聖人矣. 如何如何?"

55.

"以今日事勢觀之, 處此時, 唯'儉徳避難',[144] 更加韜晦為得所[145], 他皆不敢以姑息自恕之事奉聞也. 元晦更切勉之. 上蔡先生語, 近看甚有力. 渠一處云: '凡事必有根'; 又云: '必須有用處尋討要用處, 病根將來斬斷便沒事.'[146] 此語可時時經心也."

56.

壬午七月二十一日書云: "某在建安, 竟不樂彼. 蓋初與家人約, 二老只欲在此. 繼而家人為兒輩所迫, 不能謹守, 遂往. 某獨處家中, 亦自不便, 故不獲已[147]往來, 彼此不甚快. 自念所寓而安, 方是道理, 今乃如此, 正好就此下工夫, 看病痛在甚處以驗之, 它皆不足道也. 某幸得早從羅先生遊, 自少時粗聞端緒, 中年一無佽助, 為世事淟汩者甚矣. 所幸比年來得吾元晦相與講學, 於頺墯中復此激發, 恐庶幾於晚境也. 何慰之如!"

57.

"封事熟讀數過, 立意甚佳. 今日所以不振, 立志不定、事功不成者, 正坐此以和議為名爾. 書中論之甚善. 見前此赦文中有和議處一條, 又有'事迫, 許便宜從事'之語, 蓋皆持兩端, 使人心疑也. 要之, 斷然不可和. 自整頓紀綱, 以大義斷之, 以示天下向背, 立為國是可爾. 此處更可引此. 又'許便宜從事'處, 更下數語以曉之, 如何? 某不能文, 不能下筆也. 封事中有少疑處, 已用貼紙貼出矣, 更詳之. 明道語: '治道在於修己、責任、求賢',[148] 封事中此意皆有之矣. 甚善甚善. 吾儕雖在山野, 憂世之心但無所伸爾. 亦可早發去為佳."

58.

辛巳八月七日[149]書云: "某歸家, 凡百只如舊, 但兒輩所見凡下, 家中全不整頓, 至有疎漏欲頺敝處, 氣象殊不佳. 既歸來, 不免令人略略修治, 亦須苟完可爾. 家人猶豫未歸, 諸事終不便, 亦欲於冷落境界上打疊, 庶幾漸近道理. 他不敢恤, 但一味窘束, 亦有沮敗人佳處, 無可奈何也."

59.

"謝上蔡語極好玩味, 蓋渠皆是於日用上下工夫, 又言語只平説, 尤見氣味深長. 今已抄得一本矣, 謹以奉內, 恐亦好看也."

60. #인 #맹자 #서명 #53조목 #불교 #체용

問: "熹昨妄謂'仁之一字, 乃人之所以為人而異乎禽獸者'[150], 先生不以為然. 熹因以先生之言思之而得其説, 敢復求正於左右. 熹竊謂天地生物, 本乎一源, 人與禽獸、草木之生, 莫不具有此理. 其一體之中, 即無絲毫欠剰, 其一氣之運, 亦無頃刻停息, 所謂仁也.先生批云: "有有血氣者, 有無血氣者, 更體究此處." 但氣有清濁, 故稟有偏正. 惟人得其正, 故能知其本、具此理而存之, 而見其為仁; 物得其偏, 故雖具此理而不自知, 而無以見其為仁. 然則仁之為仁, 人與物不得不同; 知人之為人而存之, 人與物不得不異. 故伊川夫子既言'理一分殊', 而龜山又有'知其理一, 知其分殊'之説. 而先生以為'全在知字上用著力', 恐亦是此意也.先生勾斷批云: "以上大概得之, 它日更用熟講體認." 不知果是如此否? 又詳伊川之語推測之, 竊謂'理一而分殊'此一句, 言理之本然如此, 全在性分之內、本體未發時看.先生抹出批云: "須是兼本體已發未發時看, 合內外為可." 合而言之, 則莫非此理, 然其中無一物之不該, 便自有許多差別. 雖散殊錯糅, 不可名狀, 而纎微之間, 同異畢顯, 所謂'理一而分殊'也. '知其理一, 所以為仁; 知其分殊, 所以為義', 此二句乃是於發用處該攝本體而言, 因此端緒而下工夫以推尋之處也. 蓋'理一而分殊'一句, 正如孟子所云'必有事焉'之處; 而下文兩句, 即其所以有事乎, 此之謂也.先生抹出批云: "恐不須引孟子説以證之. 孟子之説, 若以微言, 恐下工夫處落空, 如釋氏然. 孟子之説, 亦無隠顯精微之間. 今録謝上蔡一説於後, 玩味之, 即無時不是此理也. 此説極有力." 大抵仁字正是天理流動之機. 以其包容和粹, 涵育融漾, 不可名貌, 故特謂之仁; 其中自然文理宻察, 各有定體處, 便是義. 只此二字, 包括人道已盡. 義固不能出乎仁之外, 仁亦不離乎義之內也. 然則'理一而分殊'者, 乃是本然之仁義.先生勾斷批云: "推測到此一段甚宻, 為得之. 加以涵養, 何患不見道也? 甚慰甚慰!" 前此乃以從此推出分殊合宜處為義, 失之逺矣. 又不知如此上則推測, 又還是不? 更乞指教."

先生曰: "謝上蔡雲: '吾常習忘以養生. 明道曰: 『施之養則可, 於道則有害. 習忘可以養生者, 以其不留情也. 學道則異於是, 「必有事焉勿正」, 何謂乎? 且出入起居, 寧無事者? 正心待之, 則先事而迎, 忘則涉乎去念; 助則近於留情. 故聖人心如鑑, 所以異於釋氏心也.』'[151]上蔡録明道此語, 於學者甚有力. 蓋尋常於靜處體認下工夫, 即於鬧處使不著, 蓋不曾如此用功也. 自非謝先生確實於日用處便下工夫,又言吾每就事上作工夫學. 即恐明道此語亦未必引得出來. 此語録所以極好玩索, 近方看見如此意思顯然. 元晦於此更思看如何? 唯於日用處便下工夫, 或就事上便下工夫, 庶幾漸可合為己物, 不然只是説也. 某輒妄意如此, 如何如何?"

61. #심여기합 #맹자 #호연지기 #양기 #지언

問: "熹又問<孟子>養氣一章, 向者雖蒙曲折面誨, 而愚意竟未見一總會處, 近日求之, 頗見大體, 只是要得心氣合而已, 故説'持其志, 無暴其氣', '必有事焉而勿正, 心勿忘, 勿助長也', 皆是緊切處. 只是要得這裏所存主處分明, 則一身之氣, 自然一時奔湊翕聚, 向這裡來. 存之不已, 及其充積盛滿, 晬面盎背, 便是塞乎天地氣象, 非求之外也. 如此則心氣合一, 不見其間, 心之所向, 全氣隨之. 雖加齊之卿相, 得行道焉, 亦沛然'行其所無事'[152]而已, 何動心之有! <易>曰: '直方大, 不習無不利.'[153],而<文言>曰: '敬義立而徳不孤', '則不疑其所行也.',[154] 正是此理. 不審先生以為如何?"

先生曰: "養氣大概是要得心與氣合. 不然, 心是心, 氣是氣, 不見所謂集義處, 終不能合一也. 元晦雲'睟面盎背, 便是塞乎天地氣象', 與下雲'亦沛然行其所無事', 二處為得之. 見得此理甚好. 然心氣合一之象, 更用體察, 令分曉路陌方是. 某尋常覺得於畔援歆羨[155]之時, 未必皆是正理, 亦心與氣合, 到此若彷彿有此氣象, 一差則所失多矣. 豈所謂浩然之氣耶! 某竊謂孟子所謂養氣者, 自有一端緒, 須從知言處養來, 乃不差. 於知言處下工夫, 儘用熟也. 謝上蔡多謂'於田地上面下工夫', 此知言之説, 乃田地也. 先於此體認, 令精審, 認取心與氣合之時, 不倚不偏氣象是如何, 方可看<易>中所謂'直方大, 不習無不利', 然後'不疑其所行', 皆'沛然'矣. 元晦更於此致思看如何? 某率然如此, 極不揆是與非, 更俟他日面會商量可也."

62. #중용 #귀신 #주돈이

問: "熹近看<中庸>鬼神一章,[156] 竊謂此章正是發明顯微無間只是一理處. 且如鬼神有甚形跡? 然人卻自然有畏敬之心; 以承祭祀, 便如真有一物在其上下左右. 此理亦有甚形跡? 然人卻自然秉彛之性, 才存主著這裏, 便自見得許多道理. 參前倚衡, 雖欲頃刻離而遁之而不可得, 只為至誠貫徹, 實有是理. 無端無方, 無二無雜. 方其未感, 寂然不動; 及其既感, 無所不通. 濂溪翁所謂'靜無而動有, 至正而明達'者,[157] 於此亦可以見之. 不審先生以為如何?"

先生曰: "此段看得甚好, 更引濂溪翁所謂'靜無而動有'作一貫曉會, 尤佳. <中庸>發明微顯之理, 於承祭祀時為言者, 若謂於此時鬼神之理昭然易見, 令學者有入頭處爾. 但更有一説: 若看此理, 須於四方八面盡皆收入體究來, 令有會心處方是. 謝上蔡雲: '鬼神橫渠説得來別, 這箇便是天地間妙用, 須是將來做箇題目入思慮始得, 講説不濟事.'[158]又雲: '鬼神自家要有便有, 要無便無.',[159] 更於此數者一併體認, 不可滯在一隅也. 某偶見如此, 如何如何?"

63.

壬午八月九日書云: "此箇氣味為上下相咻, 無不如此者, 這箇風俗如何得變! 某於此有感焉. 當今之時, 苟有修飭[160]之士, 須大段涵養韜晦始得. 若一旦齟齬, 有所去就, 雖去流俗逺矣, 然以全體論之, 得失未免相半也. 使衰世之公子皆信厚, 須如文王方得. 若未也, 恐不若且誦龜山與胡文定<梅花>詩, 直是氣味深長也. 如何?"龜山詩: "欲驅殘臘變春風, 只有寒梅作選鋒. 莫把疎英輕鬭雪, 好藏清艶月明中." 右<渚宮觀梅寄康侯>.

64.

韜晦一事, 嘗驗之, 極難. 自非大段涵養深潛, 定不能如此, 遇事輒發矣. 亦不可輕看也. 如何如何?書後注此數語.

65. #인

十月朔日書云: "承諭近日看仁一字, 頗有見處, 但乍喧乍靜, 乍明乍暗, 子細點檢, 儘有勞攘處. 詳此足見潛心體認用力之效. 蓋須自見得病痛窒礙處, 然後可進, 因此而修治之, 推測自可見. 甚慰甚慰! 孟子曰: '夫仁, 亦在夫熟之而已.'[161] 乍明乍暗, 乍喧乍靜, 皆未熟之病也. 更望勉之. 至祝至祝."

1163년(癸未, 주자 34세)

66. #체용

癸未五月二十三日書云: "近日涵養, 必見應事脫然處否? 須就事兼體用下工夫, 乆乆純熟, 漸可見渾然氣象矣. 勉之勉之."

67.

六月十四日書云: "承諭令表弟之去, 反而思之, 中心不能無愧悔之恨. 自非有志於求仁, 何以覺此? <語録>有雲: '罪已責躬不可無, 然亦不可常留在心中為悔.'[162] 來諭雲: '悔吝己顯然. 如何便銷隕得胸中! 若如此, 即於道理極有礙, 有此氣象, 即道理進步不得矣. 政不可不就此理會也.' 某竊以謂有失處. '罪已責躬', 固不可無, 然過此以往, 又將奈何? 常留在胸中, 卻是積下一團私意也. 到此境界, 須推求其所以愧悔不去為何而來. 若來諭所謂似是於平日事親事長處, 不曾存得恭順謹畏之心, 即隨處發見之時, 即於此處就本源處推究涵養之, 令漸明, 即此等固滯私意當漸化矣. 又昔聞之羅先生雲: '橫渠教人, 令且留意神化二字. 『所存者神, 便能所過者化.』[163] 私吝盡無, 即渾是道理, 即所過自然化矣.' 更望以此二説, 於靜黙時及日用處下工夫看, 如何? 吾輩今日所以差池道理不進者, 只為多有坐此境界中爾. 禪學者則不然. 渠亦有此病,, 卻只要絶念不採, 以是為息滅, 殊非吾儒就事上各有條理也. 元晦試更以是思之, 如何? 或體究得不以為然, 便中[164]示報為望."後見先生又云: "前日所答, 只是據今日病處説, <語録>中意卻未盡. 它所以如此説, 只是提破, 隨人分量[165]看得如何. 若地位高低人微有如此處, 只如此提破, 即渙然冰釋, 無復凝滯矣."

68.

"某人之去, 傳者以為緣衆士人於通衢罵辱之, 責以講和誤國之罪, 時事遂激而一變. 或以為逐此人誠快輿論, 然罵辱之者亦無行遣, 恐使人失上下之分. 某竊以為不然. 今日之事, 只為不曾於原本處理會, 末流雖是亦何益? 不共戴天, 正今日第一義, 舉此不知其它, 即弘上下之道而氣正矣. 夷狄所以盛者, 只為三綱五常之道衰也."

69.

七月十三日書云: "在此粗安, 第終不樂於此. 若以謂隨所寓而安之, 即於此臲卼便不是. 此微處皆學者之大病. 大凡只於微處充擴之, 方見礙者大爾."

70.

七月二十八日書云: "今日三綱不振, 義利不分. 緣三綱不振, 故人心邪辟不堪用, 是致上下之氣間隔, 而中國之道衰, 夷狄盛, 皆由此來也. 義利不分, 自王安石用事, 陷溺人心, 至今不自知覺. 如前日有旨有陞擢差遣之類, 緣有此利誘, 故人只趨利而不顧義, 而主勢孤. 此二事, 皆今日之急者, 欲人主於此留意二者, 苟不爾, 則是'雖有粟, 吾得而食諸'[166]也."

유평보에게 보내는 편지(與劉平甫書)

71. #묵좌징심

與劉平甫書云: "學問之道不在於多言, 但黙坐澄心, 體認天理. 若見雖一毫私慾之發, 亦自退聴矣. 乆乆用力於此, 庶幾漸明, 講學始有力也."

72.

又與劉平甫書云: "大率有疑處, 須靜坐體究人倫, 必明天理, 必察於日用處著力, 可見端緒. 在勉之爾."

후록(後錄)

1.

李延平初間也是豪邁底人, 到後來也是磨琢之功. 在鄉若不異於常人, 鄉曲以上底人,只道他是箇善人. 他也略不與人説, 待問了方與説.

2.

羅仲素先生嚴毅清苦, 殊可畏.

3.

李先生終日危坐,而神彩精明,畧無隤墮之氣。

4.

問延平先生言行, 曰: "他卻不曾著書, 充養得極好. 凡為學, 也不過是恁地涵養將去, 初無異義, 只是先生晬面盎背, 自然不可及."

5.

明道教人靜坐, 李先生亦教人靜坐. 看來須是靜坐, 始能收斂.

6.

羅仲素都是著實子細去理會.

7.

延平先生氣象好.

8.

熹初為學, 全無見成規模, 這邊也去理會尋討, 那邊也去理會尋討. 後來見李先生, 較説得有下落, 更縝密.

9.

李先生説: "人心中大段惡念卻易制伏, 最是那不大段計利害乍往乍來底念慮, 相續不斷, 難為驅除." 今看得來是如此.

10.

或問: "近見廖子晦, 言'今年見先生, 問延平先生靜坐之説, 先生頗不以為然.' 不知如何?" 曰: "這事難説. 靜坐理會道理自不妨, 只是討要靜坐則不可, 只是理會得道理明透, 自然是靜. 今人都是討靜坐以省事則不可. 嘗見李先生, 說'舊見羅先生説<春秋>, 頗覺不甚好, 不知到羅浮[167]靜極後, 又理會得如何?'是時羅已死. 某心常疑之, 以今觀之, 是如此. 蓋心下熱閙, 如何看得道理出? 須是靜方看得出. 所謂靜坐, 只是打疊得心下無事, 則道理始出. 道理既出, 心下愈明靜矣."

11.

行夫問: "李先生謂'常存此心, 勿為事物所勝.'" 先生答之云云. 頃之復曰: "李先生涵養得自是別, 真所謂不為事物所勝者. 古人云: '終日無疾言遽色', 他真箇是如此. 尋常人去近處必徐行, 出逺處行必稍急. 先生出近處也如此, 出逺處亦只如此. 尋常人叫一人, 叫之一二聲不至, 則聲必厲. 先生叫之不至, 聲不加於前也. 又如坐處壁間有字, 某每常亦須起頭一看. 若先生則不然, 方其坐時固不看也; 若是欲看, 則必起就壁下視之. 其不為事物所勝, 大率若此. 嘗聞先生後生時極豪邁, 一飲必數十盃, 醉則好馳馬, 一驟三二十里不迥. 後來收得恁地醇粹, 所以難及."

12.

問: "先生所作<李先生行狀>雲: '終日危坐, 以驗夫喜怒哀樂之前氣象為如何,而求所謂中者', 與伊川之説若不相似." 曰: "這處是舊日下得語太重. 今以伊川之語格之, 則其下工夫處, 亦是有些子偏. 只是被先生靜得極了, 便自見得是箇覺處. 不似別人, 今終日危坐, 只是且収斂在此, 勝如奔馳. 若一向如此, 又似坐禪入定."

13.

淳問: "延平欲於未發之時觀其氣象, 此與楊氏體驗於未發之前者異同如何?" 曰: "這箇亦有些病. 那體驗字是有箇思量了, 便是已發; 若觀時恁著意看, 便也是已發." 問:此體驗是着意觀, 只恁平常否?" 曰: "此亦是以不觀觀之."

14. #불교

或問: "延平先生何故驗於喜怒哀樂未發之前, 而求所謂中?" 曰: "只是要見氣象." 陳後之曰: "持守良乆, 亦可見未發氣象." 曰: "延平即是此意. 若一向這裏, 又差從釋氏去."

15.

李先生雲: "看聖賢言語, 但一踔看過便見道理者, 卻是真意思. 纔著心去看, 便蹉過了多."

16. 제문

道喪千載, 兩程勃興. 有的其緒, 龜山是承. 龜山之南, 道則與俱. 有覺其徒, 望門以趨. 惟時豫章, 傳得其宗. 一簞一瓢, 凜然高風. 猗歟先生, 果自得師. 身世兩忘, 惟道是資. 精義造約, 窮深極微. 凍解氷釋, 發於天機. 乾端坤倪, 鬼祕神彰. 風霆之變, 日月之光. 爰暨山川, 草木昆蟲. 人倫之正, 王道之中. 一以貫之, 其外無餘. 縷析毫差, 其分則殊. 體用混圓, 隠顯昭融. 萬變並酬, 浮雲太空. 仁孝友弟, 灑落誠明. 清通和樂, 展也大成. 婆娑丘林, 世莫我知. 優哉游哉, 卒嵗以嬉. 迨其季年, 徳盛道尊. 有來摳衣, 發其蔽昏. 侯伯聞風, 擁篲以迎. 大本大經, 是度是程. 稅駕雲初, 講議有端. 疾病乗之, 醫窮技殫. 嗚呼先生, 而止於斯! 命之不融, 誰實屍之? 合散屈伸, 消息滿虛. 廓然太公, 與化為徒. 古今一息, 曷計短長? 物我一身, 孰為窮通? 嗟惟聖學, 不絶如綫. 先生得之, 既厚以全. 進未獲施, 退未及傳. 殉身以沒, 孰雲非天! 熹也小生, 丱角趨拜. 恭惟先君, 實共源派. 誾誾侃侃, 斂衽推先. 氷壺秋月, 謂公則然. 施及後人, 敢渝斯志. 從游十年, 誘掖諄至. 春山朝榮, 秋堂夜空. 即事即理, 無幽不窮. 相期日深, 見勵彌切. 蹇步方休, 鞭繩已掣. 安車暑行, 過我衡門. 返斾相遭, 涼秋已分. 熹於此時, 適有命召. 問所宜言, 反覆教詔. 最後有言: "吾子勉之. 凡茲衆理, 子所自知. 奉以周旋, 幸不失墜." 歸裝朝嚴, 訃音夕至. 失聲長號, 淚落懸泉. 何意斯言, 而訣終天! 病不舉扶, 沒不飯含. 奔走後人, 死有餘憾. 儀刑永隔, 卒業無期. 墜緒茫茫, 孰知我悲? 伏哭柩前, 奉奠以贄. 不亡者存, 鑒此誠意.祭文

17. 행장

先生諱侗, 字願中, 姓李氏, 南劒州劒浦人. 曾祖諱幹, 屯田郎中致仕, 贈金紫光祿大夫. 妣清源郡太夫人朱氏. 祖諱纁, 朝散大夫, 贈中奉大夫. 妣永嘉郡太君胡氏 、咸寧郡太君朱氏. 父諱渙, 朝奉郎, 贈右朝議大夫. 妣大恭人饒氏.

先生, 朝議公之季子也. 生有異稟, 幼而穎悟, 少長, 孝友謹篤. 朝議公 、大恭人特所鍾愛. 既冠, 逰鄉校有聲稱. 已而聞郡人羅仲素先生得河雒之學於龜山楊文靖公之門, 遂往學焉. 羅公清介絶俗, 雖里人鮮克知之. 見先生從逰受業, 或頗非笑, 先生若不聞. 從之累年, 受<春秋> 、<中庸> 、<語> 、<孟>之説, 從容潛玩, 有會於心, 盡得其所傳之奧. 羅公少然可, 亟稱許焉. 於是退而屏居山田, 結茅水竹之間, 謝絶世故餘四十年, 簞瓢屢空, 怡然自適. 中間郡將學官, 聞其名而招致之, 或遣子弟從游受學, 州郡士子有以矜式焉. 晚以二子舉進士, 試吏旁郡, 更請迎養, 先生不得已為一行. 自建安如鉛山, 訪外家兄弟於昭武, 過其門弟子 、故人於武夷潭溪之上, 徜徉而歸. 會閩帥玉山汪公以書禮車乗來迎, 蓋將相與講所疑焉, 先生因往見之. 至之日, 疾作, 遂卒於府治之館舍, 是年七十有一矣, 隆興元年十月十有五日也. 汪公為遣參議官王君伯序, 觀察推官謝公倣護喪事, 躬視棺斂, 禮意喪具無不周悉. 居數日, 諸子畢至, 遂以喪歸. 先生娶同郡吳氏, 子男三人: 友直, 左修職郎, 信州鉛山縣尉; 信甫, 左修職郎, 建寧府建安縣主簿; 友聞, 未仕. 女一人, 早亡. 孫男四人, 女八人, 皆幼.

初, 龜山先生倡道東南, 士之游其門者甚衆, 然語其潛思力行 、任重詣極如羅公, 蓋一人而已. 先生既從之學, 講誦之餘, 危坐終日, 以驗夫喜怒哀樂未發前之氣象為如何, 而求所謂中者. 若是者蓋乆之, 而知天下之大本真有在乎是也. 蓋天下之理無不由是而出, 既得其本, 則凡出於此者, 雖品節萬殊, 曲折萬變, 莫不該攝洞貫, 以次融釋, 而各有條理, 如川流脈絡之不可亂. 大而天地之所以高厚, 細而品彚之所以化育, 以至於經訓之微言, 日用之小物, 折之於此, 無一不得其衷焉. 由是操存益固, 涵養益熟, 精明純一, 觸處洞然, 泛應曲酬, 發必中節. 故其事親誠孝, 左右無違. 仲兄性剛多忤, 先生事之致誠盡敬, 更得其歡心焉. 閨門內外, 夷愉肅穆, 若無人聲, 而衆事自理. 與族姻舊故, 恩意篤厚, 乆而不忘. 生事素薄, 然處之有道, 量入為出, 賓祭謹飭. 租賦必為鄰里先. 親戚或貧不能婚嫁, 為之經理, 節衣食以賑助之. 與鄉人處, 食飲言笑, 終日油油如也. 年長者, 事之盡禮; 少者 、賤者, 接之各盡其道. 以故鄉人愛敬, 暴悍化服.

其接後學答問, 窮晝夜不倦, 隨人淺深, 誘之各不同, 而要以反身自得,而可以入於聖賢之域. 故其言曰: "學問之道不在多言, 但黙坐澄心, 體認天理. 若見雖一毫私慾之發, 亦退聴矣. 乆乆用力於此, 庶幾漸明, 講學始有力耳." 又嘗曰: "學者之病, 在於未有灑然氷解凍釋處, 縦有力持守, 不過苟免顯然悔尤而已. 若此者, 恐未足道也." 又嘗曰: "今人之學與古人異. 如孔門諸子, 羣居終日, 交相切磨, 又得夫子為之依歸, 日用之間, 觀感而化者多矣. 恐於融釋而脫落處, 非言説所及也. 不然, 子貢何以言'夫子之言性與天道不可得而聞也'耶?" 嘗以黃太史稱濂溪周夫子胸中灑落如光風霽月雲者, 為善形容有道者氣象. 嘗諷誦之, 而顧謂學者曰: "存此於胸中, 庶幾遇事廓然, 而義理少進矣." 其語<中庸>曰: "聖門之傳是書, 其所以開悟後學, 無遺策矣. 然所謂喜怒哀樂未發之謂中者, 又一篇之指要也. 若徒記誦而已, 則亦奚以為哉! 必也體之於身, 實見是理, 若顏子之歎, 卓然見其為一物而不違乎心目之間也. 然後擴充而往, 無所不通, 則庶乎其可以言<中庸>矣." 其語<春秋>曰: "<春秋>一事各是發明一例, 如觀山水, 徙步而形勢不同, 不可拘以一法. 然所以難言者, 蓋以常人之心推測聖人, 未到聖人灑然處, 豈能無失耶?" 其於<語> 、<孟>他經, 無不貫達. 苟有疑問, 答之必極其趣, 然語之而不惰者或寡矣. 蓋嘗曰: "讀書者知其所言莫非吾事, 而即吾身以求之, 則凡聖賢所至而吾所未至者, 皆可勉而進矣. 若直以文字求之, 恱其詞義以資誦說, 其不為玩物喪志者幾希." 以故未嘗為講解文書, 然其辨析精微, 毫釐畢察. 嘗語問者曰: "講學切在深潛縝宻, 然後氣味深長, 蹊徑不差. 若槩以理一而不察乎分之殊, 此學者所以流於疑似亂真之說而不自知也." 其開端示人, 大要類此.

先生姿稟勁特, 氣節豪邁, 而充養完粹, 無復圭角. 精純之氣, 達於靣目, 色溫言厲, 神定氣和, 語黙動靜, 端詳閒泰, 自然之中, 若有成法. 平居恂恂, 於事若無甚可否. 及其酬酢事變, 斷以義理, 則有截然不可犯者. 蚤嵗聞道, 即棄場屋, 超然逺引, 若無意於當世. 然憂時論事, 感激動人. 其語治道, 必以明天理、正人心、崇節義、厲廉恥為先. 本末備具, 可舉而行, 非特空言而已. 異端之學, 無所入於其心, 然一聞其説, 則知其詖淫邪遁之所以然者. 蓋辨之於錙銖眇忽之間, 而儒釋之邪正分矣.

熹先君子與先生為同門友, 雅敬重焉. 嘗與沙縣鄧迪天啟語及先生, 鄧曰: "願中如氷壺秋月, 瑩徹無瑕, 非吾曹所及." 先君子深以為知言, 亟稱道之. 其後熹獲從先生逰, 每一去而復來, 則所聞必益超絶. 蓋其上達不已, 日新如此. 嗚呼! 若先生之道徳純備, 學術通明, 求之當世, 殆絶倫比. 然不求知於世而已, 未嘗輕以語人, 故上之人既莫之知, 而學者亦莫之識. 是以進不獲施之於時, 退未及傳之於後. 而先生方且玩其所安樂者於畎畆之中, 悠然不知老之將至. 蓋所謂"依乎中庸, 遯世不見知而不悔"[168]者, 先生庶幾焉. 比年以來, 學者始益親, 而方伯連帥之賢者, 又樂聞其道而邀致之, 其意豈徒然哉! 不幸天喪斯文, 而先生沒矣, 龜山之所聞於程夫子而授之羅公者, 至是而不得其傳矣. 嗚呼痛哉! 諸孤方謀窀穸[169]之事, 謂熹承學之乆, 宜知先生之藴, 使具其事以請銘於作者, 將勒諸幽堂, 以告後世知徳者有以考焉. 熹愚不肖, 蒙被教育不為不乆, 聴其言、觀其行而服膺焉不為不詳, 然未能有以得其逺者大者, 故悉取凡聞見所及一二書之. 詞若繁而不敢殺者, 蓋有待於筆削雲耳. 謹狀.行狀

발문

宋嘉定姑孰刻本延平答問跋 - 宋 趙師夏

延平李先生之學, 得之仲素羅先生; 羅先生之學, 得之龜山楊先生. 龜山葢伊洛之高弟也. 李先生不特以得於所傳授者為學, 其心造之妙, 葢有先儒之所未言者. 今觀此編與行述之所紀, 智者觀之, 當見之矣. 始我文公朱先生之先人吏部公, 與延平先生俱事羅先生, 為道義之交, 故文公先生於延平為通家子. 文公㓜孤, 從屏山劉公學問. 及壯, 以父執事延平而已, 至於論學, 葢未之契, 而文公毎誦其所聞, 延平亦莫之許也. 文公領簿同安, 反復延平之言, 若有所得者, 於是盡棄所學而師事焉. 則此編所錄, 葢同安既歸之後也. 文公先生嘗謂師夏曰: "余之始學. 亦務為儱侗宏濶之言, 好同而惡異, 喜大而耻於小, 於延平之言, 則以為'何為多事若是? 天下之理一而已', 心疑而不服. 同安官餘, 以延平之言反覆思之, 始知其不我欺矣. 葢延平之言曰: '吾儒之學所以異於異端者, 理一分殊也. 理不患其不一, 所難者分殊耳.' 此其要也." 今文公先生之言行布滿天下, 光明俊偉, 毫厘必辨而有以㑹其同, 曲折致詳而有以全其大, 所謂"致廣大而盡精微, 極高明而道中庸", 本末兼舉, 細大不遺. 而及門之士, 亦各随其分量, 有所依據而篤守, 循序而漸進, 無憑虚蹈空之失者, 實延平先生一言之緒也. 世之學者, 其尊信文公之道者, 則以為聰明絶世, 故其探討之微有不可及. 至於不能無疑者, 則又以為其學出於性習之似 、得之意好之偏而已, 而不知師弟子之間, 離合從違之際, 其難也如此. 嗚呼! 此葢為千古計也, 豈容有一毫曲徇茍合 、相為容悦之意哉!

北海王耕道舊讀此書而悦之, 攝郡姑孰, 取之刋之郡齋, 以畀學者, 其惠宏矣. 師夏贊貳于此, 因得述其所聞于後, 以告同學者, 葢丙辰夏夜之言也. 幸貰其僣.

嘉定甲戌三月望日後學趙師夏謹識.

각주

  1. <정씨경설> 4-235 春秋大義數十. 其義雖大, 炳如日星, 乃易見也, 惟其微辭隱義, 時措從宜者爲難知也.
  2. <논어> <학이> 11. 子曰:「父在,觀其志;父沒,觀其行;三年無改於父之道,可謂孝矣。」
  3. 전거 미상
  4. <논어> <리인> 18. 子曰:「事父母幾諫。見志不從,又敬不違,勞而不怨。」
  5. <한어대사전> 4. 漸進貌。
  6. <한어대사전> 成法, 法度。
  7. <논어> <위정> 6. 孟武伯問孝。子曰:「父母唯其疾之憂。」
  8. <논어주소> 馬曰:「武伯,懿子之子仲孫彘。武,謚也。言孝子不妄為非,唯疾病然後使父母憂。」
  9. <논어> <태백> 3. 曾子有疾,召門弟子曰:「啟予足!啟予手!《詩》云『戰戰兢兢,如臨深淵,如履薄冰。』而今而後,吾知免夫!小子!」
  10. <논어> <리인> 19. 子曰:「父母在,不遠遊。遊必有方。」
  11. <예기> <곡례상> 為人子者,居不主奧,坐不中席,行不中道,立不中門。食饗不為概,祭祀不為尸。聽於無聲,視於無形。不登高,不臨深。不茍訾,不茍笑。
  12. <논어> <위정> 7. 子游問孝。子曰:「今之孝者,是謂能養。至於犬馬,皆能有養;不敬,何以別乎?」
  13. <춘추좌전> 선공4년 楚人獻黿於鄭靈公. 公子宋與子家將見, 子公之食指動. 以示子家曰: "他日我如此, 必嘗異味." 及入, 宰夫將解黿, 相視而笑. 公問之, 子家以告. 及食大夫黿, 召子公而弗與也. 子公怒, 染指於鼎, 嘗之而出. 公怒, 欲殺子公. 子公與子家謀先. 子家曰: "畜老猶憚殺之, 而況君乎?" 反譖子家, 子家懼而從之, 夏弒靈公. 書曰: "鄭公子歸生弒其君夷", 權不足也. 君子曰: "仁而不武, 無能達也. 凡弒君稱君, 君無道也; 稱臣, 臣之罪也."(초나라에서 정영공에게 자라를 바쳤다. 공자송(자공)이 공자가(귀생)와 영공을 뵈려고 했는데, 공자송의 검지가 움직였다. 공자송은 이를 공자가에게 내보이며 말했다: "전에 내 검지가 이러면 반드시 별미를 맛보았다네!" 두 사람이 궁에 들어가보니 재부가 자라를 해체하려고 하고 있었으므로 서로 바라보며 웃었다. 영공이 웃는 까닭을 물으니 공자가가 그 이유를 아뢰었다. 대부들에게 자라를 대접할 때 영공은 공자송을 부르기만 하고 주지는 않았다. 공자송이 분노해 손가락을 솥에 넣어 찍어먹어보고는 나가버렸다. 영공이 노해 공자송을 죽이려고 했다. 그러자 공자송은 공자가와 영공에게 선수를 치려고 했다. 공자가가 말했다: "늙은 가축도 죽이기 꺼려지는데, 하물며 임금은 어떻겠는가?" 공자송이 도리어 공자가를 영공에게 참소하자, 공자가는 두려워 공자송의 작전에 따라 여름에 영공을 시해했다. <춘추>에서 "정공자 귀생(공자가)이 제 임금 이(영공)를 시해했다"고 기록한 것은 공자가의 권력이 공자송의 난을 막기에 부족했기 때문이다. 군자는 다음과 같이 평했다: "인하더라도 무위가 없으면 인을 이룩할 수 없다." 범례에 따르면, 임금을 시해한 사건에 임금의 이름을 일컬은 것은 임금이 무도했기 때문이고, 신하의 이름을 일컬은 것은 신하의 죄 때문이다.
  14. <춘추좌전> 소공19년 夏, 許悼公瘧. 五月戊辰, 飲大子止之藥, 卒, 大子奔晉. 書曰: "弒其君." 君子曰: "盡心力以事君, 舍藥物可也."(여름에 허도공이 학질에 걸렸다. 5월 무진일에 태자 지가 올린 약을 먹고 죽자, 태자가 진나라로 달아났다. <춘추>에서 "제 임금을 시해했다"고 기록했다. 군자는 다음과 같이 평했다: "몸과 마음을 다해 임금을 섬겼다면, [잘 모르는] 약물은 건드리지 않는 것이 옳았을 것이다."
  15. <논어> <위정> 9. 子曰:「吾與回言終日,不違如愚。退而省其私,亦足以發。回也,不愚。」
  16. <논어> <팔일> 8. 子夏問曰:「『巧笑倩兮,美目盼兮,素以為絢兮。』何謂也?」子曰:「繪事後素。」曰:「禮後乎?」子曰:「起予者商也!始可與言詩已矣。」
  17. <논어> <선진> 3. 子曰:「回也非助我者也,於吾言無所不說。」
  18. <논어> <위정> 18. 子張學干祿。子曰:「多聞闕疑,慎言其餘,則寡尤;多見闕殆,慎行其餘,則寡悔。言寡尤,行寡悔,祿在其中矣。」
  19. <맹자> <진심하> 33. 孟子曰:「堯舜,性者也;湯武,反之也。動容周旋中禮者,盛德之至也;哭死而哀,非為生者也;經德不回,非以干祿也;言語必信,非以正行也。君子行法,以俟命而已矣。」
  20. 『이정외서』 6-31 尤罪自外至也, 悔理自內出也. 修天爵則人爵至祿在其中矣. 子張學干祿, 故告之以此, 使定其心而不爲利祿動.
  21. <이정유서> 07-15 只外面有些隙罅, 便走了.
  22. 7조목 참조.
  23. <춘추> <환공> 二年,春,王正月,戊申,宋督弒其君與夷,及其大夫孔父。 滕子來朝。
  24. 呂本中, <呂氏春秋集解> 伊川先生解: "滕本侯爵, 後服屬於楚, 故降稱子, 夷狄之也."
  25. 전거 미상
  26. <춘추> <정공> 15년. 秋,七月,壬申,姒氏卒。…… 九月,滕子來會葬。丁巳,葬我君定公,雨不克葬,戊午,日下吳,乃克葬,辛巳,葬定姒。
  27. 전거 미상
  28. <이정유서> 20-02 問:「左傳可信否?」 曰:「不可全信, 信其可信者耳. 某年二十[貳拾]時, 看春秋, 黃聲隅問某如何看? 答之曰:『有兩句法云: 以傳考經之事迹, 以經別傳之眞僞.』」 又問:「公·穀如何?」 曰:「又次於左氏.」 「左氏卽是丘明否?」 曰:「傳中無丘明字, 不可考.」
  29. <논어> <학이> 12. 有子曰:「禮之用,和為貴。先王之道斯為美,小大由之。有所不行,知和而和,不以禮節之,亦不可行也。」
  30. <맹자> <이루상> 27. 孟子曰:「仁之實,事親是也;義之實,從兄是也。智之實,知斯二者弗去是也;禮之實,節文斯二者是也;樂之實,樂斯二者,樂則生矣;生則惡可已也,惡可已,則不知足之蹈之、手之舞之。」
  31. <논어> <학이> 13. 有子曰:「信近於義,言可復也;恭近於禮,遠恥辱也;因不失其親,亦可宗也。」
  32. <정몽> <有德篇第十二> 君子寧言之不顧,不規規於非義之信;寧身被困辱,不徇人以非禮之恭;寧孤立無助,不失親於可賤之人;三者知和而能以禮節之也,與上有子之言文相屬而不相蒙者。凡論語、孟子發明前文,義各未盡者皆挈之。他皆放此。
  33. <예기> <치의> 子曰:「君子道人以言,而禁人以行。故言必慮其所終,而行必稽其所敝;則民謹於言而慎於行。
  34. <논맹정의>에는 "明道曰"로 되어있다.
  35. <이정유서> 08-31 「因不失其親」, 信本不及義, 恭本不及禮, 然信近於義者, 以言可復也, 恭近於禮者, 以遠恥辱也, 因恭信不失其所以, 一無以字. 親近於禮義, 故亦可宗也. 如言禮義不可得見, 得見恭信者斯可矣.
  36. <논어> <위정> 2. 子曰:「詩三百,一言以蔽之,曰『思無邪』。」
  37. <시경> <노송> <駉> 薄言駉者、有駰有騢、有驔有魚、以車祛祛。思無邪、思馬斯徂。
  38. 소철, <論語拾遺> 故曰: '思無邪, 思馬思徂.' 苟思馬而馬應, 則凡思之所及, 無不應也. 此所以為'感而遂通天下之故'也.
  39. <시경> <용풍> <定之方中> 匪直也人、秉心塞淵、騋牝三千。
  40. <논어> <위정> 4. 子曰:「吾十有五而志于學,三十而立,四十而不惑,五十而知天命,六十而耳順,七十而從心所欲,不踰矩。」
  41. <정몽> <三十篇第十一> 常人之學, 日益而不自知也; 仲尼學行習察, 異於他人. 故自十五至於七十, 化而知裁. 其徳進之盛者與!
  42. <맹자> <진심상> 24. 孟子曰:「孔子登東山而小魯,登太山而小天下。故觀於海者難為水,遊於聖人之門者難為言。觀水有術,必觀其瀾。日月有明,容光必照焉。流水之為物也,不盈科不行;君子之志於道也,不成章不達。」
  43. <이정유서> 15-89 孔子自十五至七十, 進德直有許多節次. 聖人未必然, 然亦是一作且. 爲學者立下一法, 盈科而後進, 須是成章乃達.
  44. <논어> <팔일> 10. 子曰:「禘自既灌而往者,吾不欲觀之矣。」
  45. <이정외서> 6-36 灌以降神禘之始也. 旣灌而往者自始以至終皆無足觀言魯祭之非禮也. 不知者蓋爲魯諱如自此事而正之其於天下如指掌之易 <伊川>
  46. <예기> <예운> 言偃復問曰:「夫子之極言禮也,可得而聞與?」孔子曰:「我欲觀夏道,是故之杞,而不足徵也;吾得夏時焉。我欲觀殷道,是故之宋,而不足徵也;吾得坤乾焉。坤乾之義,夏時之等,吾以是觀之。」
  47. <예기> <예운> 孔子曰:「於呼哀哉!我觀周道,幽、厲傷之,吾舍魯何適矣!魯之郊禘,非禮也,周公其衰矣!杞之郊也禹也,宋之郊也契也,是天子之事守也。故天子祭天地,諸侯祭社稷。」
  48. 趙順孫, <論語纂疏> 謝氏曰: "夫子嘗曰: '我欲觀夏道, 是故之杞而不足證也; 我欲觀商道, 是故之宋而不足證也.' 又曰: '我觀周道, 幽厲傷之, 吾舎魯何適矣? 魯之郊禘, 非禮也, 周公其衰矣. 考之杞宋, 已如彼; 考之當今, 又如此, 孔子所以深歎也."
  49. <순자> <예론> 大昏之未發齊也,太廟之未入尸也,始卒之未小斂也,一也。
  50. <논맹정의> 呂曰: "荀卿言: '喪之未小斂也, 大昏之未發齊也, 祭祀之未納尸也', 正與此意合. 禮既灌然後迎牲迎尸, 則未灌之前, 其誠意交於神明者至矣; 既灌而後特人事耳, 故有不必觀也."
  51. <예기> <예운> 孔子曰:「於呼哀哉!我觀周道,幽、厲傷之,吾舍魯何適矣!魯之郊禘,非禮也,周公其衰矣!杞之郊也禹也,宋之郊也契也,是天子之事守也。故天子祭天地,諸侯祭社稷。」
  52. <논어> <팔일> 11. 或問禘之說。子曰:「不知也。知其說者之於天下也,其如示諸斯乎!」指其掌。
  53. <주역> <계사상> 4. 易與天地準,故能彌綸天地之道。仰以觀於天文,俯以察於地理,是故知幽明之故。原始反終,故知死生之說。精氣為物,遊魂為變,是故知鬼神之情狀。
  54. <논어> <팔일> 11. 或問禘之說。子曰:「不知也。知其說者之於天下也,其如示諸斯乎!」指其掌。
  55. <이정외서> 6-36 灌以降神禘之始也. 旣灌而往者, 自始以至終, 皆無足觀, 言魯祭之非禮也. 不知者, 蓋爲魯諱. 如自此事而正之, 其於天下, 如指掌之易. <伊川>
  56. <예기> <제통> 故曰:禘、嘗之義大矣。治國之本也,不可不知也。明其義者君也,能其事者臣也。不明其義,君人不全;不能其事,為臣不全。
  57. <논어> <팔일> 12. 祭如在,祭神如神在。子曰:「吾不與祭,如不祭。」
  58. <논어> <팔일> 26. 子曰:「居上不寬,為禮不敬,臨喪不哀,吾何以觀之哉?」
  59. <중용장구> 25장. 誠者自成也,而道自道也。誠者物之終始,不誠無物。是故君子誠之為貴。
  60. <논어> <리인> 15. 子曰:「參乎!吾道一以貫之。」曾子曰:「唯。」子出。門人問曰:「何謂也?」曾子曰:「夫子之道,忠恕而已矣。」
  61. <중용장구> 13장. 忠恕違道不遠,施諸己而不愿,亦勿施於人。
  62. <맹자> <이루하> 19. 孟子曰:「人之所以異於禽於獸者幾希,庶民去之,君子存之。舜明於庶物,察於人倫,由仁義行,非行仁義也。」
  63. <시경> <주송> <維天之命> 維天之命、於穆不已。於乎不顯、文王之德之純。
  64. <주역> 건괘 <단전> 乾道變化,各正性命,保合大和,乃利貞。
  65. <이정외서> 7-2 伊川曰: "'維天之命, 於穆不已', 忠也; '乾道變化, 各正性命', 恕也."
  66. <동파전집> 권92 師弟子答問未嘗不唯, 而曾子之'唯'獨記於<論語>. 一'唯'之外, 口耳俱喪. 而門人方欲問其所謂, 此繫風捕影之流, 何足實告哉?
  67. <맹자> <고자하> 2. 堯舜之道,孝弟而已矣。
  68. <이천역전> <서> 至微者, 理也; 至著者, 象也. 體用一源, 顯微无間.
  69. <중용장구> 13장. 忠恕違道不遠,施諸己而不愿,亦勿施於人。
  70. <이정유서> 03-98 入道莫如敬, 未有能致知而不在敬者.
  71. <논어> <안연> 1. 顏淵問仁。子曰:「克己復禮為仁。一日克己復禮,天下歸仁焉。為仁由己,而由人乎哉?」
  72. <이정문집> 8-13 <四箴幷序> 顔淵問克已復禮之目, 夫子曰: "非禮勿視, 非禮勿聽, 非禮勿言, 非禮勿動. 四者, 身之用也. 由乎中而應乎外, 制於外, 所以養其中也. 顔淵事斯語, 所以進於聖人. 後之學聖人者宜服膺而勿失也. 因箴以自警.
  73. <한어대사전> 41. 副詞。 僅僅;僅只。▶ 《朱子語類》卷五一: “所謂事之宜, 方是指那事物當然之理, 未說到處置合宜處也。”
  74. <한어대사전> 大致, 大略。▶ 《朱子語類》卷一一三: “先生言: ‘前輩諸賢多只是略綽見得箇道理便休, 少有苦心理會者。 ’”
  75. <이정유서> 02上-214 伯淳昔在長安倉中閑坐, 後見長廊柱, 以意數之, 已尙不疑, 再數之不合, 不免令人一一聲言而數之, 乃與初數者無差, 則知越著心把捉越不定.
  76. <연평답문> 22조목. 此孟子發此夜氣之説, 於學者極有力.
  77. <논어> <옹야> 5. 子曰:「回也,其心三月不違仁,其餘則日月至焉而已矣。」
  78. <한어대사전> 多用於書信結尾, 表示懇切的請求或希望。
  79. 상해고적 <주자전서> 제13책 342쪽 [15] '邇書‘光緒本作‘遺書’,正誼堂本作‘通書’。
  80. <한어대사전> [奸訛] 1. 詭詐虛假。
  81. <논어> <공야장> 12. 子貢曰:「夫子之文章,可得而聞也;夫子之言性與天道,不可得而聞也。」
  82. <한어대사전> 2. 安穩貌。
  83. <이정유서> 02上-28 學者須先識仁. 仁者, 渾然與物同體. 義,禮,智,信, 皆仁也.識得此理, 以誠敬存之而已, 不須防檢, 不須窮索.
  84. 한유, <原人> 天者,日月星辰之主也;地者,草木山川之主也;人者,夷狄禽獸之主也。主而暴之,不得其為主之道矣。是故聖人一視而同仁,篤近而舉遠。
  85. <상채어록> 권2 投壺非著意, 非不著意, 莫知其所以然而中, 此神之所為也. 但教毎事如此.
  86. <한어대사전> 28. 用在人稱代詞或指人的名詞後面表示複數。 今作“們”。
  87. <중용장구> 16장. 子曰:「鬼神之為德,其盛矣乎!視之而弗見,聽之而弗聞,體物而不可遺。
  88. <중용장구> 1장. 莫見乎隱,莫顯乎微。故君子慎其獨也。
  89. <중용장구> 16장. 子曰:「鬼神之為德,其盛矣乎!視之而弗見,聽之而弗聞,體物而不可遺。
  90. <중용장구> 6장. 人皆曰予知,擇乎中庸而不能期月守也。; 20장. 誠者,天之道也;誠之者,人之道也。誠者不勉而中,不思而得,從容中道,聖人也。誠之者,擇善而固執之者也。
  91. 衛湜, <禮記集說> 권124.(<중용> 수장 "道也者,不可須臾離也,可離非道也。是故君子戒慎乎其所不睹,恐懼乎其所不聞。莫見乎隱,莫顯乎微,故君子慎其獨也。"에 달린 주석) [藍田呂氏]又曰: "所謂中者, 性與天道也. 謂之有物, 則不得於言; 謂之無物, 則必有事焉. 不得於言者, 視之不見, 聽之不聞, 無聲形接乎耳目而可以道也; 必有事焉者, 莫見乎隱, 莫顯乎微, 體物而不可遺者也. 古之君子, 立則見其參於前; 在輿則見其倚於衡, 是何所見乎? 洋洋如在上, 如在其左右, 是果何物乎? 學者見乎此, 則庶乎能擇中庸而執之, 隠㣲之閒, 不可求之於耳目, 不可道之於言語, 然有所謂昭昭而不可欺, 感之而能應者, 正惟虚心以求之, 則庶乎見之."
  92. <맹자> <공손추상> 2. 必有事焉而勿正,心勿忘,勿助長也。無若宋人然:宋人有閔其苗之不長而揠之者,芒芒然歸。謂其人曰:『今日病矣,予助苗長矣。』其子趨而往視之,苗則槁矣。天下之不助苗長者寡矣。以為無益而舍之者,不耘苗者也;助之長者,揠苗者也。非徒無益,而又害之。
  93. <한어대사전>[溟涬] 1. 天地未形成前, 自然之氣混混沌沌的樣子。; 3. 水勢無邊際貌。 [涬溟] 自然混沌之氣。▶ 《莊子‧在宥》: “大同乎涬溟, 解心釋神, 莫然無魂。” ▶ 成玄英 疏: “溟涬, 自然之氣也。 茫蕩身心大同, 自然合體也。”
  94. <연평답문> 22조목. 於聖賢之言, 亦時有會心處, 亦間有識其所以然者. 但覺見反為理道所縳, 殊無進步處.
  95. <대학장구> 전6장. 富潤屋,德潤身,心廣體胖,故君子必誠其意。
  96. <연평답문> 25조목. 若旦晝間不能存養, 即夜氣何有! 疑此便是'日月至焉'氣象也.
  97. <논어> <옹야> 5. 子曰:「回也,其心三月不違仁,其餘則日月至焉而已矣。」
  98. <연평답문> 28조목. 為此説者, 非理道明, 心與氣合, 未易可以言此.
  99. <이정유서> 03-10 詩可以興. 某自再見茂叔後, 吟風弄月以歸, 有「吾與點也」之意.
  100. <논어> <선진> 25. 「點!爾何如?」鼓瑟希,鏗爾,舍瑟而作。對曰:「異乎三子者之撰。」子曰:「何傷乎?亦各言其志也。」曰:「莫春者,春服既成。冠者五六人,童子六七人,浴乎沂,風乎舞雩,詠而歸。」夫子喟然歎曰;「吾與點也!」
  101. <연평답문> 26조목. 二蘇語、孟説, 儘有可商論處, 俟他日見面論之.
  102. <논어> <양화> 2. 子曰:「性相近也,習相遠也。」
  103. <이정유서> 18-103 「『性相近也, 習相遠也』, 性一也, 何以言相近?」 曰:「此只是言氣質之性, 如俗言性急性緩之類, 性安有緩急? 此言性者, 生之謂性也.」 ; 같은 책, 19-36 「性相近也」, 此言所禀之性, 不是言性之本. 孟子所言, 便正言性之本.
  104. <논맹정의> 권9上 尹曰: "性一也, 何以言相近? 葢由習則逺而為言."
  105. <논어> <양화> 5. 公山弗擾以費畔,召,子欲往。; 6. 子路不說,曰:「末之也已,何必公山氏之之也。」子曰:「夫召我者而豈徒哉?如有用我者,吾其為東周乎?」
  106. <논어> <양화> 8. 佛肸召,子欲往。子路曰:「昔者由也聞諸夫子曰:『親於其身為不善者,君子不入也。』佛肸以中牟畔,子之往也,如之何!」子曰:「然。有是言也。不曰堅乎,磨而不磷;不曰白乎,涅而不緇。吾豈匏瓜也哉?焉能繫而不食?」
  107. <이정유서> 22上-83 公山弗擾·佛肹召, 子欲往者, 聖人以天下無不可與有爲之人, 亦無不可改過之人, 故欲往. 然終不往者, 知其必不能改也.
  108. <이정유서> 08-26 佛肹召, 欲往而不往者何也? 聖人示之以迹, 子路不諭.
  109. <논어> <자한> 13. 子欲居九夷。或曰:「陋,如之何!」子曰:「君子居之,何陋之有?」
  110. <논어> <공야장> 6. 子曰:「道不行,乘桴浮于海。從我者其由與?」子路聞之喜。子曰:「由也好勇過我,無所取材。」
  111. <景德傳燈錄> 권6 <道一禪師> T51n2076_006 [0246a21] "鄧隱峰辭師, 師云: '什麼處去?' 對云: '石頭去.' 師云: '石頭路滑.' 對云: '竿木隨身, 逢場作戲.'"(등운봉이 마조선사에게 작별을 고했다. 선사가 물었다: "어디로 가는가?" 등운봉이 대답했다: "석두로 갑니다." 선사가 말했다: "석두로 가는 길은 미끄럽네." 등운봉이 대답했다: "장대를 가지고 다니다가 괜찮은 곳을 만나면 놀아보렵니다."
  112. <주역> 否괘 六三:包羞。
  113. <논어> <양화> 20. 子曰:「予欲無言。」 子貢曰:「子如不言,則小子何述焉?」 子曰:「天何言哉?四時行焉,百物生焉,天何言哉?」
  114. <이정유서> 01-01 至如孔子, 道如日星之明, 猶患門人未能盡曉, 故曰『予欲無言』. ; <논맹정의> 권17 楊曰: "子貢能言者也, 而天下之理有言之不能諭者, 故子曰: '子欲無言'以發之."
  115. <논어> <공야장> 12. 子貢曰:「夫子之文章,可得而聞也;夫子之言性與天道,不可得而聞也。」
  116. <논어> <미자> 1. 微子去之,箕子為之奴,比干諫而死。孔子曰:「殷有三仁焉。」
  117. <논맹정의> 권18. 尹曰: "無所擇於利害而為所當為, 惟仁者能之. 君子 之事不必同也, 其於利害無所擇, 則一也."
  118. <논어> <술이> 14. 冉有曰:「夫子為衛君乎?」子貢曰:「諾。吾將問之。」 入,曰:「伯夷、叔齊何人也?」曰:「古之賢人也。」曰:「怨乎?」曰:「求仁而得仁,又何怨。」出,曰:「夫子不為也。」
  119. <태극도설> 無極而太極. 太極動而生陽, 動極而靜, 靜而生陰. 靜極復動. 一動一靜, 互爲其根; 分陰分陽, 兩儀立焉.
  120. <주역> 복괘 <단전> 復亨;剛反,動而以順行,是以出入无疾,朋來无咎。反復其道,七日來復,天行也。利有攸往,剛長也。復其見天地之心乎?
  121. <태극도설> 二氣交感, 化生萬物. 萬物生生, 而變化無窮焉.
  122. <중용장구> 1장. 喜怒哀樂之未發,謂之中;發而皆中節,謂之和。中也者,天下之大本也;和也者,天下之達道也。
  123. <이정유서> 18-83. 自古儒者皆言靜見天地之心, 唯某言動而見天地之心.
  124. <주역> 복괘 初九:不遠復,无祗悔,元吉。; <계사하> 5. 子曰:「顏氏之子,其殆庶幾乎?有不善未嘗不知,知之未嘗復行也。易曰:『不遠復,无祇悔,元吉。』
  125. <주역> 건괘 <문언> 夫「大人」者、與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶,先天而天弗違,後天而奉天時。天且弗違,而況於人乎?況於鬼神乎?
  126. <맹자> <진심상> 4. 孟子曰:「萬物皆備於我矣。反身而誠,樂莫大焉。強恕而行,求仁莫近焉。」
  127. <주역> 離괘 九三:日昃之離,不鼓缶而歌,則大耋之嗟,凶。
  128. <논어> <위정> 4. 子曰:「吾十有五而志于學,三十而立,四十而不惑,五十而知天命,六十而耳順,七十而從心所欲,不踰矩。」
  129. <한어대사전> 亦作“馴至”。逐漸達到;逐漸招致。 <주역> 곤괘 초효 <상전> 履霜堅冰,陰始凝也。馴致其道,至堅冰也。
  130. <한어대사전> 1. 指農曆七月十五日。 舊時道觀於此日作齋醮, 僧寺作盂蘭盆會, 民俗亦有祭祀亡故親人等活動。
  131. <중용장구> 25장. 誠者物之終始,不誠無物。是故君子誠之為貴。
  132. <중용장구> 32장. 唯天下至誠,為能經綸天下之大經,立天下之大本,知天地之化育。夫焉有所倚?肫肫其仁!淵淵其淵!浩浩其天!苟不固聰明聖知達天德者,其孰能知之?
  133. <이정문집> 9-19 <與呂大臨論中書> 大臨云: 旣云率性之謂道, 則循性而行, 莫非道. 此非性中別有道也, 中卽性也.
  134. <이정문집> 9-19 <與呂大臨論中書> 來敎云: '所謂『循性而行, 無往而非義理』, 言雖無病, 而聖人氣味殊少.' 大臨反而思之, 方覺辭氣迫窘, 無沈浸醲厚之風.
  135. T51n2076 <景德傳燈錄> 第30卷 <永嘉真覺大師證道歌> 勢力盡箭還墜。招得來生不如意。爭似無為實相門。一超直入如來地。
  136. <논어> <안연> 1. 顏淵問仁。子曰:「克己復禮為仁。一日克己復禮,天下歸仁焉。為仁由己,而由人乎哉?」; 2. 仲弓問仁。子曰:「出門如見大賓,使民如承大祭。己所不欲,勿施於人。在邦無怨,在家無怨。」
  137. <맹자> <고자상> 11. 孟子曰:「仁,人心也;義,人路也。
  138. <맹자> <진심하> 16. 孟子曰:「仁也者,人也。合而言之,道也。」
  139. <이정문집> 9-20 <答楊時論西銘書> <西銘>明理一而分殊.
  140. <귀산집> 권20 <答胡康侯其一> 天下之物, 理一而分殊. 知其理一, 所以為仁; 知其分殊, 所以為義.
  141. <상채어록> 권1 問: "'求仁'如何下工夫?" 謝曰: "如顔子視聽言動上做亦得; 如曾子顏色、容貌、辭氣上做亦得. 出辭氣者, 猶佛所謂'從此心中流出'. 今人唱一喏, 不從心中出, 便是不識痛癢. 古人曰: '心不在焉, 視而不見, 聽而不聞, 食而不知其味.' 不見、不聞、不知味, 便是不仁. 死漢不識痛癢了. 又如仲弓'出門如見大賓, 使民如承大祭', 但存得如見大賔、如承大祭底心在, 便是識痛癢." ; <이정유서> 02上-28 學者須先識仁. 仁者, 渾然與物同體. 義,禮,智,信, 皆仁也. 識得此理, 以誠敬存之而已, 不須防檢, 不須窮索.
  142. <논어> <술이> 18. 葉公問孔子於子路,子路不對。子曰:「女奚不曰,其為人也,發憤忘食,樂以忘憂,不知老之將至云爾。」
  143. <논맹정의> 권7. 尹曰: “子路不對葉公, 以形容之難也. 孔子所以語之, 蓋不自居其聖者而已.”
  144. <주역> 비괘 <상전> 天地不交,否;君子以儉德辟難,不可榮以祿。
  145. <한어대사전> 1. 謂得到安居之地或合適的位置。 語出《詩‧魏風‧碩鼠》: “樂土樂土, 爰得我所。”
  146. <상채어록> 권1. 游子問謝子曰: "公於外物, 一切放得下否?" 謝子謂胡子曰: "可謂切問矣." 胡子曰: "何以答之?" 謝子曰: "實向他道: '就上面做工夫來.'" 胡子曰: "如何做工夫?" 謝子曰: "凡事須有根. 屋柱無根, 折却便倒. 樹木有根, 雖翦枝條, 相次又發. 如人要富貴, 要他做甚? 必須有用處尋討要用處, 病根將來斬斷便没事."
  147. 不得已。
  148. <이정유서> 11-105 治道在於立志、責任、求賢.
  149. <주자서신편년고증> 25쪽. "이 편지에서 주자의 문목에 대해 답할 때 주자가 '저는 전에 『인이라는 글자는 사람이 사람다워서 금수와 다른 까닭이다』라고 주제 넘게 생각했는데, 선생께서는 옳게 여기지 않으셨습니다. (후략)', '제가 또 『맹자』의 양기장에 대해 여쭈었는데, (후략)', '저는 최근 『중용』 귀신장을 읽었는데, (후략)'이라고 물은 것을 기록하고 있다. 이를 통해 주자의 답서가 이연평의 임오년(1162) 6월 11일 편지에 대한 것임을 알 수 있다. 원주原注에 '신사년(1161) 8월 7일 편지(辛巳八月七日書)'라고 되어있는 것은 잘못이니, '임오년 8월 7일 편지(壬午八月七日書)'라고 되어야 한다. 이를 통해 추론하자면, 주자의 답서는 임오년 7월에 쓰였어야 한다."
  150. <연평답문> 53조목. 但又云: '人之所以為人而異乎禽獸者, 以是而已, 若犬之性、牛之性, 則不得而與焉.'
  151. <이정외서> 12-35 謝子曰: "吾嘗習忘以養生." 明道曰: "施之養生則可; 於道則有害. 習忘可以養生者, 以其不留情也. 學道則異於是. '必有事焉而勿正', 何謂乎? 且出入起居寧無事者? 正心待之, 則先事而迎, 忘則涉乎去念; 助則近於留情. 故聖人心如鑑, 孟子所以異於釋氏此也." ; <상채어록> 권1. 謝子曰: "吾嘗習忘以養生." 明道曰: "施之養生則可;於道有害. 習忘可以養生者, 以其不留情也. 學道則異於是. 夫'必有事焉而勿正', 何謂乎? 且出入起居寧無事者? 正心以待之, 則先事而迎, 忘則涉乎去念; 助則近於留情. 故聖人之心如鑑, 孟子所以異於釋氏心也."
  152. <맹자> 이루하 26. 所惡於智者,為其鑿也。如智者若禹之行水也,則無惡於智矣。禹之行水也,行其所無事也。如智者亦行其所無事,則智亦大矣。
  153. <주역> 곤괘 六二:直,方,大,不習无不利。
  154. <주역> 곤괘 <문언> 直」其正也,「方」其義也。君子敬以直內,義以方外,敬義立而德不孤。「直、方、大、不習无不利」,則不疑其所行也。
  155. <시경> 대아 <황의> 帝謂文王、無然畔援、無然歆羨、誕先登于岸。
  156. <중용장구> 16장. 子曰:「鬼神之為德,其盛矣乎!視之而弗見,聽之而弗聞,體物而不可遺。使天下之人齊明盛服,以承祭祀。洋洋乎!如在其上,如在其左右。詩曰:『神之格思,不可度思!矧可射思!』夫微之顯,誠之不可揜如此夫。」
  157. <통서> <誠下第二> 静無而動有, 至正而明達也.
  158. <상채어록> 권1. 余問死生之説. 謝子曰: "人死時氣盡也." 曰: "有鬼神否?" 謝子曰: "余當時亦曽問明道先生, 明道曰: '待向你道無來, 你怎生信得及? 待向你道有來, 你但去尋討看.'" 謝氏曰: "此便是答底語." 又曰: "横渠説得來别, 這箇便是天地間妙用. 須是將來做箇題目入思議, 始得. 講説不濟事." ; <이정외서> 『외서』12-34 問: "有鬼神否?" 明道先生曰: "待向你道無來, 你怎生信得及待? 向你道有來, 你且去尋討看."
  159. <상채어록> 권1. 曰: "如此却是鶻突也." 謝子曰: "不是鶻突. 自家要有便有, 自家要無便無, 始得."
  160. <한어대사전> 1. 行為端正不違禮義, 或謹嚴不逾規矩。
  161. <맹자> <고자상> 19. 孟子曰:「五穀者,種之美者也;苟為不熟,不如荑稗。夫仁亦在乎熟之而已矣。」
  162. <이정유서> 03-96 罪已責躬不可無, 然亦不當長留在心胸爲悔.
  163. <맹자> 진심상 13. 夫君子所過者化,所存者神,上下與天地同流,豈曰小補之哉?
  164. <한어대사전> 方便的時候.
  165. 3. 猶力量。 ▶ 《朱子全書》卷四: “若是大底功業便用大聖賢做, 小底功業便用小底賢人做, 各隨他分量做出來, 如何強得?”
  166. <논어> <안연> 11. 齊景公問政於孔子。孔子對曰:「君君,臣臣,父父,子子。」公曰:「善哉!信如君不君,臣不臣,父不父,子不子,雖有粟,吾得而食諸?」
  167. <한어대사전> 山名。 在 廣東省 東江 北岸。 風景優美, 為 粵 中游覽勝地。晉 葛洪 曾在此山修道, 道教稱為“第七洞天”。
  168. <중용장구> 11장. 君子依乎中庸,遯世不見知而不悔,唯聖者能之。
  169. <한어대사전> 1. 埋葬.