주자 연보
해제
의적단의 강독 작업 일환으로 개설한 페이지이다.
저본은 王懋竑의 <주자연보>(<주자전서>, 상해고적)로 하고, 束景南의 <주희연보장편>을 참고했다.
왕무횡이 참고한 판본은 <주자대전>, <주자어류>, 南宋 黃幹의 <行狀>(<朝奉大夫華文閣待制贈寶謨閣直學士通議大夫謚文朱先生行狀>), 明 李默의 <紫陽文公先生年譜>, 清 洪嘉植의 <朱子年譜> 등이다.
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원문
1~19세
髙宗建炎四年, 庚戌秋九月甲寅, 先生生.
- 【行狀】先生諱熹, 字仲晦. 父朱氏為婺源著姓, 以儒名家. 吏部公擢進士第, 入官尚書郎, 兼史事, 以不附和議去國. 文章行義為學者師. 號韋齋先生. 吏部因仕入閩, 至先生始寓建之崇安五夫里, 今居建陽之考亭. 先生以建炎四年九月十五日午時生南劔尤溪之寓舎.
- 【年譜】先生本歙州人. 世居婺源之永平鄉松巖里. 宣和末, 考吏部韋齋公松, 字喬年, 為建州政和縣尉, 遭父承事府君喪, 以貧不能歸, 遂葬其親於政和縣䕶國寺側. 服除, 調南劔尤溪縣尉. 去官, 嘗僑寓建劔二州. 是嵗, 館於尤溪之鄭氏, 而先生生焉.洪本
紹興元年辛亥, 二嵗.
二年壬子, 三嵗.
三年癸丑, 四嵗.
- 【行狀】先生幼穎悟莊重甫能言韋齋指天示之曰天也問曰天之上何物韋齋異之
四年甲寅, 五嵗. 始入小學.
- 【年譜】韋齋<與内弟程復亨書>云: "息婦生男名五二. 今五嵗, 上學矣."
- 【按】先生小名沈郎, 小字季延. 此云五二, 以行稱.
五年乙夘, 六嵗.
- 【語錄】某五六嵗時, 心便煩惱: '天體是如何? 外面是何物?'
六年丙辰, 七嵗.
七年丁已, 八嵗.
- 【行狀】就傳, 授以<孝經>一閱通之, 題其上曰: "不若是, 非人也." 嘗從羣兒戲沙上, 獨端坐, 以指畫沙, 視之八卦也. 年譜同
八年戊午, 九嵗.
- 【語錄】孔子曰: "仁逺乎哉? 我欲仁, 斯仁至矣." 這箇全要人自去做. 孟子所謂奕秋, 只是争這些子, 一箇進前要做, 一箇不把當事. 某年八九嵗時, 讀<孟子>到此, 未嘗不慨然奮發, 以為為學當如此做工夫. 當時便有這箇意思, 如此只是未知得是如何做工夫, 自後更不肯休, 一向要去做工夫.不知何人
九年已未, 十嵗.
- 【行狀】少長, 厲志聖賢之學, 於舉子業初不經意.
- 【年譜】時自知力學, 聞長者言, 輒不忘.
- 【語錄】某十數嵗時, 讀<孟子>, 至'聖人與我同類'者, 喜不可言, 以為聖人亦易做. 而今方覺得難.包揚, 庚寅後.
十年庚申, 十一嵗. 受學于家庭.
- 【年譜】時韋齋為吏部員外郎, 以不附秦檜和議, 出知饒州, 請祠居於家. 初, 韋齋師事羅豫章, 與李延平為同門友, 聞楊龜山所傳伊洛之學, 獨得古先聖賢不傳之遺意. 於是益自刻厲, 痛刮浮華, 以趨本實. 日誦<大學>、<中庸>之書, 以用力於致知誠意之地. 自謂卞急害道, 因取古人佩韋之義, 名其齋曰韋齋, 以自警焉.
- 【文集】<皇考吏部府君行狀>云: "又得浦城蕭公顗子莊, 劒浦羅公從彦仲素, 而與之遊, 則聞龜山楊氏所傳河雒之學. <延平行狀>云: "先考吏部府君亦從羅公問學, 與先生為同門友." 韋齋先生<書昆陽賦後>云: "為兒甥讀<光武紀>, 至昆陽之戰, 熹問何以能若是, 為道梗概, 欣然領解, 故書蘇子瞻<昆陽賦>畀之. 先生跋云: "紹興庚申, 熹年十一嵗, 先君罷官行朝, 寓建陽, 登髙邱氏之居, 暇日手書此賦以授熹, 為說古今成敗興亡大致, 慨然久之." 續集
十一年辛酉, 十二嵗.
十二年壬戌, 十三嵗.
十三年癸亥, 十四嵗. 春三月辛亥, 丁父韋齋先生憂.
- 【文集】<遷墓記>云: "以十三年三月二十四日辛亥, 卒於建州城南之寓舎, 年四十有七."
稟學于劉屏山、劉草堂、胡籍溪三先生之門.
- 【年譜】當韋齋疾革時, 手自為書, 以家事屬少傅劉公子羽, 而訣於籍溪胡憲原仲、白水劉勉之致中、少傅之弟屏山劉子翬彦沖. 且顧謂先生曰: "此三人者, 吾友也. 學有淵源, 吾所敬畏. 吾即死, 汝往父事之, 而唯其言之聽." 韋齋歿, 少傅為築室於其里第之傍, 先生遂奉母夫人遷而居焉. 乃遵遺訓禀學於三君子之門. 三君子撫教如子姪, 而白水劉公因以其女妻之. 不數年, 二劉公相繼下世, 獨事籍溪胡公為最久. 屏山卒於紹興十七年丁卯十二月, 白水卒於十九年乙巳九月, 籍溪則至三十二年壬午方卒也.
- 【文集】<屏山墓表>云: "先人疾病時, 嘗顧語熹曰: '籍溪胡原仲、白水劉致中、屏山劉彦沖, 此三人者, 吾友也. 其學皆有淵源, 吾所敬畏. 吾即死, 汝往父事之, 而唯其言之聴, 則吾死不恨矣.' 熹飲泣受言不敢忘. 既孤, 則奉以告三君子而禀學焉. 時先生之兄侍郎公, 尤以收䘏孤窮為已任, 以故熹獨得朝夕於先生之側. 而先生亦不鄙其愚穉, 所以教示期許, 皆非常人之事." <白水墓表>云: "先君子棄諸孤, 先生慨然為經理其家事, 而教誨熹如子姪, 既又以其息女歸之." <籍溪行狀>云: "先生所與同志, 唯白水劉先生. 既與俱隠, 又得屏山劉公彦沖先生而與之遊, 更相切磋, 以就其學. 熹之先君子, 亦晚而定交焉. 既病且沒, 遂因以屬其子. 故熹於三君子之門, 皆得供灑掃之役, 而事先生為最乆." <少傅劉公碑>云: "先人晚從公遊, 疾病, 寓書以家事為寄. 公惻然憐之, 收教熹如子姪. 故熹自幼得侍公左右.
- 【屏山字詞集】冠而欽名, 粤惟古制. 朱氏子熹, 幼而騰異. 友朋尚焉, 請祝以字. 字以元晦, 表名之義. 木晦於根, 春榮一作容曄敷. 人晦於身, 神明内腴. 昔者曾子, 稱其友曰: '有若無, 實若虚.' 不斥厥名, 而傳於書. 雖百世之逺也, 揣其氣象, 知顔子如愚, 迹參並遊, 英馳俊驅. 豈無他人, 夫誰敢居? 自諸子言志, 回欲無伐, 一宣於聲, 終身弗越. 陋巷闇然, 其光烈烈. 從事於斯, 惟参也無慚. 貫道惟一, 省身則三. 夾輔孔門, 翺翔兩驂. 學的欲正, 吾知斯之為指南. 惟先吏部, 文儒之粹, 彪炳育珍, 文一作又華其繼. 來兹講磨, 融融憙憙. 真聰廓開, 如源之方駛, 望洋渺瀰, 老我縮氣. 古人不云乎, 純亦不已. 悵友道之衰變, 切切而唯唯. 子德不日新, 則時予之耻. 勿謂此耳, 充之益充, 借曰合矣, 宜養於蒙. 言而思毖, 動而思躓, 凜乎惴惴, 惟顔曾是畏.
十四年甲子, 十五嵗. 葬韋齋先生.
- 【年譜】墓在崇安縣五夫里西塔山.
十五年乙丑, 十六嵗.
- 【語錄】某年十五六時, 讀<中庸>'人一己百, 人十己千'一章, 因見吕與叔解得此段痛快, 未嘗不悚然警厲奮發.沈僩 某年十四五時, 便覺得這物事, 是好底物事, 心便愛了. 某不敢自昧, 實以銖累寸積而得之.李方子
十六年丙寅, 十七嵗.
- 【語錄】某自十六七時, 下工夫讀書, 彼時四旁皆無津涯, 只自恁地硬著力去做. 至今日雖不足道, 但當時也是喫了多少辛苦讀書.楊道夫
十七年丁夘, 十八嵗. 秋, 舉建州鄉貢.
- 【年譜】考官蔡兹謂人曰: "吾取中一後生, 三篇䇿皆欲為朝廷措置大事, 他日必非常人."
十八年戊辰, 十九嵗. 春, 登王佐榜進士. 夏, 准勅賜同進士出身.
- 【年譜】中第五甲第九十人.
- 【語錄】某少年時, 只做得十五六篇舉業, 後來只是如此發舉及第. 人但不可不㑹作文字, 及其得也, 只是如此. 今人却要求為必得, 豈有此理?曾祖道 學者難得, 都不肯自去著力讀書. 某登科後要讀書, 被人横截直截, 某只是不管, 一面自讀.陳文蔚
20~29세
十九年己巳, 二十嵗.
- 【語錄】某從十七八嵗讀<孟子>至二十嵗, 只逐句去理㑹, 更不通透. 二十嵗以後, 方知不可恁地讀. 元來許多長段, 都自首尾相照管, 脉絡相貫串, 只恁地熟讀, 自見得意思. 從此看<孟子>, 覺得意思極通快.葉賀孫 某自十五六時至二十嵗, 史書都不要看, 但覺得閒是閒非没要緊, 不難理㑹, 大率才看得此等文字有味, 畢竟粗心了.林履孫 某舊年思量義理未透, 直是不能睡. 初看子夏'先傳後倦'一章, 凡三四夜窮究到明, 徹夜聞杜鵑聲.王過 某舊讀"仲氏任只, 其心塞淵. 終温且惠, 淑慎其身. 先君之思, 以勗寡人." "既破我斧, 又缺我斨. 周公東征, 四國是皇. 哀我人斯, 亦孔之將." 伊尹曰: "先王肇修人紀, 從諫弗咈, 先民時若, 居上克明, 為下克忠, 與人不求備, 檢身若不及, 以至于有萬邦, 兹維艱哉." 如此等處, 直為之廢卷慨想而不能已. 覺得朋友間看文字, 難得這般意思. 某二十嵗前後, 已看得書大意如此.錢木之 某舊時亦要無所不學, 禪道文章、楚辭、詩、兵法, 事事要學. 出入時無數文字, 事事有兩冊. 一日忽思曰: '且慢, 我只一箇渾身, 如何兼得許多?' 自此逐時去了. 大凡人知箇用心處, 自無縁及得外事.包揚
- 【文集】<跋曽南豐帖>云: "熹年二十許, 時便喜讀南豐先生之文, 竊慕效之." <跋徐誠叟詩>云:" 熹年十八九時, 得拜徐先生於清湖之上, 便蒙告以克已歸仁, 知言養氣之說. 時盖未達其言, 久而後知其為不易之論也."
二十年庚午, 二十一嵗. 春, 如婺源展墓.
- 【年譜】先是, 婺源鄉丈人俞仲猷, 嘗得先生少年翰墨, 以示其友董穎, 相與嗟賞. 穎有詩云: "共歎韋齋老, 有子筆扛鼎." 時董琦嘗侍先生於鄉人之坐, 酒酣, 坐客以次歌誦. 先生獨歌<離騷經>一章, 吐音洪暢, 坐客竦然. 有帖與内弟程洵曰: "聞之諸先生皆云, 作詩須從陶、栁門庭中來乃佳, 不如是無以發蕭散沖淡之趣, 不免於局促塵埃, 無繇到古人佳處也. 如選詩及韋蘇州詩, 亦不可不熟觀. 然更湏讀<語><孟>, 以深求其本." 又帖云: "三百篇, 性情之本; <離騷>, 辭賦之宗. 學詩而不本之於此, 是亦淺矣. 然學者所急, 亦不在此. 學者之要, 務反求諸已而已. 反求諸已, 别無要妙, <語><孟>二書, 精之熟之, 求見聖賢所以用意處, 佩服而力持之, 可也."洪本 按虞集作<復田記>畧云: '吏部之來閩, 質其先業百畝以為資. 同鄉張公敦頤, 教授於劒, 請為贖之. 計十年之入, 可以當其直, 而後以田歸朱氏. 癸亥, 吏部没, 張公以書慰文公於喪次, 而歸田焉. 庚午, 公省墓於婺源, 以其租入充省掃祭祀之用."李本
二十一年辛未, 二十二嵗. 春, 銓試中等, 授左迪功郎、泉州同安縣主簿.
二十二年壬申, 二十三嵗.
二十三年癸酉, 二十四嵗. 夏, 始見李先生于延平.
- 【年譜】初龜山先生倡道東南, 從遊甚衆. 語其潜思力行, 任重詣極者, 羅公仲素一人而已. 李先生諱侗, 字愿中, 受學羅公, 實得其傳, 同門皆以為不及. 然樂道不仕, 人罕知之. 沙縣鄧迪天啟嘗曰: "愿中如冰壺秋月, 瑩澈無瑕." 韋齋深以為知言. 先生少耳熟焉, 至是將赴同安, 特往見之.
- 【語錄】初師屏山 、籍溪. 籍溪學於文定, 又好佛 、老, 以文定之學為論治道則可, 而道未至然於佛 、老亦未有見. 屏山少年能為舉業, 官莆田, 接墖下一僧, 能入定, 數日後乃見了. 老歸家讀儒書, 以為與佛合, 故作<聖傳論>. 其後屏山先亡, 籍溪在, 某自見於此道未有所得, 乃見延平.鄭可學
- 【文集】<延平行狀>云: "初龜山先生倡道東南, 士之遊其門者甚衆. 然語其潜思力行, 任重詣極如羅公, 盖一人而已. 先生既從之學, 講誦之餘, 危坐終日, 以驗夫喜怒哀樂未發之前氣象為何如, 而求所謂中者. 盖久之而知天下之大本, 真有在乎是也." 又云: "其接後學答問, 窮晝夜不倦, 隨人淺深誘之各不同, 而要以反身自得, 而可以入於聖賢之域. 故其言曰: "學問之道, 不在多言, 但黙坐澄心, 體認天理. 若見雖一毫私欲之發, 亦退聽矣. 久久用力於此, 庶㡬漸明, 講學始有得力耳." 又嘗曰: "學者之病, 在於未有灑然冰解凍釋處, 縱有力持守, 不過茍免顯然尤悔而已, 若此者恐未足道也." 又嘗曰: "讀書者, 知其所言莫非吾事, 而即吾身以求之, 則凡聖賢所至而吾所未至者, 皆可勉而至矣. 若直以文字求之, 恱其詞義, 以資誦說, 其不為玩物喪志者㡬希." 以故未嘗為講解文書, 然其辨析精微, 毫釐畢察. 嘗語問者曰: "講學切要深潜縝密, 然後氣味深長, 蹊徑不差. 若概[1]以一理而不察其分之殊, 此學者所以流於疑似亂真之說而不自知也." 其開端示人, 大要類此.
秋七月, 至同安.
- 【行狀】莅職勤敏, 纎悉必親, 郡縣長吏, 事倚以決. 茍利於民, 雖勞無憚. 職兼學事, 選邑之秀民充弟子員, 訪求名士以為表率. 日與講說聖賢修已治人之道. 年方踰冠, 聞其風者, 已知學之有師而尊慕之.
- 【年譜】廨有燕坐之室, 更名曰髙士軒, 而以令甲凡簿所當為者, 大書楣間. 又職兼學事, 身率諸生, 規矩甚嚴. 初, 士子尚循故態, 食已則去. 先生為文勸諭之, 以為學如不及, 猶恐失之, 此君子所以孳孳焉愛日不倦, 而競尺寸之隂也. 今聞諸生晨起入學, 未及日中各已散去, 豈愛日之意哉? 盖今日學者舎科舉之業, 則無以為也. 故苟足以應有司之求, 則至於怠㳺而不知返. 使古人之學止於如此, 則可以得志於科舉斯已矣. 所以孳孳焉愛日不倦, 死而後已者, 果何為哉? 諸君茍思於科舉之外, 知所以為學, 則將有欲已不能者矣. 先生既選邑之秀民充弟子員, 身加督厲. 有本縣進士徐應中, 議論純正, 王賓操履堅確, 敦請赴學, 待以賓客之禮, 俾諸生有所矜式. 又有柯君翰者, 家居教授常百餘人, 行峻不茍, 遂請為學職. 衆益有所嚴憚, 不敢為非. 先生又以為區區防之於法制之末, 而理義不足以恱其心, 則亦無以使之知所趨而興於行. 乃增修講問之法, 使職事諸生相與漸摩, 理義有以博其内, 䂓矩有以約其外. 學者翕然從之, 以至學殿、講座、齋舎悉加整葺云.
- 【語錄】昔在同安作簿時, 每㸃追稅必先期曉示. 只以一幅紙截作三片, 作小榜徧帖云: "本㕔取㡬日㸃追甚鄉分稅, 仰人户鄉司主人頭知委只如此." 到限日近時, 納者紛紛. 然此只是一箇信而已, 如或違限遭㸃定, 斷不恕, 所以人怕.潘時舉 初任同安主簿, 縣牒委補試, 喚吏人問例, 云須榜曉示, 令其具檢頗多. 即諭以不要如此, 只用一幅紙寫數榜, 但云: "縣學某月某日補試, 各請知悉." 臨期, 吏覆云例當展日. 又諭以斷不展日.王過 主簿就職内大有事, 縣中許多簿書皆當管. 某向為同安簿, 許多賦稅出入之簿. 逐日㸃對簽押, 以免吏人作弊.葉賀孫
- 【文集】<答陳明仲書>云: "頃在同安, 見官户富家吏人市户, 典買田業, 不肯受業, 操有餘之勢力, 以坐困破賣家計狼狽之人, 殊使人扼腕. 每縣中有送來整理者, 必了於一日之中. 盖不如此, 則村民有宿食廢業之患, 而市人富家得以持久困之, 使不敢伸理, 此最弊之大者.
- 【文集】<髙士軒記> <同安縣諭學者> <諭諸職事> <補試榜諭> <請徐王二生充學賓申縣劄子> <舉柯翰狀>
是月丁酉, 子塾生.
二十四年甲戌, 二十五嵗. 秋七月, 子埜生.
二十五年乙亥, 二十六嵗. 春, 建經史閣.
- 【年譜】正月, 以檄至帥府, 盡模府中所有之書, 藏弆閣中. 又料簡故匱治平中所藏書, 得尚可讀者二百餘巻, 悉庋於閣, 學者得以覽觀焉.
- 【文集】<同安縣學官書後記>云: "二十五年春正月, 熹以檄書白事大都督府, 言於連帥方公, 願橅府中所有書以歸, 俾學者得肄習焉. 公即日屬工官橅以予縣, 凡九百八十五卷." <同安縣故書目序>云: "同安學故有官書一匱, 無籍記文書, 皆故敝殘脫, 無復次第. 為之料簡, 其可讀者, 得凡六種一百九十一卷. 又下書募民間, 得故所藏弆者復二種三十六巻, 著之籍記, 而善藏之加嚴焉."
- 【文集】<經史閣上梁告先聖文>
夏, 縣有盜, 分守城之西北隅.
- 【文集】<射圃記>云: "二十五年夏, 縣有警, 令、丞以下部吏士分城以守, 而予與監鹽稅曹侯沆分備西北. 侯與子行所部, 循勉慰飭, 諭意吏士, 士皆感奮為用. 又相與相城之隅, 得隙地以為射圃, 屬其徒日射其間. 其後盜雖潰去, 而圃因不廢, 間往射如初."
定釋奠禮.
- 【年譜】初, 縣學釋奠舊例, 止以人吏行事. 先生至, 求<政和五禮新儀>印本於縣, 無之, 乃取<周禮>、<儀禮>、<唐開元禮>、<紹興祀令>, 更相參考, 畫成禮儀、器用、衣服等圖, 訓釋辨明, 纎悉畢備. 俾執事學生朝夕觀覽, 臨事無舛.洪本
申請嚴㛰禮.
- 【文集】<申嚴㛰禮狀>云: "竊惟禮律之文, 㛰姻為重. 所以别男女, 經夫婦, 正風俗, 而防禍亂之原也. 訪聞本縣自舊相承無㛰姻之禮, 里巷之民貧不能聘, 或至奔誘, 則謂之引伴為妻, 習以成風. 其流及於士子富室, 亦或為之, 無復忌憚. 其弊非特乖違禮典, 瀆亂國章而已. 至於妬媢相形, 稔成禍釁, 則或以此殺身而不悔. 習俗昬愚, 深可悲憫, 欲乞檢坐見行條法, 曉諭禁止. 仍乞備申使州, 檢㑹<政和五禮>士庶㛰娶儀式行下, 以慿遵守約束施行."
立故丞相蘇公祠于學宫.
- 【年譜】蘇公名頌, 字子容, 同安人. 相元祐時, 學術風節為世所稱.
- 【文集】<蘇丞相祠記>
二十六年丙子, 二十七嵗. 秋七月, 秩滿. 冬, 奉檄走旁郡.
- 【年譜】時秩滿, 代者不至, 因送老幼以歸.
- 【語錄】看文字却是索居獨處方精專, 看得透徹. 某往年在同安, 日因差出體究公事處, 夜寒不能寐, 因看得子夏論學一段分明. 後官滿, 在郡中等批書, 已遣行李, 無文字看, 於館人處借得<孟子>一冊熟讀, 方曉得<養氣>一章語脉. 當時亦不暇寫, 只逐段以紙簽簽之云: "此是如此說", 簽了便看得更分明. 後來其間雖有修改, 不過是轉換處, 大意不出當時所見.黃㽦 某向為同安簿滿, 到泉州候批書, 在客邸, 只借得一冊<孟子>, 將來仔細讀, 方尋得本意見. 看他初問如此問乃如此答, 待再問又如此答, 其文雖若不同, 自有意脉, 都見貫穿, 字字語意, 都有下落.葉賀孫 少年時在同安, 夜聞鐘鼓聲, 聽其一聲未絶, 而此心已自走作. 因此警懼, 乃知為學須是專心致志.廖德明
二十七年丁丑, 二十八嵗. 春, 還同安, 候代不至, 罷歸.
- 館陳氏者數月, 命友生之嗜學者與居, 名其室曰畏壘菴. 陳氏世為醫, 名良傑.
- 【行狀】歴四考, 罷歸, 以奉親講學為急.
- 【年譜】冬十月, 代者卒不至, 以四考滿, 罷歸. 其去也, 士思其教, 民懐其惠, 相與立祠於學宫.
二十八年戊寅, 二十九嵗. 春正月, 見李先生于延平.
- 【趙師夏跋延平答問】文公幼孤, 從屏山劉公學問. 及壯, 以父執事延平而已, 至於論學, 盖未之契. 而文公每誦其所聞, 延平亦莫之許也. 文公領簿同安, 反復延平之言, 若有所得, 於是盡棄所學而師事焉. 則此編所錄, 盖同安既歸之後也. 文公先生甞謂師夏曰: "余之始學, 亦務為儱侗宏濶之言, 好同而惡異, 喜大而耻於小. 於延平之言, 則以為何為多事若是, 心疑而不服. 同安官餘, 反復思之, 始知其不我欺矣. 盖延平之言曰: "吾儒之學, 所以異於異端者, 理一分殊也. 理不患其不一, 所難者分殊耳." 此其要也."
- 【文集】<與范直閣書>云: "熹頃至延平, 見李愿中丈, 問以一貫忠恕之說, 與卑意不約而合." 又<與范直閣書>云: "熹奉親屏處, 山間深僻, 亦可觀書. 又得胡丈來歸, 朝夕有就正之所. 窮約之中, 此亦足樂矣."
冬十一月, 以養親請祠. 十二月, 差監潭州南嶽廟.
- 【年譜】先生自同安歸, 彌樂其道, 其於仕進泊如也.
- 【文集】<申建寧府狀>云: "同安到任四年, 省罷歸鄉, 偶以親老食貧不能待次, 遂乞嶽廟差遣."
- 【行狀】請奉祠監潭州南嶽廟.
- 【延平答問】<李先生書>云: "某自聞師友之訓, 賴天之靈, 時時只在心目間, 雖資質不美, 世累妨奪處多, 此心未嘗敢忘也. 於聖賢之言, 亦時有㑹心處, 亦間有識其所以然者. 但覺見反為理道所縳, 殊無進歩處, 今已老矣, 日益恐懼. 吾元晦乃不鄙孤陋寡聞, 逺有質問所疑, 何媿如之. 戊寅十一月."
- 【文集】<存齋記>云: "許生之學, 盖有意乎孟氏所謂存其心者, 於是以存名其齋. 而告之曰: '人之所以位天地之中, 而為萬物之靈者, 心而已矣. 然心之為體, 不可以聞見得, 不可以思慮求. 謂之有物, 則不得於言; 謂之無物m 則日用之間, 無適而非是也. 君子於此, 亦將何所用其力哉? '必有事焉而勿正, 心勿忘, 勿助長', 則存之之道也. 如是而存, 存而久, 久而熟, 心之為體, 必將瞭然有見乎參倚之間, 而無一息之不存矣. 此予所以名齋之說也."
30~39세
二十九年已夘, 三十嵗. 春三月, 校定<謝上蔡先生語録>.
- 【文集】<後序>云: "謝先生名良佐, 字顯道. 學於程夫子昆弟之門, 有<論語說>行於世, 而此書傳者盖鮮焉. 熹初得括蒼吳任寫本一篇, 後得吳中版本一篇, 二家之書, 皆温陵曾恬天隠所記, 最後得胡文定公家寫本二篇, 凡書四篇, 以相參校. 胡氏上篇五十五章, 記文定公問答. 下篇四十七章, 與版本、吳氏本畧同, 然時有小異, 輒因其舊, 定著為二篇. 獨版本所增多猶百餘章, 然或失本指, 雜他書. 其尤者五十餘章, 至詆程氏以助佛學, 輒放而絶之. 其餘亦頗刋去, 而得先生遺語三十餘章, 别為一篇. 凡所定著書三篇, 已校定, 可繕寫." <後記>云: "往時削去版本五十餘章, 特以理推知其決非先生語, 初未嘗有所左騐, 亦不知其果出於何人也. 後籍溪胡先生入都, 於其學者吕祖謙得江民表<辨道錄>一篇, 讀之則盡向所削去五十餘章者, 首尾次第[2], 無一字之差, 然後知其為江公所著, 而非謝氏之語, 益以明白. 因書以示讀者, 使無疑舊傳云.戊子
- 【語錄】某二十年前, 得<上蔡語録>觀之, 初用朱筆畫出合處, 及再觀則不同矣, 乃用粉筆, 三觀則又用墨筆, 數過之後, 則全與元看時不同矣.余大雅
- 【文集】<謝上蔡語録後序> <謝上蔡語錄後記>
秋八月, 召赴行在, 辭.
- 【年譜】用執政陳康伯薦也, 先生方控辭, 㑹言路有託抑奔競以沮之者, 以故不就.
- 【本傳】以輔臣薦, 與徐度 、吕廣問 ,韓元吉同召, 以疾辭.
- 【文集】<辭免召命狀>
三十年庚辰, 三十一嵗. 冬見李先生于延平, 始受學焉.
- 【文集】<再題達觀軒詩序>云: "紹興庚辰冬, 予來謁隴西先生, 退而寓於西林院惟可師之舎, 以朝夕往來受教焉, 閱數月而後去.
- 【年譜】退寓舎旁西林院, 閱數月而後去.
- 【行狀】延平李先生學於豫章羅先生, 豫章羅先生學於龜山楊先生, 韋齋於延平為同門友. 先生歸自同安, 不逺數百里, 徒步往從之. 延平稱之曰: "樂善好義, 鮮與倫比." 又曰: "頴悟絶人, 力行可畏. 其所論難, 體認切至." 自是從遊累年, 精思實體, 而學之所造益深矣.
- 【年譜】延平與其友羅博文書云: "元晦進學甚力, 樂善畏義, 吾黨鮮有." 又云: "此人極頴悟, 力行可畏, 講學極造其微處. 渠所論難處, 皆是操戈入室, 從源頭體認來, 所以好說話. 某昔於羅先生得入處, 後無朋友, 㡬放倒了, 得渠如此, 極有益. 渠初從謙開善處下工夫來, 故皆就裏面體認. 今既論難, 見儒者路脉, 極能指其差誤之處. 自見羅先生來, 未見有如此者." 又云: "此人别無他事, 一味潜心於此, 初講學時, 頗為道理所縳, 今漸能融釋於日用處, 一意下工夫. 若於此漸熟, 則體用合矣. 此道理全在日用處熟, 若静處有而動處無, 則非矣."洪本
- 【語錄】某年十五六時, 亦嘗留心於禪. 一日在病翁所㑹一僧, 與之語, 其僧只相應和了說, 也不說是不是, 却與劉說, 某也理㑹得箇昭昭靈靈底禪. 劉後說與某, 某遂疑此僧更有要妙處在. 遂去扣問他, 見他說得也煞好. 及去赴試時, 便用他意思去胡說. 是時文字不似而今細密, 隨人粗說, 試官為某說動, 遂得舉. 後赴同安任時, 年二十四五矣, 始見李先生. 與他說, 李先生只說不是. 某却倒疑李先生理㑹此未得, 再三質問. 李先生為人簡重, 却是不甚㑹說, 只教看聖賢言語. 某遂將那禪權倚閣起, 意中道禪亦自在, 且將聖人書來讀. 讀來讀去, 一日復一日, 覺得聖賢言語漸漸有味. 却回頭看釋氏之說, 漸漸破綻罅漏百出.輔廣 初見李先生, 說得無限道理. 李先生云: "汝恁地懸空理㑹得許多面前事却理㑹不得. 道亦無元妙, 只在日用間著實做工夫處理㑹, 便自見得." 後來方曉得他說, 故今日不至無理㑹耳.董銖 沈元周問尹和靖, <伊川易傳>何處是切要? 尹云: "體用一源, 顯微無間, 此是最切要處." 後舉以問李先生, 先生曰: "尹說固好, 然須是看得六十四卦、三百八十四爻都有下落, 方始說得此語. 若學者未曾仔細理㑹, 便與他如此說, 豈不悮他?" 某聞之悚然, 始知前日空言無實, 全不濟事, 自此讀書益加詳細云.李閎祖 李先生令去聖經中求義, 某後刻意經學, 推見實理, 始信前日諸人之悮.余大雅 延平先生嘗言: "道理須是日中理㑹, 夜裏却去静處坐地思量, 方始有得." 某依此說做去, 真箇是不同.黃義剛 某向來從師, 一日間所聞說話, 夜間如温書一般, 字字仔細思量過, 才有疑, 明日又問.輔廣
三十一年辛巳, 三十二嵗.
- 【年譜】是嵗貽黄樞密書.黃名祖舜, 以三十一年同知樞密院事.
三十二年壬午, 三十三嵗. 春, 迎謁李先生于建安, 遂與俱歸延平.
- 【文集】<再題達觀軒詩序>云: "壬午春, 復拜李先生於建安, 而從以來, 又舎於此者㡬月.李先生次子信甫時為建安主溥.
- 【年譜】復寓西林者數月.
- 【文集】<延平行狀>云: "熹獲從先生遊, 每一去而復來, 則所聞必益超絶. 盖其上達不已, 日新如此."
- 【延平答問】李先生書云: "某幸得早從羅先生遊, 自少年粗聞端緒, 中年一無佽助, 為世事淟汨者甚矣. 所幸比年來得吾元晦, 相與講學, 於頺墮中復此激發, 恐庶㡬於晚境也, 何慰如之? 七月二十一日."
夏五月, 祠秩滿, 復請祠.
六月, 髙宗内禪, 孝宗即位, 復差監南嶽廟.
秋八月, 應詔上封事.
- 【年譜】是嵗五月, 祠秩滿, 復以為請. 㑹六月孝宗即位, 詔求直言, 遂上封事.
- 【行狀】祠秩滿, 再請. 孝宗即位, 復因其任. 㑹有詔求直言, 因上封事. 其畧言: "聖躬雖未有闕失, 而帝王之學不可以不熟講; 朝政雖未有闕遺, 而修攘之計不可以不早定; 利害休戚雖不可徧以疏舉, 然本原之地不可以不加意. 陛下毓徳之初, 親御簡策, 不過諷誦文辭, 吟咏情性. 比年以來, 欲求大道之要, 又頗留意於老子釋氏之書. 記誦詞藻, 非所以探淵源而出治道; 虚無寂滅, 非所以貫本末而立大中. 夫帝王之學, 必先格物致知, 以極夫事物之變, 使義理所存, 纎悉畢照, 則自然意誠心正, 而可以應天下之務." 次言: "今日之計, 不過修政事, 備邊郵[3]. 然計不時定者, 講和之說疑之也. 今敵於我有不共戴天之讎, 則不可和也, 義理明矣. 知義理之不可為而猶為之, 以有利而無害也. 以臣䇿之, 所謂和者, 有百害而無一利, 何苦而必為之? 願疇咨大臣, 總攬羣䇿, 鑒失之之由, 求應之之術, 斷以義理之公, 參以利害之實. 閉闗絶約, 任賢使能, 立紀綱, 厲風俗. 使吾修政事, 備邊郵[4]之外, 孑然無一毫可恃以為遷延中已之資, 而不敢懐頃刻自安之意. 然後將相軍民, 無不曉然知陛下之志, 更相激厲, 以圗事功. 數年之外, 志定氣飽, 國富兵強. 視吾力之強弱, 觀彼釁之淺深, 徐起而圖之, 中原故地不為吾有而將焉往?" 次言: "四海利病, 係斯民之休戚. 斯民休戚, 係守令之賢否. 監司者, 守令之綱; 朝廷者, 監司之本. 欲斯民之得其所, 本原之地亦在朝廷而已. 陛下以為今日之監司, 姦贓狼籍, 肆虐以病民者誰, 則非宰執臺諫之親舊賓客乎? 其已失勢者, 既按見其交私之狀而斥去之. 尚在勢者, 豈無其人? 顧陛下無自而知之耳."
- 【文集】<壬午應詔封事>
- 【文集】<答許順之書>云: "所記諸說, 求之皆似太過. 若一向如此, 恐駸駸然遂失正途, 入於異端之說, 為害亦不細. 差之毫釐, 謬以千里, 況此非特毫釐之差乎! 且以二程先生及范、尹二公之說為標準, 反復玩味, 只於平易慤實之處認取至當之理. 凡前日所從事一副當髙竒新妙之說, 並且倚閣, 久之見實理自然都使不著矣. 盖為從前相聚時, 熹亦自有此病, 所以相漸染成此習尚, 今日乃成相誤, 惟以自咎耳. 如子韶之說, 直截不是正理, 說得儘髙儘妙處, 病痛愈深. 此可以為戒, 而不可學也."
孝宗隆興元年癸未, 三十四嵗. 春三月, 復召, 辭. 有㫖趣行. 冬十月, 至行在.
- 【文集】<辭免召命狀>
十一月六日, 奏事垂拱殿.
- 【行狀】入對, 其一言: "大學之道, 在乎格物以致其知. 盖有是物, 必有是理, 然理無形而難知, 物有迹而易覩, 故因是物以求之, 使是理瞭然於心目之間, 而無毫髪之差, 則應乎事者, 自無毫髪之謬. 陛下雖有生知之性、髙世之行, 而未嘗隨事以觀理, 故天下之理多所未察, 未嘗即理以應事, 故天下之事多所未明. 是以舉措之間, 動渉疑貳, 聽納之際, 未免蔽欺. 平治之效所以未著, 由不講於大學之道, 而溺心於淺近虚無之過." 其二言: "君父之讎, 不共戴天, 乃天之所覆, 地之所載. 凡有君臣父子之性者, 發於至痛不能自已之同情, 而非專出於一已之私. 然則今日所當為者, 非戰無以復讎, 非守無以制勝, 是皆天理之同然, 非人欲之私忿也." 末言: "古先聖王制御强敵之道, 其本不在於威強, 而在於德業; 其備不在於邊境, 而在於朝廷; 其具不在於號令, 而在於紀網. 今日諫諍之塗尚壅, 佞幸之勢方張, 爵賞易致而威罸不行, 民力已殫而國用未節. 則德業未可謂修, 朝廷未可謂正, 紀綱未可謂立. 凡古先聖王所以強本折衝, 威制强敵之道, 皆未可謂備." 三劄所陳, 不出封事之意而加剴切焉. 先生以為制治之原, 莫急於講學, 經世之務, 莫大於復讎, 至於德業成敗, 則決於君子小人之用舎, 故於奏對復申言之. 盖學有定見, 事有定理, 而措之於言者如此.
- 【年譜】時朝廷遣王之望使金約和未還, 宰臣湯思退等皆主和議, 而近習曾覿、龍大淵招權, 故奏及之. 先是, 先生將趨召命, 問李先生所宜言. 李先生以為: 今日三綱不立, 義利不分, 故中國之道衰而敵國[5]盛, 人皆趨利不顧義, 而主勢孤. 先生用其說以對.
- 【文集】<癸未埀拱殿奏劄一> <奏劄二> <奏劄三>
十二日, 除武學博士, 待次.
- 【年譜】替成資闕也, 拜命遂歸.
- 【行狀】除武學博士, 待次.
- 【文集】<與魏元履書>云: "熹六日登對, 初讀第一奏, 論致知格物之道, 天顔温粹, 酬酢酢疑作答.如響. 次讀第二奏, 論復讎之義. 第三奏, 論言路壅塞, 佞幸䲭張, 則不復聞聖語矣. 十二日有㫖, 除此官. 然闕尚逺, 恐不能待. 已具請祠之劄, 辭日投之."
<論語要義>、<論語訓蒙口義>成.
- 【年譜】既序次<論語要義>, 又以其訓詁畧而義理詳, 非啓蒙之要, 因而刪錄以成此編.
- 【文集】<論語要義序>云: "熹年十三四時, 受二程先生<論語>說於先君, 未通大義, 而先君棄諸孤. 中間歴訪師友, 以為未足. 於是徧求古今諸儒之說, 合而編之. 誦習既久, 益以迷眩. 晚親有道, 竊有所聞, 乃慨然發憤, 盡刪餘說, 獨取二先生元本缺此五字, 今補之.及其門人朋友數家之說, 補緝訂正, 以為一書, 目之曰<論語要義>." <論語訓蒙口義序>云: "予既叙次<論語要義>以備覽觀, 又以其訓詁畧而義理詳, 殆非啓蒙之要, 因為刪錄, 以成此編. 本之注疏以通其訓詁, 参之<釋文>以正其音讀, 然後㑹之於諸老先生之說, 以發其精微. 一句之義, 繫之本句之下; 一章之指, 列之本章之左. 又以平生所聞於師友而得於心思者, 間附見一二條焉. 本末精粗, 大小詳畧, 無或敢偏廢也. 然本其所以作, 取便於童子之習而已, 故名之曰<訓蒙口義>."
- 【文集】<論語要義目錄序> <論語訓蒙口義序>
歸劉氏田.
- 【年譜】按<乾道中田券跋>云: "初, 屛山與朱子講習武夷, 去家頗逺. 時於中途建歇馬莊, 買田二百餘畆, 以供諸費, 實與朱子共之. 屛山既没, 忠肅公珙盡以畀朱子, 資其養母. 後朱子同安秩滿歸, 以田還屏山子玶, 玶不受. 謀於忠肅, 轉昇南峰寺, 至今猶存.李本
- 【文集】<答汪尚書書>云: "熹於釋氏之說, 盖嘗師其人, 尊其道, 求之亦切至矣, 然未能有得. 其後以先生君子之教, 校夫先後緩急之序, 於是暫置其說, 而從事於吾學. 其始盖未嘗一日不往來於心也. 以為俟卒究吾說而後求之, 未為甚晚耳, 非敢遽絀絶之也. 而一二年來, 心獨有所自安, 雖未能即有諸已, 然欲復求
之外學, 以遂其初心, 不可得矣.汪尚書應辰, 時以敷文閣待制知福州. 云尚書者, 蓋追題之.
二年甲申三十五嵗春正月如延平哭李先生比葬復往㑹
- 年譜始閩帥汪公應辰延請李先生至帥治坐語未終而卒時癸未十月十五日也先生以十一月歸正
月即往哭之比葬又往㑹
- 文集祭延平李先生文 再祭延平李先生文
秋九月如豫章
- 續集答羅參議書云九月廿日至豫章及魏公之舟而哭之云亡之歎豈特吾人共之海内有識之所同
也自豫章送之豐城舟中與欽夫得三日之欵其資質甚敏學問甚正若充養不置何可量也
困學恐聞編成
- 年譜先生嘗以困學名其燕坐之室因目其雜記之編曰困學恐聞至是嵗書成文集困學恐聞編序云
予嘗以困學名予燕居之室目其雜記之編曰困學恐聞盖取子路有聞未之能行惟恐有聞之意以為 困而學者其用力宜如是也 困學詩云舊喜安心苦覔心捐書絶學費追尋困衡此日安無地始覺從 前枉寸隂困學工夫豈易成斯名獨恐是虚稱旁人莫笑標題誤庸行庸言實未能文集答江元適書云 熹天資魯鈍自幼記問言語不能及人以先君子之餘誨頗知有意於為已之學而未得其處盖出入於 釋老者十餘年近嵗以來獲親有道始知所向之大方竟以才質不敏知識未離乎章句之間雖時若有 㑹於心然反而求之殊未有以自信 答何叔京書云熹少而魯鈍百事不及人獨幸稍知有意於古人 為已之學而求之不得其要晚親有道粗得其緒餘之一二方幸有所向而為之焉則又未及卒業而遽有山頺梁壊之歎倀倀然如瞽之無目擿埴索途終日而莫知所適也
乾道元年乙酉三十六嵗春省劄趣就職夏四月至行在復請祠五月復差監南嶽廟
- 行狀乾道元年促就職既至以時相方主和議請監南嶽廟以歸年譜先是省劄趣就職既至而執政錢
端禮等方主和議不合請祠以歸
- 文集戊午讜議序 與陳侍郎書
二年丙戌三十七嵗
- 文集與張欽夫書云人自有生即有知識事物交來應接不暇念念遷革以至於死其間初無頃刻停息舉世皆然也然聖賢之言則有所謂未發之中寂然不動者夫豈以日用流行者為已發而指夫暫而休
息不與事接之際為未發時耶嘗試以此求之則泯然無覺之中邪暗鬱塞似非虚明應物之體而㡬微 之際一有覺焉則又便為已發而非寂然之謂盖愈求而愈不可見於是退而騐之於日用之間則凡感 之而通觸之而覺盖有渾然全體應物而不窮者是乃天命流行生生不已之機雖一日之間萬起萬滅 而其寂然之本體則未嘗不寂然也所謂未發如是而已夫豈别有一物限於一時拘於一處而可以謂 之中哉然則天理本真隨處發見不少停息者其體用固如是而豈物欲之私所能壅遏而梏亡之哉故 雖汨於物欲流蕩之中而其良心萌蘖亦未嘗不因事而發見學者於是致察而操存之則庶乎可以貫 乎大本逺道之全體而復其初矣 又與張欽夫書云前書所扣正恐未得端的所以求正幸辱誨諭尚有認為兩物之弊深所欲聞幸甚幸甚當時乍見此理言之惟恐不親切分 明故有指東畫西張皇走作之態自今觀之只一念間已具此體用發者方往而未發者方來了無間斷 隔截處夫豈别有物可指而名之哉然天理無窮而人之所見有逺近深淺之不一不審如此見得又果 無差否龜山所謂學者於喜怒哀樂未發之際以心騐之則中之體自見亦未為盡善大抵此事渾然無 分段時節先後之可言今著一時字際字便是病痛當時只云寂然不動之體又不知如何語錄亦嘗疑 一處說存養於未發之時一句及問者謂當中之時耳目無所見聞而答語殊不痛快不知左右所疑是 此處否更望指誨也向見所著中論有云未發之前心妙乎性既發則性行乎心之用矣於此竊有所疑 盖性無時不行乎心之用但不妨常有未行乎用之性耳今下一前字亦微有前後隔截氣象如何如何熟玩中庸只消著一未字便是活處此豈有一息停住時耶只是來得無窮便常有箇未發底耳若無此 物則天命有已時生物有盡處氣化斷絶有古無今久矣此所謂天下之大本若不真的見得亦無揣摸 處也 又與張敬夫書云誨諭曲折數條始皆不能無疑既而思之則或 疑或信而不能相通近深思之乃知只是一處不透所以觸處窒礙偶却見得所以然者輒具陳之以卜 是否大抵目前所見累書所陳者只是儱侗地見得箇大本達道底影象便執認以為是了却於致中和 一句全不曽入思議所以累蒙教告以求仁之為急而自覺殊無立脚下工夫處盖只見得箇直截根源 傾湫倒海底氣象日間但覺為大化所驅如在洪濤巨浪之中不容少頃停泊盖其所見一向如是以故 應事接物處但覺粗厲勇果増倍於前而寛裕雍容之氣畧無毫髮雖竊病之而不知其所自來也而今而後乃知浩浩大化之中一家自有一箇安宅正是自家安身立命主宰知覺處所以立大本行逹道之 樞要所謂體用一源顯微無間者乃在於此而前此方往方來之說正是手忙足亂無著身處道邇求逺 乃至於是亦可笑矣 又與張敬夫書云前書所禀寂然未發之㫖良心發見之端自以為有小異於疇 昔偏滯之見比遣書後累日潜玩其於實體似益精明因復取凡聖賢之書及近世諸老先生之遺語讀 而騐之則又無一不合盖平日所疑而未白者今皆不待安排自見灑落處始竊自信以為天下之理其 果在是而致知格物居敬精義之功自是其有所施之矣盖通天下只是一箇天機活物流行發用無間 容息據其已發者而指其未發者則已發者人心而未發者皆其性也亦無一物而不備矣夫豈别有一 物拘於一時限於一處而名之哉即夫日用之間渾然全體如川流之不息天運之不窮耳此所以體用精粗動静本末無一毫之間而鳶飛魚躍觸處朗然也存者存此而已養者養此而已必有事焉而勿正 心勿忘勿助長也從前是做多少安排没頓著處今覺得如水到船浮解維正拖而沿洄上下惟意所邇 矣豈不易哉始信明道所謂未嘗致纎毫之力者真不浪語而此一段事程門先達惟上蔡謝公所見透 徹無隔礙處其餘雖不敢妄有指議然味其言亦可見矣近范伯崇來自邵武相與講此甚詳亦歎以為 得未曽有而悟前此用心之左且以為雖先覺發明指示不為不切而私意汨漂不見頭緒向非老兄抽 闢唘鍵直發其私不以愚昧而捨置之何以得此其何感幸如之區區筆舌盖不足以為謝也但未知自 髙明觀之復以為如何爾 答何叔京書云熹孤陋如昨近得伯崇過此講論踰月甚覺有益所恨者不 得就正於髙明耳李先生教人大抵令於静中體認大本未發時氣象分明即處事應物自然中節此乃龜山門下相傳指訣然當時親炙之時貪聽講論又方竊好章句訓詁之習不得盡心於此至今若存若 亡無一的實見處辜負教育之意每一念此未嘗不愧汗沾衣也 又答何叔京書云體騐操存雖不敢 廢然無脫然自得處但比之舊日則亦有間矣所患絶無朋友之助終日兀然猛省提掇僅免憒憒而已 一小懈則復惘然此正天理人欲消長之機不敢不著力不審别來髙明所進復如何向來所疑已冰釋 否若果見得分明則天性人心未發已發渾然一致更無别物由是而克已居敬以終其業則日用之間 亦無適而非此事矣中庸之書要當以是為主而諸君子訓義於此鮮無遺恨比來讀之亦覺其有可疑 者雖子程子之言其門人所記錄亦不能不失盖記者之誤不可不審所取也 又答何叔京書云昔聞 之師以為當於未發已發之㡬黙識而心契焉然後文義事理觸類可通莫非此理之所出不待區區求之於章句訓詁之間也向雖聞此而莫測其所謂由今觀之始知其為切要至當之說而竟亦未能一蹴 而至其域也伯崇近過建陽相見得兩夕之欵所論益精密可喜其進未可量也 答羅参議書云某塊 坐窮山絶無師友之助惟時得欽夫書問往來講究此道近方覺有脫然處潜味之久益覺日前所聞於 西林而未之契者皆不我欺矣幸甚幸甚元來此事與禪學十分相似所争毫末耳然此毫末却甚占地 歩今學者既不知禪而禪者又不知學互相排擊絶不劄著痛處亦可笑耳 又答羅參議書云欽夫嘗 收安問警益甚多大抵衡山之學只就日用處操存辨察本末一致尤易見功近乃覺知如此非面未易 究也 答許順之書云秋來心閒無事得一意體騐比之舊日漸覺明快方有下工夫處目前真是一盲 引衆盲耳更有一絶云半畆方塘一鑑開天光雲影共徘徊問渠那得清如許為有源頭活水來試舉似石丈如何
三年丁亥三十八嵗秋七月崇安大水奉府檄行視水災
- 文集答林擇之書云熹以崇安水災被諸司檄來與縣官議賑恤事因為之徧走山谷間十日而後返大
率今時肉食者漠然無意於民直是難與圖事不知此箇端緒何故汨没得如此因知若此學不明天下 事決無可為之理
八月訪南軒張公敬夫于潭州
- 年譜道經昭武謁黄端明中於其家端明端莊静重德容粹然先生先之以書而請見焉
- 文集與曹晉叔書云九月八日抵長沙今半月矣荷敬夫愛予甚篤相與講明其所未聞日有問學之益敬夫學問愈
髙所見卓然議論出人意表近讀其語說不覺胸中灑然誠可歎服年譜是時范念德侍行嘗言二先生 論中庸之義三日夜而不能合留長沙再閱月與南軒偕登衡嶽至衡州而别
冬十一月偕南軒張公登南嶽衡山
- 是月六日庚午自潭城往南嶽十日甲戌至十三日登山十六日庚辰下十九日癸未始離南嶽二十三
日丙戌至櫧州次日與敬夫别而偕伯崇擇之東歸凡二十八日至家十二月二十日也甲戌至庚辰詩 名南嶽唱酬集敬夫為序丙戌贈答詩文集有南嶽遊山後記與伯崇擇之東歸名東歸亂藁文集有東 歸亂藁序南軒集詩送元晦尊兄云君侯起南服豪氣盖九州頃登文石陛忠言動宸旒坐令聲利塲縮頸仍包羞朅來卧衡門無愧自日休盡收湖海氣仰希洙泗游不逺關山阻為我再月留遺經得紬繹心 事兩綢繆超然㑹太極眼底無全牛惟兹斷金友出處寜殊謀南山對牀語匪為林壑幽白雲正在望歸 袂風颼飀朝來出别語已抱離索憂妙質貴強矯精微更窮搜豪釐有弗察體用豈周流驅車萬里道中 途可停輈勉哉共無斁邈矣追前修文集答詩云我行二千里訪子南山隂不憂天風寒況憚湘水深辭 家仲秋旦稅駕九月初問此為何時嚴冬嵗云徂勞君歩玉趾送我登南山南山髙不極雪深路漫漫泥 行復㡬程今夕宿櫧州明當分背去惆悵不得留誦君贈我詩三歎増綢繆厚意不敢忘為君商聲謳 昔我抱冰炭從君識乾坤始知太極藴要眇難名論謂有寧有跡謂無復何存惟應酬酢處特達見本根 萬化自此流千聖同兹源曠然逺莫禦惕若初不煩云何學力微未勝物欲昬涓涓始欲達已被横流吞豈知一寸膠救此千丈渾勉哉共無斁此語期相敦
十二月至自潭州
是月除樞密院編修官待次
- 年譜用執政陳俊卿劉珙薦替施元之闕本傳陳俊卿劉珙薦為樞密院編修官待次
四年戊子三十九嵗夏四月崇安饑請粟于府以賑之
- 文集五夫社倉記云乾道戊子春夏之交建人大饑知縣事諸葛侯廷瑞以書來屬予及鄉之耆艾劉如
愚勸豪民發藏粟下其直以賑之俄而盜發浦城人情大震藏粟亦且竭乃請於府時知府事徐公嚞以 粟六百斛來於是籍民口大小仰食者若干人以率受粟民遂得無饑亂以死無不恱喜而浦城之盜亦以無復隨和而就禽是冬有年民願以粟償官將輦載以歸有司而知府事王公淮俾留里中而上其藉於府
程氏遺書成
- 年譜初二程門人各有所錄雜出并行間頗為後人竄易至是序次有倫去取精審學者始有定從而程
子之道復明於世文集程氏遺書後序云右程氏遺書二十五篇二先生門人記其所見聞答問之書也 始諸公各自為書先生殁而其傳寖廣然散出并行無所統一傳者頗以已意私竊竄易歴時既久殆無 全編熹家有先人舊藏數篇皆著當時記錄主名語意相承首尾通貫盖未更後人之手故其書最為精 善後益以類訪求得凡二十五篇因稍以所聞嵗月先後第為此書篇目皆因其舊而又别為之錄如此以見分别次序之所以然者然嘗竊聞之伊川先生無恙時門人尹焞得朱光庭所抄先生語奉而質諸 先生先生曰某在何必讀此書若不得某之心所記者徒彼意耳尹公自是不敢復請夫以二先生倡明 道學於孔孟既沒千載不𫝊之後可謂盛矣而當時從遊之士盖亦莫非天下之英才其於先生之嘉言 善行又皆耳聞目見而手記之宜其親切不差可以行逺而先生之戒猶且丁寧若是豈不以學者未知 心傳之要而滯於言語之間或者失之毫釐則其謬將有不可勝言者乎又況後此且數十年區區掇拾 於殘編墜簡之餘傳誦道說玉石不分而謂真足以盡得其精㣲嚴密之㫖其亦誤矣雖然先生之學其 大要則可知已讀是書者誠能主敬以立其本窮理以進其知使本立而知益明知精而本益固則日用 之間且將有以得乎先生之心而於疑信之傳可坐判矣此外諸家所抄尚衆率皆割裂補綴非復本篇異時得其所自來當復出之以附今錄無則亦將去其重複别為外書以待後之君子云爾 程氏遺書 附錄後序云右附錄一卷明道先生行狀之屬凡八篇伊川先生祭文一篇奏狀一篇皆其本文無可議 者獨伊川行事本末當時無所論著熹嘗竊取實錄所書文集内外書所載與凡他書之可證者次其後 先以為年譜既不敢以意形容又不能保無謬誤故於每事之下各系其所從得者今亦輒取以著於篇 合為一卷以附於二十五篇之後嗚呼學者察言以求其心考跡以觀其用而有以自得之則斯道之傳 也其庶㡬乎乾道四年嵗在著雍困敦夏四月 文集答程允夫書云去冬走湖湘講論之益不少然 此事須是自做工夫於日用間行住坐卧自有見處然後從此操存以至於極方為已物爾敬夫所作艮 齋銘便是做工夫底節次近日相與考證古聖所傳門庭建立此箇宗㫖相與守之 與曽裘父書云敬夫為元履作齋銘嘗見之否謾納一本其言雖約然大學始終之義具焉恐可寘左右也 答何叔京書 云向來妄論持敬之說亦不記其云何但因其良心發見之微猛省提撕使心不昧則是做工夫底本領 本領既立自然下學而上達矣若不察於良心發見處即渺渺茫茫恐無下手處也所喻多識前言往行 固君子之所急熹向來所見亦是如此近因反求未得箇安稳處却始知此未免支離如所謂因諸公以 求程氏因程氏以求聖人是隔㡬重公案曷若黙㑹諸心以立其本而其言之得失自不能逃吾之鑒邪 欽夫之學所以超脫自在不為言句所桎梏亦為合下入處親切也 又答何叔京書云博觀之弊誠不 自揆若使道可以多聞博觀而得則世之知道者為不少矣熹近日因事方有省發處如鳶飛魚躍明道 以為與必有事焉勿正之意同者今乃曉然無疑日用之間觀此流行之體初無間斷處 有下工夫處乃知日前自誑誑人之罪不可勝贖也此與守書冊泥言語全無交涉幸於日用間察之知此則知仁 矣 答石子重書云熹自去秋之中走長沙閱月而後至留兩月而後歸在道繚繞又五十餘日還家幸 老人康健諸況粗適他無足言欽夫見處卓然從游之久反復開益為多但其天姿明敏初從不歴階級 而得之故今日語人亦多失之太髙湘中學子從之㳺者遂一例學為虚談其流弊亦將有害比來頗覺 此病矣别後當有以捄之然從㳺之士亦自絶難得樸實頭理㑹者可見此道之難明也胡氏子弟及他 門人亦有語此者然皆無實得拈槌竪拂㡬如說禪矣與文定合下門庭大段相反更無商量處惟欽夫 見得表裏通徹舊來習見微有所偏今此相見盡覺釋去儘好商量也敬字之說深契鄙懐只如大學次 序亦須如此看始得非格物致知全不用誠意正心及其誠意正心却都不用致知格物但下學處須是密察見得後便泰然行將去此有始終之異耳其實始終是箇敬字但敬中須有體察工夫方能行著習 察不然兀然持敬又無進歩處也觀夫子答門人為仁之問不同然大要以敬為入門處正要就日用純 熟處識得便無走作非如今之學者前後自為兩段行解各不相資也近方見此意思亦患未得打成一 片耳大化之中自有安宅此立語固有病然當時之意却是要見自家主宰處所謂大化須就此識得然 後鳶飛魚躍觸處洞然若但泛然指天指地說箇大化便是安宅安宅便是大化却恐顒頇儱侗非聖門 求仁之學也 答許順之書云大抵聖門求仁格物之學無一事與釋氏同所以尋常議論間偶因記憶 自然及之非是特然立意與之争勝負較曲直也想見孟子之闢楊墨亦是如此故曰予豈好辨哉予不 得已也 又答許順之書云近聞越州洪适欲刋張子韶經解為之憂歎不能去懐若見得孟子正人心承三聖意思方知此心不是茍然也