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해제

의적단의 강독 작업 일환으로 개설한 페이지이다.
저본은 王懋竑의 <주자연보>(<주자전서>, 상해고적)로 하고, 束景南의 <주희연보장편>을 참고했다. 왕무횡이 참고한 판본은 <주자대전>, <주자어류>, 南宋 黃幹의 <行狀>(<朝奉大夫華文閣待制贈寶謨閣直學士通議大夫謚文朱先生行狀>), 明 李默의 <紫陽文公先生年譜>, 清 洪嘉植의 <朱子年譜> 등이다.


원문 링크 [1]

원문

髙宗建炎四年, 庚戌秋九月甲寅, 先生生.

【行狀】先生諱熹, 字仲晦. 父朱氏為婺源著姓, 以儒名家. 吏部公擢進士第, 入官尚書郎, 兼史事, 以不附和議去國. 文章行義為學者師. 號韋齋先生. 吏部因仕入閩, 至先生始寓建之崇安五夫里, 今居建陽之考亭. 先生以建炎四年九月十五日午時生南劔尤溪之寓舎.
【年譜】先生本歙州人. 世居婺源之永平鄉松巖里. 宣和末, 考吏部韋齋公松, 字喬年, 為建州政和縣尉, 遭父承事府君喪, 以貧不能歸, 遂葬其親於政和縣䕶國寺側. 服除, 調南劔尤溪縣尉. 去官, 嘗僑寓建劔二州. 是嵗, 館於尤溪之鄭氏, 而先生生焉.洪本


紹興元年辛亥, 二嵗.


二年壬子, 三嵗.


三年癸丑, 四嵗.

【行狀】先生幼穎悟莊重甫能言韋齋指天示之曰天也問曰天之上何物韋齋異之


四年甲寅, 五嵗. 始入小學.

【年譜】韋齋<與内弟程復亨書>云: "息婦生男名五二. 今五嵗, 上學矣." 
【按】先生小名沈郎, 小字季延. 此云五二, 以行稱.


五年乙夘, 六嵗.

【語錄】某五六嵗時, 心便煩惱: '天體是如何? 外面是何物?'


六年丙辰, 七嵗.


七年丁已, 八嵗.

【行狀】就傳, 授以<孝經>一閱通之, 題其上曰: "不若是, 非人也." 嘗從羣兒戲沙上, 獨端坐, 以指畫沙, 視之八卦也. 年譜同


八年戊午, 九嵗.

【語錄】孔子曰: "仁逺乎哉? 我欲仁, 斯仁至矣." 這箇全要人自去做. 孟子所謂奕秋, 只是争這些子, 一箇進前要做, 一箇不把當事. 某年八九嵗時, 讀<孟子>到此, 未嘗不慨然奮發, 以為為學當如此做工夫. 當時便有這箇意思, 如此只是未知得是如何做工夫, 自後更不肯休, 一向要去做工夫.不知何人


九年已未, 十嵗.

【行狀】少長, 厲志聖賢之學, 於舉子業初不經意.
【年譜】時自知力學, 聞長者言, 輒不忘.
【語錄】某十數嵗時, 讀<孟子>, 至'聖人與我同類'者, 喜不可言, 以為聖人亦易做. 而今方覺得難.包揚, 庚寅後.


十年庚申, 十一嵗. 受學于家庭.

【年譜】時韋齋為吏部員外郎, 以不附秦檜和議, 出知饒州, 請祠居於家. 初, 韋齋師事羅豫章, 與李延平為同門友, 聞楊龜山所傳伊洛之學, 獨得古先聖賢不傳之遺意. 於是益自刻厲, 痛刮浮華, 以趨本實. 日誦<大學>、<中庸>之書, 以用力於致知誠意之地. 自謂卞急害道, 因取古人佩韋之義, 名其齋曰韋齋, 以自警焉.
【文集】<皇考吏部府君行狀>云: "又得浦城蕭公顗子莊, 劒浦羅公從彦仲素, 而與之遊, 則聞龜山楊氏所傳河雒之學. <延平行狀>云: "先考吏部府君亦從羅公問學, 與先生為同門友." 韋齋先生<書昆陽賦後>云: "為兒甥讀<光武紀>, 至昆陽之戰, 熹問何以能若是, 為道梗概, 欣然領解, 故書蘇子瞻<昆陽賦>畀之. 先生跋云: "紹興庚申, 熹年十一嵗, 先君罷官行朝, 寓建陽, 登髙邱氏之居, 暇日手書此賦以授熹, 為說古今成敗興亡大致, 慨然久之." 續集


十一年辛酉, 十二嵗.


十二年壬戌, 十三嵗.


十三年癸亥, 十四嵗. 春三月辛亥, 丁父韋齋先生憂.

【文集】<遷墓記>云: "以十三年三月二十四日辛亥, 卒於建州城南之寓舎, 年四十有七."

稟學于劉屏山、劉草堂、胡籍溪三先生之門.

【年譜】當韋齋疾革時, 手自為書, 以家事屬少傅劉公子羽, 而訣於籍溪胡憲原仲、白水劉勉之致中、少傅之弟屏山劉子翬彦沖. 且顧謂先生曰: "此三人者, 吾友也. 學有淵源, 吾所敬畏. 吾即死, 汝往父事之, 而唯其言之聽." 韋齋歿, 少傅為築室於其里第之傍, 先生遂奉母夫人遷而居焉. 乃遵遺訓禀學於三君子之門. 三君子撫教如子姪, 而白水劉公因以其女妻之. 不數年, 二劉公相繼下世, 獨事籍溪胡公為最久. 屏山卒於紹興十七年丁卯十二月, 白水卒於十九年乙巳九月, 籍溪則至三十二年壬午方卒也.
【文集】<屏山墓表>云: "先人疾病時, 嘗顧語熹曰: '籍溪胡原仲、白水劉致中、屏山劉彦沖, 此三人者, 吾友也. 其學皆有淵源, 吾所敬畏. 吾即死, 汝往父事之, 而唯其言之聴, 則吾死不恨矣.' 熹飲泣受言不敢忘. 既孤, 則奉以告三君子而禀學焉. 時先生之兄侍郎公, 尤以收䘏孤窮為已任, 以故熹獨得朝夕於先生之側. 而先生亦不鄙其愚穉, 所以教示期許, 皆非常人之事." <白水墓表>云: "先君子棄諸孤, 先生慨然為經理其家事, 而教誨熹如子姪, 既又以其息女歸之." <籍溪行狀>云: "先生所與同志, 唯白水劉先生. 既與俱隠, 又得屏山劉公彦沖先生而與之遊, 更相切磋, 以就其學. 熹之先君子, 亦晚而定交焉. 既病且沒, 遂因以屬其子. 故熹於三君子之門, 皆得供灑掃之役, 而事先生為最乆." <少傅劉公碑>云: "先人晚從公遊, 疾病, 寓書以家事為寄. 公惻然憐之, 收教熹如子姪. 故熹自幼得侍公左右.
【屏山字詞集】冠而欽名, 粤惟古制. 朱氏子熹, 幼而騰異. 友朋尚焉, 請祝以字. 字以元晦, 表名之義. 木晦於根, 春榮一作容曄敷. 人晦於身, 神明内腴. 昔者曾子, 稱其友曰: '有若無, 實若虚.' 不斥厥名, 而傳於書. 雖百世之逺也, 揣其氣象, 知顔子如愚, 迹參並遊, 英馳俊驅. 豈無他人, 夫誰敢居? 自諸子言志, 回欲無伐, 一宣於聲, 終身弗越. 陋巷闇然, 其光烈烈. 從事於斯, 惟参也無慚. 貫道惟一, 省身則三. 夾輔孔門, 翺翔兩驂. 學的欲正, 吾知斯之為指南. 惟先吏部, 文儒之粹, 彪炳育珍, 文一作又華其繼. 來兹講磨, 融融憙憙. 真聰廓開, 如源之方駛, 望洋渺瀰, 老我縮氣. 古人不云乎, 純亦不已. 悵友道之衰變, 切切而唯唯. 子德不日新, 則時予之耻. 勿謂此耳, 充之益充, 借曰合矣, 宜養於蒙. 言而思毖, 動而思躓, 凜乎惴惴, 惟顔曾是畏.


十四年甲子, 十五嵗. 葬韋齋先生.

【年譜】墓在崇安縣五夫里西塔山.


十五年乙丑, 十六嵗.

【語錄】某年十五六時, 讀<中庸>'人一己百, 人十己千'一章, 因見吕與叔解得此段痛快, 未嘗不悚然警厲奮發.沈僩 某年十四五時, 便覺得這物事, 是好底物事, 心便愛了. 某不敢自昧, 實以銖累寸積而得之.李方子


十六年丙寅, 十七嵗.

【語錄】某自十六七時, 下工夫讀書, 彼時四旁皆無津涯, 只自恁地硬著力去做. 至今日雖不足道, 但當時也是喫了多少辛苦讀書.楊道夫


十七年丁夘, 十八嵗. 秋, 舉建州鄉貢.

【年譜】考官蔡兹謂人曰: "吾取中一後生, 三篇䇿皆欲為朝廷措置大事, 他日必非常人."


十八年戊辰, 十九嵗. 春, 登王佐榜進士. 夏, 准勅賜同進士出身.

【年譜】中第五甲第九十人.
【語錄】某少年時, 只做得十五六篇舉業, 後來只是如此發舉及第. 人但不可不㑹作文字, 及其得也, 只是如此. 今人却要求為必得, 豈有此理?曾祖道 學者難得, 都不肯自去著力讀書. 某登科後要讀書, 被人横截直截, 某只是不管, 一面自讀.陳文蔚


十九年己巳, 二十嵗.

【語錄】某從十七八嵗讀<孟子>至二十嵗, 只逐句去理㑹, 更不通透. 二十嵗以後, 方知不可恁地讀. 元來許多長段, 都自首尾相照管, 脉絡相貫串, 只恁地熟讀, 自見得意思. 從此看<孟子>, 覺得意思極通快.葉賀孫 某自十五六時至二十嵗, 史書都不要看, 但覺得閒是閒非没要緊, 不難理㑹, 大率才看得此等文字有味, 畢竟粗心了.林履孫 某舊年思量義理未透, 直是不能睡. 初看子夏'先傳後倦'一章, 凡三四夜窮究到明, 徹夜聞杜鵑聲.王過 某舊讀"仲氏任只, 其心塞淵. 終温且惠, 淑慎其身. 先君之思, 以勗寡人." "既破我斧, 又缺我斨. 周公東征, 四國是皇. 哀我人斯, 亦孔之將." 伊尹曰: "先王肇修人紀, 從諫弗咈, 先民時若, 居上克明, 為下克忠, 與人不求備, 檢身若不及, 以至于有萬邦, 兹維艱哉." 如此等處, 直為之廢卷慨想而不能已. 覺得朋友間看文字, 難得這般意思. 某二十嵗前後, 已看得書大意如此.錢木之 某舊時亦要無所不學, 禪道文章、楚辭、詩、兵法, 事事要學. 出入時無數文字, 事事有兩冊. 一日忽思曰: '且慢, 我只一箇渾身, 如何兼得許多?' 自此逐時去了. 大凡人知箇用心處, 自無縁及得外事.包揚
【文集】<跋曽南豐帖>云: "熹年二十許, 時便喜讀南豐先生之文, 竊慕效之." <跋徐誠叟詩>云:" 熹年十八九時, 得拜徐先生於清湖之上, 便蒙告以克已歸仁, 知言養氣之說. 時盖未達其言, 久而後知其為不易之論也."


二十年庚午, 二十一嵗. 春, 如婺源展墓.

【年譜】先是, 婺源鄉丈人俞仲猷, 嘗得先生少年翰墨, 以示其友董穎, 相與嗟賞. 穎有詩云: "共歎韋齋老, 有子筆扛鼎." 時董琦嘗侍先生於鄉人之坐, 酒酣, 坐客以次歌誦. 先生獨歌<離騷經>一章, 吐音洪暢, 坐客竦然. 有帖與内弟程洵曰: "聞之諸先生皆云, 作詩須從陶、栁門庭中來乃佳, 不如是無以發蕭散沖淡之趣, 不免於局促塵埃, 無繇到古人佳處也. 如選詩及韋蘇州詩, 亦不可不熟觀. 然更湏讀<語><孟>, 以深求其本." 又帖云: "三百篇, 性情之本; <離騷>, 辭賦之宗. 學詩而不本之於此, 是亦淺矣. 然學者所急, 亦不在此. 學者之要, 務反求諸已而已. 反求諸已, 别無要妙, <語><孟>二書, 精之熟之, 求見聖賢所以用意處, 佩服而力持之, 可也."洪本 按虞集作<復田記>畧云: '吏部之來閩, 質其先業百畝以為資. 同鄉張公敦頤, 教授於劒, 請為贖之. 計十年之入, 可以當其直, 而後以田歸朱氏. 癸亥, 吏部没, 張公以書慰文公於喪次, 而歸田焉. 庚午, 公省墓於婺源, 以其租入充省掃祭祀之用."李本


二十一年辛未, 二十二嵗. 春, 銓試中等, 授左迪功郎、泉州同安縣主簿.


二十二年壬申, 二十三嵗.


二十三年癸酉, 二十四嵗. 夏, 始見李先生于延平.

【年譜】初龜山先生倡道東南, 從遊甚衆. 語其潜思力行, 任重詣極者, 羅公仲素一人而已. 李先生諱侗, 字愿中, 受學羅公, 實得其傳, 同門皆以為不及. 然樂道不仕, 人罕知之. 沙縣鄧迪天啟嘗曰: "愿中如冰壺秋月, 瑩澈無瑕." 韋齋深以為知言. 先生少耳熟焉, 至是將赴同安, 特往見之.
【語錄】初師屏山 、籍溪. 籍溪學於文定, 又好佛 、老, 以文定之學為論治道則可, 而道未至然於佛 、老亦未有見. 屏山少年能為舉業, 官莆田, 接墖下一僧, 能入定, 數日後乃見了. 老歸家讀儒書, 以為與佛合, 故作<聖傳論>. 其後屏山先亡, 籍溪在, 某自見於此道未有所得, 乃見延平.鄭可學
【文集】<延平行狀>云: "初龜山先生倡道東南, 士之遊其門者甚衆. 然語其潜思力行, 任重詣極如羅公, 盖一人而已. 先生既從之學, 講誦之餘, 危坐終日, 以驗夫喜怒哀樂未發之前氣象為何如, 而求所謂中者. 盖久之而知天下之大本, 真有在乎是也." 又云: "其接後學答問, 窮晝夜不倦, 隨人淺深誘之各不同, 而要以反身自得, 而可以入於聖賢之域. 故其言曰: "學問之道, 不在多言, 但黙坐澄心, 體認天理. 若見雖一毫私欲之發, 亦退聽矣. 久久用力於此, 庶㡬漸明, 講學始有得力耳." 又嘗曰: "學者之病, 在於未有灑然冰解凍釋處, 縱有力持守, 不過茍免顯然尤悔而已, 若此者恐未足道也." 又嘗曰: "讀書者, 知其所言莫非吾事, 而即吾身以求之, 則凡聖賢所至而吾所未至者, 皆可勉而至矣. 若直以文字求之, 恱其詞義, 以資誦說, 其不為玩物喪志者㡬希." 以故未嘗為講解文書, 然其辨析精微, 毫釐畢察. 嘗語問者曰: "講學切要深潜縝密, 然後氣味深長, 蹊徑不差. 若概[1]以一理而不察其分之殊, 此學者所以流於疑似亂真之說而不自知也." 其開端示人, 大要類此.

秋七月, 至同安.

【行狀】莅職勤敏, 纎悉必親, 郡縣長吏, 事倚以決. 茍利於民, 雖勞無憚. 職兼學事, 選邑之秀民充弟子員, 訪求名士以為表率. 日與講說聖賢修已治人之道. 年方踰冠, 聞其風者, 已知學之有師而尊慕之.
【年譜】廨有燕坐之室, 更名曰髙士軒, 而以令甲凡簿所當為者, 大書楣間. 又職兼學事, 身率諸生, 規矩甚嚴. 初, 士子尚循故態, 食已則去. 先生為文勸諭之, 以為學如不及, 猶恐失之, 此君子所以孳孳焉愛日不倦, 而競尺寸之隂也. 今聞諸生晨起入學, 未及日中各已散去, 豈愛日之意哉? 盖今日學者舎科舉之業, 則無以為也. 故苟足以應有司之求, 則至於怠㳺而不知返. 使古人之學止於如此, 則可以得志於科舉斯已矣. 所以孳孳焉愛日不倦, 死而後已者, 果何為哉? 諸君茍思於科舉之外, 知所以為學, 則將有欲已不能者矣. 先生既選邑之秀民充弟子員, 身加督厲. 有本縣進士徐應中, 議論純正, 王賓操履堅確, 敦請赴學, 待以賓客之禮, 俾諸生有所矜式. 又有柯君翰者, 家居教授常百餘人, 行峻不茍, 遂請為學職. 衆益有所嚴憚, 不敢為非. 先生又以為區區防之於法制之末, 而理義不足以恱其心, 則亦無以使之知所趨而興於行. 乃增修講問之法, 使職事諸生相與漸摩, 理義有以博其内, 䂓矩有以約其外. 學者翕然從之, 以至學殿、講座、齋舎悉加整葺云.
【語錄】昔在同安作簿時, 每㸃追稅必先期曉示. 只以一幅紙截作三片, 作小榜徧帖云: "本㕔取㡬日㸃追甚鄉分稅, 仰人户鄉司主人頭知委只如此." 到限日近時, 納者紛紛. 然此只是一箇信而已, 如或違限遭㸃定, 斷不恕, 所以人怕.潘時舉 初任同安主簿, 縣牒委補試, 喚吏人問例, 云須榜曉示, 令其具檢頗多. 即諭以不要如此, 只用一幅紙寫數榜, 但云: "縣學某月某日補試, 各請知悉." 臨期, 吏覆云例當展日. 又諭以斷不展日.王過 主簿就職内大有事, 縣中許多簿書皆當管. 某向為同安簿, 許多賦稅出入之簿. 逐日㸃對簽押, 以免吏人作弊.葉賀孫
【文集】<答陳明仲書>云: "頃在同安, 見官户富家吏人市户, 典買田業, 不肯受業, 操有餘之勢力, 以坐困破賣家計狼狽之人, 殊使人扼腕. 每縣中有送來整理者, 必了於一日之中. 盖不如此, 則村民有宿食廢業之患, 而市人富家得以持久困之, 使不敢伸理, 此最弊之大者.
【文集】<髙士軒記> <同安縣諭學者> <諭諸職事> <補試榜諭> <請徐王二生充學賓申縣劄子> <舉柯翰狀>

是月丁酉, 子塾生.


二十四年甲戌, 二十五嵗. 秋七月, 子埜生.


二十五年乙亥, 二十六嵗. 春, 建經史閣.

【年譜】正月, 以檄至帥府, 盡模府中所有之書, 藏弆閣中. 又料簡故匱治平中所藏書, 得尚可讀者二百餘巻, 悉庋於閣, 學者得以覽觀焉.
【文集】<同安縣學官書後記>云: "二十五年春正月, 熹以檄書白事大都督府, 言於連帥方公, 願橅府中所有書以歸, 俾學者得肄習焉. 公即日屬工官橅以予縣, 凡九百八十五卷." <同安縣故書目序>云: "同安學故有官書一匱, 無籍記文書, 皆故敝殘脫, 無復次第. 為之料簡, 其可讀者, 得凡六種一百九十一卷. 又下書募民間, 得故所藏弆者復二種三十六巻, 著之籍記, 而善藏之加嚴焉."
【文集】<經史閣上梁告先聖文>

夏, 縣有盜, 分守城之西北隅.

【文集】<射圃記>云: "二十五年夏, 縣有警, 令、丞以下部吏士分城以守, 而予與監鹽稅曹侯沆分備西北. 侯與子行所部, 循勉慰飭, 諭意吏士, 士皆感奮為用. 又相與相城之隅, 得隙地以為射圃, 屬其徒日射其間. 其後盜雖潰去, 而圃因不廢, 間往射如初."

定釋奠禮.

【年譜】初, 縣學釋奠舊例, 止以人吏行事. 先生至, 求<政和五禮新儀>印本於縣, 無之, 乃取<周禮>、<儀禮>、<唐開元禮>、<紹興祀令>, 更相參考, 畫成禮儀、器用、衣服等圖, 訓釋辨明, 纎悉畢備. 俾執事學生朝夕觀覽, 臨事無舛.洪本

申請嚴㛰禮.

【文集】<申嚴㛰禮狀>云: "竊惟禮律之文, 㛰姻為重. 所以别男女, 經夫婦, 正風俗, 而防禍亂之原也. 訪聞本縣自舊相承無㛰姻之禮, 里巷之民貧不能聘, 或至奔誘, 則謂之引伴為妻, 習以成風. 其流及於士子富室, 亦或為之, 無復忌憚. 其弊非特乖違禮典, 瀆亂國章而已. 至於妬媢相形, 稔成禍釁, 則或以此殺身而不悔. 習俗昬愚, 深可悲憫, 欲乞檢坐見行條法, 曉諭禁止. 仍乞備申使州, 檢㑹<政和五禮>士庶㛰娶儀式行下, 以慿遵守約束施行."

立故丞相蘇公祠于學宫.

【年譜】蘇公名頌, 字子容, 同安人. 相元祐時, 學術風節為世所稱.
【文集】<蘇丞相祠記>


二十六年丙子, 二十七嵗. 秋七月, 秩滿. 冬, 奉檄走旁郡.

【年譜】時秩滿, 代者不至, 因送老幼以歸.
【語錄】看文字却是索居獨處方精專, 看得透徹. 某往年在同安, 日因差出體究公事處, 夜寒不能寐, 因看得子夏論學一段分明. 後官滿, 在郡中等批書, 已遣行李, 無文字看, 於館人處借得<孟子>一冊熟讀, 方曉得<養氣>一章語脉. 當時亦不暇寫, 只逐段以紙簽簽之云: "此是如此說", 簽了便看得更分明. 後來其間雖有修改, 不過是轉換處, 大意不出當時所見.黃㽦 某向為同安簿滿, 到泉州候批書, 在客邸, 只借得一冊<孟子>, 將來仔細讀, 方尋得本意見. 看他初問如此問乃如此答, 待再問又如此答, 其文雖若不同, 自有意脉, 都見貫穿, 字字語意, 都有下落.葉賀孫 少年時在同安, 夜聞鐘鼓聲, 聽其一聲未絶, 而此心已自走作. 因此警懼, 乃知為學須是專心致志.廖德明  


二十七年丁丑, 二十八嵗. 春, 還同安, 候代不至, 罷歸.

館陳氏者數月, 命友生之嗜學者與居, 名其室曰畏壘菴. 陳氏世為醫, 名良傑.
【行狀】歴四考, 罷歸, 以奉親講學為急.
【年譜】冬十月, 代者卒不至, 以四考滿, 罷歸. 其去也, 士思其教, 民懐其惠, 相與立祠於學宫.


二十八年戊寅, 二十九嵗. 春正月, 見李先生于延平.

【趙師夏跋延平答問】文公幼孤, 從屏山劉公學問及壯以父執事延平而已至於論學盖未之契而文公

每誦其所聞延平亦莫之許也文公領簿同安反復延平之言若有所得於是盡棄所學而師事焉則此 編所錄盖同安既歸之後也文公先生甞謂師夏曰余之始學亦務為儱侗宏濶之言好同而惡異喜大 而耻於小於延平之言則以為何為多事若是心疑而不服同安官餘反復思之始知其不我欺矣盖延平之言曰吾儒之學所以異於異端者理一分殊也理不患其不一所難者分殊耳此其要也文集與范 直閣書云熹頃至延平見李愿中丈問以一貫忠恕之說與卑意不約而合 又與范直閣書云熹奉親 屏處山間深僻亦可觀書又得胡丈來歸朝夕有就正之所窮約之中此亦足樂矣

冬十一月以養親請祠十二月差監潭州南嶽廟

年譜先生自同安歸彌樂其道其於仕進泊如也文集申建寧府狀云同安到任四年省罷歸鄉偶以親

老食貧不能待次遂乞嶽廟差遣行狀請奉祠監潭州南嶽廟

延平答問李先生書云某自聞師友之訓賴天之靈時時只在心目間雖資質不美世累妨奪處多此心

未嘗敢忘也於聖賢之言亦時有㑹心處亦間有識其所以然者但覺見反為理道所縳殊無進歩處今已老矣日益恐懼吾元晦乃不鄙孤陋寡聞逺有質問所疑何媿如之戊寅十一月文集存齋記云許生 之學盖有意乎孟氏所謂存其心者於是以存名其齋而告之曰人之所以位天地之中而為萬物之靈 者心而已矣然心之為體不可以聞見得不可以思慮求謂之有物則不得於言謂之無物則日用之間 無適而非是也君子於此亦將何所用其力哉必有事焉而勿正心勿㤀勿助長則存之之道也如是而 存存而久久而熟心之為體必將瞭然有見乎參倚之間而無一息之不存矣此予所以名齋之說也


二十九年已夘三十嵗春三月校定謝上蔡先生語録

文集後序云謝先生名良佐字顯道學於程夫子昆弟之門有論語說行於世而此書𫝊者盖鮮焉熹初

得括蒼吳任寫本一篇後得吳中版本一篇二家之書皆温陵曾恬天隠所記最後得胡文定公家寫本二篇凡書四篇以相參校胡氏上篇五十五章記文定公問答下篇四十七章與版本吳氏本畧同然時 有小異輒因其舊定著為二篇獨版本所增多猶百餘章然或失本指雜他書其尤者五十餘章至詆程 氏以助佛學輒放而絶之其餘亦頗刋去而得先生遺語三十餘章别為一篇凡所定著書三篇已校定 可繕寫 後記云往時削去版本五十餘章特以理推知其決非先生語初未嘗有所左騐亦不知其果 出於何人也後籍溪胡先生入都於其學者吕祖謙得江民表辨道錄一篇讀之則盡向所削去五十餘 章者首尾次第無一字之差然後知其為江公所著而非謝氏之語益以明白因書以示讀者使無疑舊 傳云 語錄某二十年前得上蔡語録觀之初用朱筆畫出合處及再觀則不同矣乃用粉筆三觀則又 用墨筆數過之後則全與元看時不同矣

文集謝上蔡語録後序  謝上蔡語錄後記

秋八月召赴行在辭

年譜用執政陳康伯薦也先生方控辭㑹言路有託抑奔競以沮之者以故不就本𫝊以輔臣薦與徐度

吕廣問韓元吉同召以疾辭

文集辭免召命狀

각주

  1. 상해고적 <주자전서>에는 概자가 없다.